シモン・パティーニョ
(Simón Iturri Patiño)
1862年1月1日 - 1947年4月20日
ボリビアの実業家で生前は世界三大富豪の一人とも呼ばれ、錫で富を築いた。
別名 錫男爵 と呼ばれた。
コチャバンバで貧しい
メスティソ(白人とインディオの混血)
の職人の子として生まれ、中等教育を受けた。
その後、ボリビア各地の鉱山で働き鉱山業を学んだ。
ボリビアのアンデス地方にあるオルロ県の
オルロ錫鉱山
で1894年に鉱脈を掘り当て、1924年までに国内生産の5割を保有するまでに勢力を拡大させた。
ヨーロッパにおける錫精錬業も支配する財閥を築き上げた。
ただ、メスティソだっため本国の白人の上流階級には受け入れてもらえず、アメリカ、ヨーロッパに渡り外交官のような役割を果たすようになていった。
1907年、米国のコロラドの銅鉱山の開発で莫大な利益を得たことから鉱山王と呼ばれた
グッゲンハイム
の2代目ダニエル・グッゲンハイムから鉱山を買い取る話が持ちかけられ、鉱山利権の49%を売却した。
1924年にボリビアに一時帰国したとき以外、後半生は外国で生活している。
1932年には自ら軍隊を組織してグラン・チャコに石油の埋蔵があるという仮説を受け隣国
パラグアイ
に侵入し、チャコと呼ばれる秘境地帯を奪い取ろうと
チャコ戦争
を仕掛けたこともある。
アルゼンチンのブエノスアイレスで1947年に死去した。
3大鉱業財閥(パティーニョ、アラマヨ、ホッチホルド)の一つであったパティーニョ財閥は、1952年のボリビア革命まで錫鉱業を支配した。
ボリビアの鉱山で1952年、労働者の不満が爆発し、これが
民族革命運動党(MNR)
が作られ、政権を奪取する革命に発展した。
パティーニョが保有していた鉱山は3大鉱業財閥とともに
鉱業公社(COMIBOL)
に接収合体され国有化となった。
二代目のセニョール・ドン・アンテノール・パティーニョはスペイン王室の一族から妻を娶り、ボリビアの大使としてロンドンに駐在している。
ボリビアは1825年に独立して以来、輸出の大部分を占める
鉱山利権
をめぐって、およそ200回ものクーデターが引き起こされるといった歴史があり、1964年に鉱山を接収を主導したMNRは内部対立から分裂し主導権を巡る対立が激化した。
海外からの侵攻を食い止めるべく再建した軍部が再度クーデターを起こし革命政権は幕を閉じた。