コロンバス・マリオン・ジョイナー(Columbus Marion Joiner)
1860年3月12日 - 1947年3月27日
米国の政治家で石油業者。70歳にして1930年代に東テキサス油田の発見井を掘削した。
新聞記事ではジョイナーを「ラスク郡油田の父」と呼んでいた。
アラバマ州ローダーデール郡で生まれたジョイナーの父親は1864年の南北戦争で戦死し、母親は1868年に亡くなった。
ジョイナーは正式な学校教育を受けたのはわずか7週間だった。
自宅で姉に家庭教師としてつき、唯一の本である聖書を使って読み方を教えられた。
また、創世記の文章を書き写すことで書き方を学んだ。
ジョイナーは1877年に家を出たが、1881年に結婚してマッスルショールズ運河に乾物店を始めるために戻った。
1883年、彼はテネシー州で弁護士業を始め、1889年から1891年までテネシー州下院議員を務めた。
1897年にオクラホマ準州南部のアードモアに転居し、そこで農業を営み、オクラホマ・チョクトー族のリースを管理したが、 1907年恐慌で全資産を失った。
ジョイナーと元薬剤師、医師、アマチュア地質学者の
A.D.ロイド(本名はジョセフ・アイデルバート・ダーラム)は協力して2本の試掘井を掘り、
セミノール油田
セメント油田
の発見を間一髪で逃した。
ジョイナーは1921年から1925年までラスク郡に通勤し、1925年にテキサス州ダラスに移り、そこでラスク郡の賃貸地の一部を未亡人に売ることに注力した。
1925年8月11日、ジョイナーは未亡人デイジー・ブラッドフォードの975.5エーカーの農場の賃貸権を取得した。
1926年にラスク郡に移住した。
1927年、AD「ドク」ロイドは、東テキサスで石油を掘削するようジョイナーを説得し、油井が深さ3,550フィート (1,080メートル) でウッドバイン川に出会うと予測した。
ジョイナーは、野心的な採掘のための資金を募るため、ロイドが書いた目論見書を郵送した。十分な資金を集めた後、ジョイナーはラスク郡で掘削を開始した。
ジョイナーと彼のチームは、1927年から3年間、錆びた中古の機器で掘削を続けた。
ある時、テキサス・カンパニーの 地質学者
ウォルター・R・スミス
が訪れ、「あの穴から出てくる石油は全部飲んでやる」と冗談を言った。
反対にもかかわらず、ジョイナーはラスク郡に石油がある可能性を確信していた。
1930年から、ジョイナーはテキサス州ヘンダーソンの西8マイルにあるデイジー・ブラッドフォードの農場で掘削を開始した。
脆弱な松材の掘削機と使い古された道具を使った最初の 2 つの井戸は失敗に終わった。
最終的に、1930年10月3日午後 8 時、デイジー ブラッドフォード第 3 号で石油が噴出し、当時最大の石油鉱床であった
東テキサス油田
を発見した。
5つの郡にまたがり、ラスク郡西部を中心としていた。
その後の噴出で周辺は大騒ぎになった。
ジョイナーは石油発見の父として「お父さん」というあだ名で呼ばれた。
しかし、ジョイナーはデイジー・ブラッドフォード農場で掘削した3つの油井すべてを売り過ぎてしまい、後に
HLハントに133万5000ドルで売却した。
ラスク郡西部のジョイナービルの町は彼にちなんで名付けられた。
彼は1947年に亡くなった。
posted by まねきねこ at 06:11| 愛知 |
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よもやまばなし
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