戦国時代の庄内地方でも豪族が入り乱れて、その興亡は激しいものがあった。
上方の堺や桑名のように、酒田は三人の月番で12ヵ月、町行事、町政を担当する三十六人衆を中心に
自由都市
としての発展を続けた。
戦国時代の末には伊達政宗の伯父にあたる
最上義光
天文15年1月1日(1546年2月1日)
ー 慶長19年1月18日(1614年2月26日)
が庄内を治め、酒田の豪商
池田惣左衛門
に「鐙屋」の屋号を与えた。
最上家は跡目相続で内紛が起こり元和8年(1622年)に改易された。
寛永年間(1624年から1644年まで)には、鐙屋は三十六人衆の筆頭となり、井原西鶴の「日本永代蔵」に
「北の国一番の米の買い入れ、惣左衛門という名を知らざるはなし」
と書かれるほど、全国でも有数の米問屋となっている。
元和8年(1622)、最上氏に代わり、信州松代から
酒井忠勝
が、庄内藩の藩主として入部して以降、明治維新までの250年間、庄内の地を治めた。
庄内藩は鶴岡の鶴ヶ岡城を居城とし、酒田の亀ヶ崎城には城代を置いた。
酒田は、戦国時代と変わらずに自由な町人の町であり、三十六人衆が団結して揺るぎない自治体制を敷いていた。
酒田三十六人衆は酒田町組という町組織を掌握し、町政を担当した。
彼らは平泉藤原氏の武士であるという誇りを持っており、酒井家の入部に際しても、「二君に仕えずなどと申し上げ」と、武士になろうという野心もなく、町人として生きていた。
これに対して庄内藩では、名字、帯刀を許し、宅地に対して無税として扱った。
池田惣左衛門
屋号 鐙屋
最上義光が
東禅寺城
の橋の渡初めの時に鐙屋と言う屋号を与えたとの謂れがある。
また、鶴岡の方の家来には轡屋(くつわ)と言う名前を与えた。
東禅寺城は奉行所の所に大きな亀が揚がったので亀ヶ崎城と改めた。
また、鶴岡の大宝寺城は鶴ヶ丘城と名前を変えた。
酒田港は江戸時代に
西廻り航路(北陸・山陰沖を経由し下関から瀬戸内に入り大阪に至る)と
東廻り航路(津軽海峡を抜け三陸沖を通って江戸に至る)
西廻り航路(北陸・山陰沖を経由し下関から瀬戸内に入り大阪に至る)と
東廻り航路(津軽海峡を抜け三陸沖を通って江戸に至る)
の起点であった。
商売の方は、山形、新庄、その他藩の蔵米を扱い、蔵宿を商っていた。
酒田を訪れる商人や船乗り達の宿泊所として、また、西回り航路を利用した北前船での回船問屋などで繁盛した。
元禄時代に好色一代男を書いた井原西鶴が日本永代蔵の頃には、表口36間、奥行き65間という一町が鐙屋の店であった記述されている。
また、酒田に、北の国一番の米を商いする大問屋が住まいするとも書かれている。
また、酒田に、北の国一番の米を商いする大問屋が住まいするとも書かれている。
なお、宿の食事を作るのに飯釜にはしご架けて登ったり、おかずを作るのに鉈や鎌で切って作ったと言う話が残っている。
また、敷地内に防火林として松並木が在り、屋敷は石置杉皮葺屋根の典型的な町家造りであった。
「慶長出羽合戦」ともいわれる慶長5年(1600年)、家康は会津の
上杉景勝
が軍備を増強していることを詰問し、上杉家の重臣
直江兼続
はこれに対して絶縁状ともいえる直江状で返答した。
これを受けた家康は同年6月、家康は会津征伐を開始した。
1600年に起こった長谷堂城合戦(守将・志村光安率いる1,000名)で、上杉と最上が戦った。
この戦いで最上軍が勝利すると庄内は最上義光の領土になり、慶長13年(1608)に最上義光から鐙屋の屋号を与えられた。
本性は池田であったが、屋号を与えられてからは『鐙屋惣左衛門』と称したている。
鐙屋は廻船問屋として繁栄し、その繁盛ぷりは本や挿図にも記載されている。
鐙屋は酒田三十六人衆として町政にも参画し、江戸時代の日本海海運の大きな役割を担っていた酒田を代表する廻船問屋となった。
平泉藤原氏の武士であるという誇りがあ三十六人衆による町政の歴史は鎌倉時代る1192年に始まっている。
この頃から港町として発達し問屋業を中心とする 三十六人衆の町政の成立期となり
自治組織の会合衆(えごうしゅう)
を結成した。
1338年室町時代始まる 酒田という地名は室町時代ころに書籍等で初見されるようになった。
戦国末期には大規模な戦闘における物資輸送の必要生が兵站線の確保から高まり船運の全国的に発達し、酒田は中継地として日本有数の港町となった。
1521年頃から三十六人衆が最上川北岸(現在の酒田)に移った。
天正18年には豊臣秀吉の小田原の陣の際に秀吉配下の五奉行から
粕谷源次郎
が海上船舶の監視と海上警備の権限を与えられ その費用として1000石につき1石5斗の役米徴収権を付与された。
天正20年年頃と推定されるが
長束正家書状
によって豊臣秀吉の朝鮮出兵に際しては 酒田にも船舶の供出が命じられている。
慶長6年(1601)の安土桃山時代の末期なまで最上氏の領となっていた。
当時の三十六人衆は のとう市助、松村彦一、村井利右衛門、上林若狭 、渡辺七郎兵衛 、粕谷源治郎 、永田伝次7家だけの記録がある。
1686年の三十六人衆。
・本町一丁目
小川与三右衛門、白畑太郎左衛門、伊東弥治衛門、青塚治(次)郎左衛門、小島半兵衛、
・三丁目弥兵衛
・本町二丁目
近江屋嘉右衛門、本間九(久)右衛門、山本三郎右衛門、七森利兵衛、二ノ丁孫右衛門
・本町三丁目
押判屋四郎兵衛、松田又右衛門、加賀屋又兵衛、美濃屋彦兵衛、西野長兵衛、美濃屋新兵衛、
谷口九兵衛、加賀屋与助、鐙谷惣左衛門
・本町四丁目
渡辺三平、永野五郎兵衛、上林治左衛門、薮田弥右衛門、上林七郎左衛門
・本町五丁目
渡部源助、小林喜左衛門
・本町六丁目
玉屋九右衛門、加賀屋太右衛門、渡辺七郎兵衛、粕谷源治郎、野治嘉兵衛、粕谷半左衛門
・本町七丁目
最上谷嘉右衛門、加賀屋太郎左衛門、粕谷掃部
の三十六人衆であるが、出入りは激しく1868年慶應元年には三十人となっていた。
また、80年間に65家が入り変わり継続したのが10家だけと言われている。
・本町一丁目
小川与三右衛門、白畑太郎左衛門、伊東弥治衛門、青塚治(次)郎左衛門、小島半兵衛、
・三丁目弥兵衛
・本町二丁目
近江屋嘉右衛門、本間九(久)右衛門、山本三郎右衛門、七森利兵衛、二ノ丁孫右衛門
・本町三丁目
押判屋四郎兵衛、松田又右衛門、加賀屋又兵衛、美濃屋彦兵衛、西野長兵衛、美濃屋新兵衛、
谷口九兵衛、加賀屋与助、鐙谷惣左衛門
・本町四丁目
渡辺三平、永野五郎兵衛、上林治左衛門、薮田弥右衛門、上林七郎左衛門
・本町五丁目
渡部源助、小林喜左衛門
・本町六丁目
玉屋九右衛門、加賀屋太右衛門、渡辺七郎兵衛、粕谷源治郎、野治嘉兵衛、粕谷半左衛門
・本町七丁目
最上谷嘉右衛門、加賀屋太郎左衛門、粕谷掃部
の三十六人衆であるが、出入りは激しく1868年慶應元年には三十人となっていた。
また、80年間に65家が入り変わり継続したのが10家だけと言われている。