渋谷与右衛門(大西)は戦国時代末期から江戸時代前期にかけて活躍した、備後国御調郡尾道町尾道町の豪商
渋谷家(大西屋)はもともとは相模国(神奈川県)の住人であった。
天正10年(1582)頃、渋谷彦右衛門の代に安芸国高田郡吉田に来て領主
毛利輝元
に仕えるようになり、やがて尾道に移り住み
船持商人
として栄えるようになったと伝えられている。
天明 3 年(1783)5 月に渋谷家13代目与兵衛が写した「歳代記」に6代目、7代目 の与右衛門の場合,戦国時代末期,,戦国大名毛利氏のもとで
船持商人
として活躍し,武士身分を持た「渋谷与右衛門尉」と官途名で呼ばれたとの記録がある。
江戸時代に入ると徳川幕府が士農工商の身分制度を徹底したため、「渋谷ノ与右衛門」と呼ばれるようになり、これ以降,自称・他称いずれにおいても,家の名前を「しふや」と平仮名で表わす事が増え、「渋谷」の漢字を用いることがなくなり,渋谷氏が武士身分を失い,町人身分に固定されたと見られる。
渋谷氏が大西屋を名乗るのは,江戸時代も中頃以降とされ、明暦 2 年(1656)の時点で,9代目 市右衛門は「しふや市右衛門」と自称して、「しふや」が屋号となっていた。
大西屋の呼称は,正徳 5 年(1715)の年貢下札で,「大西屋庄兵衛」と記されたのが確認されている。
10代目の庄兵衛、11代目の治兵衛も,「大西屋治兵衛」との記録が残っている。
渋谷家文書のうち,戦国時代の毛利氏関係の文書は,何度となく写しが作られており、最も早いものは,「しふや」から小物屋が分家したときものと見られる。
10代目の庄兵衛、11代目の治兵衛も,「大西屋治兵衛」との記録が残っている。
渋谷家文書のうち,戦国時代の毛利氏関係の文書は,何度となく写しが作られており、最も早いものは,「しふや」から小物屋が分家したときものと見られる。
瀬戸内海の交通の要衝に位置した尾道町では,鎌倉時代以前から船泊として栄えた。
また、江戸時代末期には人口が 1 万近くにもなる大都市に発展していた。
ただ、明治時代に入ると,かつて隆盛を誇ったが旧家の中で、家運が傾き家財を手放したり,あるいは尾道の町を離れるものも増え活気が消えた。
このことも災いしてか,尾道の町方の古文書の多くが消滅してしまい江戸時代に活躍した豪商の記録は霧散した。
ただ、残った町方文書としては,江戸時代に代々尾道町の町年寄を勤め,有数の豪商であった橋本家の文書が代表的なものとされるが、戦国時代から江戸時代初期のものはほとんど残っていない。
戦国時代末期、毛利輝元の直状(捻文)によれば、毛利氏の奉行人が渋谷与右衛門尉に公的な立場で毛利氏の基準貨幣「鍛(ちゃん)」や鉄炮の火薬「合薬」に関し、直々に指示を与えていたという。
また、豊臣秀吉の太閤検地(惣国検地)で領地の石高を正確に把握する措置の中で、田麦三分の一公納令を渋谷氏にのみ格別に教えていた記録がある。
豊臣秀吉の文禄・慶長の役のや関ヶ原合戦のおりの送状・請取状から船持商人であった渋谷氏と戦国大名毛利氏との深い結ぴ付きを裏付けている。
惣国検地以降では渋谷氏が備後国沼隈郡・品治郡に所有していた記録がある。
戦国時代末期、毛利輝元の直状(捻文)によれば、毛利氏の奉行人が渋谷与右衛門尉に公的な立場で毛利氏の基準貨幣「鍛(ちゃん)」や鉄炮の火薬「合薬」に関し、直々に指示を与えていたという。
また、豊臣秀吉の太閤検地(惣国検地)で領地の石高を正確に把握する措置の中で、田麦三分の一公納令を渋谷氏にのみ格別に教えていた記録がある。
豊臣秀吉の文禄・慶長の役のや関ヶ原合戦のおりの送状・請取状から船持商人であった渋谷氏と戦国大名毛利氏との深い結ぴ付きを裏付けている。
惣国検地以降では渋谷氏が備後国沼隈郡・品治郡に所有していた記録がある。
渋谷氏は尾道町で 5 人の町年寄に次ぐ
月行司筆頭(組頭)
の一員として町の運営を行っていた。
尾道町に「自治」的組織があった元和 2 年(1616)3 月〔177〕と翌 3 年 5 月〔107〕に作成された「町定」には 5 名の年寄と60名の月行司が,衆議によって取り決められていた。
また、「戸口(宗門改)」は,寛永10年10月の年代があり、宗門改め書は書式に不統一が目立ち,宗門改めの制度が確立する前段階のものであった。
また、「戸口(宗門改)」は,寛永10年10月の年代があり、宗門改め書は書式に不統一が目立ち,宗門改めの制度が確立する前段階のものであった。
ここには島原落人とキリシタン取締に対する請書は,借家住人など地下のものを含む59名の連署が残されている。
「租税」のうち「年貢」は,慶長 6 年(1601)から正徳 5 年(1715)までの年貢納入に関する資料があり、寛永15年(1638)まで,尾道町では町域として石盛が行われていなかった。
このため,屋敷分については福島正則が統治した時代には「地子銭」,浅野長政の時代でも当初「地子銀」の形で納入されており、米などの物納ではないことがわかる。
また、「加子役」について、福島・浅野両時代における「加子」の夫役徴発(尾道の加子は瀬戸内海の海上輸送に重要な役割を果たした)の支払勘定が加子浦から取り立てる苫・葛などの船具代銀として納入されていた。
福島正則が芸備 2 か国の領主であった16年間については、佐伯町所蔵の小田文書(同町の指定文化財)で確認できる。
しかし、浅野時代初期の文書は民間にはほとんど伝わっていない。
亀山士綱が文化13年(1816)に著した『尾道志稿』で、「渋谷系譜 大西屋」という柱を掲げ、絵入りで渋谷金王丸の鎧・甲冑・太刀を紹介したうえ、毛利輝元の直状16通を載せている。
亀山士綱が文化13年(1816)に著した『尾道志稿』で、「渋谷系譜 大西屋」という柱を掲げ、絵入りで渋谷金王丸の鎧・甲冑・太刀を紹介したうえ、毛利輝元の直状16通を載せている。
その後の江戸時代の尾道の出来事として記録について
延宝元年(1673)には、尾道は北前船の入港で港を中心とした商業が盛んになった。
元禄 5 年(1692)には、椋浦廻船 2 艘、尾道廻船 1 艘が年貢米を大坂へ輸送した。
享保 6 年(1721)には、椋浦廻船中が椋浦金蔵寺観音堂を建立した。
享保 12 年(1727)には、尾道町人が大坂登せ米請け合い積みを廃し、蔵方より直接回船するようになった。
元文 5 年(1740)には、広島藩士・平山角左衛門尚住が尾道町奉行に任命される
寛保元年(1741)には、平山奉行が住吉浜の埋め立てに着手した。
天明 7 年(1787 )には、尾道に米船入港せず食糧不足。米の港外積出を禁じている。
寛政〜文化期(1789〜1817)、この頃、兼吉渡し(後の公営渡船、尾道渡船)が開設された。
文化 2 年(1805)には、 椋浦廻船中が椋浦港に金毘羅大権現常夜燈を建立
文政 2 年(1819 )には、林屋竹内要助(隼太)が尾道−大坂間に定期船便を開いた。
元禄 5 年(1692)には、椋浦廻船 2 艘、尾道廻船 1 艘が年貢米を大坂へ輸送した。
享保 6 年(1721)には、椋浦廻船中が椋浦金蔵寺観音堂を建立した。
享保 12 年(1727)には、尾道町人が大坂登せ米請け合い積みを廃し、蔵方より直接回船するようになった。
元文 5 年(1740)には、広島藩士・平山角左衛門尚住が尾道町奉行に任命される
寛保元年(1741)には、平山奉行が住吉浜の埋め立てに着手した。
天明 7 年(1787 )には、尾道に米船入港せず食糧不足。米の港外積出を禁じている。
寛政〜文化期(1789〜1817)、この頃、兼吉渡し(後の公営渡船、尾道渡船)が開設された。
文化 2 年(1805)には、 椋浦廻船中が椋浦港に金毘羅大権現常夜燈を建立
文政 2 年(1819 )には、林屋竹内要助(隼太)が尾道−大坂間に定期船便を開いた。