酒田の本間氏は佐渡本間氏の分家にあたり、山形県酒田市を中心に農地解放による解体まで日本最大の地主だった豪商として知られている。
また、本間様には及びもせぬが
せめてなりたやお殿様
という歌も詠まれるほどの栄華を誇った。
佐渡本間氏の一族には、上杉氏転封のさいに山形へ移った者もおり、江戸時代初期、元々は
海運商人
であったが2代目の弟で米相場師として知られる
が大阪堂島米相場の先物取引での巨利をあて、金融業にも進出し収益を土地の購入にあて田地を拡大していった。
庄内藩米沢藩の財政改革を支えた、三代当主本間光丘も有名である。
この時、300石の士分格にもなり、江戸時代は他に北前船交易の盛隆もあり三井家・住友家に劣らぬ大商家として成長した。
しかし、明治維新後は、引き続き日本最大級の大地主ではあったが、起業・興業にはあまり熱心ではなく三井家・住友家のように財閥化するような発展はなく一地方企業家にとどまった。
酒田の町の防風林や灌漑事業などのインフラ整備にも大いに尽力している。
酒田本間氏については
本間家旧本邸
のように、本間氏(ほんまし)ではなく本間家(ほんまけ)と通称されている。
なお、本間家の中核企業であった本間物産は平成2 年(1990 年)に倒産、その後カウボーイ傘下で再建された後、現在は秋田県仙北市の酒類卸売業者・伏見屋の子会社となっている。