簗田 藤左衛門(やなだ とうざえもん)
生年不詳 - 元和6年(1620年)
安土桃山時代の陸奥国(会津)の豪商で先祖代々蘆名家の庇護を受けた特権商人である。
会津地方の商人司(商人頭)に任じられ、特産品の独占販売を許可され、一方で、他国商人の統制や徴税の請負などに従事した。
文治5年(1189年)、奥州合戦の功により、三浦義明の七男
佐原義連
に会津が与えられ、
なお、蘆名姓を名乗るのは、義連の息子盛連の四男光盛の代になってからのこと。
もともと、簗田氏は、鎌倉幕府が滅んだ後、建武2年(1335年)の中先代の乱で、辻堂・片瀬原の合戦で足利直義と合流した足利尊氏の軍勢に属して奮戦したが一族の多くが戦死した。そのため、領地の会津の家督を蘆名直盛が第7代領主として継いだ。
最初は不在領主であったが蘆名直盛は康暦1/天授5(1379)年鎌倉より下向し会津に土着したため、簗田一族は蘆名氏に従い黒川城下(会津若松市)に移り住み、商人司に任命された。
室町時代には京都扶持衆として、自らを「会津守護」と称していた。
戦国時代なって蘆名盛氏の時代に最盛期を迎えたが、蘆名氏は一族猪苗代氏をはじめとする家臣の統制に苦慮し嫡子・盛興の早世によって、後継者問題も発生した。
そのため天正8年(1580年)、盛氏の死後、二階堂氏からの人質の二階堂盛義の子が婿養子として後を継いだ
蘆名盛隆
である。
伊達氏に対抗したり、織田信長に使者を送るなど積極的な政策を打ち出すが、家中の統制が出来ずに苦慮し、天正12年(1584年)に近従の大庭三左衛門に暗殺された。
家臣団が揉めに揉めた末、佐竹義重の子
蘆名義広
を蘆名家当主に迎えたが天正17年(1589年)、奥州統一を目指す伊達政宗に
摺上原の戦い
で大敗した蘆名義広は常陸に逃走して蘆名氏は没落した。
領主がそれまでの蘆名家に変わって伊達政宗が会津に入ったのちも特権が認められ、地位を守った。
天正4(1576)年,同5年に蘆名氏およびその家臣らが藤左衛門宛に出した書状をみると、当時藤左衛門は,会津商人が領内外で商いをする際に巻き込まれたトラブルの解決、移入荷に対する課役の取り立てなどを行っている。
自ら商取引を行う商人というより、商取引にかかわる役人的色彩の立場の者であったようだ。
以後簗田氏は、幕末まで会津領内の商業をたばねる役割を果たしていった。
なお、簗田氏には、藤左衛門を襲名した者が3名いたと考えられ、いずれも安土桃山時代の人物である。