野村徳七 (初代)
1850年(嘉永3年)4月15日、河内国渋川郡久宝寺村(現在 大阪府八尾市久宝寺)に生まれた。
幼名は徳松、11歳から
大阪屋弥兵衛
の大弥両替店に丁稚奉公した。
明治維新後の明治2年に、東京、大阪に為替会社が設立され、5年の「国立銀行条令」によって国立銀行が設立され、弊制の改革も行われて、両替店の機能は次第に低下し廃業する店が相次いだ。
明治4年2月、大阪屋弥兵衛の養子となった。
同年8月に主人の弥兵衛が他界、翌5年8月に、弥兵衛の妻さくも他界した。
後継当主の弥太郎は、その後、大弥両替店を閉鎖させている。
なお、初代徳七は最後まで残り店の整理に尽力したといわれている。
徳七は、越前勝山藩の山内村右衛門同じ店で働いていた
山内多幾(後の初代徳七夫人)
と結婚し、明治5年2月、大弥両替店から独立した。
新たに野村の姓を名乗って分家となり、銭両替商として小銭の両替商売をはじめた。
ただ、店は大弥両替店の一隅を借りており
両替商 野村商店
を百円の資本で誕生させたのが野村財閥の事業の基点となるとのこと。
石橋を叩いて渡る着実な人生を選ぶ地味な両替屋を開き
危険を犯さぬ努力
をした徳七の独立後の商売は順調に発展した。
明治10年代の野村家の収入は、銭両替の手数料と、日本銀行大阪支店の
古金銀鑑定役
による報酬など、これによって野村家は年々資産を増やしていった。
明治11年、徳七は、大弥両替店の一隅から出て、大阪の農人橋詰町九番地に住宅兼店舗を構えた。
明治11年8月に大阪株式取引所が設立、当時上場されたものは新旧公債、秩録公債、起業公債などだった。
また、東西両取引所株、堂島米会議所株が、12年に株式としてはじめて上場され、その後、民間企業の株式、各種の新公債が上場された。
徳七は同年、取引所仲買人となったが、翌13年4月15日に廃業している。
明治25年ごろには、鉄道6銘柄、船舶2銘柄、紡績・織物10銘柄、その他5銘柄が上場された。
公債の取引は、新旧の公債、整理公債、海軍公債の4つとなった。
この頃、株式および公債の銘柄数が増えて取引高が増大した。
それとともに、両替店で両替のかたわら、株式、公債の売買や、それを専業に扱う店がしだいに増えてきた。
徳七も、長男信之助(二代目徳七)の助言で、まず公債の取り扱いを手掛け、30年ごろには現株のブローカーと定期の取り次ぎをも行うようになった。
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2010年01月31日
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