アル・カポネ(Alphonse Gabriel Capone)
1899年1 月17日 - 1947年1 月25日
米国第三の大都市シカゴの暗黒街で犯罪組織のボスとして君臨し、禁酒法時代に莫大な利益を上げたギャングスターのひとりで通称「アルカポネ」。
イタリアのカンパニア州サレルノ県アングリ出身から来た移民の子としてニューヨークのブルックリン区のイタリア系アメリカ人の家に九人兄弟の四男として生まれた。
父のガブリエーレは理髪師であり、母のテレサは裁縫婦であった。
少年時代のアルは6年生まで成績も良かったという。
その後は周囲の悪ガキとつるみ街を徘徊してストリートギャングとなり、学校をサボるようになった。
7年生に進級する頃、担任の女教師に素行を注意されたことが原因で、殴り合いの喧嘩となって2度と学校には行かなくなった。
この頃のアルは遊び好きに高じる様になり、洒落た服を着て外出してはバカ騒ぎをした。
また、ビリヤードの名手で町のチャンピオンであったという。
幼友達だったエドワード・ディーン・サリヴァンによれば、アルは無邪気な少年で、酒は当時は一滴も飲めなかったと回想した。
また、ブルックリン臨海区の「アドニス社交クラブ」という暴力の巣窟のような店に出入りしていたという。
ここでアルは銃の扱いかたを覚え、イタリアン・マフィアの幹部
とも出会い知古を得たがシチリア出身ではなかったためマフィア本流には加われなかった。
自称「家具販売業者」として紹介することが多く、ブラック・ハンドのボス
(Frankie Yale(Uale) 関連情報)
の店「ハーヴァード・イン」で皿洗いから給仕、バーテンダーから用心棒までなんでもこなした。
そして、イェールに認められて本格的に暗黒街に入っていったものの、カポネはNY生まれのため、父親の出身地であるナポリの犯罪組織カモッラとは関係がなかったし、シチリア出身でないためマフィアの組織の幹部としても当然ながら扱われない兵士扱いの消耗組員としての身分であった。
1920年にトーリオに呼ばれてシカゴへ拠点を変えた。
この頃アルは、アイルランドギャング「ホワイト・ハンド」を痛めつけたため、ボスの
ワイルド・ビル・ロベット
から命を狙われていた。
この他にも2件の殺人事件に関与し、起訴され動きもあったためシカゴ行きはちょうど良かったという。
シカゴへ行くときには友人の
から2万ドルの餞別をもらった。
後にルチアーノは後年「カポネのやつ感極まって、今にも泣きそうな顔だったよ」と語っている。
シカゴでは、最初ジム・コロシモの売春宿でポン引きなどをしていた。
この下積み時代に不正事業を組織化して反対派と和解するトーリオの手法を見習った。
1年とたたないうちにトーリオの犯罪帝国で出世し、賭博場兼売春宿の支配人になった。
地位が向上し雇われ人ではなくパートナーになると、客引きなどする必要はなくなった。
この頃、アルはすでに2万5千ドル近い年収を稼ぐ実業家になっていた。
さらにシカゴに自分名義で家を購入しブルックリンから家族を呼んだ。
妻子だけではなく母や兄弟たちも呼び寄せた。
その後、シカゴ市長に
ウィリアム・E・ディヴヴァー
が就任すると政治改革が続くと考え、事業の本部をシセロへ移した。
ダイオン・オバニオンを暗殺した頃から、アル自分も敵対勢力から暗殺されるのではないかという恐怖が膨らみ、警備を厳重にした。
どこに行くにも両脇に2人のボディーガードを連れて行った。
また、外出には必ず車を使った。
この時期、自宅以外1人でいることは無かったという。
成功してからはタイム誌の表紙を飾るほど有名なギャングスターで身長179cmの大柄であった。
顔に傷があったことで
スカーフェイス
というニックネームがあった。
ただ、本人はこの呼び名を嫌っていたため、本人の前で呼ぶ者は誰もいなかったという。
禁酒法が施行されていた1920年代はマフィアの勢力が全盛期となり、シカゴで勢力を拡大、カナダからのウィスキー密輸で富を成し、全米に権力を振るった。
カポネにウィスキーを提供していたのが、カナディアン・ウィスキーの最大手メーカー
で、その経営者がブロンフマン一族である。
なお、ケネディ大統領の父も、後にFBI長官になる
も、ブロンフマンの部下としてカポネにウィスキーを運搬し、一族の代表が政治家として出世する資金を形成したともいわれている。
カポネにウィスキーを提供していた
エドガー・ブロンフマン
の妻アン・ローブは、日露戦争資金を日本に貸付けた銀行
の経営者の娘として知られる。
この銀行が後年のゴールドマン・サックスとなっていった。
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