ウォーレン・バフェット
1930年にオマハ(ネブラスカ州)で証券業を営む
ハワード・バフェット
レイラ・バフェット
との間に生まれた。
幼い頃からビジネスを始めており、祖父からコーラを6本25セントで購入し、それを1本5セントで売ったり、ワシントン・ポストの配達のアルバイト、ゴルフ場のボール拾い、競馬の予想新聞売りなどを行っていた。
また、バフェットは11歳の時に姉のドリスと共に
シティ・サービス
の優先株を1株38ドルで3株購入した。
その後、1株27ドルまで下落、バフェット達は1株40ドルまで値を戻したところで売却した。
ただ、シティ・サービス株は長期的に上昇し続け200ドルになったという経験からバフェットは忍耐を学んだいわれている。
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父親が1942年に下院議員に当選したためワシントンD.C.に引っ越しており、1943年には
自転車を仕事の経費
として控除し13歳で初めて所得税を申告した。
高校3年のときに友人と中古のピンボール1台を25ドルで購入し、それを理容店に置くという商売を始めた。この商売は成功し、最終的には週50ドルの利益を稼ぎ出すまでになったが、その後、この事業を退役軍人に1200ドルで売却している。
ペンシルベニア大学ウォートン・スクールファイナンス学科に1947年に入学したが中退、ネブラスカ大学オマハ校に編入した。
卒業後、コロンビア大学で著名な証券アナリストであり
賢明なる投資家
の著者のベンジャミン・グレアムとデイビッド・ドッドが教職についていることを知ったバフェットは同大学のビジネススクールに進学し、投資について学んだ。
1951年に大学院で修士号を取得後、ウォール街で働こうとするが父とグレアムに反対されたことから、バフェットは故郷オマハに帰り、株式ブローカーとして父の証券会社で働いた。
バフェットは投資のパートナーシップである
バフェット・アソシエイツ株式会社
を設立、自身は100ドルだけ出資した。この後、1957年までに5つのパートナーシップを設立し運営した。
繊維業のバークシャーが1株あたり8ドル未満で売られており、経営を改善すれば業績が好転すると考え、最終的にはパートナーシップを通じて、全株式の 49%まで買い進めたことで1963年、バークシャーの筆頭株主になった。
このバークシャーを機関会社として投資活動を活発化させていったことで大きな利益を得ることとなる。
なお、1965年にウォルト・ディズニーに出会い、ウォルト・ディズニー株を買い始める。1株38セントで当時の時価総額の5%にあたる400万ドルを投資している。