フランキー・イェール(Frankie Yale Uale)
1893年1月22日 - 1928年7月1日)
ニューヨークのギャングで本名フランチェスコ・イオエーレ(Francesco Ioele)
イタリア系犯罪組織
のボスとしてニューヨークに君臨した、組織犯罪の初期の有名なゴッドファーザーといわれている。
イタリアのカラブリア州ロンゴブッコ出身で1901年頃に一家で米国に渡り、10代で犯罪に手を染めている。
思春期を犯罪組織
で過ごし、17歳のときにビリヤード場で乱闘騒ぎを起こして刑務所に入った。
刑期満了で釈放後、拳銃の不法所持で再び刑務所に送られ、その後も何度か逮捕され収監された。
24歳でマリア・デラピアと結婚し、ローザとイザベラの2人の娘が生まれている。
結婚後は実業家に転身しており、葬儀屋になり地元の顔役の生活を送った。
また、副業にも手を出し、特に
酒場とダンスホールの経営
には意欲的に取り組んだ。
バーテンダー兼用心棒として働ける若者の人選を
に頼んだところ、当時は無名の存在だった
を紹介された。
イェールはカポネを自身が経営する酒場
ハーヴァード・イン
でバーテンダー兼用心棒として働かせ、暗黒街の基礎を教えた。
賭博でイェールに借金をして、期限になっても支払わない
トニー・ペロッタ
という男に手を焼いており、面識のあるカポネが取り立てに行くことを承知した。
この時、カポネはペロッタが暴れ手に負えなくなり射殺しており、イェールは
「難しい仕事」
をやったカポネを重宝するようになった。
イェールは、伝統的なシチリア人の友愛組織を
シチリア同盟
にまとめ上げたうえ、酒の密造や強請その他のたかり行為の隠れ蓑として機能させるため組織の本部長兼ニューヨーク支部長を務めた。
1920年5月にはトーリオと酒の密売で対立していた叔父
をシカゴの彼の事務所で射殺した。
その後、1924年11月10日にはアイルランド系ギャングの
の暗殺にも参加している。
1922年2月、ロワー・マンハッタンで行われたギャングスターの集会に出かけた。
夜、車を降りダンスホールへ向かう途中で背後から片肺を貫通する銃撃を受けたが一命を取り留めた。
1925年のクリスマス・パーティーのときイェールたちを襲撃しようと計画していたアイルランド系ギャング
ホワイト・ハンド
のリチャード・"ペグレグ"・ロナガンたちをカポネたちと返り討ちにしてホワイト・ハンドを壊滅させた。
タバコ会社を所有して自分の顔を箱にプリントしており、全国的な有名人だった。
別名「闇の王子」「ブルックリンのプリンス」とも呼ばれた。
彼自身は貧しい家庭出身で貧乏のつらさが分かっていた。
そのため、貧しい人を襲ったり、ただの強盗をすることを決して許さなかったともいわれ
情にもろく残忍さと優しさ
の二面性を持ち合わせていたという。
ロビンフッドの再来のごとく、金持ちから奪った金や物を貧しい人々に分け与えることでも人気があった。
なお、自分を慕っている商店に強盗が入った時には、イェールは温情として翌日その店のカウンターに現金を置いておいたこともあったという逸話も残っている。
闇酒取引で不正
を働いたと疑われた。
7月1日に自分の経営するカフェで飲んでいた日に4時を過ぎた頃、イェールの自宅から妻のルーシー(2番目の妻)の具合が悪いと連絡が入り、自分で運転して戻ることにした。
イェールの運転していたリンカーンは防弾仕様だった。
ただ、ウィンドーガラスには防弾処理が施されていなかったため、帰宅途中にウィンドーガラス越しにトンプソンM1928サブマシンガンで乱射され殺害された。
殺害の実行犯は聖バレンタインデーの虐殺で実行部隊を指揮した
やジェンナ兄弟がシチリアから呼び寄せた殺し屋
フレッド・"キラー"・バーグ
といわれている。
イェールの葬儀はギャングとしてはアメリカ建国以来最大の規模で行われ、15万人の参列者が最後の別れを告げた。。