ルカ・コルデーロ・ディ・モンテゼーモロ
(Luca Cordero Lanza marchese di Montezemolo)
1947年8月31日生まれ
イタリアの実業家
現在はイタリアの自動車メーカーフェラーリの会長
ボローニャ近郊の侯爵家の娘の息子として生まれた。
当時母親は未婚であり私生児とも言われて、その為もあり、その後上司となるフィアットの
ジャンニ・アニェッリ会長
の「息子」との噂が立つこととなる。
ローマ・ラ・サピエンツァ大学在学中にラリードライバーとして頭角を現すが、家族の反対もありプロドライバーにはならずに終わった。
ローマ大学卒業後に弁護士を目指し、米国のコロンビア大学に留学した。
その後、1973年にエンツォ・フェラーリの招きで当時成績不振に陥っていたF1のスクーデリア・フェラーリのマネージャーとして加わった。
その後1975年にニキ・ラウダがドライバーズチャンピオンを獲得するなど見事にチームを立て直した。
1977年まで同職を務めた後、フェラーリの親会社であるフィアットの役員に就任した。
ジャンニ・アニェッリ率いるフィアット社の役員職と、フィアット傘下の出版社やベルモット酒「チンザノ」の社長を兼務した。
1990年に行われたFIFAワールドカップ・イタリア大会の大会事務局長に就任、大会を見事に成功させている。
1991年にはエンツォ・フェラーリ亡き後のフェラーリに社長兼マネージングディレクターとして再度入社した。
当時、F1チームの慢性的な成績不振を抱えていた上、市販車の品質にも大きな問題を抱えていたフェラーリの建て直しに着手した。
スクーデリア・フェラーリにジャン・トッドをチーム監督に招聘したのを始め、その他の必要な人材を確保した。
その結果、スクーデリア・フェラーリは1999年から2004年まで6年連続してコンストラクターズ・タイトル・チャンピオンに、ミハエル・シューマッハが2000年から2004年の5年連続でドライバーズ・チャンピオンを獲得した。
また、フェラーリ社の市販車の品質も大きく改善させ、その品質で高い評価を得た355や456を開発し市場投入させた。
また同じくフィアット傘下で高級スポーツカーメーカーとして有名な
マセラティ
をフェラーリ傘下に収め、フェラーリとともに品質改善を行い、売り上げを急増させた。
2004年6月1日には、フィアット会長の
ウンベルト・アニエッリ
の死去に伴いフィアット会長に就任した。
当時フィアットは慢性的な赤字を抱え経営難に陥っている上に、米国のゼネラル・モーターズ社との資本提携に失敗するなど危機的な状況にあるため、再度経営建て直しの手腕を試された。
なお、会長就任直前には、イタリア産業総連盟の会長に就任した。
その後同社は2005年11月には単月黒字を計上したほか、2005年7月に発売が開始された同社の主力小型車であるグランデプントが、2006年1月のヨーロッパ市場における販売台数1位になる他、その後も単月黒字を連続して達成した。
2006年第三四半期の販売台数も、ルノーやプジョーなどのライバルが前年比割れになる中前年比増になるなど、長年の低迷から完全復活させたためにその経営手腕が高い評価を受けている。
また、フィアット傘下のフェラーリ、マセラティ、アルファロメオの3社を、フェラーリはMRもしくはFRの2ドアスポーツカー、マセラティは4ドアスポーツカー、アルファロメオはFFスポーツカーとして、ボディ形態や駆動方式による明確な住み分けを行い、いずれも販売台数を急増させた。
2009年1月には、フィアットがサーベラス・キャピタル・マネジメント傘下で経営再建を目指しているクライスラーに資本参加して35%の株式を取得する資本提携合意を発表した。
フィアットは、クライスラーが北アメリカ市場で燃費性能の高いコンパクトカーを生産するための技術などを提供すると同時に、北アメリカ市場以外におけるクライスラー車の販売でも協力することを表明するなど、フィアットの拡張路線をけん引する存在となっている。
2010年4月20日に、フィアットの会長を退任し、会長の座をジャンニ・アニェッリの孫のジョン・エルカーン副会長に譲ると発表された。
なおフィアット会長退任後も同社取締役とフェラーリ部門会長の座に留まる。
また、不祥事が続いているシルヴィオ・ベルルスコーニ首相の後を狙って政界進出するという噂も囁かれている。