平安時代後期に奥州藤原三代の繁栄に大きく貢献した
尾去沢鉱山
は伝説では和銅元(708)に発見されたと言われています。
秋田県鹿角市にあった鉱山で銅や金を生産した。→ ranking
戦国時代がほぼ終わった慶長3年(1598年)南部藩士
北 十左衛門
が白根(小真木)金山を発見した。
続いて五十枚金山(尾去沢)西道金山(尾去沢)を開発しました。
金が枯渇してきた1695年(元禄8年)には銅鉱が発見され、別子銅山、阿仁銅山とならび、日本の主力銅山の一つとなった。
1889年(明治22年)に岩崎家、1893年(明治26年)に三菱合資会社の経営することとなり、近代化が図られた銅鉱脈が次々見つかり順次開発が進みました。
なお、銅資源の枯渇と価格低迷により昭和53年(1978年)閉山しました。
鉱山歴史の坑道(みち)は、尾去沢鉱山の800kmにおよぶ坑道のうち、1.7kmを整備して造られた世界的な規模の観覧施設で砂金採取体験ゾーンなども完備しています。→ ranking
なお、十左衛門は、鹿角の金山奉行として盛岡藩初期の豊かな財政作りに大いに貢献しましたが、慶長19年(1614)に藩内から姿を消し大阪冬の陣籠城の際、豊臣方の武将として現れ
南部十左衛門
と名乗ったため、徳川方に味方していた盛岡藩二代藩主南部利直が将軍秀忠から詰問されています。
なお、豊臣方の滅亡後に逃走したものの伊勢で捕らわれ利直によって新山川原で処刑されました。→ ranking
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2009年11月25日
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