ブラック・ハンド(Black Hand)
またはイタリア語でマーノネーラ(La Mano Nera)とも呼ばれる。
単一の組織の名称では無く、複数のギャング組織が行っていた犯罪行為の総称このと。
相手に金銭を強請る際に黒い手形のマークが押印された手紙を送りつけていたことから
ブラック・ハンド
という名称で呼ばれた。
なお、日本の文献では「黒手組」と記載されることがある。
シチリア島や1750年代のナポリ王国時代までブラックハンドのルーツは遡ることができる。
通常この組織的犯罪は、1880年代からのイタリア南部からアメリカへ移民達の中に誕生した組織のことで、少数の移民たちにより、いくつかの犯罪組織が作られ互いに共存、1900年頃には、ニューヨーク、ニューオリンズ、シカゴそしてサンフランシスコのイタリア系移民社会の中に浸透していったようだ。
彼らの対象は主にアメリカで成功した移民達で当時のイタリア系移民のうち90%が彼らによって生活を脅かされていたともいわれている。
典型的な犯行手口としては、狙った相手に対し、殺人、誘拐、放火または身体に傷害を加えることをほのめかす手紙を送りつけることで、手紙には指定された金額を指定された場所に届けるようにと書かれていたという。→ ranking
また、手紙には脅迫状のシンボルマークとして
煙を出している銃
縛り首に使われた縄の輪
黒インクで手形のマーク
が押されていた。
このマークからアメリカの新聞社によって彼らマーノ・ネーラは
ブラックハンド・ソサエティ
と名付けられた。
ギャング達は、目をつけた相手が金の支払いに応じない場合は更なる脅しをおこなった。
ニューヨーク・リトルイタリーのシチリア人ギャング
イグナツィオ・サイエッタ
は、イースト・ハーレム近くにあった「殺人厩舎」と呼ばれていた場所で、要求に応じない人を絞め殺して遺体を焼いて処分していた。
なお、脅迫状を送りつけられた者の中に、当時、テノール歌手として人気を博していた
エンリコ・カルーソー
も含まれていた。
ブラックハンドの手紙には件の黒い手形のマークと2000ドルを支払うことを要求する内容が書かれていた。
カルーソーは要求に屈し、要求された金額を支払った。
その後、再び脅迫状が届き、それには15000ドル支払うようにと書かれていた。
このままでは永遠に金を要求されることになると考えた彼は
警察(ペトロジーノたち)
にこのことを通報し、そして、届けるように指定された場所へ金を置き、警官らと共に相手が来るのを待ち構えた。
また、ブラックハンド達はギャングにも同様の手口で脅迫状を送り、そのまま抗争になる場合もあった。
被害者が法律の執行により身を守ろうとする場合には、暗殺という従来のギャングとしてのやり方で報復した。
ブラックハンドの犠牲者となった者の中にはニューオリンズの警察署長だったデイビット・ヘネシーやニューヨーク市警のジョゼッペ・ペトロジーノも含まれていた。
米国において禁酒法が施行され、ギャング達が密造酒で莫大な利益を得るようになった頃、ブラックハンドはいつしか消えていった。