蔵田五郎左 越後屋
生没年不詳
戦国期、越後守護・上杉(長尾)氏の御用商人。
元は伊勢神宮に所属し神宮へ参詣する者や信者の為に祈祷、案内をし、参拝・宿泊などの世話をする神職(伊勢神宮御師)であった。
繊維素材である青苧を扱う商人たちで結成された
越後青苧座
を統轄し、また府内や春日山城の管理にもあたった。
『実隆公記』大永五年(1525年)閏十一月廿七日の記事に「蔵田」の名がみえるのが初見とされる。
しかし、天正十年(1582年)、同名の人物に宛てた
上杉景勝
の青苧座安堵状には、「祖父五郎左衛門以来拘え来り候」との記述がある。「五郎左衛門」が三代にわたり越後青苧座を統轄し、襲名された名であった事がわかる。
三条西 実隆(さんじょうにし さねたか 康正元年4月25日(1455年5月11日)ー 天文6年10月3日(1537年11月5日)は
天王寺芋座
と結んでいた公家で、職掌として「芋公用」を徴収していた。
大永五年、蔵田は実隆に芋公用の減額を求めたところ
「一向不可叶事也」
と厳しく拒否されている。
その後、大永七年十二月、蔵田から実隆に「青苧御公用五〇貫文」が納められており、交渉は妥結したらしいことが分かる。
なお、三条西 実隆は、室町時代後期から戦国時代にかけての公卿で内大臣・三条西公保の次男、官位は正二位・内大臣まで昇進し、能書家でもあったという。
このように蔵田は越後で青苧座を統轄して税を徴収する一方で、消費地である京都に赴き、畿内の芋座や公家らとの折衝も行っていた。
永禄三年(1560年)五月、長尾景虎は府内を御料所に定め、町人に「御掟状」を発布するなど
府内の直轄化
を進めていた。
この景虎のもとで府内の管理にあたったのが蔵田だった。
同年八月、景虎は蔵田に従わない町人を咎め、必ず成敗するよう命じている。
また、永禄五年(1562年)二月には、出陣先から蔵田に宛てて、伊勢神宮の御祓を謝すとともに、府内・春日の火の用心や春日山城の普請、倉の始末などを直江氏らと協力して行うよう指示した記録も残っている。
なお、永禄12年(1569年)12月に法号「不識庵謙信」を称した上杉謙信となっている。