1724年(享保9年)
〜1803年(享和3年)
出羽庄内(現在の山形県酒田市)出身
江戸時代の米商人で、酒田、大坂、江戸での米の商いで莫大な富を得た。
なお、上杉藩主の上杉鷹山を補佐した酒田の豪商本間光丘は甥にあたる。
父は酒田の米屋
新潟屋
の本間原光である。
8代将軍吉宗治世の時代、16歳の時に江戸へ遊学し帰省後、酒田にて米相場での投機を行いたいと父に進言したものの
商いの正道ではない
と相手にされず、大阪の米相場で才能を発揮した。
後に江戸に移り、ここでも成功し
相場の神様
出羽の天狗
と呼ばれた。
父原光の死後、後を継いだ長兄光寿が数年で隠居、跡継ぎとして子光丘を家業修行のため愛媛
奈良屋
へ手代奉公とし、その間は宗久を仮の主とした。
宗久は店の資金で酒田の米相場で投機を行い、一躍「新潟屋」の身代を数万両単位で増資させたことから光丘と「新潟屋」の主を代わり、大坂、江戸で、新潟屋の現物米とあわせて莫大な財産を手にした。
本間宗久は酒田五法を考案したとされ、当時先駆的な先物市場であった、堂島、蔵前の米会所で、後のチャールズ・ダウと並んでテクニカル分析の先駆者の一人として経済学上名高いものである。
200年以上がたった現在でもなお、その基本的な手法は有効であるとされている。
なお、宗久翁秘録、酒田戦術詳解、本間宗久相場三昧伝といった書物が、宗久の手になるものとして現在に伝わるものの真偽は不明である。
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