シャウル・ネヘミア・アイゼンベルク
(Shaul Nehemia Eisenberg)
1921年9月22日 - 1997年3月27日
ショール・アイゼンバーグは旧ハザール王国領に隣接していたウクライナ北西部とポーランド南東部にまたがる地域のうちポーランド出身の敬虔なユダヤ人家庭で生まれた。
クラクフ出身の母親
ゾフィー(旧姓カッツ)
とワルシャワ出身の父親
デイヴィッド・アイゼンバーグ
を両親に、6人兄弟の5番目に生まれた。
一家は19世紀末にドイツに移住し、その後、ミュンヘンに転居した時にでショールが生れた。
ドイツ帝国が大地次世界大戦の敗北で混乱した後、崩壊しワイマール政権に移行した時代、ソ連共産党の指導を受けた
ドイツ共産党(KPD)
が作られ、党員の多くが、ロシアからの移民などのユダヤ人で構成されていた。
KPDの党員はモスクワの支配下にあった地下組織の
共産主義インターナショナル(コミンテルン)
に参加して、ドイツ国内などでテロやデモ、暴動を引き起こすなど武装闘争を組織的に行い社会不安を煽っていた。
こうした社会不安が広がる中
に社会の秩序維持をさせる目的からハンブルグなどの金融資本を牛耳っていたユダヤ資本家から多額の資金が提供された。
この資金を利用して突撃隊が組織されて社会秩序を武力で解決していく手法が取られ、ドイツ国民の支持を受けることとなった。
選挙で政権を確保し、ナチス政権時代になると治安の安定を優先していく過程で暴動や殺戮を繰り返していたKPDを組織を中心に弾圧を加えていくなかで、東欧出身のユダヤ人に対する弾圧が強まった。
ショール一家にも難が降りかかってきたため、1938年から39年にかけて偽旅券を手に入れて、中立国であるスイスにアルプス越えて逃れた。
ただ、貧しい労働者階級のユダヤ人一家がナチス政権が権力を握って体制が強化されていた38年にドイツから逃げ出せたのかは不明。
当時、ソ連中枢のスパイ機関(NKVD)とソ連軍情報部(GRU)第四局では
幹部諜報部員
をヨーロッパから徴募するという方針があった。
モスクワと関係のある家族が特に目をつけられ、多くの場合は、諜報員が単に個々人の機知や賢明さといった恣意的な判断に基づいてヨーロッパから連れ出していたと言われている。
ショール一家はスイスから西ヨーロッパに移動し1940年の終りにはオランダに逃れたが経緯は不明。
第二次世界大戦に入ると、オランダから中国の上海に逃れた。
当時の上海は日本や西欧の植民地でもある租界地が広がり、ロシア帝国の亡命貴族やユダヤ人亡命者の世界最大の共同体が存在し、東洋の金融の中心地となっていた。
また、上海では、日本軍の動きを探るための情報機関のために働いていた工作員や情報提供者、スパイたちの巣窟だった。
亡命ユダヤ人の多くは、ソ連の情報組織のメンバーだった。
ただ、その中には二重スパイとして西側の英国や米国のために活動した者も多数いた。
日本軍の特務機関はユダヤ人組織からの情報を確保するため、情報や資金をユダヤ人に提供して取り込む工作を行っていた。
ソ連が上海で行った極めて重要なスパイ工作としては、米国人女性の
アグネス・スメドレー
を使ったものが知られている。
裕福なアメリカの上層階級出身のスメドレーを操っていたのがかのソ連スパイ
リヒャルト・ゾルゲ
だった。
当初、ゾルゲはコミンテルンのために働いていた。その後にGRU第四局に移り日本軍のソ連軍がドイツ戦線に集中できるように政策をコントロールするために画策をした。
1920年代から1930年代にかけ、上海のソ連情報組織が強化された。
共産主義者は様々な政治工作を仕掛け、クレムリンは、中国や満州地域における日本軍の作戦に関する詳細な情報を入手することができたという。
日本による
真珠湾攻撃
に関する情報も事前に入手していたという。
リヒャルト・ゾルゲが東京の在日ドイツ大使館におけるソビエト・スパイの責任者となった。
このときに、彼が日本に移ったことは極めて深い興味をそそる事実である。
ゾルゲは、日本に入り込むために、それまでの8年間を自らの偽装のために費やし、日本国内での活動のために人脈を作り、要員を徴募し、訓練を行っていた。その人脈の中にショール・アイゼンベルグも含まれていたと思われる。
1940年に来日したショールは東京で上海から持ってきたカーペットを売って生計を立てようとした。
路上でカーペットを売っているとき、
ハーマン・フロイデルスペルガー
というオーストリア生まれの男性から声をかけられた。
フロイデルスペルガーはウィーンなどで美術を学んだ後にインドを経て日本に来ていた。
日本では裕福な実業家の肖像画家として活動してたが、オーストリアがナチスドイツに占領されたため、祖国に戻ることが出来なかった。
2・26事件で暗殺された
高橋是清元首相
の肖像画を描いた事でも知られており、現在は日本銀行の地下室に保管されている。
東京で出会った二人の外国人は共にドイツ語を話した。
フロイデルスペルガーはアイゼンバーグを自宅に招き自分の子どものように扱った。
フロイデルスペルガー自身は20年間日本に住み、後に新日本製鐵会長となる人物の姪で茨城県出身の日本人女性と結婚していた。
両親の反対にもかかわらず彼と結婚し、東京・麻布に住んでいた。
ノブコという女の子とアリトモという男の子を育て、家では日本語だけを話した。
後に、娘のノブコはアイゼンバーグと結婚したことでアイゼンバーグは日本国籍を有した。
東京滞在中にアイゼンバーグはオーストリア人画家の娘で日本人とのハーフである
ノブコ・レア・フロイトスペルガー
と出会い結婚し、5人の娘と1人の息子をもうけた。
戦後、アイゼンバーグは日本の製鉄業界と進駐軍双方に持っていたコネを通じて、豪やフィリピンから鉄鉱石を買付け、鉄鋼及びくず鉄を含む
戦争の余剰原材料
を八幡製鉄などに売って戦後復興の鉄鉱石生産の拡大を支援して莫大な利益を確保した。
その後、日本財界による戦後初の訪米を計画し
日本の製鉄業界
を代表して、アメリカ政府と交渉し、帰国後、進駐軍向けに台所、浴槽などの家庭用品をつくる工場を三つ建設したと言われている。
アイゼンバーグは第二次世界大戦中、彼は枢軸国の工場で働き、戦争が終わると米国の企業と協力し、日本の鉄鋼業界向けに鉄製品を輸入すると同時に、インドにさまざまな日本製製品を輸出した。
1950年代初頭、アイゼンバーグは極東の他の国々、特に韓国に事業を拡大した。
現地当局と同じくそこで事業を展開していた東側の製造業者との仲介役を務めながら。
ブリティッシュ・エレクトリック
シーメンス
MAN SE
フィアット・オートモービルズ
などへの投資を行った。
また、韓国において日韓併合時代の朝鮮半島に投資した日本企業の設備や不動産などの投資資産を使って、10年以内に、再生紙の生産ラインの開発や飛行機や電車の購入など、多種多様なプロジェクトの仲介を成し遂げた。
その功績により、彼は韓国政府から賞を受けた。
アイゼンバーグはユダヤ系ウクライナ人の友人である
ミハエル(ミーシャ)・コーガン
と共に東京のユダヤ人コミュニティーの主要なスポンサーにもなった。
アイゼンバーグがそうであったように、コーガンはロシア革命から逃れるために中国のハルビンへ渡り、そして日本へとたどり着いた難民である。
戦後は日本で貿易会社を設立し、自動販売機やジュークボックス、パチンコ等の機械を輸入販売することで財を成した。
この会社は後に、ゲーム開発で有名な「株式会社タイトー」となり日本を代表するアミューズメント企業として成長した。
アイゼンバーグは、渋谷区広尾に今でも存在するユダヤ人コミュニティー建設のために資金提供した。
また、横浜の外国人墓地にはユダヤ人区画を作るための土地も購入した。
1960年代半ばまで、アイゼンバーグは韓国と日本から西側諸国への貿易において主役であり政商として暗躍した。
韓国のサムソンの初期投資家でもある。
アイゼンバーグはイスラエルで
イスラエル・コーポレーション
を設立し、同社が30年間の減税を受けることを認める新しい法律が制定された。
アイゼンバーグにちなんで名付けられたこの法律は、起業家を奨励するためのものであった。
これらの恩恵を受けると、アイゼンバーグは国際的な行動を真似てイスラエルでも行動し始め、イスラエルのサヴィオンに定住した。
彼はイスラエル・コーポレーションで、
ジム・インテグレーテッド・シッピング・サービス
オイル・リファイナリーズ
などの企業の株式を買い漁った。
同時に彼は自身のコネを利用して極東の日韓とイスラエルの間で軍事取引を行った。
また、イスラエルからアフリカや南米諸国への武器輸出業者として独占的な利権を確保した。
後に彼はイスラエルと中国の間で商業取引を行った最初の人物となった。
アイゼンバーグは政党への多額の寄付者であり、イスラエルの政治に影響を与えた。
パキスタンに原子力発電所を建設するという秘密プロジェクトに関しては、イスラム世界の
原爆開発をタブー化とするメッセージ
を世界に送るための策略として実行された。
ただ、実際にはアイゼンバーグとカナダのブロンフマンに代わって、エジプト人とレバノン人がパキスタンと取引きを行ったといわれている。
パキスタンに原発を売ったことにより
パキスタンが原爆を開発しつつある
とアメリカとイスラエルが攻撃のキャンペーンを張った。
1970年代秘密裏にイスラエルの軍備及び武器を中国に輸出し、カンボジアの
クメール・ルージュ
に対して武器を供給し始めたころ、アイゼンバーグはイスラエルに巨大な持株会社
アイゼンバーグ社
を設立した。
中国軍のビジネス・パートナーであるアイゼンバーグはまたクメール・ルージュ指導者ポル・ポトに対する初期の武器供給者だったといわれている。
なお、アイゼンバーグは当時世界で三番目に大きいイスラエルの海運会社
ジム海運(企業情報)
の株49%を所有しており、容易に武器等を運搬することが出来た。
アイゼンバーグは
モシェ・ダヤン外相(イスラエル)
が1977年に訪中、中国政府を貿易面で援助することとなり、15件の大プロジェクトを制約することが出来た。
小火器類やハイテク武器の開発製造では、中国政府と合弁契約を結び、1979年
アジア・ハウス
という商社を設立、中国人と組んで、アラブ諸国に中距離ミサイル技術を売った。
1979年、アイゼンバーグはテルアビブに「ベイト・アジア」を設立した。
そこに株式市場へに投資グループの本部を置き、アイゼンバーグ・グループを所有した。
娘の夫である
ジョナサン・ゾホフスキー
と、グループのマネージャーであった
マイケル・アルビン
が彼を支援した。
1983年のイスラエル株式市場の暴落後、グループは大きな損失を被った。
後に警察は会社が株主から情報を隠していたことを発見した。
アルビンは後に悲劇的な状況で亡くなり、アイゼンバーグは娘とその夫との関係を断ち切った。
パナマのノリエガ将軍は、1980年代ニカラグアの反政府ゲリラ組織・コントラへの支援を米国の情報機関のCIA(米軍占領時代のGHQ)とイスラエルのモサドから求められた。
イスラエルの情報部工作員
マイク・ハラリ
らにより、コントラへの資金援助を行うため麻薬を扱うアイゼンバーグの組織が用いられた。
レーガン政権時代の1985年イラン・コントラ事件が浮上した際、名前の出た
イスラエル・エアクラフト・インダストリーズ
の創始者
アル・シュイマー
とアイゼンバーグはビジネス上のパートナーだったといわれている。
モサドの活動の指揮を執っていた
ジェイコブ・ニミロッド
シュイマー
がイランのコネクションを、実行部隊の
オリバー・ノース
リチャード・シコード
セオドア・シャックリー
に情報を提供した。
なお、1986年にはフィリピンで、アイゼンバーグの組織は米CIA、フィリピン債務の引受人
アメリカン・インターナショナル・グループ(AIG)
と組んで、マルコス政権を転覆させたともいわれているが事実かどうかはよく判らない。
1990年代には、極東の他の市場への関与やその他の要因により、彼のビジネス活動は鈍化し始めた。
ベトナム戦争でサイゴン陥落の際、韓国の外交官たちは
フリークエント・ウィンド作戦
の一環として南ベトナムからの逃亡を試みたが南ベトナム駐在韓国大使館公使で韓国情報局の武官
李大鎔
と2人の韓国外交官(アン・ヒワンとソ・ビョンホ)が逃亡に失敗しベトナム人民軍に逮捕され、 1975年10月に
チホア刑務所
で尋問を受けていたが、アイゼンバーグが韓国に逃がすための秘密特使として活動した。
アイゼンバーグはアイゼンバーグ法が失効する2年前の1997年に北京で亡くなった。
彼の死後、家族は約10億ドルとされる遺産をめぐって争い、最終的に息子が家業を引き継いだ。
アイゼンバーグの弟でハシディズムの学者だった
ラファエル
は1976年に12人の子供を残して亡くなった。
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