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2025年03月13日

アメリカとウクライナが合意の停戦案にロシア大統領補佐官が「何も得られない」と否定的な見解

 タス通信などによりますと、ロシアの大統領府のウシャコフ大統領補佐官は13日公開のインタビューで、
   アメリカとウクライナが合意した30日の停戦案
をめぐり「ロシアは何も得られない」「ウクライナ軍にとっての一時的な休息に過ぎない」と述べ、否定的な見解を示した。
 両国の停戦案は「偽りの和平への取り組みであり、誰も必要としていない」と批判した上で、「我々の正当な利益が考慮された、長期的な和平を目指す」と主張した。
 こうした見解はアメリカのウォルツ大統領補佐官との12日の電話会談で、すでに伝えたという。


ひとこと
 やはり、トランプ政治の浅はかな対応では何も合意できないということだろう。
 金儲けのみ選考している米国政府の思い描くロードマップは迷路ばかりということだろう。

  
posted by まねきねこ at 22:05| 愛知 ☁| Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

植田日銀総裁が実質賃金・消費は今後「もう少し良い姿が見込まれる」といつもの頼りなき、評論家の如き発言で大丈夫か?

 日本銀行の植田和男総裁は13日、参院財政金融委員会で
   物価変動
の影響を除いた
   実質賃金
や個人消費について、
   先行きは改善が見込まれる
との見解を示した。
 植田総裁は、引き続き賃金上昇は強い姿が続いているとし、「今後、実質賃金あるいは消費についてはもう少し良い姿が見込まれる」と続けた。
 人手不足の強まりに伴って賃金・物価は上がりにくいという慣行も変化しており、この継続が2%の物価目標の持続的・安定的な実現に重要だとの認識も示した。
 日銀の1月利上げ後も堅調な賃金・物価動向などを背景に、市場に早期の追加利上げ観測がくすぶる一方、米トランプ政権の関税措置などを受けて
   世界経済の不確実性
が増している。
 金融政策運営が難しいかじ取りを迫られる中、植田総裁は賃金と物価の好循環の継続に期待感を示したものの、単なる観察者や評論家の如き発言であり、金融を主導する組織の長としては力不足このうえないもので話にもならない。
 総裁は物価動向について「足元のインフレ率は高い」としつつ、輸入物価上昇の価格転嫁や食料品の値上がりに伴う部分は時間の経過とともに低下していくと説明したが、そもそも、スタグフレーションに突入する恐れや、日本国民の資産価値の劣化の責任すら感じていないようだ。
 日銀が重視する基調的な物価上昇率は「現在ちょっと2%を下回っている」ものの、景気が緩やかな回復を続ける下で、徐々に2%に向けて高まっていくと述べた。
 ただ、モノの質や量の減少を見れば2%ではなく、実質20%から30%のインフレとなっている現実を見るべきだろう。
 植田総裁の発言後、金融政策の正常化に前向きとの見方を背景に、債券市場では現物債に戻り売りが出ており、先物相場は下落に転じている。
 また、円相場は1ドル=147円台に上昇しているが単なるトランプ関税における市場の揺らぎでしかなく、主体に動かす事もできていない他力本願でしかない。
    
   
posted by まねきねこ at 22:00| 愛知 ☁| Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ヘッジファンドが日本などアジアでポジションを大幅縮小(ゴールドマン)

 ゴールドマン・サックス・グループが12日の顧客向けリポートで、資産の種類を特定せずに、アジアでのヘッジファンドのポジション縮小規模が10日、過去4年間で最大規模に上ったと指摘した。
 ヘッジファンドは日本を含むアジアの市場で強気・弱気双方のポジションを10日に解消した。
 先週末7日の欧米市場でも、同じような動きが見られた。
 このうち約75%は、日本をはじめとする先進国市場での減少分だ。
 ヘッジファンドは日本でショートカバー(買い戻し)やロング(買い)ポジション解消を急いだという。
 アジアの新興国市場での縮小は中国主導で、ヘッジファンドが
   強気ポジションを手じまいした
と説明している。
 こうしたアジアでの動きに先立ち、ゴールドマンのヘッジファンド顧客が世界で強気および弱気ポジションを解消する動きは、2日間の減り方で見ると4年ぶりの大きな規模になっていた。
   
 
ひとこと
 大きな経済的な揺らぎが起きる前に逃げ出しているのだろう。
 
   
posted by まねきねこ at 21:07| 愛知 ☁| Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

資産査定を条件に、セブンへの提案強化の可能性

 カナダのコンビニ大手でセブン&アイ・ホールディングスに買収提案しているアリマンタシォン・クシュタール
   アラン・ブシャール創業者兼会長
は13日、デューデリジェンス(資産査定)で財務状況を把握できるようになれば、その結果を基に買収提案を強化できる可能性があると述べた。

 同日都内で開いた会見で、ブシャール氏は改めて、デューデリジェンスに必要なデータにアクセスできていないと主張した。
 秘密保持契約を結んでデューデリジェンスができるよう、セブン側に求めた。
 また、セブンとの買収が実現すれば真の「チャンピオン」になれると強調し、敵対的買収は検討していないとも述べた。
 クシュタールは、セブン買収に対する株主や日本の消費者の理解を得るため、情報発信を強化している。
 自社の紹介や主張を掲載するウェブサイトも公開した。
 足元ではセブンとのつばぜり合いも垣間見える。
 同社が10日に公開した株主への書簡を受け、クシュタールは11日、セブンの対応が非常に限定的だとする声明を発表した。
 協議の焦点が米国の規制当局の承認関連ばかりで、失望していると述べていた。

 13日の会見でクシュタール経営陣は、日本事業への考えも示した。
 セブン買収で合意に至った場合、日本での店舗閉鎖や従業員解雇は考えておらず、投資や雇用を生み出す考えを強調した。
 フランチャイズモデルを尊重し、維持したいとしたほか、加盟店オーナーのサポートを強化し、利益率を改善したいとも述べた。

 クシュタールは昨年、買収額として1株18.19ドル(約2700円)を提示した。
 セブンの12日終値(2178.5円)を大きく上回る水準となっている。
 また1月にはセブンの要請に応じて円建ての非拘束的な修正提案を提出したという。
 具体的な換算額については言及しなかった。

 こうした中、今後焦点になるのは株主の動きだ。
 セブンの株主である米資産運用会社
   アーチザン・パートナーズ・アセット・マネジメント
は9日付でクシュタールとの交渉などを求める書簡を送ったほか、13日にはセブンの相次ぐ取締役辞任を受け経営陣の責任追及を株主に呼びかけた。
 セブンは全ての事実を把握していないアーチザンが、株主価値顕在化に向けたあらゆる選択肢を追究するというセブンの姿勢を誤って認識しており、遺憾と10日に反論していた。5月27日に株主総会を控える中、今後他の株主からも同様の要求をつきつけられる可能性もある。
  
 セブンは6日、買収提案を検討する特別委員会の委員長を務めた
   スティーブン・デイカス氏
が5月27日付で社長に就く人事を発表した。
 2030年度までに総額2兆円の自己株を取得することや、SEIの新規株式公開(IPO)計画なども明らかにしていた。

  
ひとこと
 円が100円から150円まで安くなれば5割も安く海外企業は日本企業を買えるということだ。
 円が、ここから100円まで上昇すれば、単純に5割の利益が購入した企業に転がり込む。
 
 
posted by まねきねこ at 21:00| 愛知 ☁| Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

マイクロソフトの反トラスト調査をトランプ政権下でもFTCが継続

 米連邦取引委員会(FTC)は、
   反トラスト法
に基づきバイデン政権末期に開始した米マイクロソフトに対する調査を進めている。
 トランプ大統領に起用された
   ファーガソン新FTC委員長
が、ハイテク大手の監視に重点を置く姿勢がうかがえる。

 この事情に詳しい複数の関係者によると、FTC職員はここ数週間、企業や団体と会合を持ち情報を収集するなどマイクロソフトに対する調査を継続しているという。
 同関係者は部外秘の調査を理由に匿名で語った。

 FTCは昨年末、マイクロソフトに対し
   民事審査請求(CID)
を送付した。
 CIDは、モデル訓練やデータ取得のコストなど
   人工知能(AI)事業
に関する大量のデータを2016年までさかのぼって提出することを同社に義務付ける内容だった。
 データセンターや、顧客需要対応に十分な演算力を確保する難しさ、ソフトウエアのライセンス慣行について詳細情報を求めた。
 また、マイクロソフトオープンAIと合意を締結した後、自社AIプロジェクトへの支出削減を決めたことも調査対象となっている。
 これは、成長著しい
   AI市場で競争を阻害
していると判断される可能性がある。
 CIDによれば、FTCは、マイクロソフト
   別の事業で得た利益
が、他のAI企業に対する同社の優位性につながっているかを判断したい考えと見られる。
 また、クラウドコンピューティングサービスのコストをより深く把握するため、同社のデータセンター能力制約に関する詳細情報の入手も目指している。
 こうした情報は、FTCが訴訟提起の是非を判断する上で役立つ。

 マイクロソフトの広報担当アレックス・ホーレック氏は「われわれはFTCに協力している」と述べている。
  
   
posted by まねきねこ at 20:40| 愛知 ☁| Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

フランク・ブッチェリ(Frank Buccieri)「フランク・ルッソ」または「ビッグ・フランク」としても知られる米国西海岸でマフィアの活動を指揮した米国人マフィア

フランク・ザ・ホース・ブッチェリ
        (Frank "The Horse" Buccieri)
   1919年1月23日 - 2004年3月8日
 「フランク・ルッソ」または「ビッグ・フランク」としても知られる。
 1970年代から1980年代にかけて米国西海岸でマフィアの活動を指揮した米国人マフィアである。
   フィオーレ・「フィフィ」・ブッチェリ
の兄弟であった。
 1936年、17歳のブッチェリは、シカゴの裁判所で
   軽窃盗の容疑
で起訴された。
 裁判官が、この容疑を大陪審に送るつもりだと言ったとき、ブッチェリの兄弟のフィオーレは、家族が代わりに彼を罰することができるかと尋ねた。
 裁判官は同意し、ブッチェリの親戚の一人が、5フィートの長さのゴムホースを2本重ねて、彼を5回鞭打ちにした。
 これは、ブッチェリが犯罪に手を染めた生涯で「唯一の逮捕」となった。
 1960年代、ブッチェリはシカゴの西側で違法賭博と高利貸し事業の経営者だった。
 1970年代後半、ブッチエリはカリフォルニア州パームスプリングスに家を購入した。
 1981年 6 月、ニューヨークに拠点を置く
   マフィア委員会
は、カリフォルニアでの犯罪活動の責任者として
   ブッチェリ
を任命した。
 ブッチェリは、殺害されたマフィアの
   フランク「ザ・ボンプ」ボンペンシエロ
   トミー・リッチャルディ
の後任となった。
 ブッチェリには、カリフォルニアでの日常業務を補助するため、ニューヨークの
   ルッケーゼ一家
からカポ(隊長) が任命された。
 ある捜査官は、「委員会は、カリフォルニアの儲かる犯罪を扱える信頼できる人物を求めており、今回は何も問題が起きないようにしたかった」と説明した。
 2004年3月8日、フランク・ブッチェリは自然死した。
  
   
posted by まねきねこ at 18:44| 愛知 ☁| Comment(0) | 人物伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

マジック・ジョンソン(Magic Johnson) 米国の実業家、元プロバスケットボール選手。しばしば史上最高のポイントガードとみなされた。

アービン・"マジック"・ジョンソン・ジュニア(Earvin "Magic" Johnson Jr.)
   1959年8月14日生まれ
 米国の実業家、元プロバスケットボール選手。しばしば史上最高のポイントガードとみなされた。
 ジョンソンは、全米バスケットボール協会(NBA)の
   ロサンゼルス・レイカーズ
でキャリアを積んだ。
 1979年にミシガン州立スパルタンズで全米選手権に優勝した後、ジョンソンは1979年のNBAドラフトでレイカーズに全体1位で指名された。
 「ショータイム」時代にチームを5回のNBAチャンピオンに導いた。
 ジョンソンは1991年にHIVに感染したことを発表した後、突然引退した。
 1992年のオールスターゲームでプレーに復帰し、オールスターMVP賞を受賞した。
 同僚選手から復帰に抗議を受けた後、彼は再び4年間引退したが、1996年、36歳で復帰した。
 レイカーズで32試合に出場した後、3度目で最後の引退を果たした。

 並外れたコートビジョン、パス能力、リーダーシップで知られるジョンソンは、同時代で最も支配的な選手の一人であった。
 彼のキャリアの業績には、3回のNBA最優秀選手賞、3回のNBAファイナルMVP、9回のオールNBAファーストチーム選出、12回のオールスターゲーム選出が含まれる。
 レギュラーシーズンのアシスト数でリーグを4回リードし、レギュラーシーズン(1試合あたり11.19アシスト)とプレーオフ(1試合あたり12.35アシスト)の両方で、1試合あたりの平均アシスト数でNBAの歴代トップであった。
 彼はまた、プレーオフでの通算アシスト数とプレーオフでの通算トリプルダブルの記録を保持している。
 ジョンソンは、バルセロナで金メダルを獲得した1992年オリンピックの米国男子バスケットボールチーム(「ドリームチーム」)の共同キャプテンであった。
 1991年にNBAを離れた後、彼は
   マジック・ジョンソン・オールスターズ
を結成した。
 これは世界中を旅してエキシビションゲームを行う遠征チームである。
 ジョンソンは1996年にNBA史上最も偉大な50人の選手の一人として表彰された。
 また、2021年にはNBA75周年記念チームに選出された。
 ネイスミス・バスケットボール殿堂には2002年に個人としてのキャリアで、2010年にはドリームチームのメンバーとして2度殿堂入りを果たしている。 
 1979年のNCAA決勝戦や3度のNBAチャンピオンシップシリーズで対戦したボストン・セルティックスのスター、ラリー・バードとの友情やライバル関係はよく知られている。
 引退後、ジョンソンはHIV/AIDS予防とセーフセックスの提唱者であり、起業家、 慈善家、キャスター、モチベーショナルスピーカーでもある。

 アービン・ジョンソン・ジュニアはミシガン州ランシングで、
   ゼネラルモーターズ
の組立作業員アービン・シニアと学校用務員クリスティンの息子として生まれた。
 ジョンソンには6人の兄弟と、父親の前の結婚でできた3人の異母兄弟がいる。
 両親の強い労働倫理に影響を受けたと伝わっている。
 母親は毎晩仕事が終わると何時間もかけて家の掃除や翌日の食事の支度をし、父親は中古車販売店での清掃やゴミ収集の仕事をしていたが、その間もゼネラルモーターズで1日も休むことはなかった。
 ジョンソンはよく父親のゴミ収集を手伝い、近所の子供たちから「ゴミ男」と呼ばれてからかわれた。
 母親はジョンソンをセブンスデー・アドベンチスト教会で育てた。
 ジョンソンは若い頃からバスケットボールが好きだった。
 彼が子供の頃に好きだったバスケットボール選手は
   ビル・ラッセル
で、彼は運動能力よりも彼の数々の優勝を尊敬していた
 彼はまたアール・モンローやマルケス・ヘインズなどの選手を崇拝し、「一日中」練習していた。
 ジョンソンはスポーツ一家に育った。
 彼の父親は故郷のミシシッピ州で高校バスケットボールをしており、ジョンソンは父親からゲームの細かい点を学んだ。
 ノースカロライナ州出身のジョンソンの母親も子供の頃バスケットボールをしており、兄弟がバスケットボールをするのを見て育った。

 ジョンソンは8年生になる頃には、バスケットボール選手としての将来について考え始めていた。
 彼は中学時代は圧倒的な選手となり、1試合で48得点を挙げたこともある。
 ジョンソンは、バスケットボールチームが非常に成功し、歴史もあるセクストン高校でプレーすることを楽しみにしていた。
 たまたま自宅からわずか5ブロックのところにあった。
 しかし、黒人が大半を占めるセクストン高校ではなく、白人が大半を占めるエバレット高校にバスで通うことになると知り、彼の計画は劇的に変化した。
 ジョンソンの姉のパールと弟のラリーは前年にエバレット高校にバスで通っていたが、楽しい経験ではなかった。
 黒人の学生を乗せたバスに石が投げつけられたり、白人の親が子どもを学校に行かせるのを拒否したりするなど、人種差別的な事件もあった。

 練習中に衝突したラリーはバスケットボールチームから追い出され、弟に試合に出ないでと懇願した。
 ジョンソンはバスケットボールチームに入団したが、数日後、新しいチームメイトが練習中に彼を無視し、ボールをパスすらしなかった。
 このため、怒りを覚えた。
 ヘッドコーチのジョージ・フォックスが介入する前に、彼は他の選手と喧嘩になりそうになった。
 最終的にジョンソンは自分の状況を受け入れ、黒人学生の小さなグループは彼をリーダーとして見なした。
 自伝『私の人生』の中で、「今振り返ってみると、全体像は全く違って見えます。セクストンを逃すのは嫌だったのは事実です。
 そして最初の数か月はエバレットで惨めな思いをしました。しかし、エバレットにバスで通ったことは、私にとって人生最高の出来事の一つとなりました。それは私を自分の小さな世界から抜け出させ、白人を理解する方法、彼らとコミュニケーションをとり、付き合う方法を教えてくれました。」とエバレットで過ごした時間が自分をどのように変えたかを回想している。

 ジョンソンが初めて「マジック」と呼ばれたのは15歳の時、エバレット大学2年生として36 得点、18 リバウンド、16アシストのトリプルダブルを記録した時だった。
 試合後、ランシング・ステート・ジャーナル紙のスポーツ記者
   フレッド・ステイプリー・ジュニア
が彼にそのあだ名を付けた。
 ただ、敬虔なクリスチャンであるジョンソンの母親はその名前は冒涜的だと思っていた。
 
 ジョンソンはインディアナ大学やUCLAなどトップクラスの大学からスカウトされたが、地元でプレーすることを決めた。
 ジョンソンの大学選択はミシガン大学とイーストランシングのミシガン州立大学の2校に絞られた。
 最終的にミシガン州立大学に進学することを決めたのは、コーチの
   ジャド・ヒースコート
からポイントガードのポジションでプレーできると言われた時だった。ミ
 シガン州立大学にすでに名簿に載っていた才能も彼をこのプログラムに惹きつけた。

 ジョンソンは当初プロとしてプレーすることを志しておらず、代わりにコミュニケーション学 専攻に集中し、テレビ解説者になりたいと考えていた。
 ジョンソンは、将来のNBAドラフト指名選手であるグレッグ・ケルサー、ジェイ・ヴィンセント、マイク・ブルコビッチとともにプレーし、 1年生ながら平均17.0得点、7.9リバウンド、7.4アシストを記録し、スパルタンズを25勝5敗の成績、ビッグ・テン・カンファレンスのタイトル、 1978年のNCAAトーナメント出場に導いた。
 スパルタンズはエリートエイトまで進出したが、最終的に全国チャンピオンとなったケンタッキーに僅差で敗れた。

 ジョンソンは1979年にロサンゼルス・レイカーズに全体1位でドラフトされた。
 ジョンソンは、レイカーズに入団して「最も素晴らしいこと」は、チームの7フィート2インチ(2.18メートル)のセンターでNBA史上最多得点者となったカリーム・アブドゥル・ジャバーと一緒にプレイするチャンスがあったことだと語った。
 アブドゥル・ジャバーは圧倒的な活躍にもかかわらず、レイカーズで優勝を逃しており、ジョンソンはその目標達成に貢献すると期待されていた。 
 ジョンソンの5年目のシーズンが始まる前に、レイカーズのゼネラルマネージャーとなったウェストは、ボールハンドリングの責任分担からジョンソンを解放するためニクソンをトレードした。
 ジョンソンは1試合平均17.6得点、13.1アシスト、7.3リバウンドで、再びダブルダブルのシーズンを送った。
 レイカーズは3年連続でファイナルに進出し、ジョンソンのレイカーズとバードのセルティックスがポストシーズンで初めて対戦した。
 レイカーズは第1戦に勝利し、第2戦では試合終了18秒前に2点リードしたが、ジェラルド・ヘンダーソンのレイアップの後、ジョンソンは試合終了のブザーが鳴る前にシュートを打つことができず、レイカーズは延長戦で124対121で敗れた。
 ファイナル中、ジョンソンは平均18.0得点、シュート率.560、アシスト13.6、リバウンド7.7を記録した。
 ジョンソンは後にこのシリーズを「私たちが手にするべきだったが手にできなかった唯一のチャンピオンシップ」と表現した。
  
 1991-92年のNBAシーズン前の身体検査で、ジョンソンはHIV陽性反応を示した。
 1991年11月7日に行われた記者会見で、ジョンソンは即刻引退することを公表した。
 妻のクッキーと胎児はHIVに感染しておらず、「この致命的な病気と闘う」ために人生を捧げると述べた。
 ジョンソンは当初、どうやって感染したのかわからないと語っていたが、後に現役時代に多数の性的パートナーを持ったことで感染したと認めた。 
 ジョンソンは1992年バルセロナオリンピックにアメリカ代表として出場するよう選ばれ、NBAのスター選手が名を連ねていたことから「ドリームチーム」と呼ばれた。
 ジョンソンの他、バード、マイケル・ジョーダン、チャールズ・バークレーといった殿堂入り選手が所属するドリームチームは、無敵と思われていた。
 1992年のアメリカ大陸選手権で金メダルを獲得してオリンピック出場権を獲得した後、ドリームチームはオリンピック競技を圧倒し、8勝0敗の成績で金メダルを獲得し、平均43.8得点で対戦相手に勝利した。
 ジョンソンは、1992年のオリンピックに向けて肉体的にも非常に競争の激しい練習や練習試合があったにもかかわらず、同じチームメイトの何人かがNBAへの復帰に懸念を示したと語った。引退したのは「ゲームを傷つけたくなかった」からだと彼は語った。 
 2009年、ジョンソンとバードはジャーナリストのジャッキー・マクマランと共同で「 When the Game Was Ours」というノンフィクション本を出版した。
 この本では、彼らのコート上でのライバル関係と友情が詳しく描かれている。 

  
posted by まねきねこ at 10:00| Comment(0) | 人物伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ジョージ・ウェスティングハウス(George Westinghouse, Jr)電気産業の先駆者であり、ロータリースチームエンジン、道車両用の空気ブレーキ等を発明した。

ジョージ・ウェスティングハウス・ジュニア(1846年10月6日 - 1914年3月12日) 
 ペンシルベニア州ピッツバーグに拠点を置いた、多作な米国の発明家、技術者で起業家精神のある実業家であった。
 彼は、鉄道空気ブレーキの発明と、交流(AC)電力配電の開発と使用の先駆者として最もよく知られている。
 ウェスティングハウスは、そのキャリアを通じて、発明で362件の特許を取得し、61の会社を設立し、その多くは今日でも存在している。
 圧縮空気を使った
   列車ブレーキシステム
の発明は、世界中の鉄道業界に革命をもたらした。 
 1869年にウェスティングハウスは
   ウェスティングハウス・エアブレーキ社
を設立し、彼と彼のエンジニアたちは
   線路の切り替え
   信号システム
も開発し、1881年に は
   ユニオン・スイッチ&シグナル社
を設立した。
 1880 年代初頭、彼は
   天然ガス
の安全な生産、輸送、使用に関する発明を成し遂げ、まったく新しいエネルギー産業の創出につなげた。
 同時期に、ウェスティングハウスは
   電力配給
に交流 (AC) を使用する可能性を認識し、1886 年に
   ウェスティングハウス エレクトリック コーポレーション
を設立した。
 ウェスティングハウスの電気事業は、直流(DC) 電気を推進していた
   トーマス・エジソン
の事業と直接競合した。
 ウェスティングハウス エレクトリックは、シカゴで開催された 1893 年の
   コロンビア博覧会
で「ホワイト シティ」を照らす
   AC システムを披露する契約
を獲得した。
 さらに、1895年8月にオープンしたニューヨーク州ナイアガラ フォールズに
   世界初の大規模な AC 発電所
を設置した。
 皮肉なことに、ウェスティングハウスは他の多くの栄誉の中でも、1911年に「交流システムの開発に関連した功績」によりアメリカ電気学会から
   エジソンメダル
を受賞した。
 
 ジョージ・ウェスティングハウスは1846年にニューヨーク州セントラルブリッジ村で、農家で機械工場を経営する
   エメリン(ヴェダー)
   ジョージ・ウェスティングハウス・シニア
の息子として生まれた。 
 ウェスティングハウス家の先祖はドイツのヴェストファーレン出身で、最初はイギリスに移住し、最終的に米国に移住した。
 家名はウィスティングハウゼンから英語化されたものである。
 ウェスティングハウスは若い頃から機械とビジネスの才能を発揮した。
 彼は父親に奨励され、
   ウェスティングハウス社
の作業場で仕事を任された。
 同社はウェスティングハウス ファーム エンジンなどの農業機械を製造していた。

 1861年4月に
   南北戦争
が勃発すると、当時14歳だったウェスティングハウスは家出をし入隊しようとした。
 ただ、父親に止められたものの、1863年6月、両親は入隊を許可した。
 最初はニューヨーク州兵第12連隊、次にニューヨーク騎兵隊第16連隊に入隊した。
 1863年11月に名誉除隊される前に伍長に昇進した。
 1か月後、北軍海軍に入隊し、戦争が終わるまで、砲艦USS マスクータ、その後はUSS スターズ・アンド・ストライプスで代理三等技師として勤務した。 
 これらの艦は南部の港湾都市の封鎖に使用された。
 
 1865年8月に除隊した後、ウェスティングハウスは家族の元に戻り、スケネクタディのユニオン大学に入学したが、すぐに興味を失い、最初の学期で退学した。
 彼はさらに父の会社の工場で技術を磨いた。
 ウェスティングハウスが
   ロータリー蒸気エンジン
で最初の特許を取得したのは19歳の時だった。 
 21歳のとき、彼は脱線した車両を線路に戻すための装置である
   車両交換装置
と、異なる線路間で列車を切り替えるための
   可逆式「フロッグ」
であるレール接続部品を発明した。 
  
 ウェスティングハウスは旅行中に、同じ線路で接近していた2本の列車の機関士がお互いに気付いていたものの、既存のブレーキシステムのために間に合わず列車を止めることができなかった衝突事故の余波を目撃した。
 当時、ブレー​​キマンは車両上部の屋根通路に沿って走り、手動でブレーキをかけなければならなかった。そのプロセスの調整は難しく落下する恐れもあり危険だった。
 また、列車の長さは10両を超えることができず、毎年何千人ものブレーキマンが死亡または重傷を負っていた。
 1868年、ウェスティングハウスは妻とともにペンシルベニア州ピッツバーグに移り、鉄道フロッグの製造に使うより良質で安価な鋼材を入手し、そこで発明したばかりの
   鉄道空気ブレーキ
のコンセプトの開発を始めた。

 1869 年、23 歳のウェスティングハウスは、ピッツバーグで初めて革命的な新しい鉄道ブレーキ システムを公開した。
 このシステムは、圧縮空気システムを使用して列車を停止させるものであった。
 彼の最初のブレーキ システムでは、機関車に空気圧縮機と空気貯蔵庫を使用し、列車の全長にわたって 1 本の圧縮空気パイプが走り、車両間はフレキシブルに接続されていた。
 このラインでブレーキを制御し、機関士はすべての車両で同時にブレーキをかけたり解除したりできた。
 その後にウェスティングハウス エア ブレーキ カンパニーとなる会社の設立認可は、その年の 7月に提出された。
 エアブレーキシステムは、集まった目撃者の前で重大な事故を防ぐという成果をあげたが、決して安全とは言えなかった。
 空気ラインが破裂したり切断されたりすると、列車はブレーキが効かなくなった。
 その後2年間、ウェスティングハウスと彼のエンジニアたちは、プロセスを逆転させ、ライン内の圧力が一定であればブレーキが効かなくなるようなバルブを設計することで、この問題に対処した。
 また、各車両に空気タンクも設置された。
 こうして改良された設計により、ラインが中断したり切断されたりすると、列車は自動的に停止するようになった。

 次の10年間、ウェスティングハウスは初期の発明を基に、鉄道信号と線路切り替えシステムへの関心を広げていった。
 それまで、信号は石油ランプに依存し、線路切り替えは手動で行われていた。
 ウェスティングハウスの設計はそれをすべて変えた。
 1882年、ウェスティングハウスは
   ユニオン・スイッチ・アンド・シグナル・カンパニー
を設立し、これらの革新的な制御システムの製造、販売、設置、保守を行い、最終的には世界中の鉄道で採用された。
 
 1883 年までに、ウェスティングハウスは
   天然ガス
に興味を持つようになった。
 ペンシルバニア州マリーズビル近郊で最近ガスが発見され、1878 年に
   ヘイメーカー油井
で起きた壮大な噴出火災もあって、大きな注目を集めていた。
 油井を訪れて商業的可能性を認識した後、ウェスティングハウスはピッツバーグにある自分の土地、ソリチュード (現在のウェスティングハウス パーク) でガスの採掘に着手した。
 1884年5月21日の早朝、掘削作業員が深さ1500フィートのガス溜まりを発見した。
 土砂と水が噴き出して掘削機の上部が吹き飛んだ。
 ウェスティングハウスはガスの流出を止める方法を考案するのに1週間を要した。
 ウェスティングハウスは地域の家庭や事業所にガスを供給し、暖房や照明を供給するシステムを開発するよう促された。
 最終的に、彼の邸宅にあるビクトリア朝時代の庭園の上には天然ガス掘削機が数基そびえ立つようになった。 
 なお、現代では、これらの掘削機の地上の痕跡は残っていない。
 その年、ウェスティングハウスは「フィラデルフィア会社」の休眠中の公益事業認可を取得した。
 その後3年間で装置を開発し、この技術に関する30以上の特許を取得した。
 
 彼はフィラデルフィア会社を利用してガス井を開発し、商業用と住宅用の両方でガスの使用を促進した。
 1886年までにフィラデルフィア会社はピッツバーグ地域で58の井戸と184マイルの配水管を所有した。
 また、1887年までに州全体で12,000以上の個人住宅と582の産業顧客にサービスを提供した。
1889年、発電と配電への関与が急増し雑務が多くなったため、ウェスティングハウスはフィラデルフィア社の社長を辞任したものの、取締役には残った。
 天然ガス事業の成長は、供給問題と家庭や企業へのガス配給に関する継続的な安全上の懸念により、1890年代には鈍化した。
 なお、フィラデルフィア社は成長を続けその後、
   エクイタブル・ガス
   デュケイン・ライト
などの企業を生み出した。

 1880 年代初頭、ウェスティングハウスは鉄道の切り替えと天然ガスの配給に興味を持ち、当時新しい分野であった
   電力配給
に関わるようになった。
 アーク灯を使用した街路の電気照明は既に成長中のビジネスで、多くの企業が現地で発電された直流(DC) または交流(AC)で駆動するシステムを構築していた。
 同じ頃、トーマス・エジソンは、特許を取得した
   白熱電球
を使用して、家庭や企業を照らすために設計された最初の
   DC 電力会社
を立ち上げていた。
 1884年、ウェスティングハウスは独自の直流家庭用照明システムの開発を開始し、物理学者
   ウィリアム・スタンレー
を雇って開発を手伝わせた。
 1885年、ウェスティングハウスはフランス人の
   ルシアン・ゴラール
とイギリス人の
   ジョン・ギブス
が考案した変圧器の概念を知り、雇われていたイタリア人エンジニアの
   グイド・パンタレオーニ
は、ウェスティングハウスがすでに特許を取得している変圧器と、ロンドン、トリノ、ローマ近郊で数マイルも離れた場所に送電できるシステムについてウェスティングハウスに知らせた。
 
 彼らは、交流電気は送電用に変圧器で電圧を「上げ」、次に別の変圧器で電圧を下げて消費者に低電圧で供給できることを発見した。
 この革新により、大規模な集中型発電所で発電し、都市部や人口が分散している地域に長距離供給することが可能になった。
 これは、エジソンの電力会社が販売していた低電圧DCシステムに比べて大きな利点があった。
 低電圧と高電流の使用による電力が電線の抵抗により途中熱に変わって損失するため、発電所の送電範囲は約1マイルに制限されていた。
 ウェスティングハウスは、エジソンの特許を回避するのに十分なだけ異なる、ほとんど競争力のないDC照明システムを単純に組み合わせるのではなく、真に競争力のある電気システムを作成する方法として、より大きな規模の経済性を実現するACの可能性を認識した。
 1885年、ウェスティングハウスはピッツバーグで
   交流ネットワークの実験
を始めるため、数台のゴーラード・ギブス変圧器とシーメンス交流発電機を輸入した。
 スタンレーは技術者の
   アルバート・シュミット
   オリバー・B・シャレンバーガー
の助けを借りてゴーラード・ギブス変圧器の設計を劇的に改良した。
 初の実用的かつ製造可能な変圧器を作成した。 
 1886年、スタンレーはウェスティングハウスの支援を受けて、マサチューセッツ州グレート・バリントンに初の
   多電圧交流電力システム
を設置した。
 このデモ用照明システムは水力発電機で駆動され、500ボルトの交流を生成し、それを100ボルトに降圧して家庭や企業の白熱電球を点灯した。
 同年、ウェスティングハウスは「ウェスティングハウス・エレクトリック・アンド・マニュファクチャリング・カンパニー」を設立した。 
 1889年、彼はこれを「ウェスティングハウス・エレクトリック・コーポレーション」に改名した。

 ウェスティングハウス社は1年以内に30以上の交流照明システムを設置し、1887年末までに68の交流発電所を保有していた。
 競合するエジソンは7年間で121の直流発電所を設置していた。 
 このエジソンとの競争は、1880年代後半に「電流戦争」として知られるようになった戦争につながった。
 トーマス・エジソンと彼の会社はこれに加わり、交流配電で使用される高電圧は危険で致命的であるという世論の認識を意図的に広めた。
 エジソンは、ニューヨーク州の新しい電気椅子にウェスティングハウスの交流発電機を使用するべきだとさえ提案し、醜聞を広げようと画策した。

 ウェスティングハウスは、もう一つの交流ライバルである
   トムソン・ヒューストン・エレクトリック・カンパニー
とも取引をしなければならなかった。
 同社は1887年末までに22の発電所を建設したうえ、1889年までには別のライバルである
   ブラッシュ・エレクトリック・カンパニー
を買収していた。
 トムソン・ヒューストンは、ウェスティングハウスとの特許紛争を避けながら事業を拡大した。
 照明会社の管轄区域に関する協定、スタンレーの変圧器の特許を使用するためのロイヤリティの支払い、ウェスティングハウスにソーヤーマン白熱電球の特許を使用する許可などの取引をまとめていた。

 1890 年、エジソン社はトムソン・ヒューストン社と共謀して、ウェスティングハウス社の交流発電機で電力を供給する最初の電気椅子を手配した。
 ウェスティングハウス社は、当時最高の弁護士を雇って、電気椅子で死ぬ予定の最初の人物であるウィリアム・ケムラーの弁護を依頼し (失敗に終わりました)、この動きを阻止しようとしました。

 電流戦争は1892年に金融家
   JPモルガン
がエジソン・ゼネラル・エレクトリックに交流電力への切り替えを強制し、エジソンを自らが設立した会社から追放したことで終結した。 
 その後、エジソン・ゼネラル・エレクトリック社は
   トムソン・ヒューストン・エレクトリック社
と合併し、トムソン・ヒューストンの取締役会が支配する複合企業
   ゼネラル・エレクトリック
となった。
 この間、ウェスティングハウスは、完全に統合された交流システムを構築するという目標に資金とエンジニアリングリソースを注ぎ込み続けた。
 コンソリデーテッド・エレクトリック・ライト社を買収してソーヤーマンランプを手に入れ、誘導計などの部品を開発した。
 また、発明家ニコラ・テスラのブラシレス交流誘導モーターの権利と、新しいタイプの電力分配方法である多相交流の特許を取得した。
 ただ、実現可能な交流モーターの獲得により、ウェスティングハウスはシステムの重要な特許要素を手に入れたが、特許の買収とそれを構築するのに必要なエンジニアの雇用にかかる財政的負担のため、テスラのモーターの開発はしばらく保留せざるを得なかった。
 
 ロンドンの
   ベアリングス銀行
が破綻寸前となり、 1890年の金融恐慌が引き起こされ、投資家は融資の返済を迫られた。
 1891年、ウェスティングハウスの会社は突然の現金不足により、会社は債務の借り換えを余儀なくされ苦境に陥った。
 新たな主要貸し手は、ウェスティングハウスに対し、他社の買収、研究、特許への過剰な支出を削減するよう要求してきた。
 1891年、ウェスティングハウスはコロラド州オフィール近郊に水力交流発電所、エイムズ水力発電所を建設し、3.5マイル離れたゴールドキング鉱山に交流電力を供給した。
 これは産業用交流電力の長距離送電に初めて成功したもので、2台の100馬力ウェスティングハウス製交流発電機が使用された。
 1台は3,000ボルト、133ヘルツの単相交流を生成する発電機として機能し、もう1台は交流モーターとして使用された。
 1892年5月、ウェスティングハウス・エレクトリックは、シカゴで開催された1893年万国博覧会の電力と照明を交流で供給する入札に勝ち、ゼネラル・エレクトリックを大幅に下回る入札で契約を獲得した。
 この契約の要求を満たすために、彼は取得した
   ソーヤーマンの特許
に基づいて、エジソンの特許設計を侵害しないことを保証しながら、新しいタイプの白熱電球を急いで開発する必要があった。
 1893年初頭までに、ウェスティングハウスのエンジニアである
   ベンジャミン・ラム
は、テスラの誘導モーターの効率的なバージョンの開発で大きな進歩を遂げていた。
 その作業では、妹であり、ウェスティングハウスのエンジニア仲間である
   ベルタ・ラム・ファイヒト
の助けがあった。
 ウェスティングハウス・エレクトリックは、完全な多相交流システムを「テスラ多相システム」と名付け始めた。
 テスラの特許により他の交流システムよりも特許が優先されることを発表し、特許侵害者を訴える意向を表明した。
 
 この万国博覧会では電気展示用の建物が設けられた。
 これは交流電力の歴史において重要な出来事であり、ウェスティングハウスはアメリカ国民に完全に統合された交流システムの安全性、信頼性、効率性を実証した。

 ウェスティングハウス社がコロンビア万国博覧会で完全な交流システムを構築する能力を実証したことは、同社が1895年にニューヨーク州ナイアガラフォールズに2相交流発電システムであるアダムス発電所を建設する契約を獲得する上で重要な役割を果たした。
 同社はこの発電所で5,000馬力(3,700kW)25Hz交流発電機10台を建設する下請けとなった。
 ウェスティングハウス社のナイアガラ発電所第1号は当時はナイアガラ変電所で稼働を続け、1961年に老朽化に伴い閉鎖された。
 同時に、プロジェクトに必要な三相交流配電システムを構築する契約がゼネラル・エレクトリック社に授与された。
 1890年代前半から中頃にかけて、金融業者JPモルガンの支援を受けたゼネラル・エレクトリック社は、ウェスティングハウス・エレクトリック社との買収や特許争いに多額の費用を費やした。
 なお、この競争は費用がかかりすぎたため、1896年に両社の間で
   特許共有協定
が締結された。
 この協定は1911年まで有効であった。

 ナイアガラフォールズ初の発電所であるランキン発電所(カナダナイアガラ発電所としても知られる)の成功を受けて、カナダ人はウェスティングハウス社と契約し、テスラにヒントを得た同じ設計の25ヘルツ発電機11台を購入し、総発電容量100MWと評価された。
 この施設は1905年にオンタリオ州ナイアガラフォールズに開設された。
 ウェスティングハウスの他のプロジェクト「 蒸気機関、船舶推進装置、ショックアブソーバー」、他の事業では成功し続けていたものの、ウェスティングハウスの主な関心は電力に移った。
 当初、利用可能な発電源は、落水が利用できる場所では水力タービン、利用できない場所では往復蒸気エンジンであった。
 ウェスティングハウスは、既存の往復蒸気エンジンが扱いにくく非効率的であると感じ、より洗練された回転エンジンを開発したいと考えた。
 彼の最初の特許は回転蒸気エンジンでしたが、当時は実用的ではないことが判明した。

 1884年、イギリスの技術者
   チャールズ・アルジャーノン・パーソンズ
が蒸気タービンの実験を開始し、10馬力(7.5kW)のタービンから始めた。
 1895年、ウェスティングハウス社が
   パーソンズタービンの権利
を購入し、同社の技術者らは技術を改良して規模を拡大した。
 1898年、ウェスティングハウス社は空気ブレーキ工場の往復エンジンに代わる300キロワットの発電ユニットを実証した。
 翌年、彼は
   ハートフォード電灯会社
向けに1.5MW、1200rpmのユニットを設置した。

 ウェスティングハウスは、船舶推進用の蒸気タービンも開発した。
 基本的な問題は、大型タービンは3000rpmでもっとも効率的に回転するのに対し、効率的なプロペラは100rpm程度でしか回転しないことであった。
 これには減速ギアが必要となったが、高回転と高出力の両方で作動する減速ギアの設計は
   「わずかなずれでも動力伝達系が壊れてしまう」
ため困難であった。
 ウェスティングハウスと彼のエンジニアは
   自動セルフアライメントシステム
を発明し、大型船舶でのタービン動力を実用化した。

 1889年、ウェスティングハウスはアリゾナ州南東部のパタゴニア山脈でいくつかの鉱山権益を購入し、
   デュケイン鉱山還元会社
を設立した。
 彼は、特に金属が豊富ではない
   「リーン」鉱石
から銅を採掘して抽出するより良い方法を発明したいと考えていた。
 この事業が成功すれば、銅を大量に使用する電気事業で競争するのに役立つはずだった。 
 しかし、彼はこのプロジェクトでは失敗に終わった。
 銅を還元する新しい方法は見つからず、鉱山は利益を生まなかった。
 彼はデュケインの町を会社の本社として設立したが、現在はゴーストタウンとなっている。
 デュケインの住民は1,000人を超え、鉱山は1910年代半ばに生産のピークを迎えた。
 
 ウェスティングハウスは、暖房と冷房を供給できるヒートポンプの開発にも着手した。
 ウェスティングハウスが
   永久機関の開発
を目指していると主張したとき、彼の多くの通信相手の一人であった英国の物理学者
   ウィリアム・トムソン(ケルビン卿)
は、そのような機械は熱力学の法則に反するだろうと彼に告げた。
 ウェスティングハウスは、そうかもしれないが、永久機関を作れなくても、特許を取得して販売できる
   ヒートポンプシステム
があるだろうと述べ、「それは何の違いもない」と答えた。

 また、自動車が広く普及した後、ウェスティングハウスはサスペンションシステム用の圧縮空気ショックアブソーバーを発明した。
 このショックアブソーバーは彼が取得した362件の特許のうち最後の1つであり、彼の死後2年後に授与された。

 ウェスティングハウスは、1881年6月から労働者に週5日半の労働時間を与えた米国初の産業雇用主である。
 土曜日は、地域社会への参加と個人の成長を促進するために半休日とされた。 ウェスティングハウスはイギリスを訪問した際にこの慣行を観察していた。
 ペンシルベニア州ウィルマーディングの計画都市には多くのウェスティングハウスの従業員が住み、ウェスティングハウス・エアブレーキをはじめとするいくつかの企業の本社を置いていた。
 ウェスティングハウス・エレクトリック・アンド・マニュファクチャリングは、ピッツバーグの東、タートルクリーク渓谷をさらに1マイル下ったところにあった。
 労働者住宅には水道、電気、ガスが備えられ、小さな庭のためのスペースも設けられていた。
 定期的な給与天引きによって住宅所有が容易になった。
 また、年金と保険制度もあった。
 工場は明るく換気も良く、医療施設や負傷者治療のための人員も備えられていた。
 ウェスティングハウスの費用で賄われたこうした設備は当時としては非常に革新的と考えられており、特に近隣の製鉄所の労働者が耐えてきた労働条件とは対照的であった。

 ウェスティングハウスは従業員から広く尊敬されていた。
 彼らは内心彼を「老人」と呼んでいた。
 彼の進歩的な姿勢の表れとして、ウェスティングハウスの技術者が何かを発明したとき、その使用権を会社に譲渡したものの、その特許に自分の名前を残すことが許されていた。
 ウェスティングハウスはこれを
   人間の尊厳
の一部であり、
   知的財産
の一部であるとみなしていた。
 ウェスティングハウスはエジソンとは異なり、共同発明者として会社のすべての特許に自分の名前を載せることはなかった。

 ウェスティングハウスは労働組合化には賛成しなかった。
 ただ、組合に所属する労働者を拒否することはなかったが、自社の工場の労働条件とは関係のない問題で労働者がストライキを起こす可能性がある団体交渉協定は好まなかった。
 ウェスティングハウスの会社で彼が経営に携わっていた間に起きたストライキは1件だけだった。
 それは1904年の
   セントルイス万国博覧会
の照明を急いでいた
   ウェスティングハウス・マシン社
での1903年のストライキだった。
 ウェスティングハウスはストライキを起こした従業員の代わりをすぐに雇うことで対応した。
 なお、こうしたウェスティングハウの行動にもかかわらず、米国の労働組合の組織者
   サミュエル・ゴンパーズ
は「すべてのビジネスリーダーや大物がジョージ・ウェスティングハウスと同じように従業員を扱えば、労働組合は必要なくなるだろう」と言ったと伝えられている。

 ウェスティングハウス工場内外の状況を映した短編映画シリーズが1904年に制作され、セントルイス万国博覧会で上映された。 
 
 1867年、ウェスティングハウスは列車で
   マーガレット・アースキン・ウォーカー
と出会い、その年の8月に結婚した。
 二人は47年間結婚生活を送り、
   ジョージ・ウェスティングハウス3世
という息子を一人授かり、その息子にはさらに6人の子供が生まれた。
 1871年以降、ジョージとマーガレット・ウェスティングハウスは、ジョージが1871年に購入した土地に既存の家を増築し、ピッツバーグにソリチュードと呼ばれる大きな家を所有していた。
 彼らは、ヘンリー・クレイ・フリック、ヘンリー・J・ハインツ、ウィリアム・ソー、アンドリュー・メロン、リチャード・ビーティー・メロンといった隣人や仲間、アンドリュー・カーネギーとトーマス・カーネギーの兄弟など、地元の非常に裕福な実業家や資産運用者の社会階級に属していた。
 彼らの客には、ニコラ・テスラ、ケルビン卿、下院議員(そして後の大統領)ウィリアム・マッキンリーなどがいた。

 1893年までに、彼らはマサチューセッツ州レノックスにアースキン・パークを建設し、夏の別荘として利用した。
 ピッツバーグの荒々しい工業環境からの休息の場としても利用した。
 この公園はマーガレットの祖父母の家族にちなんで名付けられた。

 1898年、ウェスティングハウス家はワシントンDCのブレイン・ハウス邸宅を借り、1901年に購入した。
 マーガレット・ウェスティングハウスはここで頻繁に豪華な娯楽を主催していたと評判だった。
 1918年、彼のかつてのピッツバーグの住居であるソリチュードは取り壊された。
 その土地はウェスティングハウス・パークを作るためにピッツバーグ市に寄付された。
 アースキン・パークの家は1917年に家族によって売却され、その後取り壊された。

 1894年、北軍の南北戦争退役軍人の友愛組織である
   グランド・アーミー・オブ・ザ・リパブリック
がピッツバーグで1週間の大会を開催した。
 ジョージ・ウェスティングハウスは退役軍人であったため、イーストピッツバーグのウェスティングハウス・エレクトリック・アンド・マニュファクチャリング・カンパニーの新築されたまだ使われていなかった本館で、5,000人以上の参加者を招いて夕食と娯楽の夜会を主催した。
 彼は必要な建物の準備費用と、人々を鉄道で現場まで輸送する費用をすべて負担した。
 
 エアブレーキに関する彼の功績に対する誇りは、1904年に発表されたコメント「いつの日か、エアブレーキによって私が文明に貢献し、人命の安全に貢献したと言われるなら、それで十分だろう。」に反映されている。
 
 ジョージ・ウェスティングハウスは、1907年の金融恐慌によりウェスティングハウス・エレクトリック社の経営から退くまで、アメリカ産業界の重鎮であり続けた。
 1911年までに彼はもはやビジネスに携わっておらず、健康も衰えていた。 
 ウェスティングハウスは1914年3月12日、67歳でニューヨーク市で亡くなった。
 彼は最初、ニューヨーク州ブロンクス区のウッドローン墓地に埋葬されたが、1915年12月14日に移転された。
 南北戦争の退役軍人であった彼は、妻のマーガレットと共にアーリントン国立墓地に埋葬された。
 マーガレットは彼より3か月長生きした。彼女も最初はウッドローンに埋葬されていたが、ジョージと同時に移転され、改葬された。
 
 ジョージ・ウェスティングハウスは同僚や従業員から高く評価されていた。例えば、彼と共に交流多相電力供給システムを開発した
   ニコラ・テスラ
は、1938年に彼について「ジョージ・ウェスティングハウスは、当時の状況下で私の交流システムを採用し、偏見や金の力との戦いに勝利できた地球上で唯一の人物だと私は考えます。彼は堂々とした先駆者であり、世界の真の貴族の一人で、アメリカは彼を誇りに思うべきであり、人類は彼に多大な恩義を負っています。」と語っている。

 1936 年、アメリカ機械学会は、ジョージ・ウェスティングハウス生誕 90 周年を記念して「ジョージ・ウェスティングハウスの経歴と業績を紹介する」という記念フォーラムを開催した。
 1953年以来、アメリカ機械学会は機械工学の動力分野においてジョージ・ウェスティングハウスメダルを授与している。
 また、1972年以降は金メダルと銀メダル(若手技術者向け)も授与されている。
 2021年、ウェスティングハウス生誕175周年(「生誕200周年」)が祝われ、ウェスティングハウス・パークは樹木園として認定され、国家歴史登録財への登録資格も認定された。
 
 2023年には、ウェスティングハウス・レガシー501.c3組織(501(c)(3)非営利団体)が設立され、ウェスティングハウスとその功績を伝える活動を行っている。
 この組織は、ジョージ・ウェスティングハウスに関する情報のオンラインアーカイブを構築し、彼の名前を冠したピッツバーグ公園で進行中のプロジェクトを推進して、公園の市のマスター開発計画の実施や考古学研究の長期プログラムの開発などを行っている。
   
   
  
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posted by まねきねこ at 06:49| 愛知 ☀| Comment(0) | 人物伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

スウェーデンの24年における軍事装備品の輸出は安全保障懸念強まりから過去最高

 ロシアのウクライナ侵攻を受け安全保障への懸念が高まる中、スウェーデンの軍事装備品の輸出額は2024年、過去最高の
   290億スウェーデン・クローナ(約4200億円)
に達した。
 スウェーデンの戦略製品検査局(ISP)のデータによると、防衛物資の輸出額は2023年から63%増加した。
 ISP
   カール・ヨハン・ビースランデル局長
は10日に発表で「安全保障情勢の悪化が軍事装備品の輸出にどのような影響を与えているかは明らかだ」と述べた。
 輸出の70%強は、防衛や安全保障政策の分野でスウェーデンと協力関係を結んでいる39カ国向けだった。
 ISPによると、最大の輸出先はアラブ首長国連邦(UAE)で、米国とブラジルが続いた。
 対ウクライナでは、スウェーデン政府による供与と、スウェーデン防衛産業の販売の許可件数が2倍に増えた。
 スウェーデン最大の防衛企業サーブは、
   戦闘機「グリペン」
   早期警戒管制機「グローバルアイ」
   潜水艦
などを製造しており、軍事装備に対する世界的な需要の高まりで、大きな恩恵を受けている。
   
  
posted by まねきねこ at 02:00| 愛知 ☔| Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする