ブラック・ハンド(Black Hand)
またはイタリア語でマーノネーラ(La Mano Nera)とも呼ばれる。
単一の組織の名称では無く、複数のギャング組織が行っていた犯罪行為の総称このと。
20世紀初頭から1920年代にかけてアメリカ合衆国のイタリア系米国人のゲットーや居住地区で活発に行われていた
恐喝組織
相手に金銭を強請る際に黒い手形のマークが押印された手紙を送りつけていたことから
ブラック・ハンド
という名称で呼ばれた。
なお、日本の文献では「黒手組」と記載されることがある。
シチリア島や1750年代のナポリ王国時代までブラックハンドのルーツは遡ることができる。
通常この組織的犯罪は、1880年代からのイタリア南部からアメリカへ移民達の中に誕生した組織のことで、少数の移民たちにより、いくつかの犯罪組織が作られ互いに共存、1900年頃には、ニューヨーク、ニューオリンズ、シカゴそしてサンフランシスコのイタリア系移民社会の中に浸透していったようだ。
アメリカ合衆国におけるイタリア系住民による恐喝行為を指す「ブラックハンド」という用語が初めて記録されたのは、1903年9月にニューヨーク市ブルックリンで発生した
カピエッロ事件
である。
裕福な請負業者ニコロ・カピエッロは、
「マノ・ネラ」
の署名入りの手紙を受け取り、1,000ドルを要求するとともに、さもなければ自宅を爆破すると警告された。
彼らの対象は主にアメリカで成功した移民達で当時のイタリア系移民のうち90%が彼らによって生活を脅かされていたともいわれている。
典型的な犯行手口としては、狙った相手に対し、殺人、誘拐、放火または身体に傷害を加えることをほのめかす手紙を送りつけることで、手紙には指定された金額を指定された場所に届けるようにと書かれていたという。
また、手紙には脅迫状のシンボルマークとして
煙を出している銃
縛り首に使われた縄の輪
黒インクで手形のマーク
が押されていた。
このマークからアメリカの新聞社によって彼らマーノ・ネーラは
ブラックハンド・ソサエティ
と名付けられた。
1907年、ペンシルベニア州ニューキャッスルの西数マイルに位置する村、ヒルズビルでブラックハンドの拠点が発見された。
ヒルズビルのブラックハンドは、メンバーにスティレットの使い方を訓練する学校を設立した。
その後、マサチューセッツ州ボストンでもブラックハンドの拠点が発見された。
この拠点は、ボスの
アントニオ・ミラビト
が率いた組織で、ニューイングランドから南はニューヨーク市まで活動していたとされている。
警察はミラビトの逮捕がブラックハンドの撲滅につながることを期待された。
ただ、その後も約10年間、ブラックハンドはこの地域で活動を続けた。
ニューヨーク市のイタリア系アメリカ人コミュニティ向けの新聞
「イル・テレグラフォ:イブニング・テレグラフ」
は、1909年3月13日に
ジョセフ・ペトロジーノ暗殺事件
を受けて社説を掲載した。
その一部には、「ペトロジーノ暗殺はアメリカ在住のイタリア人にとって忌まわしい日であり、アメリカ合衆国に
ブラックハンド協会
が存在することを誰も否定できない」と書かれていた。
ニューヨークやその他の地域では、より成功した移民が標的となるのが常であった。
なお、イタリア系移民や労働者の90%が恐喝の脅威にさらされていた。
ブラックハンドの典型的な手口は、被害者に身体的危害、誘拐、放火、殺人を
ブラックハンドの典型的な手口は、被害者に身体的危害、誘拐、放火、殺人を
脅迫する手紙
を送ることだった。
この手紙には、指定された金額を特定の場所に届けるよう要求する内容が書かれていた。
手紙には、煙を吐く銃、絞首縄、頭蓋骨、血を垂らしたナイフ、あるいは心臓を突き刺したナイフといった
脅迫的なシンボル
が描かれ、しばしば「警告の普遍的なジェスチャーで掲げられた」手が、濃い黒インクで刻印または描かれたり、捺印されたりしていた。
ギャング達は、目をつけた相手が金の支払いに応じない場合は更なる脅しをおこなった。
ブラックハンドの活動は、ニューヨーク市を中心として、ある程度の規模のイタリア系コミュニティを持つアメリカのあらゆる都市で蔓延していた。「ブラックハンド」という呼称は、ニューヨーク、シカゴ、その他の都市のイタリア系コミュニティで発生するほぼすべての暴力犯罪にすぐに適用されるようになった。
作家のマイク・ダッシュは、「この最後の特徴が、ニューヨーク・ヘラルド紙の記者に、これらの通信を
『ブラックハンド』の手紙
と呼ぶきっかけを与えた。
1920年代初頭まで、アメリカの新聞ではイタリア系コミュニティが関与する未解決犯罪を指すのに好んで使われていた。
これらの活動は1915年以降、徐々に、しかし一貫性もなく減少した。
ただ、ペンシルベニア州の一部地域では1920年代まで続いた。
ニューヨーク・リトルイタリーのシチリア人ギャング
イグナツィオ・サイエッタ
は、イースト・ハーレム近くにあった「殺人厩舎」と呼ばれていた場所で、要求に応じない人を絞め殺して遺体を焼いて処分していた。
なお、脅迫状を送りつけられた者の中に、当時、テノール歌手として人気を博していた
エンリコ・カルーソー
も含まれていた。
ブラックハンドの手紙には件の黒い手形のマークと2000ドルを支払うことを要求する内容が書かれていた。
カルーソーは要求に屈し、要求された金額を支払うことを決意し、「この事実が公になると、降伏の褒美として『高さ1フィートの脅迫状の山』を受け取った。
その中には同じギャングからの1万5000ドルの脅迫状も含まれていた」。
彼は警察に事件を通報し、警察は彼が事前に約束した場所に金を降ろすように手配した。
その後、金を回収した2人のイタリア人ビジネスマンを逮捕した。
ブラックハンド・ラケットは、シチリア移民によるアメリカ合衆国における最初の組織犯罪でした。
ブラックハンド・ラケットは、シチリア移民によるアメリカ合衆国における最初の組織犯罪でした。
その後、再び脅迫状が届き、それには15000ドル支払うようにと書かれていた。
このままでは永遠に金を要求されることになると考えた彼は
警察(ペトロジーノたち)
にこのことを通報し、そして、届けるように指定された場所へ金を置き、警官らと共に相手が来るのを待ち構えた。
また、ブラックハンド達はギャングにも同様の手口で脅迫状を送り、そのまま抗争になる場合もあった。
被害者が法律の執行により身を守ろうとする場合には、暗殺という従来のギャングとしてのやり方で報復した。
ブラックハンドの犠牲者となった者の中にはニューオリンズの警察署長だった
デイビット・ヘネシー
やニューヨーク市警のジョゼッペ・ペトロジーノも含まれていた。
ブラックハンドの活動に関わったギャングスターの中には、後に全米に広がる犯罪ファミリーの前身となった者もいた。
米国において禁酒法が施行され、ブラックハンド・ギャングは20世紀初頭に勢力を失った。
1920年代頃にはギャング達が密造酒で莫大な利益を得るようになった頃、ブラックハンドはいつしか消えていった。
この時期には、より組織化され、組織化された最初のマフィア・ファミリーがアメリカ合衆国に出現し始めた。

