友野 宗善(ともの そうぜん)
生没年不詳
通称は次郎兵衛尉
祖先は信濃国伴野荘出身と伝えられているが、詳細は不詳で、その活動が確認できるのは、天文22年(1553年)に
今川義元
が友野二郎兵衛に発給した判物がある。
それによれば、友野氏はこれ以前より駿府の商人頭で、友野座と呼ばれる座の棟梁として駿河国各地の木綿商人から
木綿役
を徴収し、他の座が友野氏に新規の課役をかけることを禁じる特権を与えた。
その代わりに、友野氏の本拠である駿府の今宿から京都に向けて搬出される荷物に今川氏に代わって
駄別3貫文の路銀
を徴収し、搬出荷物の点検と許可札の交付、他国商人の駿府往来や居住に関する取締を行うなどの今川氏への奉公を行っていた。
戦国時代に駿河国府中を拠点とした豪商で今川氏の商人頭を務めた。
また、東海道の
伝馬の業
も行ったうえ、酒や胡麻油、茜、米の取引などにも関わった。
その他、今川氏や周辺大名から半手の特権を認められ、領域をまたぐ取引も認められていた。
この権限は跡を継いだ
友野宗善(次郎右兵衛尉)
に継承され、今川氏が没落し、駿府の支配者が武田氏・徳川氏・中村氏と推移しても地位と特権が保証された。
江戸時代に入ると、徳川家康が駿府城に大御所として戻るとともに町の再整備が進められた。
友野宗善は彦坂光正を助けて駿府の町割りを遂行した。その功績によって友野氏は駿府の町年寄に任ぜられ、長崎の糸割符の一員に加えられた。江戸時代の友野氏は駿府で呉服商を主な業務とし、当主は代々與左衛門(与左衛門)を称した。
明暦2年(1656年)、当時の與左衛門は安倍川の治水と新田開発に私財を投じた。
後に「与左衛門新田」と呼ばれるが、洪水対策などで私財を使い果たし、家運が傾いたと伝えられている。
なお、この新田開発は享保2年(1717年)のことであるとする説もあるため、18世紀前期には家業の衰えとともに御用商人としての特権を喪失した。