当ブログ内の情報はあくまでも参考情報です。投資にあたっての判断は投資する人の自己責任でお願いします。
当ブログでは、一切の責任を負いませんでご了承下さい。

マーケット出来事貴金属とレアメタル宝石と宝飾品貴金属の取引方法貴金属取扱会社

2024年12月24日

中国が第5世代ステルス戦闘機「殲35」をパキスタンに40機初輸出

 中国が第5世代ステルス戦闘機
   「殲35」(J35)40機
をパキスタンに輸出することが分かった。
 香港紙サウスチャイナ・モーニング・ポスト(SCMP)が22日、パキスタンのニュースチャンネル「24ニュースHD」の内容を引用し「パキスタン空軍(PAF)が先週、中国からJ35を40機購入することを承認し、2年以内に引き渡しを受ける予定だ」と報じた。

 パキスタンはこれまで、老朽化した
   米国の戦闘機F16
   フランスの戦闘機ミラージュ
を運用していたが、中国のJ35はこれらに代わるものとなる。

 中国が第5世代のステルス戦闘機を輸出するのは今回が初めての動きとなる。
 SCMPからのパキスタンが中国からJ35を購入することを決めたという報道は、
   中国のステルス戦闘機
が国際市場で販売する準備ができており、潜在的に(中国)人民解放軍のための
   高級兵器開発に資金
を確保し投入支援できるというシグナルでもある。
 また、今回の契約はパキスタンのライバルであるインドとの関係という意味では、地域のパワーバランスを変化させる可能性がある。

 米空軍の中国航空宇宙研究所で所長を務める
   ブレンドン・マルベイニー氏
は「J35戦闘機が引き渡されれば、パキスタン空軍の戦力はいっそう強化されるとみられる。パキスタン空軍は2年前も中国のJ10CE多目的戦闘機を数機導入している」と指摘した上で「このような発展は、パキスタンが西側や米国、フランスから中国寄りに転換したことを明確に示している」と分析した。
 さらに「今回の措置によってパキスタンは中国とより緊密につながり、空軍はインド空軍(IAF)より先を行くことになるだろう」との見方を示した。
 ただし中国の戦闘機の飛行性能がどれだけ優れ、どれだけ戦えるかというのは別の問題でもある。
 そもそも、戦闘機の性能については中国が
   「適切な武器と支援システム」
をどのように提供するかによって変わるものであり「戦闘機は素晴らしいかもしれないが、武器、センサー、セット、指揮、統制、コンピューター情報、監視、偵察技術(C4ISR)がなければ意味がない」と指摘した。


ひとこと
 日本のシーレーンへの脅威となる可能性がある。
 そもそも、パキスタンがJ35戦闘機40機の代金を支払えるのかどうかだ。
 代金のかわりにパキスタンに中国の艦船を停泊・修理等する港湾設備を設けたり、空軍施設を設置するといった契約が締結される可能性もあるだろう。

    
posted by まねきねこ at 22:37| 愛知 ☀| Comment(0) | よもやまばなし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ロシア軍の砲弾6割が北朝鮮製 弾道弾は3分の1と米紙

 ウォールストリート・ジャーナル(米紙)は23日、ウクライナ軍当局者の話として、ロシア軍がウクライナ侵攻に使用している
   砲弾の6割が北朝鮮製
になったと報じた。
 また、ロシアがウクライナに撃ち込む弾道ミサイルも3分の1近くが北朝鮮製だという。
 当局者は「北朝鮮の弾薬がロシアを支えている」と述べ、
   ロ朝軍事協力の深化
を指摘した。
 同紙によると、北朝鮮からこれまでにコンテナ2万個分の武器や弾薬がロシアに送られた。
 ウクライナ当局者は、500万発を上回る砲弾や「火星11」系列の
   新型弾道ミサイル100発以上
が含まれると指摘した。
  

ひとこと
 性能レベルの問題もあり、誘爆や不発などが起きているが、ロシアの工業生産力で不足した火器弾薬類が埋めれない状況では兵站線自体が脆弱ということで、戦闘遂行能力が突然途切れる可能性も出てくるだろう。
 鉄道や船舶を使った搬送だが、冬期の運搬にはリスクがあり線路等の攻撃で遮断することも可能だろう。
   
    
posted by まねきねこ at 22:08| 愛知 ☀| Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

バングラデシュ暫定政権 がインドに前首相の身柄引き渡しを要請

 バングラデシュの暫定政権は
   学生による激しい抗議デモ
を受けて退陣した
   ハシナ前首相
が逃亡しているインドに対して身柄の引き渡しを要請した。
 ただ、両国の間では、バングラデシュで少数派の
   ヒンドゥー教徒の安全確保
などをめぐって対立が続いており、インド側が引き渡しに応じるかは不透明な情勢にある。

 バングラデシュでは、ことし7月から8月にかけて学生による激しい抗議デモが全国に拡大した。
 退陣に追い込まれたハシナ前首相は緊密な関係にあったインドに国外逃亡した。
 これについて、バングラデシュの暫定政権の外交顧問は23日、地元メディアに対し、ハシナ氏の身柄の引き渡しをインド政府に要請したと明らかにした。

 バングラデシュの裁判所は、ハシナ氏がデモ隊を武力で弾圧し、多数の死傷者を出したとして、
   「人道に対する罪」の疑い
で逮捕状を出しており、暫定政権としてはハシナ氏の刑事責任を追及したい考えが背景にある。

 インドでは、政変のあと、バングラデシュで少数派のヒンドゥー教徒が迫害されているとして批判の声が高まっている。
 これに対し、バングラデシュ側は事実に反すると反発したため、両国の間で対立が続いている。
 両国は犯罪人引き渡し条約を締結していますが、政治的な罪に関する場合は身柄の引き渡しを拒否することもでき、インド政府が要請に応じるかは不透明な情勢にある。

    
posted by まねきねこ at 19:40| 愛知 ☀| Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

へッジファンド引き寄せるドバイとアブダビ、中国の投資会社も海外に注目

 アラブ首長国連邦(UAE)の首都アブダビでは、英国のブレバン・ハワード・アセット・マネジメントマーシャル・ウェイスなどが進出するなどへッジファンドの急成長拠点としての地位を確立している。
 そこに今、経済が崩壊寸前の中国経済への投資資金のショート回避の投資先確保としてアジアからの投資の波が加わろうとしている。

 この事情に詳しい複数の関係者によると、香港の投資会社
   ヒルハウス・インベストメント・マネジメント
や中国の
   CPE(旧CITICプライベート・エ クイティ
は、アブダビにオフィスを構えることで初期段階の話し合いを行っている段階にあるという。
 アブダビの金融センターである
   アブダビ・グローバル・マーケット(ADGM)
の担当者からは、中国のプライベートエクイティー(PE、未公開株)企業2社が近く同地に拠点を構えることを期待しているとの話も聞かれる。

 こうした動きは、欧米勢に続いてアジアの投資会社もUAEへの関心を強めていることを示す。
 UAEには豊富な資金を持つ政府系ファンドがあり、非課税であることやアジアや欧州の時間帯をまたいで取引できるなどの魅力があり、アブダビやドバイはロンドンや香港などと肩を並べる金融ハブになりつつある。

 ドバイの金融規制当局とヘッジファンド業界団体の
   オルタナティブ投資運用協会(AIMA)
は最近、ドバイへの誘致を目的とした会合を共催して中国の資産運用会社の幹部を招いた。
 ドバイにはミレニアム・マネジメントなど世界最大級のヘッジファンドの一部も進出しており、同地で働くヘッジファンド業界の従業員数は1000人を超えている。

 ドバイ国際金融センター(DIFC)は「2024年を通じて中国企業からの関心が急増した」と発表文で説明している。
 過去数カ月ではダイモン・アジア・キャピタルを含む少なくとも2社が同地に拠点を構えた。

 中国とUAEは緊密な関係にあり、2020年以降は中国がUAEにとって最大の貿易相手国となっている。
 UAEへの進出を目指すアジア企業は、ドバイやアブダビがインドなど近隣市場への玄関口となることも期待している。

   
 
posted by まねきねこ at 19:00| 愛知 ☀| Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

5年目の中国不動産危機が最悪期脱していない恐れが高くストレス兆候が再び広がっている

 中国を代表するデベロッパーの1社が現在、
   債務不履行リスク
を理由に当局の監視下に置かれているといった情報が市場に流れている。
 また、香港の大手建設業者は、融資の延長を金融機関に求めているが、他にも、閑散とした北京の主要ショッピングモールを売却しようとしている業者もいるといった話も広がっている。

 中国の不動産債務危機は5年目に入っている。
 中国中央政府の政策や中国人民銀行の市場への資金の投入を増加させても、経済縮小の流れが止まらず、住宅販売の低迷が続いている中、経営難に陥ったデベロッパーの債務返済が容易になっている兆しはほとんど見られない。
 デベロッパーのドル建て社債は依然として深刻な経営難の水準で取引されており、債務発行はほぼ枯渇し、この業界は株式市場でも著しく出遅れている。
  
 ここ数週間で再び警鐘も鳴らされていr。
 銀行規制当局が大手保険会社に対し、中国第4位の売上高を誇るデベロッパーである
   万科企業
への財務エクスポージャーを報告し、同社がデフォルトを回避するためにどの程度の支援が必要かを評価するよう指示した。
 香港では新世界発展が、一部の相対融資の返済期限延長について銀行と協議していることがわかり、北京では
   パークビュー・グループ
が有名な商業複合施設を売りに出した。
  
 最近のストレスの兆候は中国の住宅部門にとって、最悪の事態はまだ終わっていないのではないかとの懸念を強めている。
 同部門は中国共産党政府による不動産開発で莫大な利益を生み出す打ち出の小槌としての機能が効果的に使われ、かつては強力な成長エンジンとして経済を拡大させてきた。
 しかし、今では家具から自動車まであらゆる商品の需要を大きく押し下げる要因となっている。

 特に万科の苦境は憂慮されており、これまでデフォルトを回避してきた数少ない大手建設業者の1社が、
   流動性危機
に苦しんでいることを示している。
 一方、香港の同業他社が直面している問題は、国外への感染が広がっていることを意味している。
   
 
ひとこと
 習近平政権が国家の安定を脅かすものとして公安部門の監視を強化して言論を封殺している中国ネットでも不都合な真実などの噂話等中国国民の口を塞いで聞こえなくする措置などは不可能というものだ。
 
    
posted by まねきねこ at 18:00| 愛知 ☀| Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ライアットゲームズの人気アニメ「アーケイン」は商業的には...

 中国のテンセント・ホールディングス(騰訊)傘下の米国のビデオゲームメーカー
   ライアットゲームズ
が人気オンライン対戦ゲーム「リーグ・オブ・レジェンド」を原作とするテレビアニメ「アーケイン」の製作を最初に決定した際、このプロジェクトの
   開発と資金調達
を自社で賄うという異例の手段を取った。
  
 通常、競合他社の大半ではテレビ番組の製作経験があるハリウッドのスタジオにタイトルのライセンスを供与する一方で、ライアットは自社で完全にコントロールを維持したいとの思惑があったためだ。

 ネットフリックス配信の同アニメは、ファンへの贈り物であり、「リーグ・オブ・レジェンド」の
   プレーヤーを増やすための手段
でもあると考えられていた。
 配信開始から15年を迎えた同ゲームは、今でも世界で最も人気のあるタイトルの一つだが、プレーヤー人口は徐々に減少している。

 ライアットはこのテレビアニメについて、新設のエンターテインメント部門が製作する数多くの番組の第一弾であり、同社を次の
   ウォルト・ディズニー
へと変貌させる可能性があると考えていた。

 ただ、「アーケイン」のプロジェクトは予算を大幅に上回ってしまった。
 ライアットは、製作費に加え、番組のマーケティングや賞の獲得キャンペーンに多額の資金を投じた。「リーグ・オブ・レジェンド」のエグゼクティブプロデューサー
   ポール・ベレザ氏
はブルームバーグとのインタビューで、同社がこのアニメの2シーズンに費やした総費用は約2億5000万ドル(約390億円)だと明らかにした。

 米誌バラエティーの報道によれば、ネットフリックスはライアットに同アニメの放映権料として1エピソード当たり約300万ドルを支払った。
 このほか、テンセントは中国での放映権料として300万ドルを支払ったという。
 ただ、これらの支払いだけでは総費用の半分足らずにしかならない。

 また、ライアットにはこのアニメの立ち上げ前に同番組の費用を回収する確固たる計画はなかったと 「アーケイン」の製作に詳しい関係者が語っているという。
 
 同社の広報担当者は、番組自体は利益を生まなかったものの、他の面で事業に貢献したと話している。
 「社内の指標を総合的に見ると、アーケインは成功だった」とした上で、第2シーズンは「少なくとも財務的には損益分岐点に達する見込みだ」と述べた。

 ライアットでは1月、全従業員の約11%をレイオフし、ゲームを再び事業の中核に据える方針を示していた。
 同社は「アーケイン」をシーズン2で終了するほか、他の作品の製作を中断し、ハリウッド進出という野心的な目標を後退させた。
  
 ビデオゲームメーカー各社は何十年もの間、最大のヒット作を映画化してきたが、当初は好ましい結果は得られなかった。
 任天堂は、1993年にハリウッドで製作された実写版「スーパーマリオ」が批評家から酷評され、次回作にゴーサインが出るまで30年を要した。

 ただ、ここ数年では映画化作品は観客や批評家の支持を集め始めている。
 ユニバーサル・ピクチャーズが昨年配給した映画「ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー」は興行収入が約14億ドルに上った。

 「アーケイン」のシーズン1は、批評家から高い評価を受け、22年のエミー賞で四つの賞を獲得した。
 同作品は数十カ国でネットフリックスの視聴ランキング首位となったが、ライアットの従業員や業界アナリストへのインタビューからは、このアニメ作品がライアットにとって商業的に失敗だったと見られているようだ。
 同社はこの作品の開発とマーケティングに多額の自己資金を投じたため、番組製作から利益を得られなかった。
 この作品は多くの新規プレーヤー獲得にも、既存のプレーヤーによる「リーグ・オブ・レジェンド」への課金増加にもつながらなかった。
   
   
posted by まねきねこ at 17:38| 愛知 ☀| Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

BNPパリバがアクサの資産運用部門を51億ユーロで買収するとの最終合意

 フランスの銀行BNPパリバは、アクサの資産運用部門を51億ユーロ(約8300億円)で買収することで最終合意した。
 ジャンローラン・ボナフェ氏の最高経営責任者(CEO)就任以降で最大の買収案件となる。

 両社は独占交渉に入ったと8月に発表した段階で、買収額と取引の概要について合意していた。BNPパリバは21日の発表資料で、買収手続きが来年半ばまでに完了する見通しを示したほか、同行の中核的自己資本(CET1)比率に25ベーシスポイント(bp、1bp=0.01%)の影響があるだろうと指摘し、これまでのガイダンスを確認した。

 今回の取引によって、運用資産約1兆5000億ユーロを擁する欧州最大級の資産運用会社が誕生する。
 資産の大半はプライベートクレジットやインフラ、不動産など、人気があり通常は収益性の高い分野にある。アクサは2000億ユーロ強を追加する。

 BNPは運用資産規模で欧州首位のアムンディに対抗できるようになる。
 しかし、ブラックロックバンガード・グループといった米国勢にはなお遠く及ばない見通し。

     
posted by まねきねこ at 16:43| 愛知 ☀| Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

フレンズ・プロビデント(Friends' Provident Insurance)1832年にクエーカー教徒の友の会のニーズに応えるために設立された金融機関

フレンズ・プロビデント保険
     (Friends' Provident Insurance)
 1832年にクエーカー教徒の友の会のニーズに応えるために設立された金融機関
 イギリス、ヨークシャー州ブラッドフォードに拠点を置き、疾病保険と年金保険を専門としていた。
 1918年に生
   命保険基金
がセンチュリー保険を買収し、損害保険に進出した。
 クエーカー教徒の会員制限はますます制約となっていた。

 1915年のフレンズ・プロビデント協会法(5 & 6 Geo. 5 . c. xlv)によってその結びつきは大幅に縮小された。
 センチュリーの支店ネットワークによりFPIは拡大できた。
 しかし、定期的な引受損失により生命保険基金の資本基盤が圧迫された。
 この結果、1975年にセンチュリーは売却された。

 2000年にフレンズ・プロビデントは相互会社から脱却し、FT100指数に上場した。
 買収交渉が失敗に終わった後、フレンズは2009年に
   レゾリューション・リミテッドか
らの買収提案を受け入れた。
  
 収益 9億4,900万ポンド(2008年)
 営業利益 8億7100万ポンド(2008年)
 純利益 6億6,600万ポンド(2008年)
 所有者 フレンズ・ライフ・グループ・リミテッド(Friends Life Group Limited)
 従業員数 全世界で約6,000人
  
 サミュエル・テュークとジョセフ・ロウントリーは、1829年に友愛会(クエーカー教徒)のニーズに応える友愛協会の理想を初めて提唱した。友愛会の著名な指導者でヨークの市議会議員でもあった
   テューク
が主導権を握り、保険会社の初代会長となった。
 当初は資本金は出されておらず、「支払い能力」は、
   主に著名なクエーカー教徒の家族
からなる複数の受託者によって締結された債券によって保証された。
 その後、45人の著名なクエーカー教徒から資金が集められ、20人の取締役からなる理事会とともに、
   友愛保険(FPI)
が1832年に設立された。
 スタッフは、ブラッドフォードの不動産譲渡人である秘書の
   ベンジャミン・エクロイド
1人だけで、 FPIはブラッドフォードのマーケットストリートにある菓子店の上の部屋で開業した。
 事務所は、FPIがダーリーストリートの古い郡裁判所の建物を購入する1862年まで残っていた。
   
 最初の事業は、55歳以上の会員向けの年金と、子供のための据え置き保険であった。
 最初の10年間で生命保険基金が15万ポンドに達した。
 このとき、FPIは生命保険に対する最初のボーナスを宣言することができた。
 代理店は徐々に任命され、すべて友愛会の事務所を通じて行われ、1862年までにイングランドに42、ウェールズとスコットランドに1つずつ、アイルランドに8つあった。

 生命保険基金は徐々に増加し、1870年には100万ポンド、1889年には200万ポンド、1902年には300万ポンドになった。
 FPIの規模が大きくなるにつれて、友愛会法、特に友愛会会員に限定されていることによる制約がますます強くなった。
 1890年代までに、これは成長の重大な障害と見なされた。
 投資権限の制限は、友愛会の規約によって解決された。

 1899年フレンズ・プロビデント・インスティテュート法( 62年および63年ヴィクトリア朝)は
   クエーカー教徒の制約
の解決に長い時間を要した。
 代理店はクエーカー教徒の集会と結びついており、十分に利用されていたため、代理店を増やす余地はほとんどなく、ロンドン以外に支店はなかった。
 1908年と1909年の業績が悪かったため、解決策を模索することになり、 1912年に
   ロイヤル・エクスチェンジ・アシュアランス
がFPIを買収する交渉が失敗に終わった。
 1914年、FPIは非営利保険に限りクエーカー教徒以外の保険を受け入れることに同意した。
 その後の大きな変化は、 1915 年友の会貯蓄機関法( 5 & 6 Geo. 5 . c. xlv)がある。
 これにより FPI は友の会法の残りの制限から解放され、会社法のすべての規定を受け入れた相互生命保険事務所として法人化された。
 財産を保有したり、その他の法的機能を実行したりするために受託者を任命する必要はなくなった。

 新しい規則では、会員になるには主に友の会の会員または協会との提携が必要であった。
 しかし、取締役には適切な人物を入会させる権限が与えられた。

 取締役は、FPI が拡大するには新しい指導者が必要であることを認識し、1916 年にバーミンガムのロイヤル取引所の支店長である
   ヘンリー タプスコット
が最初のゼネラル マネージャーに任命された。
 進行中の変化の兆候として、彼はクエーカー教徒ではなかった。
 
 タプスコットの戦略の中心は、FPIを損害保険業界に進出させることだった。
 ただ、1915年友の会貯蓄機関法にはそうする権限がなかったが、企業への投資を妨げるものは何もなかった。
 このため、1918年にFPIの生命保険基金はエディンバラのセンチュリー保険会社を50万7000ポンドで買収した。
 これは生命保険基金の資産の15%にあたる。

 センチュリーは1885年に
   Sickness and Accident Assurance
として設立された。
 損害保険事業の拡大に伴い、1901年に社名を
   センチュリー保険会社
に変更した。
 FPIとは異なり、センチュリーはスコットランドに5か所、イングランドに13か所、ウェールズに1か所、アイルランドに2か所と定評のある支店を持ち、これらがFPIの拡大の手段となることを意図していた。
 センチュリーは海外でも大きな事業を展開していた。

 1914年までに、ヨーロッパ8か国、オーストラリアに2か所、インドに3か所に代理店が開設していた。
 シュレッド引受契約は、米国のほとんどの州で営業していた
   ヘンリー・W・ブラウン社
とも結ばれていた。

 センチュリーの買収後、FPI の本社はブラッドフォードからロンドンのキングスウェイに移転した。
 センチュリーの本社はエディンバラに残ったが、損害保険事業はロンドンに移された。

 センチュリーの代理店は、FPI の生命保険事業の拡大に利用された。
 これらの変化を認識し、1920 年に会社名は Friends' Provident および Century Life Office に変更された。
 しかし、法的にはセンチュリーは FPI 生命保険基金の所有のままであった。

 海上保険の損失を除けば、統合された事業は順調に進んだ。
 センチュリーを通じて、1920 年に
   Pacific Coast Fire Company of Canada
も買収された。
 1926 年にリバプール海上保険を買収したときには、火災事業がさらに大幅に増加した。
 事業の成長にはより広い建物が必要となり、1928 年にLeadenhall Street 7 番地に新しいオフィスを購入した。
 しかし、特に北米でのセンチュリーの事業拡大は、最終的に売却につながる緊張を引き起こした。

 1920年代後半までに、センチュリーの事業の成長には、同等の資本の増加が必要となった。
 そのため、FPI生命保険基金の資源に負担が発生した。
 すべての損害保険会社を保有する新しい持ち株会社
   センチュリー保険トラスト
が設立され、同社は独自の融資資本を調達することができた。

 1929年のウォール街大暴落とそれに続く不況により、状況はさらに悪化した。
 グループはほとんどの生命保険会社よりも米国およびカナダの株式に多額の投資をしていた。
 それらの投資は50%以上も下落した。
 センチュリーの損害保険事業の60%以上は米国とカナダで引き受けられ、保険料収入は1929年と1930年の2年間で25%減少した。
 さらに、引受実績も低調であった。

 1930年末までに、FPIの生命保険基金資産は負債より5%低い評価になった。
 FPIは予定していた創立100周年記念ボーナスさえも取り消した。
 大幅なコスト削減とより良い基金再評価により生命保険事業は成長した。
 フレンズ・プロビデントは1934年に年金事業を開始し、1937年には団体生命保険および年金部門を設立できるほどの規模に成長した。
 1930年代末までに生命保険料収入は1929年の2倍になった。
  
 戦後の成長は有望であり、本社のさらなる移転を促した。
 1954年、フレンズ・プロビデントはドーキング郊外に43エーカーの土地を購入し、1958年に新本社を開設した。
 しかし、北米での立場は悪化し始めた。
 米国とカナダは1951年から1957年の間に火災保険と自動車保険で損失を出し、た。
 センチュリーは1957年に多額の取引損失を出し、再び生命保険基金の価値に影響を与えた。 

 1963年、センチュリーは米国の火災保険と事故保険の市場から完全に撤退し、カナダでの地位を強化した。
 センチュリーは1973年と1974年に火災保険で損失を出し、事故保険と海上保険では大企業の経費率に匹敵するのが難しいことを認識した。
 同時に、支払い能力の向上と規制の変更の必要性から、センチュリーの生命保険基金の価値は減価償却額の半分以下にまで減少した。

 1975年1月1日、
   フェニックス保険
が拡大したグループの株式と引き換えにセンチュリー保険の全世界の株式を買収することで合意した。
 公式発表では「この合意は両社にとって最大の利益であり、より大きな規模と適切な分配という利点がある」と述べられた。
 
 同社は現在フレンズ・プロビデント・ライフとして知られ、再び生命保険のみを扱う相互会社となった。
 センチュリーの問題にもかかわらず、同社は拡大を続けていた。

 1957年にはサスカチュワン州レジーナのフィデリティ生命保険の株式90%を買収してカナダの生命保険市場に参入した。
 1960年にはオーストラリアに生命保険支店を開設した。
 1970年代までに、生命保険事業とセンチュリーの一般事業を同じ事務所で運営しないことが合意された。
 そのため、生命保険事務所用に別の支店構造が確立された。

 センチュリーの売却に続いて、 フレンズ・プロビデント生命保険会社法1975年(第14章)により規則が更新された。
 取締役の過半数がクエーカー教徒でなければならないという要件が廃止された。
 新しい規則では、10人から20人の取締役のうち少なくとも5人がクエーカー教徒であることが認められた。

 この年、フェニックスはオーストラリアの生命保険事業を
   フレンズ・プロビデント
に売却した。
 1981年までに、英国の生命保険会社のランキングでは、フレンズ・プロビデントは資産額で15位にランクされた。

 1986年、フレンズは
   UKプロビデント
と合併した。
 1992年、フレンズは
   AVCB(オランダ)
   Topdanmark(デンマーク)
   Wasa(スウェーデン)
と提携して
   ユーレコ・アライアンス
の創設パートナーとなった。
 このアライアンスの一環として、フレンズ・プロビデントは当時英国外にあったすべての子会社(主にオーストラリア、カナダ、アイルランド)をユーレコに移管した。
 アイルランドの法人はフレンズ・プロビデント・ブランドを長年継続し、最終的に1998年に
   フレンズ・ファースト
に改名した。

 1993年に
   ナショナル・ミューチュアル・オブ・オーストラリア
の英国事業を買収した。
 また、1998年には
   ロンドン・アンド・マンチェスター・アシュアランス
を買収した。 

 1997年11月、フレンズ・プロビデントは、資産運用事業を
   アイボリー・アンド・サイム
と1億3,200万ポンドで合併し
   フレンズ・アイボリー・アンド・サイム
を設立すると発表した。
 この取引後、フレンズ・プロビデントは合併後の会社の67%を所有した。
 
 2000年、フレンズ・プロビデントは相互会社化してFT100指数に上場し、160万ポンドを調達した。
 同社の2大事業は生命保険と年金、そしてフレンズ・アイボリーとサイムの67%の株式を通じた資産運用であった。
 相互会社化の一環として、フレンズ・プロビデント財団は独立した慈善団体として設立された。

 資産運用部門は、ロイヤル・サン・アンド・アライアンスの資産運用部門の買収により拡大し、さらに2004年にはF&Cアセット・マネジメントとの合併により拡大した。
 これにより、フレンズ・プロビデントは拡大後のF&Cの51%を保有し、1250億ポンドの資金を運用することになった。

 2007年7月、フレンズは保険会社
   レゾリューション社
との「対等合併」に合意したことを発表した。
 しかし、これは株主の反対により11月に破談となった。
 これをきっかけに、コスト削減やF&Cの分割提案を含む戦略的な見直しが行われた。

 2008年1月、フレンズはJCフラワーズから41億ポンドの非公式な買収提案を受けたが、後に中止された。
 2009年、新たに設立されたレゾリューション・リミテッドが新たなアプローチで戻ってきて、8月に18億6000万ポンドの入札が受け入れられた。
 11月、フレンズ・プロビデントは正式にレゾリューションの子会社となった。
 
 英国の生命保険・年金事業は、英国全土の個人顧客と法人顧客向けに、生命保険、所得保障、年金、投資商品の幅広いラインナップを販売した。
 国際生命保険・年金事業は、ヨーロッパ、アジア、中東全域で展開されている。
  
 2009年、イングランド・ウェールズ・クリケット委員会(ECB)は、フレンズ・プロビデントが新しいトゥエンティ20大会であるフレンズ・プロビデントT20のタイトルスポンサーとなると発表した。
 2007年、フレンズ・プロビデントは国内のワンデイクリケット大会「フレンズ・プロビデント・トロフィー」のスポンサーとなる3年契約を締​​結した。
 フレンズ・プロビデントは1999年から2006年までサウサンプトンFCのメインスポンサーであり、 2001年の建設から2006年までセント・メリーズ・スタジアムのスポンサーも務めていた。
 この間、会場は正式にはフレンズ・プロビデント・セント・メリーズ・スタジアムとして知られていた。

     
posted by まねきねこ at 15:02| 愛知 ☀| Comment(0) | よもやまばなし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

F&Cアセットマネジメント(F&C Asset Management Plc)国際的な資産運用会社

F&Cアセットマネジメント
    (F&C Asset Management Plc)
 F&Cアセットマネジメントは国際的な資産運用会社で、1972年に
   Foreign & Colonial Investment Trust
の経営を引き継ぐために設立された。
 2014年に
に買収され、2018年に
   BMOアセットマネジメント(ホールディングス)
に改名された。
 本社はロンドンのシティ、プリムローズストリートのエクスチェンジハウスにあった。
 その後、 2021年に
         (Columbia Threadneedle Investments)
に買収され、 2022年にコロンビアスレッドニードルAM(ホールディングス)に改名された。
  
 HypoVereinsbankは1989年に同社の株式の50%を取得し、1998年には90%に増やした。
 Eurekoは2000年にHypoVereinsbankの株式を取得した。
 Foreign & Colonial Investment Trustが保有していた残りの10%を2001年に取得した。

 F&Cアセットマネジメントは、2004年に
   アイシスアセットマネジメント
と合併した際、拡大後の事業でもF&Cブランドを維持した。
 拡大後の事業は当時
   ユーレコ
とアイシスの筆頭株主であった
   フレンズプロビデント
が共同所有していた。

 その後、F&Cアセットマネジメントがロンドン証券取引所に上場した後、ユーレコは2007年にその保有株の多くを売却した。
 また、フレンズプロビデントも2009年にその保有株を売却した。
 F&Cアセットマネジメントは2007年から2011年まで
の公式スポンサーだった。
 2014年、F&Cアセットマネジメントはバンク・オブ・モントリオールに6億9,700万ポンドで買収された。
 その後、BMOグローバル・アセット・マネジメントに改名された。
 2021年、BMO GAM(EMEA)はF&Cインベストメント・トラストの管理を含むコロンビアスレッドニードルインベストメンツの一部となり、
   コロンビア・スレッドニードルAM(ホールディングス)Plc
に改名された。

   
posted by まねきねこ at 14:46| 愛知 ☀| Comment(0) | よもやまばなし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ジェームス・リング(James Ling)米国の大手複合企業リング・テムコ・ヴォート社(Ling-Temco-Vought  LTV)の創業者

ジェームズ・ジョセフ・「ジミー」・リング
         (James Joseph "Jimmy" Ling )
   1922年12月31日 - 2004年12月17日
 米国の実業家であり、1961年から2001年まで存在した米国の大手複合企業
   リング・テムコ・ヴォート社(Ling-Temco-Vought  LTV)
の元代表である。
 リングは、同社を率いていた間、LTV 資金を使って多数の企業を買収した。
 1960 年代の複合企業経営者の中でも最も有名な人物の 1 人である。
 
 リングはカトリックに改宗し、後に
   カルメル会修道院
に入った父親の息子であった。
 リングの母親は彼が幼い頃に亡くなり、彼はルイジアナ州シュリーブポートの叔母の家にしばらく預けられ育った。
 彼はイエズス会の高校を卒業できなかったが、ミシシッピ州の米海軍学校で訓練を受けた後、電気技師のマスターになった。

 1947年、彼はダラスに自身の電気工事会社
   リング・エレクトリック・カンパニー
を設立し、店の裏に居住した。
 1955年に会社を法人化し株式を公開した後、リングは戸別訪問による勧誘やテキサス州フェアのブースでの販売など、革新的な方法で株式を販売した。
 1956年にリングは
   LMエレクトロニクス
を買収し、続いて1959年に
   アルテックエレクトロニクス
1960年に
   テムコ・エアクラフト
を買収した。
 1961年には
   チャンス・ヴォート・エアクラフト
を買収し、リング・テムコ・ヴォートに統合した。

 1970年に赤字続きの
   ジョーンズ・アンド・ラフリン・スチール・カンパニー
を買収した後、彼の帝国は崩壊した。
 彼はその後の財政的出血を食い止めるために子会社を売却した。
 独占禁止法の問題が浮上した後、銀行家たちは1970年後半にリングの辞任を強制した。
 リングはLTVでの勤務後、いくつかの会社を設立したが、どれも成功しなかった。
 彼の最初の再起の試みである
   オメガアルファ
は1975年に倒産した。
 リングは2004年にテキサス州ダラスの自宅で食道癌で亡くなった。

     
posted by まねきねこ at 08:10| 愛知 | Comment(0) | よもやまばなし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

WL ロス & Co(WL Ross & Co) ニューヨークで設立され、本拠を置くプライベート エクイティ会社

WL ロス & Co(WL Ross & Co)
 2000年4月に米国の資産家
によってニューヨークで設立され、本拠を置くプライベート エクイティ会社。
 同社は、米国、アジア、韓国、アイルランド、日本、フランス、中国の、1 億ドルから 2 億ドルの範囲で、株価が過小評価されている財政難の企業への投資に重点を置いて投資を行っている。
 WL Ross & Co. LLC は、購入やバイアウトを通じて投資先の過半数の株式を取得し、再構築、ターンアラウンド、合併、再編、業界統合のオプションを獲得する。
 2002 年から、WL Ross は、
   LTV Steel Corp
   Bethlehem Steel
   Weirton Steel
   Acme Steel
   Georgetown Steel
   Youngstown Sheet and Tube
   Republican Steel
などの倒産した鉄鋼会社の資産の買収を開始した。
 2003 年までに、ロスは
   United Steelworks
との関係を確立し、雇用を維持することを約束した。

 WL ロスは、破産した
   LTV Corp.
   Acme Steel
   Bethlehem Steel
を統合して
   International Steel Group (ISG)
を設立した。
 同社はすぐに米国最大の総合鉄鋼会社となり、 2005 年までにフォーチュン 500企業にランクインした。
 
 子会社 インターナショナル・スチール・グループ(ISG)(2002-2005)
  
 2005年2月25日、ロイターは、ミッタルが2005年から2010年にかけて米国で最大4万5000人の鉄鋼労働者の雇用を削減する計画であると報じた。
 2005年4月、WLロスはISGをルクセンブルクに本拠を置く世界最大の鉄鋼会社
   ミッタル・スチール
に45億ドルで売却した。
 半分は現金、残りの半分は株式であった。
 ミッタルは1989年以来、社長兼CEOの
   ラクシュミ・ミッタル
が在任中、企業の買収や合併を行っていた。

 WL Ross & Co. LLC は、2006 年以来、ジョージア州アトランタに本社を置くアメリカの投資運用会社
   Invesco Ltd
の完全子会社として運営されており、ロス氏が CEO を務め、WL Ross などのブランド名で事業を展開している。
 
 ブルームバーグ・ビジネスウィークによると、WLロス・アンド・カンパニーLLCは2000年4月に設立され、ニューヨークに本社を置き、インドのムンバイにオフィスを構えている。
 
 WLロス&カンパニーを設立する前、ロスは1970年代後半からニューヨークの
   NMロスチャイルド&サンズ
で破産再建業務を担当していた。2000年4月、ロスはロスチャイルドを離れ、WLロス&カンパニーを設立した。
 フォーブスによると、彼は「自分が管理していた2億ドルのロスチャイルド投資ファンド」を買収した。
 その後、投資家から2億5000万ドルを調達し、不良資産に投資した。
 2000年のWLロス投資チームには、
   デビッド・H・ストーパー
   デビッド・L・ワックス
   スティーブン・J・トイ
のほか、JPモルガン&カンパニーのベテランである
   パメラ・K・ウィルソン
が含まれていた。
  
 WLロス&カンパニーは、2003年11月にノースカロライナ州グリーンズボロに拠点を置く破産した
   バーリントン・インダストリーズ
を約6億1400万ドルで買収し、非公開企業とした。
 2004年、には同じく破産した
   コーン・ミルズ社
の資産を9000万ドルで買収し
   インターナショナル・テキスタイル・グループ
を設立した。
 2016年、WLロス&カンパニーは
プライベート・エクイティ・ファームの
   プラチナム・エクイティ
に売却した。
 コーン・デニム工場は2017年12月31日までに閉鎖された。
 2005年のフォーブスの記事によると、ロスは「米国に送られる衣料品や繊維製品の1ドルあたり16セントを削減する中米自由貿易協定」の成立を目指してロビー活動を行ったといいう。

 2006年にジョージア州アトランタに本社を置く
   インベスコ(当時はアムベスキャップ)
はWLロス&カンパニーを買収して以来、WLロス&カンパニーはインベスコの子会社として運営されている。
 インベスコは、インベスコ、トライマーク、インベスコ・パーペチュアル、WLロス、パワーシェアーズのブラン​​ド名でも運営されている。
 インベスコは、WLロス&カンパニーの再編を通じて部分的に成長した。
 合併の完了後、同社は
   アムベスキャップ
という名前を採用した。
   
 ブルームバーグ・ビジネスウィークによると、2016年1月までにWLロス&カンパニーは、液化ガスを輸送する会社である
   ナビゲーター・ホールディングス
の「最大の投資家」となった。
 ナビゲーター・ホールディングスとWLロス&カンパニーの間の契約では、「7500万ドル相当の普通株」が2013年2月25日に発行された。
 2013年11月5日以来、WLRグループ(WLロス&カンパニーとナビゲーターの株式を所有するその関連投資ファンド)は、ナビゲーター・ホールディングスの取締役会に2人の指定メンバーを置く権利を持っている。
 ロス自身はナビゲーター・ホールディングス社の取締役会長であった。

 ロス氏はナビゲーター社の取締役を退いたが、ナビゲーター・ホールディングスへの投資は継続している。

 公共の誠実さセンター(CPI)の2017年11月7日の記事によると、ロス商務長官は
   ダイアモンドSシッピング・グループ
   ナビゲーター・ガスLLC
の株式を売却していた。
 CPIは、2017年3月23日、「中距離タンカー船の世界最大級の所有者および運営者」であるダイアモンドSシッピングにおけるロスの株式の利益相反の可能性に関する調査結果を発表した。
 CPIの3月の報告書は、ダイアモンドSシッピングは「ロスの富のほんの一部」に過ぎないことを認めた。

 ダイアモンドSシッピングのタンカーは、海運業界の米国労働者がより高い賃金を要求していることから、中国、マーシャル諸島、マルタの国旗を掲げている。
 同社の本社はコネチカット州グリニッジにある。マリントラフィックから提供されたデータを使用した地図を使用して、CPIはダイアモンドSシッピングの船舶が「トランプが名指しした国々、およびロスが形作っている米国の貿易政策の影響を受ける他の多くの国々」でどのように運航しているかを明らかにした。
 例えば、ダイアモンドSシッピングは「2012年以来100回以上中国を訪問した」。

 2017年4月、ロス氏はトランプ大統領と中国の習近平国家主席が貿易政策問題について会談した後に成立した
   米中二国間貿易協定
で影響力を発揮した。
 この協定により「米国企業は液化天然ガスを中国に輸送できる」ようになった。

 ウィルバー・ロス商務長官はホワイトハウスで記者団に対し、これは「大変な偉業だ...米中貿易関係の歴史上、成し遂げられたことを上回るものだ。通常、貿易協定は数十日ではなく、数年単位で締結される」と語った。

 この二国間協定は「中国企業が米国産液化天然ガスの購入協定を交渉することを歓迎する」ものだ。
 米商務省によれば、5月中旬までに司法省は「すでに中国やその他の関心国への1日当たり192億立方フィートの天然ガス輸出を承認していた」という。

 2017年11月6日のアメリカ公共メディア(ABM)の詳細なレポートでは、2000年代のWLロス&カンパニーの設立当初から在籍し、ナビゲーターの取締役やロス商務省首席補佐官を務めた
   ウェンディ・テラモト氏
に関する利益相反の懸念が提起された。
 
 2016年8月、 WLロス&カンパニーが投資家に
   過剰に手数料を請求
したとして証券取引委員会(SEC)から告発を受けた。
 ロスは、投資家に1180万ドルを返金し、230万ドルの罰金を支払ったが同社はいかなる責任も否定した。

    
posted by まねきねこ at 07:04| 愛知 | Comment(0) | よもやまばなし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

年末の政府機関閉鎖を回避。バイデン大統領がつなぎ予算案に署名

 バイデン米大統領は21日未明、3月中旬までのつなぎ予算案に署名した。
 年末の政府機関閉鎖を回避するとともに、今後の歳出に関する判断をトランプ次期政権に先送りした。

 米上院は同日未明、つなぎ予算案の採決を行い、可決した。
 同予算案は既に20日夜に下院を通過していた。
 期限の20日深夜を過ぎて間もなく行われた上院採決は賛成85、反対11だった。

 ホワイトハウスは声明を発表し、バイデン大統領の署名により、政府の運営資金が来年3月14日まで手当てされると明かし、つなぎ予算には自然災害の被災者および農家に対する1000億ドル(約15兆6000億円)強の支援が含まれると表明した。

 米国政府は20日、連邦職員に自宅待機の可能性があると通知するなど政府機関閉鎖の準備に動いていたが、バイデン氏の署名で政府機関閉鎖は回避される運びとなった。

 今回のつなぎ予算案は、ジョンソン下院議長が政府閉鎖回避を目指し提示した3つ目の案だ。
 下院は19日の本会議で、トランプ次期大統領が支持を表明したつなぎ予算案を否決していたがほぼ全員の民主党議員が反対票を投じたほか、38人の共和党議員が造反した。

 イーロン・マスク氏は下院採決が進む中で、今回のつなぎ予算案を支持すると表明した。
 X(旧ツイッター)に「現在の状況を考えれば下院議長は良い仕事をした」と投稿した。

   
posted by まねきねこ at 04:00| 愛知 ☀| Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする