織豊時代から江戸時代初期にかけて日本史上で最も活躍した京の豪商で「京の三長者」のひとり。
当主は代々「茶屋四郎次郎」を襲名
信濃国守護で戦国大名だった
小笠原長時
永正11年10月23日(1514年11月9日)
−天正11年2月25日(1583年4月17日)
の家臣であった
中島明延
が武士を廃業し、大永年間(1521年〜1527年)に京に上って呉服商を始めたのがはじまりと言われる。
茶屋の屋号は将軍足利義輝がしばしば明延の屋敷に茶を飲みに立ち寄ったことに由来している。
茶屋家は屋敷を新町通蛸薬師下る(現在 京都市中京区)に設け、160年にわたって本拠とした。
初代の清延が徳川家康に接近し、徳川家の呉服御用を一手に引き受けるようになった。
三代清次は家康の側近や代官の役割も務め
朱印船貿易
で巨万の富を築いた。
また、角倉了以の角倉家、後藤四郎兵衛の後藤四郎兵衛家とともに京都町人頭を世襲した。
ただ、家伝では「先祖は三河国出身」とされるが室町時代の応仁元年(1467年)に発生した応仁の乱以降の混乱期で長雨や旱魃、害虫の影響などで飢饉等が多発した。
商人や農民等が借金が膨らんで返せなくなると飛散し流民化していった戦国時代のことでもあり裏づけはなく定かではない。
鎖国政策や時流の変化に乗り遅れ、江戸時代中期以降は家業は振るわなくなってしまい歴史の舞台に出るようなことはなくなった。
茶屋 清延(初代)
天文14年(1545年)
- 慶長元年閏7月27日(1596年9月19日)
三河国より上京して京都に居を構えて商売を始めた。
本能寺の変の際、堺に滞在中であった徳川家康一行に早馬を出し一報したことや、後世に
神君伊賀越
といわれた脱出劇の際にも、物心ともに支援を行った。
この恩により、徳川家康の御用商人として取り立てられた。
茶屋 清忠(二代)
生年不詳
- 慶長8年4月1日(1603年5月11日)
初代の長男で父の地盤を引き継ぎ、徳川家御用達商人をつとめた。
豊臣秀吉死後、徳川家康の権勢が絶大になるに連動し、清忠も
淀川過書船支配
など京・大坂の物流の取締役に任命され、優遇されるようになった。
徳川家康が江戸幕府開設後も御用達商人となった。
一方、京都町人頭にも任命され権勢を誇ったものの早世している。
茶屋 清次(三代)
天正12年(1584年)
- 元和8年7月16日(1622年8月22日)
二代の弟で、兄の急逝のため江戸幕府の命で急遽跡を継いだ。
江戸幕府の御用達商人を引継ぎ、長崎代官補佐役などを務めた。
1612年、朱印船貿易の特権を得ることに成功し、主にベトナム北部に船を派遣し、莫大な富を得た。
その財産によって茶道具を蒐集し、芸術のパトロンとなったり
本阿弥光悦
らと親しくするなど芸術支援にも熱心であったといわれる。
ただ、35歳の若さで死去している。
俗に家康の死の原因とも言われる「鯛の天ぷら」を家康に勧めたのは清次とされている。
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