ウィリアム・ハブマイアー (William Frederick Havemeyer)
1804年2月12日- 1874年11月30日
ニューヨークでドイツ系移民の家で生まれ
NY市長
を3回勤めたうえ
北アメリカ銀行協会会長
を歴任した政治家、実業家である。
祖先はシャウムブルク=リッペ侯国(Schaumburg-Lippe ドイツ)の中産階級の出自で、家系記録としては1644年に
ヘルマン・ハブマイアー
が19人の仲間と
パン屋ギルド
を結成したとの記述が残っている。
1725年に生まれた
ディートリッヒ・ヴィルヘルム・ハブマイアー
はパン屋ギルドの中心的な人物として活躍していた。
また、ディートリッヒは市会議員に就任し政治家としても活動している。
プロイセンを中心としたドイツ諸侯とフランス・オーストリア同盟軍との間で
7年戦争(1756年 - 1763年)
と呼ばれる戦争がプロイセンの領土内を主戦場として勃発した。
ドイツ国土が戦場となるとフランス・オーストリア同盟軍は抵抗を削ぐために侵攻する軍事作戦として
兵站物資
が提供されないように、兵站線を破壊するため焦土化作戦が徹底され家屋等が無差別に破壊・焼却された。
このため、国土が荒廃して経済が悪化していった。
1756年8月29日に始まり、戦闘地域では財産等が灰燼に帰すのを目にしたドイツの住民が自暴自棄的に抵抗する動きが強く出て、生存を懸けた祖国戦争となり、多くの戦死者を生み出した。
ディートリッヒもプロイセン国民の総動員戦となったため従軍している。
ウィリアムは父親のディートリッヒを焦土戦のなかで亡くしたため、孤児としてその後過ごした。
ウィリアムは1785年(15歳の時)に丁稚奉公のため、ドイツからロンドン(英国)に移住し
砂糖貿易取引
を覚えた。
その後、ドイツから米国に移住した移民の最初のグループに加わり1799年(29歳の時)にNYに上陸している。
NYのパインストリート(Pine Street) で
Edmund Seaman & Co
との契約に基づき、経験のある砂糖取引を中心とした商売を始めた。
1807年には単独で、バンダムストリートでNY市内で始めての砂糖精製事業を始めた。
なお、同年に父親のウィリアムは米国籍を取り帰化している。
コロンビア大学を1823年に卒業、父親の経営していた砂糖の精製事業に参画しビジネスを覚えた。
1828年に、従兄弟の
フレデリック・クリスチャン・ハブマイアー
(Frederick Christian Havemeyer)
と共同で製糖会社
WF&FCハブマイアー
を設立した。
その後、社名を
ドミノシュガー
に変更し発展する基礎を築きながら、米国内でほぼ独占的に事業を拡大させ1842年頃までには大きく資産を増やした。
事業が軌道に乗った後、1844年には持ち株を従兄弟に売り渡した。
第11代アメリカ合衆国大統領の
ジェームズ・K・ポーク
(第11代大統領 1795〜1849)
を支持する民主党員として政界に進出、ジェームズ・ハーパーを破りNY市長となった。
ニューヨーク州議会は、1844年5月7日に治安維持のため
警備員制度
を廃止しニューヨーク市警察を設立させた。
1857年の経済危機ではペンシルベニア石炭会社とロングアイランド鉄道保険や他の企業の大株主となった。
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