組屋家は近世小浜町人筆頭の豪商として知られ、豊臣氏以降浅野、京極、酒井家に仕え領主と組み豪商の地位を固め廻船、貿易の業者として目覚しい活躍をした旧家である。
組屋家は浅野長政の若狭領知の時代、既に門閥的町人となっている。
文禄元年(1592年)秀吉の朝鮮出撃に先立ち、浅野長政の命を受け、兵糧の米や大豆を九州名護屋へ輸送する業務に携った。
敦賀の高嶋屋伝右衛門(小宮山)は、加賀の
前田利家
の蔵宿を勤めていた。
高嶋屋がいつ加賀藩の蔵宿となったかは明らかでないが天正17年に
大谷吉継
が敦賀の領主になった時にはすでに加賀藩の蔵宿であった。
また天正19年5月には、加賀・能登・越中から敦賀に運ばれた米はすべて高嶋屋に引き渡すことが前田利家から命じられていた。
年は不明であるが、前田利家が敦賀に遣わした役人
横地藤介
高嶋屋伝右衛門
とに与えた書状では、敦賀での米相場の様子、松任米1,500俵の敦賀着津の報を受けたこと、大豆1,000俵を送ること、去年買いおいた黒鉄を天守を建てるために使うので早急に送るよう、敦賀の様子を細かに知らせるよう、米を送るための船がなく不自由であるので二人で相談のうえ船を回すよう、等々の指示がなされた記録が残っている。
若狭国(福井県)小浜の
組屋源四郎
は文禄4年(1595年)、豊臣政権の米2,400石を金1両24石の値段で津軽で請け負い、その輸送および売却に当たった。
このとき組屋は、まず6月・7月に2,400石のうち1,026石の米を南部で金95両で売却した。
次いで8月に720石の米を金60両で同じく南部で売却した。
また、この過程で鼠などによる欠損米と諸経費として54石が除かれ、残る600石が小浜へ運ばれた。
ここから船賃としての200石を差し引いた残りの400石が小浜で金58両で売却された。
この後、組屋は、豊臣政権の奉行で小浜の領主
浅野長吉
に、米売却の勘定書と米2,400石の代金として請け負った金100両とを提出し納めている。
文禄5年9月には、前田利家が高嶋屋に敦賀にある荷物、縄・炭・塩・竹・釘を使者へ引き渡すよう命じ、高嶋屋は、たんに米の保管販売だけでなく鉄や諸種の品物の調達にも重要な役割を果たしていたことがわかる。
この一連の米の売却と輸送とによって組屋は、米の売却代金の合計213両から浅野長吉に納めた100両を除く113両と船賃の米200石を得た。
この膨大な利潤を豊臣政権が認めたのは、全国統一による国内流通の急速な拡大にその輸送手段としての
船舶の供給
が追い付かず、その確保のためには豪商たちに頼らざるをえなかったことが最も大きな要因とされる。
豊臣恩顧の諸大名に当時の珍重品ルソン壺類を売捌いたり、津軽で徴収した大量の豊臣氏上納米を南部や小浜へ運んだ。
三国では慶長2年(1597年)4月、北庄城主
堀秀治
が三国問丸中に京都への米の運送を命じ、また加賀藩の家臣
斎藤兵部
から加賀江沼郡の米1,400〜1,500俵を北潟から三国に出し、それを敦賀へと回漕することが三国の
森田弥五右衛門
に依頼されている。
このように初期豪商たちは、領主米の輸送・販売に深くかかわり、多大の利益を手にしていた。
このように初期豪商たちは、領主米の輸送・販売に深くかかわり、多大の利益を手にしていた。
慶長5年(1600)京極高次の若狭支配が始まると組屋はその代官となったうえ、遠敷・大飯両郡内諸所の支配を司った。
また、小浜町中の商人から公用米(あるいは銭)を徴収する特権を安堵されている。
元和2年(1616年)加賀藩は、年貢米の三分の一を敦賀へ、三分の一を大津へ送り、残る三分の一を地払いとした。
その結果、敦賀への米は依然として高嶋屋が取り扱ったが、大津へ送られる米の一部は小浜に運ばれ、その蔵宿に組屋が命じられた。
小浜での蔵宿にはのち
木下和泉
が加わった。
そしてその米は、加賀藩から派遣された奉行と相談のうえ、大津の相場を勘案して適当とされた場合には小浜でも売り払われたという。
酒井忠勝入部の際においても、京極氏と同様、国主の宿を勤め、公用銭徴収権も代々安堵され、諸公事も免ぜられた。
宝暦10、11年(1760、61)小浜藩士らが扶持米を抵当に藩の蔵米を借用した際の証文類も残っている。
安政元年(1854)4月御所内の失火に端を発した京都の大火の模様や、明治維新政府の貨幣政策に関係するもの、旧記抜書は幕末の小浜における大小の諸事件や商取引に関する記録が残されている。