住友 政友
天正13年11月11日(1585年12月31日)
- 慶安5年(1652年)
江戸時代の商人で住友家の初代
織田信長の武将である柴田勝家に父親
住友政行
が仕えていた。
1583年(天正11年) 豊臣秀吉によって北ノ庄城で勝家が滅ぼされたのち、勝家の所領のうち越前が丹羽長秀の所領となった。
勝家の遺臣はそれぞれ豊臣幕下の大名の家臣として吸収された。
丸岡城(福井県丸岡町)を長秀から領国経営を任された青山宗勝(修理亮)が丸岡城主となり、住友政行も青山宗勝の家来になったことで丸岡に移り同所で政友は次男として生まれた。
12歳の時(慶長元年(1596年))、母や弟の友定と共に京都に移住した。
跡継ぎでない政友は涅槃宗の開祖
及意上人空源
に弟子入りして僧となり、「文殊院空禅」の法号を授かった。
20歳代に信者の伊丹紹拙の娘を娶った。
元和3年(1617年)に宗派の理解者であった
後陽成天皇
が崩御すると、他の宗派より京都所司代に邪教と訴えられた。
空禅が代表として弁明するも、師の空源と共に江戸に護送され、佐倉藩へ配流となってしまった。
翌元和4年(1618年)には空源が配流先の厩橋の藩主
酒井忠世
の下屋敷で遷化(死去)したため、江戸近郊にいる涅槃宗の信徒の教化にあたった。
同年、天台宗の
南光坊天海(智楽院)
により、涅槃宗が天台法華宗三明院門流として存続、涅槃宗の読経などの儀式・法要を護持させることになった。
空禅は、空源の教判における「法華時」と「涅槃時」を弁別した。
しかし、対幕府の妥協案も潔しとせず、1621年に帰京したが還俗はせず、僧形のまま、いずれの宗派にも属さぬ
員外沙弥、員外沙門
を称し、及意上人空源の遺教戒を継ぐ「佛者」の立場に徹した。
その後、員外嘉休と改名して、京仏光寺上柳町に出版業・薬種業の店舗
富士屋
を始めた。
薬種業では「まつら流本方」として反魂丹を販売した。
また、出版業では『御成敗式目』や『往生要集』などを刊行したという。
嵯峨清涼寺子院地蔵院境内に雙軒庵を正保4年(1647年)に建てて隠居して「臨西」と号し、旧涅槃宗徒に手紙などで教化活動を行った。
慶安5年(1652年)8月15日に亡くなり、浄土宗永養寺に埋葬された。