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2025年02月19日

トヨタがGMが株を売却した韓国企業を支援

 トヨタ自動車は韓国の
   LGエナジーソリューション
がミシガン州に建設したバッテリー新工場を支援するため、別の工場に出していた
   15億ドル(約2300億円)相当の注文
を移すことに合意した。
 この事情に詳しい関係者が明らかにした。
 この新工場を巡っては、パートナーだった米国の
   ゼネラル・モーターズ(GM)
が昨年12月に10億ドル相当の保有株を売却すると発表し、LGエナジーは新たな顧客を急いで見つける必要に迫られていた。
  
   
posted by まねきねこ at 13:11| 愛知 ☁| Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

日銀保有ETF活用し、高校授業料・給食費無償化財源にするというのは単なる金のバラマキであり、一時的な資金源の確保では愚策そのもの、その次に穴埋めの財源確保で増税につながるだけだ

 日本の国益を破壊し、米国や中国、ロシアなどの利権網を間接的に広げることしかできていない野党政治家の集団である立憲民主党は日本銀行が保有する
   上場投資信託(ETF)
を活用し、分配金を
   次世代支援
に充てるよう求め、単に金を右から左にばら撒く愚策を唱え始めた。
 少子化対策に加え、高校授業料無償化などを想定したものだが、今国会で他の野党と共同での法案提出を目指しているという。

 階猛衆院議員が18日、米国メディアのブルームバーグとのインタビューで語った。
 階氏は、中央銀行が
   リスク資産
を「持っていること自体が異常」と強調したが、そもそも、日銀が経済拡大による日本国民の資産の増加させ安定化させる目的から一時的に市場からリスク資産を吸い上げることもあるため、利益が出れば市場を使って償却し、利益は国庫に入れれば良い。
 さらに含み益を国民に還元せずに「宝の持ち腐れ」となっていることも問題だと指摘したが、逆に、米国債権を保有し莫大な利益がある状況から、これを売却して1000兆円を超える国債発行残高の半減に回し多上、財政健全化が可能となり消費税の引き下げを誘導することが言えないのか、あるいは言わずに、国民の注目を単に集めたいだけにしか見えない。
 米国債を円安を利用して市場で売り抜けるといった手法を取るよう階氏が言えば、すぐに醜聞がマスコミが撒き散らして叩き潰す情報操作が、橋本首相が口走った時に起きていることを鑑みれば同様のことが置きかねないためか、与野党政治家は米国債を売り、円に変えて財政健全化をすることに対してはダンマリだ。

 階氏は立民の「次の内閣」でネクスト財務金融大臣を務めているが口先だけの提案でしかない。

 立民は2024年の通常国会でも「日銀保有ETF活用法案」を衆議院に提出している。
 日銀が保有するすべてのETFを要求されたときのみ現金化する「交付国債」で政府が買い取り、分配金を少子化対策の財源に充てる枠組みだった。
 しかし、同年秋の衆院解散に伴い審議未了で廃案となった。
 少数与党となっている今国会で改めて提出する法案では対象を広げる考えで、学校給食や高校授業料無償化、奨学金制度の拡充などを想定しているというが、金を右から左に分配するのではなく、国民の資産を増やし負担を減らす政策を進めるべきだろう。
  
 日銀が保有するETFは昨年3月末時点で簿価37兆円、時価で74兆円に上るが、保有する米国債の時価を見るべきだろう。
 日銀は昨年3月にはマイナス金利解除、7月には国債購入の減額計画を発表するなど金融政策の正常化が進むが、保有ETF処分の見通しも立っていない。
 日銀が金融危機などの際に金融機関から買い入れた株式の売却完了が近づく中、保有ETFの処分が課題として浮上し、国会でも議論が活発化する可能性があるが、本来であれば、利益は国債の償還に回すべきだろう。
  
 階氏は、今国会では衆院財務金融委員会でも立民の所得税法改正案に対する修正案が審議の俎上にのぼるなど「フェーズが変わった」と自画自賛して成果を誇張するが話にもならない狭い考え方だ。 
 日銀保有のETFを巡って日本維新の会の前原誠司共同代表は、立ち会い外の自社株買いに応募し、奨学金の返済免除に必要な9.4兆円の財源に充てる案を昨年12月に明らかにした。
 一方、国民民主党は公約に子育て支援の財源として「教育国債」の発行を掲げている。
 
 どれもこれも、時期参議院選挙に向けたバラマキ政治そのものでしかない。
  
 階氏は日銀が政府に納める国庫納付金は、決算剰余金として国債償還費や防衛費などに使われていると指摘するが、国民の資産であり党利党略で金をばらまいたり、事業仕分けで国民資産を特定業者にばら撒くような節操のない政治は行うべきではない。
 仮に政府がETFを買い取れば分配金収入を同様の支出に充てた上で、売却益も政府の判断で活用できるようになり、日銀がよりも政府が持つ方が国民に対する恩恵が大きいというが、負担は国民全体で、利益は特定民間企業では話にもならない。
  
 階氏は1991年に東京大学法学部を卒業後、日本長期信用銀行(現SBI新生銀行)に入行した。
 弁護士登録後は社内弁護士として契約法務などに携わった。
 07年の衆院岩手1区の補欠選挙で旧民主党から出馬し初当選した当選7回の代議士だ。
 与党時代は総務大臣政務官などを務めた。
   
   
posted by まねきねこ at 09:00| 愛知 ☁| Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

金価格は年末までに3300ドルに到達し得る

 ゴールドマン・サックス・グループのアナリスト
   リナ・トーマス氏
らのチームではリポートで金価格について、「関税など経済政策に関する不確実性が続けば、投機的ポジション増加で金価格は年末までに3300ドルに到達し得る」とリポートで予想した。

 関税を巡る懸念が高まれば上げ幅をさらに拡大する可能性があると示唆した。
    
    
posted by まねきねこ at 08:19| 愛知 ☁| Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

対ロ制裁も議論するが、2国のみでは解除へのロードマップは描けず

 米ロはまた停戦協議の一環として、ウクライナ侵攻後に導入された対ロ制裁を解除する方針であることを示唆した。
 制裁措置の維持を望む欧州との間で新たな緊張が生じる可能性がある。

 ロシアのラブロフ外相は記者団に対し、米ロが「相互に有益な経済協力の発展を阻む人為的な障壁を取り除くことに大きな関心を抱いている」と発言。経済問題に関して「具体的な解決策を見いだすことをお互いに望んでいる」とした。

 リヤドでの会談後に公表された米国務省の文書では、紛争解決後の「歴史的な経済および投資の機会」を巡って将来的な米ロ協力の可能性が強調されている。

 ルビオ国務長官は、対露制裁解除が議題に上っていることを明確にした。「この紛争の結果としてわれわれが発動した制裁措置がある」とした上で、「いかなる紛争も終結に導くには、すべての当事者による譲歩が必要だ」と述べた。

 ただ、欧州連合(EU)も多数の対ロ制裁を科していることを踏まえ、EUも交渉の場に加わる必要があるとルビオ氏は認めた。

 ロシアに対しては、外貨準備の凍結のほか、銀行や企業、エネルギー輸出に対する制裁が発動されている。
 また、米国の制裁対象となっている政府高官にはラブロフ外相とプーチン大統領も含まれている。  
  
  
posted by まねきねこ at 08:10| 愛知 ☁| Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

米ロともウクライナ抜きでの会談を希望、サウジは単なる場所の提供で終始か?

 サウジの準備状況について知る関係者によると、サウジアラビアの
   ムハンマド皇太子
はゼレンスキー氏の会談出席を望んだが、米ロともウクライナ抜きでの会談を希望していると主張した。
 皇太子は会談における
   サウジの役割
と、ロシア側および米国側とのやり取りをゼレンスキー氏に説明する予定だと、
   取り扱いに注意を要する問題
だとして匿名を要請した関係者が明らかにした。
  
    
posted by まねきねこ at 08:04| 愛知 ☁| Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

NY時間金相場は急伸

 NY時間、NY商品取引市場では金スポット相場がゴールドマン・サックス・グループは金価格について、年末までに1オンス=3100ドルに上昇するの見方を示し、関税を巡る懸念が高まれば上げ幅をさらに拡大する可能性があると示唆したことが市場に伝わり、続伸した。

 投資家はトランプ米大統領の
   相互関税計画
に関するさらなる詳細を待っている。
 これは複雑な取り組みで、数カ月を要する可能性がある。
 同氏の貿易政策は遅延や除外などで混迷を深めており、
   世界経済への影響を巡る懸念
が価値保存手段としての金の妙味を高めている。
 
 ニューヨーク商品取引所の金先物4月限は
   1オンス=2949.00ドル
と前営業日比+48.30ドル(1.7%)上げて引けた。

  
posted by まねきねこ at 08:00| 愛知 ☁| Comment(0) | マーケットの動き | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

NY時間、原油相場は4営業日ぶりに上昇

 ニューヨーク原油相場は石油輸出国機構(OPEC)と非加盟産油国で構成する「OPECプラス」が、4月に予定する
   段階的な供給引き上げ開始の延期
を検討していることが材料視され、4営業日ぶりに上昇に転じた。
 
 ニューヨーク商業取引所(NYMEX)のウェスト・テキサス・インターミディエート(WTI)先物3月限は、
   1バレル=71.85ドル
と前営業日比1.11ドル(1.6%)高で終了した。
 ロンドンICEの北海ブレント4月限は0.8%上げて75.84ドル。

 実際に延期となれば、OPECプラスによる供給拡大計画の先送りは4度目となる。
 これを受けて、年内に供給過剰になるとの懸念が和らいだ。
 
 国際エネルギー機関(IEA)は、日量45万バレルの供給過剰を予想している。
 米国の在庫は3カ月ぶり高水準で推移しており、市場の需給逼迫度合いを測る指標の一つは供給過剰の兆候を発している。

 この日は、米国とロシアが
   ウクライナでの戦争終結
について交渉するチームを指名することで合意するなど、新たな向かい風も吹いてきた。
 和平合意には、2022年のウクライナ侵攻を受けてロシアの石油業界に科された制裁の解除が含まれる可能性がある。
 そうなれば世界市場への供給増加につながりかねない。

 ただ、目先の問題としては、主要輸出パイプラインを経由したカザフスタン産原油フローの混乱で、同地域の供給は抑制される可能性がある。
 これは、ウクライナによるドローン攻撃で、パイプラインからの石油を受け取るロシア南部の施設が「深刻なダメージ」を受け17日に稼働停止になったためだ。

  
posted by まねきねこ at 07:37| 愛知 ☁| Comment(0) | マーケットの動き | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

シムカ(Simca)フランスの自動車メーカー

シムカ(Simca)
 (Société Industrielle de Mécanique et Carrosserie Automobile  機械および自動車ボディ製造会社)
 1934年11月にフィアット社によって設立され、 1935年7月から1963年5月までイタリア人の
   アンリ・ピゴッツィ
によって経営されたフランスの自動車メーカーであった。
 シムカはフィアットの系列会社であったが、シムカが
   フォード
のフランス子会社を買収した後は、
   クライスラー
による支配が強まった。
 シムカは1970年にクライスラーのヨーロッパ事業のブランドとなり、独立企業としての時代を終えた。
 シムカは、クライスラーがヨーロッパ事業を別のフランスの自動車メーカーである
   PSAプジョーシトロエン
に売却した1978年に消滅した。
 PSAは、いくつかのモデルが
   シムカ-タルボット
のバッジを付けていた短い期間の後、シムカブランドをタルボットに置き換えた。

 戦後のほとんどの期間、シムカはフランス最大の自動車メーカーの 1 つであった。
 シムカ 1100 はしばらくの間フランスで最も売れた車である。
 シムカ 1307とシムカ ホライゾンはそれぞれ 1976 年と 1979 年に念願の
   ヨーロッパ カー オブ ザ イヤー
の称号を獲得した。
 これらのモデルは、一部の国では他のブランドの製品としてバッジ エンジニアリングされた。
 たとえば、シムカ 1307 はイギリスでは
   クライスラー アルパイン
として販売され、ホライゾンもクライスラー ブランドで販売された。

 シムカ車はブラジルのサンベルナルド・ド・カンポにある
   シムカ・ド・ブラジル
やスペインのクライスラーの別の子会社
   バレイロス
でも製造されていた。
 クライスラー時代にはオーストラリア、チリ、コロンビア、オランダでも組み立てられていた。
 アルゼンチンでは、シムカは1965年に
   シムカ・アリアン
の生産のためにデ・カルロとしてよく知られている
   メタルメカニカSAIC
と小規模な提携を結んでいた。
 
 アンリ・ピゴッツィは1920年代初頭に自動車業界で活躍し、フィアットの創設者
と出会った。
 2人は1922年に共同事業を開始し、ピゴッツィはスクラップ商として古い自動車の車体を買い取り、リサイクルのためにフィアットに送った。
 2年後、ピゴッツィはフランスにおけるフィアットの総代理店となった。
 1926年にSAFAF(Société Anonyme Française des Automobiles Fiat)が設立された。
 1928年、SAFAFはパリ近郊のシュレーヌでフィアット車の組み立てを開始した。
 一部の部品の製造を地元のサプライヤーにライセンス供与した。
 1934年までに、SAFAFは3万台ものフィアット車を販売した。
  
 SIMCA ( Société Industrielle de Mécanique et de Carrosserie Automobile ) 会社は、1935 年にフィアット SpAによって、フランスの町ナンテールにある旧ドネット工場を買収して設立した。
 最初に生産された車はフィアット 508バリラスとフィアット 518アルディタスだったが、シムカ フィアット 6CV と 11CV のバッジが付いていた。
 1936年には、春に発表されたフィアット トポリーノのバージョンである 3CVシムカ 5が続き、1936年10月からしか販売されなかった。
 その名前は、車の排気量 570 cc の最初の数字を参照している。
 フィアット 508C -1100の 6CV バージョンであるHuitは、1937年後半の 1938 年モデルとして登場したため、その名前が付けられた。
 6CV と 11CV の生産は 1937 年に中止され、5 と 8 は第二次世界大戦の勃発まで生産された。
 それにもかかわらず、同社はフィアットと密接な関係を保ち続け、1938年になってようやく「シムカ・フィアット」の短縮名が「シムカ」に置き換えられた。
 戦後フランスの4大自動車メーカーとして台頭した企業の中で、シムカは工場が深刻な爆撃被害を受けなかったという点で独特であった。
 アンリ・ピゴッツィとアニェッリ家(フィアットを所有)との親密な個人的関係と、フィアットがイタリアの
   ムッソリーニ政権
に強力な政治的影響力を持っていた。
 このため、フランスがイタリアの強力な同盟国ドイツの支配下にあった時代にシムカは比較的有利な待遇を受けていたという説が根強くあった。
 フランスが占領されていたにもかかわらず、シムカ車は戦争中ずっと少量生産され続けた。
 1944年の解放後、4年間のドイツ 占領後にフランス中に広がった非難と新たな始まりの熱狂的な雰囲気の中で、同社のイタリアとの密接な関係は明らかな障害となった。
 しかし、解放後間もなく、シムカがアメリカ軍から大量のジープエンジンの修理の契約を獲得した。
 このことで、ナンテール工場の財政的持続可能性は向上した。
  
 1946年1月3日、新政府の自動車産業5ヵ年計画(親しみを込めてポンス計画と呼ばれた)が発効した。
 政府のシムカに対する計画には、
   デラエ・デラージュ
   ベルナール
   ラフリー
   ユニック
などの中小企業との合併を迫り、
   「ジェネラル・フランセーズ・オートモーティブ」(GFA)
と呼ばれる自動車製造コンビナートを設立することが含まれていた。
 ライン川向こうのフォルクスワーゲン計画に半ば目を向けて、当局はGFAが「AFG」の2ドアバージョンを製造することを決定した。
 AFGは、戦時中に影響力のある自動車技術者、
   ジャン=アルベール・グレゴワール
によって開発された小型ファミリーカーであった。
 グレゴワールの影響力は、説得力のある個性とかなりのエンジニアリングの才能によるものであった。
 フランスの自動車産業の将来について、グレゴワールは強い意見を持っていた。
 そのうちの2つは、前輪駆動と車体の素材としてのアルミニウムを支持していた。
 解放から数週間後、グレゴワールはシムカの取締役会にゼネラル・テクニカル・ディレクターとして加わり、同社のナンテール工場でAFGの生産に備えた。

 断固とした統制主義の左翼フランス政府に直面したシムカにとって、国有化の見通しは現実的なものに思われた。
 (ルノーは1945年初頭に政府によって既に没収され国有化されていた。)シムカの長年の(しかしイタリア生まれの)取締役社長
   アンリ・ピゴッツィ
は、会社内での自身の地位を保つために、彼の相当な狡猾さと魅力を発揮せざるを得なかった。
 そして、結局のところ、ピゴッツィがシムカで生き残ったのは、新しく役員室に加わった同僚
   ジャン=アルベール・グレゴワール
の国会議員への介入のおかげだったようだ。
 その見返りとして、グレゴワールは生き残った取締役社長から、ナンテールでの2ドアAFGの生産に対する個人的な約束を得た。

 2ドアのAFGがどのような外見だったかは、グレゴワールのプロトタイプからほとんど変わらない4ドアの同等品であるパナール ダイナXの生産開始から容易に想像できる。
 エンジニアが設計した車であり、ピゴッツィは醜いと思った。
 経済が回復し、自動車所有に関する政府の規制が緩和され始めたら、スタイルに敏感な自動車購入者がシムカのショールームに現れるだろうと期待された。
 シムカのデザイナーはグレゴワールのプロトタイプの基盤をベースに、より従来型のモダンなボディを各種装着した。
 その最後のものは、不気味なほど短縮されたプジョー 203に似ていた。
 この「シムカ グレゴワール」は、フランスとトリノ(当時シムカを所有していたフィアットの本拠地)周辺での路上テストで満足のいく成績を収め、1946年9月までには生産準備が整ったと判断された。
 しかしピゴッツィはまだ慎重だった。彼は、大衆向けの前輪駆動車の製造に伴う、計り知れないほど複雑な作業にはほとんど興味がなかった。
 1930年代半ばに製造元を破産させたシトロエン・トラクション・アヴァンの経験は、励みにならなかった。
 そのためピゴッツィは、(この時点ではまだ介入主義が強かった)政府に、政府が考え得るよりもはるかに高いレベルの政府補助金を申請した。
 「シムカ・グレゴワール」プロジェクトも、フランス自動車産業を細かく管理しようとする政府自身の熱意も、この頃には勢いを失っていた。
 「シムカ・グレゴワール」をすぐに生産できる見込みがないと感じた技術部長のグレゴワールは、1947年初めに会社を辞職した。

 一方、1946年10月に行われた終戦後初のパリモーターショーでは、シムカのブースにシムカ5とシムカ8の2つのモデルが展示されていたが、この時点では戦前のモデルとほとんど区別がつかなかった。
 1948年には、オーバーヘッドバルブ570ccエンジンを搭載し、最終的にシムカ5に取って代わることになるシムカ6の開発モデルとして、同等のフィアットの導入に先立ってシムカ6が発売された。
 この時期のフランス経済は不安定な状況にあり、政府は自動車メーカーに対し輸出売上を最大化するよう圧力をかけた。
 1947年の最初の8か月間、シムカは生産された自動車の70%を輸出し、シトロエン(輸出92%)、ルノー(輸出90%)、プジョー(輸出87%)、フォード・フランス(輸出83%)に次ぐものとなった。
 輸出を最大化するための闘いにおいて、シムカは主要株主であるイタリアのフィアットと直接競争できないというハンディキャップを負っていた。
 
 1951年に発売されたシムカ・アロンドは、フィアットの設計に基づいていない最初のシムカモデルであった。
 1200ccエンジンを搭載し、生産台数は年間10万台に達した。
 この成功を受けて、シムカは1951年にフランスのトラックメーカーである
   ユニック
   1956年にザウラー
   1954年にフォードSAFのポワシー 工場
を買収しました。
 ポワシー工場には拡張の余地が十分にあったため、シムカはフランスでの生産を1つの工場に統合した。
 1961年に古いナンテール工場を売却することができた。

 1950年代はシムカにとって成長の10年であり、1959年までにナンテール工場とポワシー工場の合計生産台数は22万5000台を超えた。
 生産台数ではフランスの自動車メーカーの中で第2位となり、プジョーやシトロエンを上回った。
 しかし、それでも市場リーダーのルノーには遠く及ばなかった。
 フォードの買収により、V8 エンジン搭載のフォード ヴェデットシリーズもシムカのラインナップに加わった。
 このモデルはフランスでは 1962 年まで、ブラジルでは 1967 年まで生産が続けられた。
 徐々にアップグレードされたが、シムカのバッジの下にさまざまな名前が付けられていた。
 アロンド エンジン搭載バージョンも 1957 年に製造され、アリアンと呼ばれた。
 これは経済的で車体が大きいため、タクシーとして人気があった。
 1958年、シムカはフランスのタルボ・ラゴ製造会社を買収しました。

 シムカ工場は、1956年の就任前にジュセリーノ・クビチェックの訪問を受けた。
 これは、家族がそこで働いていたブラジルの将軍の企画によるものだった。
 彼は冗談で、シムカに故郷のミナスジェライス州に工場を建設しないかと誘った。
 シムカはそれを実行し、この趣旨の意向書を送った。
 その間に、ブラジルは自動車産業執行グループ [ pt ] (GEIA)を結成した。
 ブラジルに工場を設立したいと望むすべてのメーカーに一連の要件を確立していた。
 シムカは、クビチェックとの提案と取り決めはこれらの規則より前のものであると主張し、例外を求めてロビー活動を行った。
 シムカはミナスでも直接ロビー活動を行ったが、最終的には独自の提案を提示せざるを得なくなり、いくつかの条件付きでそれが受け入れられた。
 GEIA規則の可決が遅れたため、サンパウロに最初の工場を設立したシムカは外貨を調達できず、結果として深刻な部品不足に見舞われた。
 シムカはすぐに品質の悪さの評判を築き、それを払拭することはできなかった。

 シムカ・ド・ブラジルはもともとブラジル人が50%所有していた。
 1966年にクライスラーがシムカ・フランスを買収した後、ブラジル部門の経営権も取得した。
 シムカはブラジルで活動していた間ずっとサンパウロに拠点を置き、当初約束されていたミナスに移転することはなかった。
 同社の製品ラインは、1959年3月にブラジルで生産が開始された2.4リッターV8エンジンのシムカ・ヴェデットを中心に構築された。
 シムカのバッジが1969年にブラジルで廃止されるまで、この車は様々な名前と多くの異なるボディスタイルで製造された。
 後のモデルは完全に再設計され、シムカ・エスプラナーダとして販売された。
 
 シムカ・フルガーは、1958年にロバート・オプロンがシムカのために設計した。
 1959年のジュネーブ・オートショーで初めて公開されたコンセプトカーである。
 また、ニューヨーク・オートショー、1961年のシカゴ・オートショーでも公開された。
 このコンセプトカーは、2000年の自動車がどのようなものになるかを示すことを目的としていた。
 原子力で動き、音声制御され、レーダーで誘導され、時速150キロ以上で走行する際にはジャイロスコープでバランスをとった2つの車輪のみを使用する予定だった。
 フルガーはラテン語で閃光や稲妻を意味する。
 
 1958年、ヨーロッパの自動車市場への参入を望んだアメリカの自動車メーカー、クライスラーはフォードからシムカの15%を買収した。
 ただ、ヘンリー・フォード2世は後にこの取引を公に後悔したと報じられている。
 しかし、この段階では依然としてフィアット SpAが主要株主であり、 1961年と1963年にそれぞれ導入された1000と1300モデルなど、その時期のシムカのエンジニアリングとデザインにその影響が明らかである。
 しかし、1963年にクライスラーはフィアットから株式を購入して持ち株を64%に増やした。
 その後、持ち株比率をさらに77%にまで拡大した。
 1971年になってもフィアットは19%の持ち株を維持していたが、この頃にはビジネスで積極的な役割を果たさなくなっていた。

 また、1964年にクライスラーは英国のメーカーであるルーツを買収し、クライスラー・ヨーロッパの基礎を築きました。
 1967年以降に製造されたすべてのシムカモデルには、シムカのバッジだけでなくクライスラーのペンタスターのロゴが付いていました。
 1961年、シムカはポワシーの元フォードSAF工場ですべてのモデルの製造を開始し、ナンテールの工場を
   シトロエン
に売却した。
 リアエンジンのシムカ1000は1961年に発表され、そのスポーツモデルであるシムカアバルトは1963年に発売された。
 1000は、ジョルジェット・ジウジアーロによるベルトーネデザインのボディと4輪ディスクブレーキを備えたスポーツクーペである1000クーペのプラットフォームとしても機能しました。
 1963年にデビューし、カーマガジンで「世界で最もすっきりとした小型クーペ」と評された。
 1967年には、よりパワフルな1200Sベルトーネクーペが登場し、1970年に馬力のアップグレードが行われ、時速112マイル(180 km / h)という驚異的な速度に達することができ、これまで製造された標準量産シムカの中で最速となった。
 1967年には、前輪駆動と全輪独立懸架を備えたはるかに最新の車である1100が登場し、1979年まで生産が続いた。
 1970年7月1日、社名が正式にクライスラーフランスに変更された。

 クライスラーは1963年にシムカの株式を77%に増やし、1964年半ばまでに
   ルーツグループ
の支配権を握り、1966年に設立された新しいシムカ・ルーツ部門を通じて、シムカ1204を含む多数のシムカとルーツモデルを米国で販売していた。
 850のディーラーが4つのシムカモデルを販売し、400のディーラーが4つのルーツモデルを販売した。
 結果は惨憺たるもので、 1969年後半にクライスラーは、今後はクライスラー・プリマス部門からルーツとシムカ製品を販売すると発表した。
 シムカ1204は1971年まで米国に輸入され、プリマスのディーラーで別の独占輸入車であるプリマス・クリケットと並んで販売された。
 
 クライスラー以前のシムカで最も成功したモデルは、アロンド、シムカ 1000、フロントエンジンの1100コンパクトでした。
 1970 年代のクライスラー時代に、シムカは新しいクライスラー 160/180/2 リッターサルーン、1307シリーズ (英国ではクライスラー アルパイン)、後にホライゾン(米国ではダッジ オムニおよびプリマス ホライゾン) を生産しました。
 1307 とホライゾンは、発売時に両方ともヨーロッパ カー オブ ザ イヤーに選ばれました。
 しかし、クライスラーによるシムカとルーツの無理やりな結婚は幸せなものではなかった。
 クライスラー ヨーロッパは 1977 年に破綻し、翌年、名目価格 1 ドルと未払いの負債の引き受けで、残余はプジョー SAに売却された。
 車はフランスではまずまず売れましたが、英国では主要なライバルである
   フォード
   ブリティッシュ レイランド
   ボクスホール
に販売数で負けました。
 最後に残ったシムカとルーツのモデルは 1981 年末までに生産中止となり、シムカをベースにしたアルパインとホライゾンは、10 年以内に乗用車から姿を消していたタルボットのバッジを復活させて 1980 年代前半まで存続しました。
 一方、プジョーは自社ブランドを拡大し、旧シムカ工場とルーツ工場を自社車両の生産に利用した。
 なお、タルボットブランドは1990年代まで商用車で存続した。
 
 プジョーは最終的にタルボットブランドを放棄し、最後のシムカ設計はプジョー 309として発売された(当初計画されていたタルボット アリゾナの代わりに)。
 プジョー 309 は 1991 年 10 月 (生産終了の約 18 か月前) までシムカエンジンを使用していた。
 なお、その後 PSA 独自の TU および XU シリーズのエンジンに置き換えられた。
 309 は、英国ライトン オン ダンズモアの旧ルーツ工場とポワシー工場で生産さた。
 シムカはブラジル、コロンビア、スペイン、フィンランドでも製造された。
 最後に生産されたシムカベースの車はホライゾンベースのダッジ・オムニで、1990年まで米国で製造されていた。
 ヨーロッパの同等車種は、乗用車でのタルボットの名称の使用が最終的に中止された3年前にすでに廃止されていた。
   



posted by まねきねこ at 06:00| 愛知 ☀| Comment(0) | よもやまばなし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする