マイアー・アムシェル・ロートシルト
Mayer Amschel Rothschild
(1744年2月23日 - 1812年9月19日)
ドイツの銀行家で有力ユダヤ系
ロスチャイルド財閥
の祖として知られている。
ドイツ系ユダヤ人で両替商及び絹布貿易を営んだ
モーゼス・アムシェル・バウアー
(? - 1755年10月6日)
の息子として、ヘッセン=カッセル方伯(在位 1670年 - 1730年)の時代にヘッセン州の最大都市
フランクフルト・アム・マイン
(Frankfurt am Main)
のユダヤ人街(ゲットー)で生まれ育った。
生まれた時の姓名は
マイアー・アムシェル・バウアー
だった。
その後、事業が成功すると元の家名である
ロートシルト(赤い楯)
に改姓した。
なお、赤い楯はロートシルトの家紋でもあり、父親のモーゼスが経営していた両替商及び絹布貿易を営んだ店の紋章として使用していた。
マイアーはゲットー内のユダヤ学校で、ヘブライ語の読み書きと聖書を学んだ。
また、ユダヤ教の宗教的指導者「ラビ」となるよう一族の中では教育されていたといわれている。
しかし、11歳の時に父を、12歳の時に母を相次いで亡くした。
ユダヤ人社会では何事もコネがものをいう社会であり、後ろ盾となる「信頼性」というものが若年の孤児では維持できなかった。
つまり、過去の取引や周囲の縁者の裏付けが必要となる
ユダヤ商人
として生き抜くための強固な後ろ盾を失ってしまったことと同義となる。
両親との死別後、親戚筋の紹介からハノーファー王国のユダヤ人銀行家
オッペンハイム商会
へ丁稚奉公として働くようになった
当時、オッペンハイム商会ではドイツなど多くの王侯貴族の宮廷に出入りすることが出来る
御用商人達
がサロンが形作られ、諸国の情報を互いに交換・収集することで、商売に役立てる情報を得ようとして足繁く出入りしていた。
商人らは王侯たちに対し、資金の調達を行うことにより莫大な利益をあげていた。
マイアーはオッペンハイム商会で商売の基礎を叩き込まれた。
ここで取引のコツを覚え、政府や王にお金を貸す方が一般の商人達に貸すよりも、より大きな利益があることを学んだといわれる。
マイアーは収入が安定し、蓄えをして資産も持て、学校に通うことが出来るようになった。
この時期に、自力で学ぶことで歴史や古銭についての知識を深く持つようになったという。
当時、ヘッセン・カッセル伯爵に最も近い貴族の一人であった古銭収集で著名な
フォン・エストルフ将軍
と知り合い親交を深め、古銭の取引を繰り返したことで、将軍の持っていた知識や見識などを吸収して商才を磨くことも出来たという。
金融都市のフランクフルトに戻ったマイヤーは古銭・メダル商を始めた。
欧州最大級の資産家であるヘッセン=カッセル方伯
ヴィルヘルム9世
(1743年6月3日〜1821年2月27日)
ともお金持ちの趣味とも言われる古銭の売買をとおして知遇を得た。
1769年にはこうした縁故を活用して
ヘッセン・ハーナウ候国宮廷御用商人
という地位を得るところとなり、その後の通商で大きな財産を作り出していった。
また、ナポレオン・ボナパルトの侵攻でヘッセン州が占領を受けた時期以降においては管財人として
ヴィルヘルムの財産管理
を任されるようになった。
ことから、飛躍的な資産の形成を図る手立て(ノウハウ)を作り出したと言われている。
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