ジョン・ピアポント・モルガン
John Pierpont Morgan
(1837年4月17日 - 1913年3月31日)
アメリカの5大財閥の1つモルガン財閥の創始者でドイツのニーダーザクセン州の
ゲッティンゲン大学
を卒業後、ロンドン在住中に
ロスチャイルド家
から資金支援を受け
ジョージ・ピーボディ&カンパニー
を設立、米国債をイギリスの投資家に仲介する取次ぎを主体とした金融業を始めた。
このとき信用を高めるため共同経営者として父親の
ジニーアス・スペンサー・モルガン
として迎え入れ、のちにモルガンが代表を引き継ぎ、社名は
J・S・モルガン・アンド・カンパニー
となった、父の事業を米国内で広げるべく米国に移住、フィラデルフィアの銀行家
アンソニー・J・ドレクセル
と共同で1871年にJP モルガンの前身となる
ドレクセル・モルガン&カンパニー
(Drexel, Morgan & Co.)
をニューヨークに設立した。
ドレクセルの死後、1895年にドレクセル・モルガン&カンパニーは
J.P. Morgan & Company
と変更して鉄鋼会社の
アンドリュー・カーネギー
を始めとして米国内の鉄鋼会社を次々買収し
USスチール社
を設立し業界を再編し世界初の時価総額10億ドル企業誕生の仕掛人となった。
1895年には、米国債を金との交換で6,200万ドルを引き受け、後の償還ではこれを現金1億ドルに換えて手に入れるなど着々事業を発展させ19世紀末には世界最大の銀行家として成功した。
銀行家として資金を活用し、株式化した多くの鉄道を経営・統合させた。
また、海運会社も同様に経営・統合し、それぞれ一大トラストを作り上げていったた。
19世紀末には金融界と産業界を支配するアメリカ最大の財閥の1つとなった。
なお、タイタニック号の実際のオーナーであったことでも有名である。
また、製紙、電気事業にも投資を行いさらに巨大化させ独占体制を構築し1914年にウォール街に建設された本部は
モルガン邸
と通称され、金融資本による経済支配の象徴的存在となった。
泥棒男爵によって蓄積された大規模な富の集中は無政府主義者の標的ともなり、1920年には本部前でテロリストによる爆弾事件が発生している。
33人が死亡し400人が重軽傷を負ったこの事件はFBIが捜査にあたったが、1940年に最後の事件報告書を提出し犯人は特定されなかった。
第一次世界大戦中には
イングランド銀行
が発行する戦時債券の独占代理人を引き受けた。(関連情報)
加えてイギリス・フランスの軍需産業にも融資し、大きな利益を上げた。
ただ、繁栄を謳歌したモルガンだったが、油断なのか経済の流れを見誤り
1929年の世界恐慌
により打撃を被った。
富への集中を非難する声が高まり
グラス・スティーガル法
(銀行と証券の兼営を禁止する法律)
も制定され、市中銀行になるか投資銀行になるかの選択を余儀なくされた。
モルガン商会は二度、アメリカ経済を、場合によってはアメリカ連邦政府を救済したと広く信じられている。
また、彼は巨大な芸術品コレクションをニューヨークの
メトロポリタン美術館
とコネチカット州ハートフォードの
ワズワース図書館
に遺贈している。
彼の財産とビジネスは息子のジョン・ピアポント・・モルガン・ジュニア(通称ジャック)に引き継がれた。
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2009年11月22日
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