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2024年12月31日

ヘルマン・ミュンヒマイヤー (Hermann Münchmeyer) ハンブルクの商業・民間銀行ミュンヒマイヤー商会の創設者

カール・ゲオルク・ハインリヒ・フランツ・ヘルマン・ミュンヒマイヤー
         (Karl Georg Heinrich Franz Hermann Münchmeyer)
   1815年3月13日ー1909年1月28日ハンブルク生まれ
 ハイチの商人
 1999年にハンブルクに商業・民間銀行
   ミュンヒマイヤー商会
を設立した。
 1855年、ハイチ市民権の会員およびハイチ領事であった。
 
 ミュンヒマイヤーはニーダーザクセン州ミュンヒマイヤー家の出身で、医師で物理学者の
   エルンスト・ミュンヒマイヤー(1778〜1851)
   アマリー・マイヤージーク(1786〜1850)
の息子として生まれた。

 1841年7月23日、ヴェール(ヴェストファーレン州ゾースト地区)で、彼は
   エマ・フラッシュオフ(1821年12月30日ー1905年5月19日)
と結婚した。
 エマ・フラッシュオフは、ドイツの「パペンシェン・エアプザルツァーヴェルケ」の所長
   カール・フラッシュオフ
の娘である。
 この結婚により、会社「ミュンヒマイヤー&カンパニー」の共同所有者である
   フリードリヒ・エルンスト・アルヴィン・ミュンヒマイヤー
という娘と息子が生まれた。
 ヘルマン・ミュンヒマイヤーは、ミュンヒマイヤー家のハンブルク分家の先祖である。

 その後ハイチに移住し、輸出港オーカイ(現在のレカイ)で商人を務めた。
 しかし、1843年、ミュンヒマイヤーは国外に出なければならなかった。
 1842年5月7日の壊滅的な地震により推定死者数は1万人を超えた。
 その後の政情不安と
   民衆の蜂起
が引き金となりハイチ大統領ジャンの打倒につながった。

 ヘルマンは大金を持ってハンブルクに戻った後、1846年7月17日にハンブルク市民になり
   「ミュンヒマイヤー、ライマース&ネルティング」
という会社を設立した。
 1855年1月初旬、合弁会社の清算が発表された。
 その後、ヘルマン・ミュンヒマイヤーは自身の会社
   「ミュンヒマイヤー&カンパニー」
を設立し、銀行業務、世界的な輸出入、卸売業務を行っていた。

 1848年から1865年までミュンヒマイヤーはハイチ領事、1859年から1861年までハンブルク市民権の一員、1859年から1901年まで北ドイツ銀行の監査委員、1863年から1868年まで高等裁判所の判事、 1864年から1866年までハンブルク・コメルツ議員に就任している。
 1865年 貿易海運議員および移民議員になっている。

 彼はまた、北ドイツ保険会社とハンブルク・ブレマー火災保険会社の監査委員会のメンバーであり、祖国女性援助協会の理事会の名誉会員でもあった。
    
    
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スクエアグループ(Square Group)バングラデシュの多角的多国籍(コングロマリット)

スクエアグループ(Square Group)
 ダッカに本拠を置くバングラデシュの多角的多国籍(コングロマリット)である。
 サミュエル・S・チョウドリーがスクエアグループの会長、タパン・チョウドリーがマネージングディレクターを務めた。
 スクエアグループの従業員数は6万人である。

 収益 15億ドル
 スタッフ 65,000人(2022年)
 
 子会社
 ・イージスサービス(Aegis Services)
 ・マースランガテレビ(Maasranga Television)
 ・メディアコム(Mediacom)
 ・サバズプール ティー カンパニー(Sabazpur Tea Company)
 ・スクエアアパレル(Square Apparels)
 ・スクエアデニムリミテッド(Square Denims Limited)
 ・スクエアファッション(Square Fashions)
 ・スクエアフード&ビバレッジ(Square Food & Beverage)
 ・スクエア病院(Square Hospitals)
 ・スクエアインフォマティクス(Square Informatix)
 ・スクエア製薬(Square Pharmaceuticals)
 ・スクエアテキスタイル(Square Textiles)
 ・スクエアトイレタリー(Square Toiletries)
 
 スクエアグループは、1958年に
   サムソン・H・チョウドリー
と3人のパートナーによってバングラデシュのパブナに
   スクエア・ファーマシューティカルズ
という製薬会社として設立された。

 サムソン・H・チョウドリーは当初、1952年にパブナ県アタイクラ村で薬局を経営していた。
 同社は着実に成長し、1974年に
   ジョンソン・エンド・ジョンソン
の子会社である
   ヤンセンファーマシューティカ
と提携した。

 1987年までに医薬品の輸出を開始し、バングラデシュの製薬業界にとって重要な節目となった。
 グループは1989年にバングラデシュで製造された最初の生理用ナプキンである
   セノラ
を発売しました。
 その後、スクエアトイレタリーズリミテッドは非公開有限会社となり、グループの多角化を示した。
 スクエアファーマシューティカルズはその輸出で全国的に認知され、国家輸出トロフィーを受賞した。
 この頃、
   スクエアテキスタイルリミテッド
が設立され、グループの産業的足跡がさらに拡大した。

 スクエア・ファーマシューティカルズは
   ボビス・レンド・リース
の指導の下、近代的な製造施設を設立し、世界基準への取り組みを実証した。
 スクエア・テキスタイルズ・リミテッドはその後、ダッカ証券取引所に上場し、公開企業となった。

 スクエア病院は2006年12月16日にダッカで設立され、35億タカの投資と250床の収容能力を備えていた。
 初代CEOの
   ジョー・デイビス・フレミング
が率いた。
 同グループはスクエア・コンシューマー・プロダクツ・リミテッドを通じて日本市場に参入し、輸出業務を拡大した。

 2012年にサムエル・S・チョウドリー氏が会長に就任し、リーダーシップが移行した。
 同時期に、スクエアはベラルーシ首相の工場への注目度の高い訪問を受けて、ベラルーシと医薬品の輸出契約を締結した。
 グループは拡大を続け、スクエアトイレタリーズによるおむつ生産などの新規事業への投資や、生産増強のための繊維部門への多額の投資を行いた。
 スクエアデニムはハビガンジ地区で操業を開始し、繊維部門での存在感を強めた。

 スクエア・ファーマシューティカルズは、
   スクエア・ファーマシューティカルズ・ケニアEPZ社
の下でケニアのナイロビに製造施設を設立し、事業を国際的に拡大した。
 この建設には、ケニア駐在のバングラデシュ高等弁務官やケニア当局者を含む主要人物が出席した。
 しかし、COVID-19パンデミックにより生産が遅れた。

 2019年、同グループは
   スクエア・エア・リミテッド
を設立し、航空業界に進出した。
 主に政府関係者や著名人向けにヘリコプターサービスを提供した。
 新型コロナウイルス感染症のパンデミックの間、スクエア・グループは個人用防護具を寄付することで大きく貢献した。
 高まる医薬品需要に対応するためにさらなる投資を発表した。

 スクエアグループは国連グローバル・コンパクトの署名企業として、持続可能性に取り組んでいる。
 この取り組みは、HSBCが同グループにバングラデシュ初の持続可能性関連融資(100億BDT相当)を提供した際にさらに認められた。
   
   
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AMPキャピタル(AMP Capital)シドニーに本社を置く大手グローバル投資運用会社 運用資産 1,900億豪ドル(2020年)

AMPキャピタル(AMP Capital)
 オーストラリアのシドニーに本社を置く大手グローバル投資運用会社
 所有者であるAMPグループは1849年に設立され、オーストラリア最大の個人向けおよび企業年金プロバイダーの1つ。
 AMPキャピタルは、
と戦略的提携を結んでいる。

 運用資産 1,900億豪ドル(2020年)
 従業員数 1,300人
 
 親会社 AMPリミテッド
 
 AMP Capitalは、オーストラリアとニュージーランドでの事業に加え、中国、ドバイ、香港、インド、日本、ルクセンブルク、シンガポール、英国、米国にオフィスを構え、国際的に展開している。
 
 2011年12月9日、AMPは
   AMP Capital
   三菱UFJ信託銀行(MUTB)
との戦略的業務提携を発表した。
 三菱UFJ信託銀行は、個人および法人向け銀行業務、信託資産、不動産、グローバル市場にわたるサービスを機関投資家や個人顧客に提供する日本の大手信託銀行である。

 MUTBはAMP Capitalの少数株を取得した。
 この提携により、AMPは日本の機関投資家の80%、個人および富裕層向け銀行ネットワークの約14%、および100の個人向け証券会社支店にアクセスできるようになる。
 2020年、AMP LimitedはMUTBの
   AMP Capital
の株式を買い戻した。

 AMPキャピタルはアジアにも数多くの合弁会社を持っている。
 同社は、AIMSファイナンシャルグループと共同所有するシンガポールの合弁REIT運用会社
の株式50%を保有している。
 このほか、チャイナライフAMPアセットマネジメントの株式15%を保有している。

 2021年2月、AMPリミテッドは、
との合弁事業の設立を検討するための拘束力のない基本合意を締結した。
 これらの計画がキャンセルされた後、AMPは2021年4月に事業を分割してオーストラリア証券取引所に上場する計画を発表した。
 2022年4月、AMPはこの計画を断念し、代わりにAMPキャピタルの不動産および国内インフラエクイティ事業をデクサスに、国際インフラエクイティ事業をデジタルブリッジに売却すると発表した。
 AMPキャピタルは、世界トップ10のインフラ管理会社にランクされており、
   アジア最大級の不動産管理会社
の一つであり、商業、工業、小売の不動産管理サービスを提供している。
 AMPキャピタルは、プライベートエクイティ(ファンドオブファンズ)でもアジアのトップ6にランクされる。
 また、債券や株式への投資も管理している。
  
    
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2024年12月30日

ショール・アイゼンバーグ(Shaul Eisenberg) 戦後、日本や韓国、イスラエルで莫大な資産を作り上げた政商

シャウル・ネヘミア・アイゼンベルク
        (Shaul Nehemia Eisenberg)
   1921年9月22日 - 1997年3月27日
 ショール・アイゼンバーグは旧ハザール王国領に隣接していたウクライナ北西部とポーランド南東部にまたがる地域のうちポーランド出身の敬虔なユダヤ人家庭で生まれた。
 クラクフ出身の母親
   ゾフィー(旧姓カッツ)
と​​ワルシャワ出身の父親
   デイヴィッド・アイゼンバーグ
を両親に、6人兄弟の5番目に生まれた。

 一家は19世紀末にドイツに移住し、その後、ミュンヘンに転居した時にでショールが生れた。
 ドイツ帝国が大地次世界大戦の敗北で混乱した後、崩壊しワイマール政権に移行した時代、ソ連共産党の指導を受けた
   ドイツ共産党(KPD)
が作られ、党員の多くが、ロシアからの移民などのユダヤ人で構成されていた。
 KPDの党員はモスクワの支配下にあった地下組織の
   共産主義インターナショナル(コミンテルン)
に参加して、ドイツ国内などでテロやデモ、暴動を引き起こすなど武装闘争を組織的に行い社会不安を煽っていた。

 こうした社会不安が広がる中
に社会の秩序維持をさせる目的からハンブルグなどの金融資本を牛耳っていたユダヤ資本家から多額の資金が提供された。

 この資金を利用して突撃隊が組織されて社会秩序を武力で解決していく手法が取られ、ドイツ国民の支持を受けることとなった。
 選挙で政権を確保し、ナチス政権時代になると治安の安定を優先していく過程で暴動や殺戮を繰り返していたKPDを組織を中心に弾圧を加えていくなかで、東欧出身のユダヤ人に対する弾圧が強まった。

 ショール一家にも難が降りかかってきたため、1938年から39年にかけて偽旅券を手に入れて、中立国であるスイスにアルプス越えて逃れた。
 ただ、貧しい労働者階級のユダヤ人一家がナチス政権が権力を握って体制が強化されていた38年にドイツから逃げ出せたのかは不明。
 当時、ソ連中枢のスパイ機関(NKVD)とソ連軍情報部(GRU)第四局では
   幹部諜報部員
をヨーロッパから徴募するという方針があった。

 モスクワと関係のある家族が特に目をつけられ、多くの場合は、諜報員が単に個々人の機知や賢明さといった恣意的な判断に基づいてヨーロッパから連れ出していたと言われている。
 ショール一家はスイスから西ヨーロッパに移動し1940年の終りにはオランダに逃れたが経緯は不明。  
 第二次世界大戦に入ると、オランダから中国の上海に逃れた。

 当時の上海は日本や西欧の植民地でもある租界地が広がり、ロシア帝国の亡命貴族やユダヤ人亡命者の世界最大の共同体が存在し、東洋の金融の中心地となっていた。
 また、上海では、日本軍の動きを探るための情報機関のために働いていた工作員や情報提供者、スパイたちの巣窟だった。
 亡命ユダヤ人の多くは、ソ連の情報組織のメンバーだった。
 ただ、その中には二重スパイとして西側の英国や米国のために活動した者も多数いた。

 日本軍の特務機関はユダヤ人組織からの情報を確保するため、情報や資金をユダヤ人に提供して取り込む工作を行っていた。
 ソ連が上海で行った極めて重要なスパイ工作としては、米国人女性の
   アグネス・スメドレー
を使ったものが知られている。
 裕福なアメリカの上層階級出身のスメドレーを操っていたのがかのソ連スパイ
   リヒャルト・ゾルゲ
だった。 
 当初、ゾルゲはコミンテルンのために働いていた。その後にGRU第四局に移り日本軍のソ連軍がドイツ戦線に集中できるように政策をコントロールするために画策をした。
 1920年代から1930年代にかけ、上海のソ連情報組織が強化された。
 共産主義者は様々な政治工作を仕掛け、クレムリンは、中国や満州地域における日本軍の作戦に関する詳細な情報を入手することができたという。

 日本による
   真珠湾攻撃
に関する情報も事前に入手していたという。
 リヒャルト・ゾルゲが東京の在日ドイツ大使館におけるソビエト・スパイの責任者となった。
 このときに、彼が日本に移ったことは極めて深い興味をそそる事実である。

 ゾルゲは、日本に入り込むために、それまでの8年間を自らの偽装のために費やし、日本国内での活動のために人脈を作り、要員を徴募し、訓練を行っていた。その人脈の中にショール・アイゼンベルグも含まれていたと思われる。

 1940年に来日したショールは東京で上海から持ってきたカーペットを売って生計を立てようとした。
 路上でカーペットを売っているとき、
   ハーマン・フロイデルスペルガー
というオーストリア生まれの男性から声をかけられた。

 フロイデルスペルガーはウィーンなどで美術を学んだ後にインドを経て日本に来ていた。
 日本では裕福な実業家の肖像画家として活動してたが、オーストリアがナチスドイツに占領されたため、祖国に戻ることが出来なかった。
 2・26事件で暗殺された
   高橋是清元首相
の肖像画を描いた事でも知られており、現在は日本銀行の地下室に保管されている。

 東京で出会った二人の外国人は共にドイツ語を話した。
 フロイデルスペルガーはアイゼンバーグを自宅に招き自分の子どものように扱った。

 フロイデルスペルガー自身は20年間日本に住み、後に新日本製鐵会長となる人物の姪で茨城県出身の日本人女性と結婚していた。
 両親の反対にもかかわらず彼と結婚し、東京・麻布に住んでいた。
 ノブコという女の子とアリトモという男の子を育て、家では日本語だけを話した。
 後に、娘のノブコはアイゼンバーグと結婚したことでアイゼンバーグは日本国籍を有した。

 東京滞在中にアイゼンバーグはオーストリア人画家の娘で日本人とのハーフである
   ノブコ・レア・フロイトスペルガー
と出会い結婚し、5人の娘と1人の息子をもうけた。

 戦後、アイゼンバーグは日本の製鉄業界と進駐軍双方に持っていたコネを通じて、豪やフィリピンから鉄鉱石を買付け、鉄鋼及びくず鉄を含む
   戦争の余剰原材料
を八幡製鉄などに売って戦後復興の鉄鉱石生産の拡大を支援して莫大な利益を確保した。
 その後、日本財界による戦後初の訪米を計画し
   日本の製鉄業界
を代表して、アメリカ政府と交渉し、帰国後、進駐軍向けに台所、浴槽などの家庭用品をつくる工場を三つ建設したと言われている。

 アイゼンバーグは第二次世界大戦中、彼は枢軸国の工場で働き、戦争が終わると米国の企業と協力し、日本の鉄鋼業界向けに鉄製品を輸入すると同時に、インドにさまざまな日本製製品を輸出した。

 1950年代初頭、アイゼンバーグは極東の他の国々、特に韓国に事業を拡大した。
 現地当局と同じくそこで事業を展開していた東側の製造業者との仲介役を務めながら。
   ブリティッシュ・エレクトリック
   シーメンス
   MAN SE
   フィアット・オートモービルズ
などへの投資を行った。
 また、韓国において日韓併合時代の朝鮮半島に投資した日本企業の設備や不動産などの投資資産を使って、10年以内に、再生紙の生産ラインの開発や飛行機や電車の購入など、多種多様なプロジェクトの仲介を成し遂げた。
 その功績により、彼は韓国政府から賞を受けた。

 アイゼンバーグはユダヤ系ウクライナ人の友人である
   ミハエル(ミーシャ)・コーガン
と共に東京のユダヤ人コミュニティーの主要なスポンサーにもなった。
 アイゼンバーグがそうであったように、コーガンはロシア革命から逃れるために中国のハルビンへ渡り、そして日本へとたどり着いた難民である。
 戦後は日本で貿易会社を設立し、自動販売機やジュークボックス、パチンコ等の機械を輸入販売することで財を成した。
 この会社は後に、ゲーム開発で有名な「株式会社タイトー」となり日本を代表するアミューズメント企業として成長した。

 アイゼンバーグは、渋谷区広尾に今でも存在するユダヤ人コミュニティー建設のために資金提供した。
 また、横浜の外国人墓地にはユダヤ人区画を作るための土地も購入した。

 1960年代半ばまで、アイゼンバーグは韓国と日本から西側諸国への貿易において主役であり政商として暗躍した。
 韓国のサムソンの初期投資家でもある。

 アイゼンバーグはイスラエルで
   イスラエル・コーポレーション
を設立し、同社が30年間の減税を受けることを認める新しい法律が制定された。
   
 アイゼンバーグにちなんで名付けられたこの法律は、起業家を奨励するためのものであった。
 これらの恩恵を受けると、アイゼンバーグは国際的な行動を真似てイスラエルでも行動し始め、イスラエルのサヴィオンに定住した。
 彼はイスラエル・コーポレーションで、
   ジム・インテグレーテッド・シッピング・サービス
   オイル・リファイナリーズ
などの企業の株式を買い漁った。
 同時に彼は自身のコネを利用して極東の日韓とイスラエルの間で軍事取引を行った。
 また、イスラエルからアフリカや南米諸国への武器輸出業者として独占的な利権を確保した。
 後に彼はイスラエルと中国の間で商業取引を行った最初の人物となった。
 アイゼンバーグは政党への多額の寄付者であり、イスラエルの政治に影響を与えた。
  
 パキスタンに原子力発電所を建設するという秘密プロジェクトに関しては、イスラム世界の
   原爆開発をタブー化とするメッセージ
を世界に送るための策略として実行された。
 ただ、実際にはアイゼンバーグとカナダのブロンフマンに代わって、エジプト人とレバノン人がパキスタンと取引きを行ったといわれている。
パキスタンに原発を売ったことにより
   パキスタンが原爆を開発しつつある
とアメリカとイスラエルが攻撃のキャンペーンを張った。

 1970年代秘密裏にイスラエルの軍備及び武器を中国に輸出し、カンボジアの
   クメール・ルージュ
に対して武器を供給し始めたころ、アイゼンバーグはイスラエルに巨大な持株会社
   アイゼンバーグ社
を設立した。
 中国軍のビジネス・パートナーであるアイゼンバーグはまたクメール・ルージュ指導者ポル・ポトに対する初期の武器供給者だったといわれている。
 なお、アイゼンバーグは当時世界で三番目に大きいイスラエルの海運会社
   ジム海運(企業情報
の株49%を所有しており、容易に武器等を運搬することが出来た。
  
  アイゼンバーグは
   モシェ・ダヤン外相(イスラエル)
が1977年に訪中、中国政府を貿易面で援助することとなり、15件の大プロジェクトを制約することが出来た。
 小火器類やハイテク武器の開発製造では、中国政府と合弁契約を結び、1979年
    アジア・ハウス
という商社を設立、中国人と組んで、アラブ諸国に中距離ミサイル技術を売った。
 1979年、アイゼンバーグはテルアビブに「ベイト・アジア」を設立した。
 そこに株式市場へに投資グループの本部を置き、アイゼンバーグ・グループを所有した。
 娘の夫である
   ジョナサン・ゾホフスキー
と、グループのマネージャーであった
   マイケル・アルビン
が彼を支援した。

 1983年のイスラエル株式市場の暴落後、グループは大きな損失を被った。
 後に警察は会社が株主から情報を隠していたことを発見した。
 アルビンは後に悲劇的な状況で亡くなり、アイゼンバーグは娘とその夫との関係を断ち切った。
 パナマのノリエガ将軍は、1980年代ニカラグアの反政府ゲリラ組織・コントラへの支援を米国の情報機関のCIA(米軍占領時代のGHQ)とイスラエルのモサドから求められた。

 イスラエルの情報部工作員 
   マイク・ハラリ
らにより、コントラへの資金援助を行うため麻薬を扱うアイゼンバーグの組織が用いられた。
 レーガン政権時代の1985年イラン・コントラ事件が浮上した際、名前の出た
    イスラエル・エアクラフト・インダストリーズ
の創始者
   アル・シュイマー
とアイゼンバーグはビジネス上のパートナーだったといわれている。
 モサドの活動の指揮を執っていた
   ジェイコブ・ニミロッド
   シュイマー
がイランのコネクションを、実行部隊の
   オリバー・ノース
   リチャード・シコード
   セオドア・シャックリー
に情報を提供した。
 なお、1986年にはフィリピンで、アイゼンバーグの組織は米CIA、フィリピン債務の引受人
     アメリカン・インターナショナル・グループ(AIG)
と組んで、マルコス政権を転覆させたともいわれているが事実かどうかはよく判らない。
 1990年代には、極東の他の市場への関与やその他の要因により、彼のビジネス活動は鈍化し始めた。

 ベトナム戦争でサイゴン陥落の際、韓国の外交官たちは
   フリークエント・ウィンド作戦
の一環として南ベトナムからの逃亡を試みたが南ベトナム駐在韓国大使館公使で韓国情報局の武官
   李大鎔
と2人の韓国外交官(アン・ヒワンとソ・ビョンホ)が逃亡に失敗しベトナム人民軍に逮捕され、 1975年10月に
   チホア刑務所
で尋問を受けていたが、アイゼンバーグが韓国に逃がすための秘密特使として活動した。

 アイゼンバーグはアイゼンバーグ法が失効する2年前の1997年に北京で亡くなった。
 彼の死後、家族は約10億ドルとされる遺産をめぐって争い、最終的に息子が家業を引き継いだ。
 アイゼンバーグの弟でハシディズムの学者だった
   ラファエル
は1976年に12人の子供を残して亡くなった。
   

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 偉人・貴人、有名人たちの足跡
     
   
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インドラ・ヌーイ(Indra Nooy 旧姓クリシュナムルシー  Krishnamurthy) 米国のビジネスエグゼクティブ 2006年から2018年までペプシコの会長兼最高経営責任者(CEO)

インドラ・ヌーイ(Indra Nooy 旧姓クリシュナムルシー  Krishnamurthy)
   1955年10月28日生まれ
 インド生まれの米国のビジネスエグゼクティブ
 2006年から2018年まで
   ペプシコ
の会長兼最高経営責任者(CEO)を務めた。 
 ヌーイ氏は一貫して世界で最も影響力のある女性100人にランクインしている。
 2014年にはフォーブス誌のリストで13位にランクされ、2015年と2017年にはフォーチュン誌のリストで2番目に影響力のある女性となった。
 彼女はアマゾンや国際クリケット評議会などの組織の理事を務めている。 

 ヌーイは1955年10月28日、インドのタミル・ナードゥ州マドラス(現在のチェンナイ)の
   タミル・バラモン
の家庭に生まれた。
 T・ナガルのホーリー・エンジェルス・アングロ・インディアン高等学校で教育を受けた。

 ヌーイの母親は主婦だった。
 母親自身は正式な教育を受けていなかったが、夕食時に娘たちのために戦略的なゲームを考案した。
 ヌーイと妹が8歳から11歳のとき、母親は2人に大統領や首相などの権力のある地位に就いたらどうするかについてのスピーチを書くように指示した。
 ヌーイが課題をこなせなかった場合、父方の祖父(裁判官)は紙に「私は言い訳をしません」と200回書かせた。
  
 学業を続ける間、ヌーイはバンドでギターを弾き、クリケットで優秀な成績を収めた。
 ヌーイは1975年にマドラス大学マドラス・クリスチャン・カレッジで物理学、化学、数学の学士号を取得した。
 1976年にはインド経営大学院カルカッタ校で大学院課程のディプロマを取得した。
1978年、ヌーイ氏はイェール大学経営大学院に入学し、アメリカに渡り、1980年に公共・民間経営学の修士号を取得した。
 
 ヌーイ氏はインドで
   ジョンソン・エンド・ジョンソン
と繊維会社
   ビアズセル社
で製品マネージャーとしてキャリアをスタートさせた。
 イェール大学経営大学院在学中、ヌーイ氏はブーズ・アレン・ハミルトン社で夏季インターンシップを行った。
 1980年、ヌーイ氏は
に戦略コンサルタントとして入社した。
 その後モトローラ社で副社長兼企業戦略企画部長を務めた後
   アセア・ブラウン・ボベリ社
に勤務した。
  
 ヌーイ氏は1994年にペプシコに入社し、2006年に
   スティーブン・ラインマンド氏
の後任としてCEOに任命され、 ペプシコの44年の歴史の中で5人目のCEOとなった。

 1994年から1996年までペプシコの戦略計画担当上級副社長を務めた。
 その後1996年から2000年まで企業戦略・開発担当上級副社長を務めた。
 次に、2000年2月から2001年4月までペプシコの上級副社長兼最高財務責任者を務め、2001年からは社長兼最高財務責任者に就任した。
 ペプシコの取締役にも任命された。

 ヌーイ氏は10年以上にわたり同社の世界戦略を指揮し、1997年の
   トリコン(現在はヤム・ブランズとして知られる)
の売却を含むペプシコのリストラを主導した。
 トリコンは
   ピザハット
   KFC
   タコベル
などの企業を傘下に収めていた。
 このスピンオフによる金銭的利益により、同社は自社株買い戦略のペースを速めた。
 株主の反発をあまり受けずに将来の買収を進めるための影響力を高めることができた。

 ヌーイ氏はまた、 1998年の
   トロピカーナ
の買収や、 2001年に
   ゲータレード
を保有する
   クエーカー・オーツ・カンパニー
との合併にも携わった。
 33億ドルのトロピカーナ買収は当初、他のペプシコ幹部やウォール街の批評家から反対を受けた。
 クエーカーオーツカンパニーによるゲータレードの買収はペプシコにとって有利な動きだった。
 当時ゲータレードはスポーツドリンクの売り上げの80%を占めていた。

 トロピカーナ買収と同様に、この戦略的な動きはペプシコに、スポーツドリンク部門で2位の
   パワーエイド
を所有するコカコーラに対する優位性を与えた。
 ペプシコの年間純利益は27億ドルから65億ドルに増加した。

 ヌーイ氏は、2007年と2008年にウォール・ストリート・ジャーナルの注目すべき50人の女性のリストに選ばれた。
 また、 2007年と2008年にタイム誌の世界で最も影響力のある100人の一人に選ばれた。
 フォーブスは2008年に彼女を最も影響力のある女性の第3位に選んだ。

 ヌーイ氏のペプシコの戦略的方向転換は「目的を持ったパフォーマンス」と呼ばれた。
 社会と環境にプラスの影響を与えながら長期的な成長を生み出すことに焦点を当てていた。

 彼女はペプシコの製品を3つのカテゴリーに再分類した。
 「あなたにとって楽しいもの」(ポテトチップスや通常のソーダなど)、「あなたにとってより良いもの」(スナックやソーダのダイエット版または低脂肪版)、「あなたにとって良いもの」(オートミールなどの商品)である。

 2011年にペプシコのCEOを務めていたヌーイ氏は、基本給190万ドル、現金ボーナス250万ドル、年金価値、繰延報酬300万ドルを含む1700万ドルを稼いだ。
 2014年までに、彼女の総報酬は550万ドルの株式を含めて19,087,832ドルに増加した。

 ヌーイ氏がペプシコのトップを務めた最後の年である2017年、彼女は総報酬として3100万ドル以上を稼いだ。

 彼女は企業支出をジャンクフードからより健康的な代替品へと移し、「楽しい」製品でさえ健康を改善することを目指した。
 2015年、ヌーイ氏はダイエットペプシから
   アスパルテーム
を取り除いたが、2016年に世論の反発によりアスパルテームが再導入された。
 ヌーイ氏は環境問題と持続可能性にも重点を置き、廃棄物を減らすためにパッケージを再設計し、水を節約し、再生可能エネルギー源に切り替え、リサイクルを行った。
 また、従業員の定着率を高める文化の醸成にも取り組んだ。
 一例として、ヌーイ氏はリーダーシップチームの両親に手紙を書いたり、自宅を訪問したりして、より個人的なつながりを作った。

 ヌーイ氏は2015年から2017年の間に8700万ドルを稼いだ。
 彼女はペプシコ在籍中に一度も昇給を求めたことがないと主張している。 
 ヌーイ氏はイェール大学の後継フェローである。
 彼女は世界経済フォーラムの理事会、国際救済委員会、カタリスト、リンカーン舞台芸術センターのメンバーである。
 彼女はアイゼンハワーフェローシップの評議員会のメンバーであり、米印ビジネス協議会の議長を務めた。

 ヌーイ氏はワールド・ジャスティス・プロジェクトの名誉共同議長を務めている。
 2015年4月から2020年4月までシュルンベルジェ・リミテッドの取締役を務めた。
 2016年6月、テマセク・アメリカズ諮問委員会の初代チームの一員となった。

 2016年12月、ヌーイ氏は
が経済問題に関する戦略・政策アドバイスを提供するために開催したビジネスフォーラムに参加した。

 2018年8月6日、ヌーイ氏はCEOを退任し、ペプシコに22年間勤務した
   ラモン・ラグアルタ氏
が10月3日に後任となり、取締役会のメンバーにもなったが、ヌーイ氏は2019年初めまで同社の会長職を続けた。
 Equilarの調査によると、ヌーイ氏は12年間CEOを務め、大企業の平均CEO在任期間より7年長かった。

 2018年6月、ヌーイ氏は国際クリケット評議会の理事会に同組織初の独立女性理事として加わった。
 ヌーイ氏は2019年2月からアマゾンの取締役を務めている。
 ヌーイ氏は、1951年卒業のウェストポイントのリーダーシップ研究科長であり、MIT工学部の学部長諮問委員会のメンバー。
 また、MITコーポレーションのメンバーでもある。

 2018年、ヌーイ氏は、女性向けスナック製品の開発を、これまで未開拓の分野であると感じたため、特に女性向けに販売する意向を表明した。
 ラジオインタビューでヌーイ氏は、ペプシコは、男性と女性のスナックの消費行動の違いに基づいて、女性の好みに合わせて設計・パッケージングされた製品を発売する準備を進めていると述べた。
 ペプシコは一時、社名を変更して同名のコーラから離れることも検討した。
 しかし、健康志向の取り組みは失敗に終わった。

 2019年、ヌーイ氏はコネチカット州経済地域開発局との官民パートナーシップである新設の
   コネチカット経済資源センター
の共同所長に就任した。
 ヌーイ氏はコネチカット州在住で、コネチカット州知事
   ネッド・ラモント氏
のイェール大学経営管理学部の同級生である。

 2020年4月、ヌーイ氏はイェール大学の疫学者
   アルバート・コー博士
とともに、COVID-19制限の慎重な緩和を計画する6州の作業部会でコネチカット州を代表することが発表された。
 ヌーイ氏とコー氏はコネチカット州再開諮問グループの共同議長も務めた。
 
 インドラは1981年に
   アムソフトシステムズ
の社長である
   ラジ・K・ヌーイ
と結婚した。
 彼女の姉のチャンドリカ・クリシュナムルティ・タンドンは実業家であり、グラミー賞にノミネートされたアーティストでもある。
 南インドのカルナータカ音楽家 アルナ・サイラムはインドラのいとこである。

 2016年、ヌーイ氏は母校であるイェール大学経営大学院に非公開の金額を寄付した。
 彼女は同校史上最大の卒業生寄付者となり、高ランクのビジネススクールの学部長職に寄付した初の女性となった。

    
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チキンレースからの脱出はいつになるのか、カモネギがいなくなるタイミングは?

 モメンタム投資の戦略の大きな利益を受け、特に
   パッシブ型ファンド
の支市場配力が強まっていることもあり、こうした投資が株式市場で自己実現的なものになっているという懸念が強まっている。
    
 モルガン・スタンレーの米国株チーフストラテジスト
   マイケル・ウィルソン氏
は22日のリポートで「もう一つの要因として、投資家が投資戦略の主要な要素として価格モメンタムを利用する傾向が強まっていることが挙げられる」と指摘した。
 また、「ここ数年間で平均回帰が見られないことから、多くの投資家が勝ち組を保有し続けている」と続けた。
  
 ウィルソン氏はS&P500種構成銘柄で200日移動平均を上回っているものが少ないにもかかわらず、同指数が上昇を続けているという1つのアノマリー(変異性)を挙げた。 
    
  
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ヘルムート・ジェイムス・フォン・モルトケ(Helmuth James von Moltke)クライザウ・サークルの創設メンバー

ヘルムート・ジェイムス・グラーフ・フォン・モルトケ(Helmuth James Graf von Moltke)
   1907年3月11日 - 1945年1月23日
 ドイツの法学者であり、ドイツ連邦軍に徴兵され、第二次世界大戦中にドイツ占領地域の人々に対する
   ドイツの人権侵害を覆す活動
を行った。
 グラーフは、ナチス・ドイツの
   アドルフ・ヒトラー政権
に反対し、ヒトラー政権後の道徳的かつ民主主義的な原則に基づくドイツの展望を議論した反対派グループ
   クライザウ・サークル
の創設メンバーであった。
 ナチスは、これらの議論に参加したことを理由に、ゲシタポが主導した裁判でグラーフを国家反逆罪で有罪とし、処刑した。

 モルトケは、普墺戦争と普仏戦争の勝利を収めた指揮官で大モルトケとも呼ばれる
   ヘルムート・カール・ベルンハルト ・フォン・モルトケ元帥
の曾甥にあたり、モルトケからプロイセン領シロンスク(現在のポーランドのクシジョヴァ)のクライザウ領を相続した。
 モルトケはプロイセン王国シロンスク県クライザウ(現在のポーランド、シフィドニツァ県クジジョヴァ)で生まれた。
 母ドロシー(旧姓ローズ・イネス)はイギリス系南アフリカ人で、1914年から1927年まで南アフリカ連邦最高裁判所長官を務めた
   サー・ジェームズ・ローズ・イネス
とその妻ジェシー・ローズ・イネスの娘であった。

 モルトケの両親は
   クリスチャン・サイエンティスト
であり、母親は結婚後父親の宗教を受け入れた。
 父親はクリスチャン・サイエンスの実践者および教師となった。
 また、両親はメリー・ベーカー・エディ著のクリスチャン・サイエンスの教科書『科学と健康:聖書の鍵』のドイツ語初版を翻訳したグループに所属していた。
 家族の伝統により、モルトケは14歳のときにプロイセン福音教会の堅信礼を受けることを決意した。
 
 1927年から1929年まで、モルトケはブレスラウ、ウィーン、ハイデルベルク、ベルリンで法律と政治学を学んだ。
 1928年、モルトケは大学教師や青年運動指導者らと関わり、
   レーヴェンベルク労働組合
の組織に参加した。
 この組合では、失業中の若い労働者や若い農民が学生と集められ、互いに学ぶ機会が与えられた。
 彼らはまた、公民権、義務、権利についても議論した。
 クライザウでは、モルトケは農地の未使用部分を農業の立ち上げのために確保したが、近隣の地主から厳しい批判を受けた。

 1931年、彼はオーストリアで出会った
   フレイヤ・ダイヒマン
と結婚した。
 1934年、モルトケは法学部の試験を受けたが1935年、ナチ党に入党することを避けるため、裁判官になる機会を断った。
 代わりに、ベルリンで弁護士事務所を開いた。
 国際法を扱う弁護士として、彼は
   ヒトラー政権の犠牲者の移住を支援
し人脈を維持するために海外を訪れた。
 1935年から1938年の間、モルトケは定期的にイギリスを訪れ、ロンドンとオックスフォードで英国の法律教育を修了した。
 
 1939年、第二次世界大戦はドイツのポーランド侵攻で始まった。
 モルトケはポーランド戦役の開始直後、ドイツ海軍のヴィルヘルム・カナリス提督が率いる
   国防軍最高司令部(Oberkommando der Wehrmacht)対外情報部
によって、戒厳令と国際公法の専門家として召集された。

 モルトケの国防軍最高司令部での任務は主に、海外の武官や外国の新聞、軍事政治的に重要なニュースなどから情報を集め、その情報を国防軍に伝えることだった。
 彼は国防軍最高司令部と外務省とのつながりを維持したが、何よりも
   国際戦時法の問題
の評価を行った。
 ナチス支配のドイツにおいては異例なことに、彼は軍服を着ないことを選んだ。

 ドイツ占領下のヨーロッパを旅して、彼は多くの人権侵害を目にし、法的原則を引用してこれを阻止しようとした。
 モルトケは、捕らえられた
   ソ連の戦争捕虜
を1929年のジュネーブ条約に従って扱うべきだと主張した数少ない役人の一人であった。
 この条約はドイツが署名し、法的に従う義務があった。

 1941年10月、モルトケは手紙の中で「確かに毎日1000人以上がこのように殺害されており、さらに1000人のドイツ人が殺人を習慣化しています...。その時何をしていたのかと聞かれたら、何と答えればよいでしょうか?」と書いている。
 同じ手紙の中で、「土曜日以来、ベルリンのユダヤ人は一斉に集められています。そして、彼らは持ち運べるものだけを持って送り出されます...。これらのことを知りながら、自由に歩き回れる人がいるでしょうか?」とも書いている。

 モルトケは自身の評価が軍事行動に人道的影響を与えることを期待した。
 カナリスや中央軍司令官ハンス・オスター少将などの
   反ヒトラー派将校
らの支持を得ていた。
 ナチスドイツとソ連の戦争中、モルトケは
   ドイツ国防軍
に対し、国際法を遵守し、ドイツ人捕虜に対する相互の善良な待遇を促進するために、
   ジュネーブ条約
   ハーグ条約
の両方に従うよう促す覚書を書いたものの、その勧告はヴィルヘルム・カイテル元帥によって却下された。
 なお、余白に「異議は騎士道的な戦いという軍事概念から生じる」と走り書きされた。

 モルトケは国際法と政治的推論を援用してオランダでの人質射殺を阻止した。
 さらに、デンマークのレジスタンス運動にデンマークのユダヤ人の強制移送が迫っていることを警告した。
 また、コペンハーゲンからスウェーデンのマルメへの船による大量避難をもたらした。
 モルトケは移送と人質射殺に関する情報を入手したことで、戦争とナチ党の計画全体に対して反対の姿勢を強めた。

 モルトケは、1938年に裕福な相続人とファッションショッピング客を装ってパリにやって来たブラジルのスパイ
   エメ・ソット・マイオール(別名デ・ヘーレン)
と会談し、ブラジルの
   ジェトゥリオ・バルガス大統領
にドイツとの同盟を思いとどまらせることができた。

 ドロシー・トンプソンは、当時最も有名で称賛されていたジャーナリストの一人であり、戦時中に「ハンス、聞け! 」というラジオ番組を担当していた。
 この放送はドイツ語で、「ハンス」とだけ特定された架空のプロイセンのユンカーに宛てられたものだった。
 トンプソンは後に、自分が放送で話しかけた「ハンス」という人物は実際にはヘルムート・ジェイムズ・フォン・モルトケ3世であったと説明した。

 1943年、モルトケは2度イスタンブールを訪れている。
 表向きの理由はトルコに押収されたドイツ商船を取り戻すためだったが、本当の理由は、ドイツ軍の反ヒトラー分子、トルコに住む
   ドイツ難民
   OSSのメンバー
   アプヴェーア(ドイツ軍諜報部)
並びに、トルコ駐在ドイツ大使
   フランツ・フォン・パーペン
による連合軍による戦争終結への取り組みに参加するためだった。
 このグループは連合国に報告書を渡し、それは
   フランクリン・ルーズベルト大統領
に届いていた。
 しかし、ヘンリー・モーゲンソー・ジュニアを含むルーズベルトの顧問たちは報告書の信憑性に疑問を呈していた。
 
 モルトケはまた、戦争や
   ナチスの強制収容所
について、自分が知り得た情報を、占領下のヨーロッパの
   レジスタンス運動
のメンバーを含むナチ党外の友人たちに密かに広めていた。

 戦後、機密解除された英国の文書によると、彼はオックスフォード大学の友人を含む英国当局者に2度接触し、「どんなことでも」協力すると申し出たが、英国は彼をスペイン駐在のドイツ大使である叔父と勘違いして1度目は拒否し、2度目の申し出に対しては「話」ではなく「行動」を求めると返答した。

 モルトケは強い宗教的信念を持っていた。
 1942年にイギリス人の友人
   ライオネル・カーティス
に密かに送った手紙の中で、モルトケは「今日、ドイツ国民の多数ではないが、活発な一部は、自分たちが道に迷ったということや、悪い時代が待ち受けているということ、戦争が敗北に終わるかもしれないということではなく、今起きているのは罪であり、犯されたすべての恐ろしい行為に自分たちが個人的に責任を負っているということに気づき始めている。もちろん、地上的な意味でではなく、キリスト教徒としてだ」と書いている。
 同じ手紙の中で、モルトケは、第二次世界大戦前は、神を信じなくても国家社会主義に全面的に反対することは可能だと信じていたが、今では以前の考えは「間違っている、完全に間違っている」と断言した。
 モルトケの意見では、神を信じることでのみ、ナチスの全面的な反対者になれるのだと述べた。

 モルトケはベルリンでナチズムに反対する知人の輪を持っていて、そこで頻繁に会合していたが、クライザウで会合したのは3回だった。
 この3回の偶発的な集まりが「クライザウサークル」という用語の由来となった。

 クライザウでの会合では、比較的無害な話題から始めて、よく整理された議論の議題が議題に上がった。
 1942年5月の第1回会合の話題には、ナチズムの台頭を阻止できなかったドイツの教育機関と宗教機関の失敗が含まれていた。
 1942年秋の第2回会合のテーマは、ドイツの敗北を想定した戦後復興だった。
 これには経済計画と自治の両方が含まれ、欧州連合より前の汎ヨーロッパの概念が発展し、文書化された決議にまとめられた。

 1943年6月の第3回会合では、独裁政権崩壊後に
   ナチスの戦争犯罪の遺産
をどう扱うかが話し合われた。
 これらの会合やその他の会合の結果、「新しい[ナチス後の]秩序のための原則」と「地方委員への指示」という作品が生まれ、モルトケは妻のフレイヤに、それを彼自身も知らない場所に隠すように頼んだ。

 モルトケはヒトラーの暗殺に反対していた。
 暗殺が成功すればヒトラーは殉教者となり、失敗すれば第三帝国の崩壊後に民主国家を建設できると期待できる
   ドイツ指導部の少数の人物が危険にさらされること
になると彼は信じていたためだ。
 1944年7月20日、ヒトラー暗殺未遂事件が発生した。
 ナチスの秘密警察ゲシュタポはこれを口実にナチス政権に反対する者を広く強制排除した。
 この陰謀の結果、ヒトラーの政権に反対者約5,000人が処刑された。
 
 モルトケの考え方と国際法に反する命令への反対は、どちらも彼を逮捕の危険にさらした。
 ゲシュタポは1944年1月にモルトケを逮捕した。
 1年後の1945年1月、彼は他の数人の体制反対派とともに、ローラント・フライスラー裁判長の人民裁判所に召喚された。
 モルトケがクーデターを起こす陰謀に関与したという証拠は見つからなかった。
 このため、フライスラーは新たに告訴をでっち上げた。
 モルトケとその友人らは、ヒトラーの死後に発展し得る
   道徳的かつ民主主義的な原則
に基づくドイツについて議論していたため、フライスラーはこの議論を反逆罪とみなした。
 モルトケは、自分が処刑されるのは行動のためではなく、思想のためであるとかなり誇らしげに述べていた。
 この点はフライスラーが何度も強調していた。
 モルトケは手紙の中で「プロテスタントとしてでもなく、大地主としてでもなく、貴族としてでもなく、プロイセン人としてでもなく、ドイツ人としてでもなく、キリスト教徒として法廷に立った」と主張した。

 モルトケは1945年1月11日に死刑を宣告され、12日後にベルリンのプレッツェンゼー刑務所で絞首刑に処された。
 拘留中に書いた手紙の中で、彼は2人の息子に抵抗の動機を明らかにしていた。 

   
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ジョン・W・ヘンリー(John W. Henry)投資管理会社 ジョン・W・ヘンリー・アンド・カンパニー(John W. Henry & Company)の創設者

ジョン・ウィリアム・ヘンリー2世
         (John William Henry II )
   1949年9月13日生まれ
 米国の実業家であり、投資管理会社
   ジョン・W・ヘンリー・アンド・カンパニー(John W. Henry & Company)
の創設者で
   ボストン・レッドソックス
   ピッツバーグ・ペンギンズ
   ボストン・グローブ
の主要所有者であり、
   RFKレーシング
の共同所有者でもある。
 2024年10月現在、フォーブスは彼の純資産を60億米ドルと推定している。

 ヘンリーは、1949年9月13日にイリノイ州クインシーで
   ジョン・ウィリアム・ヘンリー・シニア
   ロイス・ヘンリー(旧姓オズボーン)
の息子として生まれた。
 両親は大豆農家で、彼はイリノイ州とアーカンソー州を行き来しながら育った
 15歳の時、喘息のため家族はカリフォルニア州アップルバレーへ引っ越した。
 ヘンリーはカリフォルニア州ビクタービルのビクターバレー高校に通い卒業した。

 ヘンリーはその後、ビクターバレー大学、カリフォルニア大学リバーサイド校、カリフォルニア大学アーバイン校、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)の4つの大学に通ったが卒業せず、UCLAでは哲学を専攻した。
 彼は卒業できなかったのは、
   エリシアン・フィールズ
   ヒラリー
という2つのバンドで演奏やツアーをしていたためだと考えている。
 
 ヘンリーは、トウモロコシと大豆の先物取引を始めた。
 これは、貯蔵庫に保管されているか、あるいは畑に置かれているかにかかわらず、これらの商品の在庫を保有することによる
   価格変動リスク
をヘッジする基礎を学ぶためであった。
 1976年に
   レイノルズ証券
の商品ブローカーが彼に
   他の農家へのアドバイス
を依頼したが、彼は断った。
 最初の妻マイとノルウェーで夏を過ごした後、ヘンリーは
   先物取引口座
管理するために
   機械的なトレンド追従法
を開発した。

 1983 年の彼のマーケティング資料にはトレンド反転法を「自分のお金を使って」テストしたと記述されていた。
 この方法は、市場から外れることはなく、口座の「バスケット」にある商品のすべての市場で常にポジション (ロングまたはショート) を保持するものであった。
 この試みが成功すると、彼は1981年に
   ジョン・W・ヘンリー・アンド・カンパニー
を設立した。
 カリフォルニア州アーバインの空港向かいに小さな事務所を開設し、米国最大の商品仲買会社に自身の経営を売り込み始めた。
 これが大成功したため、1983年までに彼はニューポートビーチのファッションアイランドの事務所に移転した。
 1989年、ヘンリーはコネチカット州ウェストポートに移転した。
 2年後、ヘンリーはボカラトンに2つ目の事務所を設立した。
  
 JWH は 1981 年に設立され、1982 年に個人顧客の受け入れを開始した。
 同社の管理方法は、各市場の方向の反転の体系的な判断に応じて機械的で裁量によらない取引決定を下した。
 その明確な意図は、
   人間の感情
だけでなく、
   ファンダメンタルズ
など価格動向以外の要因の主観的評価を排除して
   各市場での買いか売りかの決定
をトリガーしないようにすることであった。

 2006年3月、ボストン誌はヘンリーの純資産を11億ドルと推定したものの、彼の会社が最近困難に直面していると報じた。
 2012年11月9日、同社は2012年12月31日までに顧客の資金運用を停止すると発表した。
 ヘンリー氏は同社の運用資産総額が2006年の25億ドルから2012年末時点で1億ドル未満に減少したことを確認した。
  
 ヘンリーは、
特にスター選手である
   スタン・ミュージアル
のファンとして育った。
 財産を築いた後、彼が最初にプロスポーツ界に進出したのは、 1989年にパシフィック・コースト・リーグの
   ツーソン・トロス
というマイナーリーグのチームを買収したときだった。
 彼はまた、引退したメジャーリーグ選手で構成されたフロリダのウィンターリーグ、シニア・プロ野球協会の創設者の一人でもあった。

 ヘンリーは、1989-90シーズンの優勝チームである
の共同オーナーであり、
の1967年チーム(「インポッシブルドリーム」チームとして知られた)の元監督
   ディックウィリアムズ
が監督を務めていた。

 1990年、ヘンリーはチームの株式を売却し、リーグは翌年廃業した。
 同年、彼は全米バスケットボール協会(NBA)のチームである
   オーランド・マジック
の買収交渉を行った。
 また、彼は短期間、メジャーリーグの拡張チームである
の主任ゼネラルマネージャーを務めた。
 また、フロリダにある
の拡張チームの買収を試みるグループを率いた。
 この買収は最終的に、
を創設した
   フィル・エスポジト
   トニー・エスポジト
に与えられた。
 ヘンリーはその後、マイアミ・ヒート、後にニュージャージー・ネッツの買収交渉を行った。

 ヘンリーは1991年に
の株式を少し購入してメジャーリーグに参入した。
 1999年に
の単独オーナーとなり、
   ウェイン・ヒュージンガ
から同球団を1億5800万ドルで買収したと報じられている。
 2002年1月、ヘンリーはマルチフランチャイズ契約でマーリンズを当時
   モントリオール・エクスポズ(現在はワシントン・ナショナルズ)
のオーナーだった
   ジェフリー・ロリア
に売却した。
 
 2001年、ヘンリーは
   トム・ワーナー
   ニューヨーク・タイムズ社
その他の投資家と提携して
   ニューイングランド・スポーツ・ベンチャーズ(NESV)
を設立し、
   ジョン・ハリントン
が率いるヤウキー・トラストから
   ボストン・レッドソックス
を買収する入札に成功した。
 ヘンリーはレッドソックスの主要オーナーとなり、ワーナーが会長に就任した。
 同社はその後、イングランド・プレミアリーグのクラブ
   リバプールFC
   ピッツバーグ・ペンギンズ
   ニューイングランド・スポーツ・ネットワーク
   フェンウェイ・パーク
   フェンウェイ・スポーツ・マネジメント
などの資産の過半数の所有者となった。

 2009年、同社はフランスのリーグ1のクラブ
の買収に失敗したことで、ヨーロッパのスポーツ界に初めて進出した。

 NESVは2011年3月に
に社名を変更した。
   
 ヘンリーは、フェンウェイパークを取り壊して隣に新しいスタジアムを建設するという前オーナーの計画をキャンセルした。
 代わりに、ヘンリーはフェンウェイを改修し、
   グリーンモンスターの上に観客席を追加
するなどして、2012年に公園が100周年を祝うことを可能にした。

 ヘンリーとワーナーは、「バンビーノの呪いを解く」という目標を掲げ、
   ラリー・ルッキーノ
が率いるフロントオフィスチームを編成した。
 また、野球のセイバーメトリクスの先駆者である
   ビル・ジェームズ
も雇った。
 ジェームズの業績は2003年の『マネーボール』出版後に広く知られるようになった。

 ヘンリーは2004年のワールドシリーズで、子供の頃に好きだった
   カージナルス
を破り、目標を達成した。
 チームは2007年のワールドシリーズで、ヘンリーが拡張前に関わっていたフランチャイズであるロッキーズを破り、2018年のワールドシリーズではドジャースを破って優勝した。
 レッドソックスは2013年のワールドシリーズでもカージナルスを破った。

 2017年8月、ヘンリーはチームがボストンのフェンウェイパークがある地区であるヤウキーウェイの名称変更運動を主導すると述べた。
 レッドソックスはメジャーリーグベースボールで最後に統合したチームであり、ヘンリーは「我々が到着するずっと前にここで起こったことが今でも頭から離れない」と語った。
 この変更はボストン市によって2018年4月に承認され、名前は2018年5月にジャージーストリートに戻された。
 
 2010年10月、フェンウェイ・スポーツ・グループが
   リバプールFC
を買収した。
 UEFAファイナンシャル・フェアプレー規則がこの決定の要因となった可能性がある。
 前オーナーの
   トム・ヒックス
   ジョージ・N・ジレット・ジュニア
は、クラブに負債を負わせないという約束を果たせなかったこと、リバプールがアンフィールドを去るという提案を監督とフロントオフィスに対する無礼な扱いとして行ったこと 、選手への計画的および過去の投資に関する誤解を招く発言をしたことで、リバプールファンの間で非常に不評だった。

 負債を抱えたクラブの強制売却で約1億5400万ポンドを失った。
 その後、ヒックスとジレットは、自分たちが被った「異常な詐欺」に対して共同所有者と債権者を少なくとも16億ドルで訴えると発表した。
 2013年1月、ヒックスとジレットは控訴院での訴訟に敗訴し、訴訟を取り下げることに合意した。

 2012年2月26日、リヴァプールはウェンブリー・スタジアムで行われた2012フットボールリーグカップ決勝で
   カーディフ・シティ
を90分終了時点で1-1、延長戦で2-2で引き分けた後、PK戦で3-2で破り優勝した。 
 これは2006年5月13日にカーディフのミレニアム・スタジアムで
   ウェストハム・ユナイテッド
に勝利した2006 FAカップ決勝以来のリヴァプールの優勝だった。

 2012年5月、彼はリーグ戦の成績不振を理由に監督でありクラブの象徴である
   ケニー・ダルグリッシュ
を解雇するという物議を醸す決断をした。
 これはダルグリッシュの友人である
   アラン・ハンセン
など一部のサッカー評論家からは、降格圏から4ポイント上のクラブをカップ戦優勝に導くというダルグリッシュの成功を考えると、悪い決断だとみなされた

 2012年7月、ブレンダン・ロジャーズを新監督に就任させることに成功した後、ヘンリーはダルグリッシュとの袂を分かったのはFAカップ優勝の失敗やスアレス事件とは無関係であり、2011-12シーズン後半のリーグ戦でのクラブの成績不振によるものだと語った。

 2013-14シーズン、ロジャーズ監督はリヴァプールを20年以上ぶりのプレミアリーグ優勝に導くところだった。
 しかし、翌シーズンのパフォーマンスの低迷と2015-16シーズンの悪いスタートにより、ヘンリーは2015年10月4日にブレンダン・ロジャーズ監督を解任した。 

 2015年10月8日、ヘンリーは
   ユルゲン・クロップ
をリヴァプールFCの新監督に任命した。
 ]この動きはリヴァプールのサポーターから賞賛され、クラブに対するヘンリーの野心の表れとみなされた。
 クロップは2015-16シーズンにリヴァプールを2回の決勝(リーグカップとヨーロッパリーグ)に導いた。

 2018年、リヴァプールは11年ぶりにチャンピオンズリーグ決勝に進出した。
 2019年、リバプールは2年連続でチャンピオンズリーグ決勝に進出し、同じイングランドのクラブ
   トッテナム・ホットスパー
を2対0で破って優勝した。
 リバプールは2019-20シーズンにプレミアリーグのタイトルを獲得した。
 これはリバプールにとって30年ぶりのリーグタイトルであり、プレミアリーグ創設以来の初タイトルでもある。

 2021年4月、リバプールは欧州スーパーリーグの創設メンバーとして発表された。
 これは事実上、欧州サッカーのピラミッドシステムを終わらせ、リバプールを実力主義の降格や昇格の見込みのない
   閉鎖的なリーグ
に位置付けるものだった。
 リバプールと関係する他の5つのイングランドのクラブは、強い反発を受けて2日以内に撤退した。
 これを受けてヘンリーは、起こった出来事の責任を取ってリバプールのファンに公式謝罪した。
 
 2007年、ヘンリーのフェンウェイ・スポーツ・グループは、
   ジャック・ラウシュ
のラウシュ・レーシング・ストックカー・レーシング・チームの株式50%を買収した。
 ドライバーの
   マット・ケンゼス
は、2007年2月にカリフォルニア・スピードウェイで開催されたオートクラブ500で優勝した。
 ヘンリーにとってオーナーとしての初勝利となった。

 2009年2月、チームはマット・ケンゼスとともに初のデイトナ500で優勝した。
 ヘンリーは現在、NASCARカップ・シリーズのドライバー
   クリス・ブッシャー
が運転する#17フォードのオーナーとして登録されている。

 2004 年 9 月、Henry と David Kaemmer は、現実世界のレーサーとレーシング シミュレーター愛好家の両方を対象としたレーシング シミュレーション サービスを開発するために
   iRacing.com Motorsport Simulations
を設立した。
 このサービスは 2008 年 8 月に開始されました。
 
 2013年8月3日の未明、ボストン・グローブ紙とニューヨーク・タイムズ紙はともにウェブサイトで、ヘンリー氏が
   ボストン・グローブ紙
とマサチューセッツ州ウースター市の
   テレグラム・アンド・ガゼット紙
および関連するニューイングランドのメディア資産を
   ニューヨーク・タイムズ社
から現金7000万ドルで買収することに合意したと報じた。

 ニューヨーク・タイムズ社は1993年にボストン・グローブ紙を11億ドルで買収した。
 グローブ紙の記事ではヘンリー氏を「大胆な賭けに出た経歴を持つ内気なビジネスマン」と表現した。
 タイムズ紙の記事ではタイムズの広報担当者アイリーン・マーフィー氏が売却契約を確認したと伝えた。
 記事によると、ヘンリーは当初、グローブの不動産の入札に参加したパートナーのグループの一員だった。
 、最終的には個別に取得することに合意した。
 しかし、タイムズ紙の記事は、彼が「今後数日中に、このコミュニティへの取り組みと努力に私と一緒に参加する人々に関する発表があるだろう」と述べたと報じた。

 発表後、サンディエゴ・ユニオン・トリビューン(当時は「UTサンディエゴ」として知られていた)の所有者は、ヘンリー氏よりも高い入札でグローブ紙を買収した。
 しかし、タイムズ社の経営陣が公正に手続きを行なわず、タイムズ社の株主に損害を与えたと主張した。

 2014年、ヘンリーは
   ウースター・テレグラム・アンド・ガゼット
をハリファックス・メディア・グループに売却した。
 ハリファックス・メディア・グループは2011年にニューヨーク・タイムズ・カンパニーの旧新聞16社を買収していた。
   
 2024年アメリカ功労アカデミーのゴールデンプレート賞、レッド・ツェッペリンのギタリスト兼創設者、ジミー・ペイジより授与された。
 
 ヘンリーはOut of the Park Ba​​seballなどの野球シミュレーションゲームを楽しんでいると伝わっている。
 
 ヘンリーは、2011年の映画『マネーボール』でアーリス・ハワードによって短期間演じられた。
 この映画は、2002年にオークランド・アスレチックスのゼネラルマネージャー
   ビリー・ビーン
が常勝チームを作り上げようと奮闘する様子を描いたもの。
 映画の終盤で、ビーンはボストンのフェンウェイパークに行き、ヘンリーと会うった。
 ヘンリーはビーンをレッドソックスの新ゼネラルマネージャーに任命したがっていた。
 この映画では、ビーンがボストン・レッドソックスとの5年間1250万ドルの契約を断り、オークランド・アスレチックスに戻る様子が描かれている。
 レッドソックスはビーンを雇用できなかったにもかかわらず、彼の「マネーボール」のアイデアの多くを実行した。
 2004年のワールドシリーズで優勝した。
 なお、レッドソックスとしては86年ぶりの優勝を果たしたとも付け加えられている。

   
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アリババが韓国事業統合でEマートと合意し、40億ドルの合弁設立へ

 中国の電子商取引大手
   アリババグループ
は、韓国事業を
   Eマート
の電子商取引プラットフォーム「Gマーケット」と統合することで合意した。
 急成長する韓国のオンライン小売りセクターで競争力の強化を図る動きのひとつ。

 韓国のEマートが証券取引所に提出した資料によれば、アリババ傘下の
   アリエクスプレス・インターナショナル
   Gマーケット
は折半で合弁会社を設立するという。

 Gマーケットを完全保有する予定のこの合弁会社に対しては追加投資がなされる予定とも。

 同合弁は約40億ドル(約6300億円)と評価される可能性があると、この事情に詳しい関係者が非公開情報だとして匿名を条件にメディアの取材で明かしていた。
  
   
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マイケル・デヴァー(Michael Dever)投資管理会社 ブランディワイン・アセット・マネジメント社の創設者兼CEO。

マイケル・デヴァー(Michael Dever)
 米国の実業家、先物トレーダー、作家で投資に関する書籍「ジャッカス投資:やるな。利益を生め。」の著者。
 デヴァーは、1982年に設立された投資管理会社
の創設者兼CEO。

 ブランディワインのオフィスは、ペンシルベニア州フィラデルフィア郊外のブランディワイン渓谷にある、
   受賞歴のある改装された17世紀の製粉所
に設置されている。

 デバーは1979年に個人的な裁量取引を開始し、30年以上トレーダーおよび投資家として活動している。
 デバーは
   ジョン・W・ヘンリー
とともに初期の投資家であった。
 デバー氏は30年以上にわたり、彼の革新的な投資哲学に魅了された世界的な銀行、大企業、富裕層の資産運用を行ってきた。
 デバーは1982年に
を設立した。 
 1980年代に商品価格の動向に関するコンピューター研究を始めた。
 彼が今日使用している基礎研究とポートフォリオモデリングの概念は、1987年から1991年にかけてブランディワインが
   ペンシルバニア大学ウォートン校
   ヴィラノバ大学
   ウエストチェスター大学
など複数の大学のスタッフ研究者、学生、教員を使って実施した
   大規模な研究プロジェクト
を通じて開発された。
 これらの研究の目的は、デバーが蓄積したすべてのアイデアをテストし、統計的に有効かどうかを判断することであった。
 ブランディワインはマルチ戦略アプローチを実装している。
 ブランディワインの哲学は、プレミアムコストのかかるヘッジを購入するのではなく、ポートフォリオに互いに補完し合う複数の取引戦略を組み込むことで、比較的ヘッジされたポートフォリオを作成することである。

 ブランディワインは、「リターンドライバー」に基づく方法論に従って、世界の通貨、金利、株価指数、金属、エネルギー、農産物先物市場で幅広く分散されたポートフォリオを取引している。
 リターンドライバーは、市場の価格を動かす根本的な理由である。
 各戦略は、将来発生する可能性が高くする必要がある。
 ブランディワインの取引アプローチは基礎に基づいており、体系的に適用されている。

 ブランディワインンの取引は先物のみに焦点を当てている。
 これは、デバー氏が先物が1つの投資タイプで最も幅広い分散化を提供できると考えている。
 さらに、先物は株式よりも取引コストが低いため、投資マネージャーは株式市場よりも比較的
   少数の先物市場
ではるかに大きな分散化を実現できる。
  
 実際に再建された稼働中の製粉所の水車を含む
   製粉所の改装プロジェクト
は、デバー・アーキテクツの代表でありマイケルの兄弟である
   トーマス・デバー
によって設計された。
 このプロジェクトは、フィラデルフィア・ビジネス・ジャーナルから1997年の建築優秀賞を受賞した。
 
 デバーはインターネット起業家で、2000年にテクノロジービジネスを運営するベンチャー開発会社であるマインドドライバーズLLCを設立した。彼は2000年代の10年間のほとんどをテクノロジー関連ビジネスの設立と運営に費やした。
 デバーは1996年に初期の電子商取引サイトである
   Spree.com
を設立し、社長兼CEOを務めた。
 Spree.comはバイラルマーケティングとアフィリエイトマーケティングの先駆者となり、世界で7番目にトラフィックの多い電子商取引会社に成長した。
 デバーの取引哲学は幅広い戦略と市場の多様化に基づいている。

 デバーはリスク管理の先駆者であり、最も初期の包括的リスク管理モデルの一つを開発した人物として知られている。
 1980年代に、彼は統計に基づいた資金管理とリスク配分モデルを開発した。
 このモデルの目的は、ポートフォリオ内の戦略と市場に均等に重み付けを割り当てて、すべての戦略と市場の組み合わせからの収益のバランスを維持することであった。
 このポートフォリオ配分モデルの意図は、長期間にわたって単一の市場または戦略と市場の組み合わせがポートフォリオを支配しないようにすることである。
 それ以来、この取引モデルの要素はリスクパリティ投資として普及してきた。

 真の分散投資は、資産クラスではなく、リターンの原動力と取引戦略に分散投資することによってのみ達成できる。
 ほとんどの投資家は、資産クラス(株式や債券など)に基づいてポートフォリオを構築し、そのポジションを長期にわたって保有するように教えられている。
 デバー氏によると、このアプローチはギャンブルに等しいとのことである。

 デバーは取引戦略の永続性に焦点を当て、時間の経過とともに(1世代以上)有効であり続ける可能性が高い戦略の開発を目指している。
 デバーは短期的な技術主導の戦略に自信がないという。
 なぜなら、これらの戦略は健全なリターンの要因に基づいておらず、ほとんどの場合ランダムであると考えているためだ。

 取引戦略には、リターンドライバーを活用するシステムと、リターンドライバーによって約束されたリターンを獲得するのに最適な市場という2つの要素がある。
  
   
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内乱容疑などの捜査で、3回目の出頭要請も拒否

 韓国の聯合ニュースは尹錫悦大統領による
   「非常戒厳」の宣布
を巡り内乱容疑などの捜査を行う
   高位公職者犯罪捜査庁(公捜庁)
が、大統領に3回目の出頭要請を行ったが、拒否されたと伝えた。
 聯合によると、29日午前10時(日本時間同)に出頭するよう求めたが、応じなかった。
 出頭要請が繰り返し拒否されたことで、捜査機関が身柄拘束に向けた手続きに入る可能性が高まったと聯合は指摘した。
 ただ、任意捜査であれば拒否することも可能であり、身柄拘束に向けた手続きができるかどうかも不明だ。
 
 高位公職者犯罪捜査庁(高位公職者犯罪捜査処  고위공직자범죄수사처 )は、大韓民国で親北朝鮮・反日政策を強化した
   文在寅政権
が設置した国家機関で、大統領、国会議長、大法院長などの高位公職者の犯罪捜査を専門とする独立機関として2021年1月21日に発足したが、2021年末、高位公職者犯罪捜査処の捜査対象では無い
   民間人の通信記録
などを照会していた事実が明らかになった。
 この対象になったのは、野党国民の力議員や、反北朝鮮・保守系の朝鮮日報・中央日報などの大手メディア記者など、公捜処に批判的な人物が多数含まれていた。
 また、韓国駐在の中日新聞・東京新聞・朝日新聞現地記者も対象としていた。

 なお、高位公職者が判事、検事等の場合には、起訴する権限も有しており、文在寅の支持をする勢力下の機関とも言われている。
 
   
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劇場型政治家の政治手法の信頼性は低く、外交を弄ぶ交渉手法が一般の商業取引と同じでは早々破綻する結末を迎えるだろう

 トランプ政権が仕掛ける貿易戦争への予備的な動きの問題は、あらゆる予防策にもかかわらずトランプ氏の
   1期目の貿易戦争
を耐え抜いた一部の企業の戦略が
   今回も機能する保証はない
ことが考えられるといった安直な思考が背景にあることだ。
 
 トランプ氏が11月終盤、中国製品に10%の追加関税、カナダとメキシコからの全製品に25%の関税を課すと脅したことから、今回は同盟国と敵対国の双方がトランプ氏の標的となってしまっている。
 
 トランプ支持派の中には利益相反の勢力が多く含まれており、問題が次から次に沸き起こる可能性もあり、経済が不安定化するリスクは高い。
 日本政府は円安低金利などという長期政権維持のために米国経済に軸足を移してきたが、早急に内需拡大の政策に転換し、円高と金利の大幅引き上げが必要だろう。
  
    
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米国太平洋側の港湾施設が輸入急増で物流網がショートしかねない

 ロサンゼルス港とロングビーチ港から成る、米国で最も取扱量が多いコンテナターミナルでは、トランプ氏が1期目で中国製品に関税を課した際と大して違わない
   輸入貨物の急増
を経験しているという。
 両港とも7−9月(第3四半期)に新型コロナウイルスの
   パンデミック(世界的大流行)時の記録
を破り、来年も高水準の取扱量が続くと予想されている状況にある。

 輸入制限への対応として、米国企業の注文の前倒しは11月5日の大統領選のかなり前から始まっていた。
 ただ、現在も港湾で散見されており、ロサンゼルス港だけでも11月の輸入コンテナ取扱量が前年同月比で19%増となった。
 なお、2024年はロングビーチ港の取扱量が過去最多になると見込まれているが南カリフォルニアでの貨物ラッシュはおそらく長くは続かず、後々に落ち込むことになることが予想されている。

 ロングビーチ港の
   マリオ・コルデロCEO
は12月、会見で記者団に対し「全国的な輸入の急増は25年春まで続く可能性がある」と述べた。
 ただ、「18年にはトランプ政権下で課された関税により中国からの輸入が20%減少し、報復措置により中国に対する輸出が45%減少した」と明かした。
  
 関税以外にも、1月下旬に始まる中国の春節休暇前の典型的なラッシュや、トランプ次期大統領の就任式の数日前に米港湾労働者が新たなストライキを実施するとの見通しも懸念材料となっており、現在は駆け込み需要が高い段階にあるようだ。
 
   
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トランプにより引き起こされるであろう世界的な貿易戦争がロシアや中国ンによる軍事リスクより大幅に高い

 オックスフォード・エコノミクスが12月10日までの2週間に156社を対象に実施した調査によると、
   世界的な貿易戦争
が今後2年間で世界経済に
   非常に大きなリスク
をもたらすとの回答が全体の65%に達した。
 なお、ロシアと北大西洋条約機構(NATO)の対立については38%、中国と台湾の紛争は14%で、軍事的なリスクよりも大きな割合であった。
  
  
posted by まねきねこ at 06:54| 愛知 ☁| Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

アブラハム・シャフハウゼン(Abraham Schaaffhausen)ケルンに設立された 3 つの最も成功した民間銀行の 1 つA.シャフハウゼンシャー銀行フェラインを経営

ヨハン・アブラハム・アントン・シャフハウゼン
       (Johann Abraham Anton Schaaffhausen )
   1756年6月22日 ー 1824年1月13日
 アブラハム・シャフハウゼンの祖父
   アンドレアス シャフハウゼン(1654年ー1740年2月7日)
はケ​​ルンに移り、1682年に「大市民権」を受け取った。
 彼は「布地主」の職を歴任し、後には「ビール主」およびブランデー蒸留所の監査役も務た。
 彼の息子、ヨハン・ヴォルター・シャフハウゼン(不詳ー1786年6月9日)は、1726年1月22日に洗礼を受けたアブラハム・シャフハウゼンの父親であり、銀行家、商人、ケルン市議会議員、聖ヤコブ教区の教会長でした。
 母親のマリア・シビラ (1729年6月30日 ー 1815年7月27日) は、ケルン・ヴェリンゲンの裁判員
   ヨハン・ハインリヒ・クナーベン
の娘であった。

 シャフハウゼンは父親の会社で職業訓練を受けた。
 1777年3月10日にケルン市の住民登録を行った後、父親の会社で働きながら、1805年から
   ボワセレー A. シャフハウゼン
という名前で操業していたケルンの磁器とファイアンスの工場に参加した。
 なお、1822年に閉鎖された。
 彼は父親の事業を引き継ぎ、1790年または1791年に設立した貿易会社を法人化したと見られる。
 この会社は、輸送、運送、不動産に加えて、銀行業務も行っていた。
 銀行業務はますます重要になり、商品取引活動を通じて銀行事業に必要な資本を生み出した。

 彼は会社の事業煮徐々に物品の取引をやめ、銀行業務のみを行った。
 1797年以降、彼はトランクガッセ2418 の「銀行家」、手数料および運送業者としてケルンの住所録に記載された。
 ビジネスローンが認めら、特に、この地域の繊維起業家 (シャイブラー、ショーラー、ブリューゲルマン、ディルタイ) またはライン地方の皮革、砂糖、製紙産業に資金などを提供した。
 1820 年代以降、この銀行はアーヘン地区とザール地方で出現した重工業や機械工業にも融資した。
 シャフハウゼンは、同世代の他のケルンのプライベートバンカーと同様に、産業融資を行った最初の銀行家の一人である。
 シャフハウゼンは、産業金融のために株式と債券を発行した最初の銀行の 1 つで
   A.シャフハウゼンシャー銀行フェライン
は、 JH シュタイン銀行、ヘルシュタット銀行と並んで、ケルンに設立された 3 つの最も成功した民間銀行の 1 つとなった。
 
 1794年1月13日、シャフハウゼンはケルンのトランクガッセ25番地にある
   グレーフリッヒ・ザルム・ディクシェン宮殿(「Die Aue」)
を取得した。
 その直後の1794年6月12日、彼は
   マリア・アンナ・ギーセン(「シビル」)
と結婚した。
 彼女は娘マリア・シビラ・ジョセファの誕生(1797年1月29日)による合併症で1797年2月5日未明に亡くなった。

 1800 年 4 月 19 日、
   マリア テレーゼ リュシ デ マエス (1777年3 月 21 日− 1867年12月30日) は新妻としてトランクガッセに引っ越した。
 1801年以降、短い間隔で 6 人の子供が生まれた。
 末娘はエリザベート・ダイヒマン・シャフハウゼンである。

 1782年6月20日、彼は「ゲブレクシェル」に任命された。
 ガッフェル議員36名が定数49名のケルン市議会に派遣され、議員13名が行方不明(「失職」)となった。
 これらはフレイルロードと呼ばれていましたが、都市で最も尊敬され、影響力のある人々の一人であった。
 1784年9月24日、シャフハウゼンは財政判事に任命され、1788年2月29日にはギュルツェニヒ百貨店の長官に就任した。

 ナポレオン 1 世は、フランス占領下の 1800年11月25日にシャフハウゼンをケルンの「マイレ」(市長)に任命した。
 しかし、シャフハウゼンは公私多忙を極めているとの理由でこの任命を辞退した。 

 1801年に商事裁判所の長官に就任し、1811年には地方議会議員に就任した。
 ナポレオンは、1804年9月13日に皇帝としてドイツの「ボンヌ・ヴィル」の 1 つであるケルンにやって来た。
 彼はシャフハウゼンに注目することを怠らず、そこで二人が会談し、ナポレオンから「ここに億万長者はいますか?」「そうです、しかし1797年以来誰も追加されていません。」「見てください、誇り高きドイツ人」といった会話が行われた。
 1810 年の時点で、シャフハウゼンはケルンで最も重要な銀行家とみなされていた。

 1812年2月6日からはケルン商工会議所の会員となった。
 彼は亡くなるまでこれらの職を務めた。
 1816年3月13日には商務評議員に任命され、1822年1月17日には第3級赤鷲騎士団の騎士に任命された。

 彼の銀行の自己資本は、80,000 ターラー (1800 年) から 140,000 ターラー (1810 年)、そして最終的に 550,000 ターラー (1825 年) に増加した。

 アブラハム・シャフハウゼンは、1815年に
   ウィーン会議
によってラインラントが
   プロイセン
の領土として割り当てられたことを知ったとき、恐怖のあまり「貧しい家庭に嫁いでいるのだ!」と叫んだと言われている。
 1807 年以降は不動産事業が会社の実質的な中核となった。
 シャフハウゼンは何よりも修道院の世俗化から恩恵を受けた。

 1817 年に彼はモルスブロイヒ城を購入した。
 夫妻は周囲の環境を非常に気に入ったので、レバークーゼン=シュレーブッシュに埋葬された。

 1807 年以降の世俗化の結果、不動産取引が銀行の主な業務となった。
 シャフハウゼンに加えて、都市建築家の
   ヨハン・ペーター・ヴァイヤー
と銀行家のフリードリヒ・ヘルシュタットが主役を演じた。
 1818 年の最大の単一取引は、200 万ターラーを超える 46 件の不動産の取得であった。
 不動産は適時に売却して利益を得ることができなかったため、1838 年から 1846 年にかけて他の大規模な不動産取引と関連して資本が拘束されたことにより、最終的に1848 年に会社が破産に追い込まれた。

 経営が悪化している若い世代として、彼の義理の息子である
   ジョセフ・ルートヴィヒ・“ルイ”・メルテンス
が1816 年に初めて経営を引き継ぎ、1820 年に銀行の筆頭株主になった。
 これに続いて、1818年に銀行で見習いをしていた
   ヴィルヘルム・ルートヴィヒ・ダイヒマン
が1830年にA・シャフスハウゼンの末娘
   エリザベート・ダイヒマン・シャフハウゼン
と結婚した。
 それを救うために、
   アブラハム・オッペンハイム
   グスタフ・メヴィッセン
その他の資本家が会社を
   A. シャフハウゼン銀行フェライン
に転換しました。
 これはドイツ初の株式ベースの銀行であった。
 ダイヒマンは 1848 年の危機を乗り越え 1857 年まで銀行を率いた。
  
 この地域の経済活動におけるシャフハウゼンの影響力により、彼は数多くの地位を確保した。

   
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三井住友FGの来期純利益が1.2兆円超へ、内外収益環境は良好と中島社長

 三井住友フィナンシャルグループ(FG)の中島達社長はブルームバーグとのインタビューで、来期(2026年3月期)の
   連結純利益で過去最高となる1兆2000億円超を目指す
と話したうえ、実現に向け国内外で利益の積み上げを図る考えを明らかにした。

 中島氏は来期について、国内では少数与党政権のかじ取りのため財政が拡張気味になり、米国ではトランプ次期大統領による景気刺激策や減税策が見込まれると分析した。
 「業務環境は悪くなく、業績の好調さは継続する」とし、新たな純利益の「目標に挑戦する年になる」と述べた。

 同社は11月、今期(25年3月期)の純利益予想について、初の1兆円超えとなる1兆1600億円に上方修正した。
 来期も利益を上積みし1兆2000億円超を達成できれば、3期連続の最高益更新となる。

 日本銀行の金融政策転換で「金利ある世界」が到来し、銀行は預貸金利ざやの改善で収益拡大が期待できるようになった。
 各行が低コストの貸し出し原資である預金集めに知恵を絞る中、三井住友FGは銀行・クレジット決済を軸に、証券・保険なども含め総合的な金融サービスを一元管理できるスマートフォンアプリ「Olive(オリーブ)」を武器に銀行口座や預金量の拡大を目指している。

 中島氏はオリーブについて、今期に黒字化を達成し、28年3月期には400億円の収益貢献を見込んでいると明かした。
 ただ、同分野ではみずほFGも楽天カードとの提携で新サービスを展開するなど競争が激しいため、中島氏は「まだ追加投資が必要だ」として、提携先を広げて機能を拡充する意向を示した。現在はSBI証券や住友生命保険などと連携している。

 海外事業では出資先の米証券
   ジェフリーズ・ファイナンシャル・グループ
との提携拡大を検討する。
 今期から米国や欧州、中東でのM&A(企業の合併・買収)の助言業務や、債券・株式の引き受け業務などで提携を本格的に開始した。
 なお、共同案件は160件に上っているとし、「想定以上に順調だ」と自己評価した。

 米国では今後、特に債券や株式のセカンダリー(流通)市場での協業も検討し、投資銀行業務全般に協力関係を広げていきたい考えを明かした。
 また、中島氏は「ジェフリーズは豪州が相当強い。インドにも積極的だ。三井住友FGは両国で投資銀行部門がない。チャンスは十分にある」とも述べ、豪州やアジアでの協業にも期待を示した。

 中島氏は、こうした協業の深化が実現し、ジェフリーズと協議が進んで米国内での規制上のハードルもクリアすれば、「資本関係をさらに濃くする可能性は十分ある」と述べた。
 
 
ひとこと
 利益を上積みし1兆2000億円超というが、投資額は不明だ。
 保有する資産を活用できていない日本の多くの金融機関は目先の僅かな利益ばかりを追求する姿勢が感じられ、投資先企業の内部留保を配当金として支払わせるか、活用できていない資産の売却などの要求が出来ていない問題がある。
 安価な費用で日本の機関投資家の資金を利用し続けてきた欧米国際資本の懐には莫大な利益が積み重ねられており、常に経済クラッシュが起きる前にカモネギ投資家を誘い込んできた過去もある。
 
 利益の桁が投資資金の規模から見れば2桁少ないのが日本の機関投資家の姿だとも言えるもので、売り逃げる事ができなければ、単なる奇特な投資家でしかない。
 サブプライムローンが組み込まれた金融派生商品を世界中の金融機関等に売り込んだ欧米国際資本の手のひらの上ばかりに乗って踊っているだけでは話にもならない日本の経営者や経済評論家、アナリストが目白押しで多すぎるが、他の利益相反が目立つ機関投資家とは一線を画した投資活動で適時適切に売買できるか注目したい。
 
   
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2024年12月29日

韓国旅客機事故の死者が174人に増加

 韓国南西部の務安空港で29日午前9時すぎ、乗客・乗員181人を乗せたタイ・バンコク発の格安航空会社(LCC)
   済州航空
のボーイング737-800型機が着陸に失敗し、外壁に衝突して炎上した。
 客室乗務員2人が救助されたが、残りは全員死亡したとみられている。
 消防当局によると、
   鳥の衝突
   悪天候
墜落原因とされている。
 搭乗者は機外に投げ出され、機体は「ほぼ全壊」状態と伝えた。
 搭乗していたのは乗客175人、乗員6人だった。

 同機は胴体着陸し、エンジンから煙を出しながら滑走路を外れて壁に衝突して炎上する様子が動画に捉えられ拡散している。
 消防当局は午後、120人の死亡が確認されたと発表したが、その後、旅客機事故の死者は174人増えたと明らかにしたと、聯合ニュースが伝えた。

    
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ウィリアム・ショックレー(William Shockley )「半導体に関する研究とトランジスタ効果の発見」により、 1956年のノーベル物理学賞の共同受賞者 日本の降伏に先立って広島と長崎に原爆を投下するという米国の決定に影響を与え、ショックレー半導体研究所の設立者

ウィリアム・ブラッドフォード・ショックレー・ジュニア
               (William Bradford Shockley Jr.)
   1910年2月13日 - 1989年8月12日
 米国の発明家、物理学者、優生学者
 ショックレーはベル研究所で
   ジョン・バーディーン
   ウォルター・ブラッテン
を含む研究グループのマネージャーであった。
 3人の科学者は「半導体に関する研究とトランジスタ効果の発見」により、 1956年のノーベル物理学賞を共同受賞した。

 ショックレーは1950年代から60年代にかけて新しいトランジスタ設計を商業化しようとしたカリフォルニアのシリコンバレーはエレクトロニクスの革新の温床となった。
 彼は優秀な従業員を採用したが、独裁的で気まぐれな経営ですぐに彼らを疎外した。
 嫌がらせを感じた従業員らは労働環境が悪くなり会社を辞めて業界の大手企業を設立した。
 晩年、スタンフォード大学で電気工学の教授を務めていた頃や、その後、ショックレーは
   人種差別主義者
   優生学者
として知られるようになった。
 
 ショックレーはイギリスのロンドンで米国人の両親のもとに生まれ、3歳から家族の故郷であるカリフォルニア州パロアルトで育った。
 父親ウィリアム・ヒルマン・ショックレーは鉱山技師で、鉱山投機で生計を立て、8か国語を話した。
 母親メイ(旧姓ブラッドフォード)はアメリカ西部で育ち、スタンフォード大学を卒業し、女性初の米国副鉱山測量官となった。
 両親が公立学校を嫌っていたこととショックレーが癇癪を起こす癖があったことから、ショックレーは8歳まで自宅で教育を受けた。
 ショックレーは幼い頃、スタンフォード大学の物理学教授だった隣人から物理学を少し学んだ。
 ショックレーはパロアルト陸軍士官学校で2年間過ごした。
 その後、ロサンゼルスコーチングスクールに短期間入学して物理学を学び、その後1927年にハリウッド高校を卒業した。

 ショックレーは1932年にカリフォルニア工科大学で理学士号を取得し、 1936年にMITで博士号を取得した。
 彼の博士論文のタイトルは「塩化ナトリウムの電子バンド」であった。
 これは指導教官のジョン・C・スレーターが提案したテーマであった。
 
 ショックレーは、固体物理学者の採用に注力していた
   マーヴィン・ケリー
によってベル研究所に最初に採用された者の一人で1936年にベル研究所の研究部長となった。
 ショックレーは、ニュージャージー州マレーヒルの
   クリントン・デイヴィソン
が率いるグループに参加した。
 ベル研究所の幹部は、半導体がベルの全国電話システム全体で使用されている真空管の固体代替品になる可能性があると理論づけていた。
 ショックレーは、銅酸化物半導体材料をベースにした設計をいくつか考案し、
   ウォルター・ブラッテン
とともに1939年にプロトタイプを作成しようとしたが失敗した。

 ショックレーは、 Physical Review誌に固体物理学に関する基礎論文を多数発表した。
 1938年に彼は電子増倍器に関する最初の特許「電子放電装置」を取得した。
 
 第二次世界大戦が勃発すると、ショックレーの研究は中断された。
 その後、マンハッタン(ニューヨーク市)で
   レーダーの研究
に従事するようになった。
 1942年5月、ショックレーはベル研究所を休職し、コロンビア大学の
   対潜水艦戦作戦グループ
の研究ディレクターに就任した。
 この仕事では、潜水艦の戦術に対抗するための
   護送技術の改善
   爆雷の投下パターンの最適化
などを考案した。
 ショックレーはペンタゴンやワシントンを頻繁に訪れ、高官や政府関係者と面会した。

 1944年、彼はB-29爆撃機パイロットに
   新しいレーダー爆撃照準器
の使用訓練プログラムを組織した。
 1944年後半、彼は結果を評価するため世界中の基地を3か月間巡回した。
 このプロジェクトに対して、陸軍長官
   ロバート・パターソン
は1946年10月17日にショックレーに功労勲章を授与した。

 1945年7月、陸軍省はショックレーに
   日本本土侵攻による死傷者の可能性に関する報告書
を作成するよう依頼した。
 ショックレーは「もしこの研究が、日本と比較できる歴史上のすべての事例における国家の行動が、実際には戦闘中の軍隊の行動と常に一致していることを示すならば、敗戦時の日本軍の死者と戦死者の数はドイツ軍のそれを上回ることになる。言い換えれば、我々は少なくとも500万から1000万人の日本人を殺さなければならないだろう。これにより、40万人から80万人の死者を含む170万人から400万人の死傷者が出る可能性がある。」と結論付けた。
 この報告書は、日本の降伏に先立って広島と長崎に原爆を投下するという米国の決定に影響を与えた。

 ショックレーは、科学研究論文の作成プロセスをモデル化するために対数正規分布を提案した最初の物理学者でした。
 
 1945年に戦争が終わった直後、ベル研究所は固体物理学グループを結成した。
 このグループはショックレーと化学者の
   スタンレー・モーガン
が率い
   ジョン・バーディーン
   ウォルター・ブラッテン
物理学者の
   ジェラルド・ピアソン
化学者の
   ロバート・ギブニー
電子工学の専門家
   ヒルバート・ムーア
および数人の技術者で構成されていた。
 彼らの任務は、壊れやすいガラス製の真空管増幅器に代わる固体を探すことだった。
 最初の試みは、半導体の導電性に影響を与えるために外部電界を使用するというショックレーのアイデアに基づいていた。
 これらの実験は、あらゆる種類の構成と材料で毎回失敗した。

 グループは行き詰まっていたが、バーディーンが電界が半導体を貫通するのを防ぐ表面状態を呼び出す理論を提案した。
 グループは焦点をこれらの表面状態の研究に変更し、ほぼ毎日集まって作業について話し合った。
 グループは素晴らしい関係を築き、自由にアイデアを交換し、1946 年の冬までに、彼らは十分な結果を得て、バーディーンはフィジカル レビュー誌に表面状態に関する論文を提出した。

 ブラッテンは半導体の表面に明るい光を当てながら観察することで表面状態を調べる実験を開始した。
 これがきっかけでさらに数本の論文が発表され た。
 そのうち 1 本はショックレーとの共著である。
 なお、表面状態の密度は失敗した実験を説明するのに十分すぎるほどであると推定された。

 半導体と導線の間の点接触を電解質で囲み始めたとき、研究のペースは大幅に速まった。
 ムーアは入力信号の周波数を簡単に変えることができる回路を作った。
 そしてついに、ショックレーの提案を受けてピアソンがp-n 接合を横切って置いたホウ酸グリコールの液滴に電圧をかけたところ、彼らは電力増幅の証拠をいくつか得始めた。

 ベル研究所の弁護士はすぐに、ショックレーの
   電界効果原理
が予想されており、それに基づくデバイスが1930年に
   ジュリアス・リリエンフェルト
によって特許取得されていることを発見した。

 リリエンフェルトは1925年10月22日にカナダでMESFETのような特許を申請した。
 この特許は「壊れやすい」(動作しない)ように見えたが、特許弁護士は4つの特許出願のうち1つをバーディーン=ブラッテン点接触設計のみに基づいていた。
 他の3つは、バーディーン、ギブニー、ブラッテンを発明者として電解質ベースのトランジスタをカバーしていた。

 ただ、ショックレーの名前はこれらの特許出願のいずれにも記載されていなかった。
 ショックレーは、この研究は電界効果のアイデアに基づいているのだから、自分の名前も特許に記載されるべきだと考え、これに激怒した。
 彼は特許が自分の名前だけで記載されるように努力し、バーディーンとブラッテンにその意図を伝えた。

 ショックレーは、特許申請に含まれなかったことに腹を立て、点接触ではなく接合に基づく別の種類のトランジスタを作るという独自の研究を密かに続けた。
 彼は、この種の設計の方が商業的に実現可能になる可能性が高いと予想した。
 点接触トランジスタは壊れやすく、製造が難しいと考えた。
 また、ショックレーは点接触トランジスタの動作の説明の一部に満足せず、少数キャリア注入の可能性を思いついた。

 1948年2月13日、チームの別のメンバーである
   ジョン・N・シャイブ
は、薄いゲルマニウムのくさび形の前面と背面に青銅の接点を持つ点接触型トランジスタを製作し、正孔がこれまで考えられていた表面だけでなくバルクゲルマニウム全体に拡散できることを証明した。
 シャイブの発明はショックレーの接合型トランジスタの発明のきっかけとなった。

  数ヵ月後、彼は層または「サンドイッチ」構造を持つ、まったく新しい、かなり堅牢なタイプのトランジスタを発明した。
 この構造は1960年代までほとんどのトランジスタに使用され
   バイポーラ接合型トランジスタ
へと進化した。

 ショックレーは後に、チームの活動を「協力と競争の混合」と表現した。
 また、彼は1948年にシャイブの進出によって「やむを得ず」自分の研究の一部を秘密にしていたとも述べている。

 ショックレーは「サンドイッチ」トランジスタと呼んだもののかなり完全な説明を考案し、1949年4月7日に最初の原理証明が得られた。
 一方、ショックレーは最高傑作である「半導体の電子と正孔」に取り組み、1950年に558ページの論文として出版された。

 この大著には、ドリフトと拡散に関するショックレーの重要なアイデアや、固体結晶中の電子の流れを支配する微分方程式が盛り込まれた。
 また、ショックレーのダイオード方程式も説明されている。
 この独創的な作品は、トランジスタや半導体をベースにした他のデバイスの新しいバリエーションの開発と改良に取り組む他の科学者にとって参考文献となった。
 その結果、彼はバイポーラ「接合トランジスタ」を発明し、1951年7月4日の記者会見で発表した。

 1951年、彼は41歳で、米国科学アカデミー(NAS)に選出された。
 2年後、彼はNASから物理学の権威あるコムストック賞の受賞者に選ばれ、その他にも多くの賞や栄誉を受けた。
 こうして「トランジスタの発明」によってもたらされた宣伝は、しばしばショックレーを前面に押し出し、バーディーンとブラッテンの不満を招いた。
 しかし、ベル研究所の経営陣は、一貫して3人の発明者をチームとして紹介した。
 ショックレーは、記者が発明の功績を自分一人に帰したという記録を訂正した。
 しかし、結局はバーディーンとブラッテンの怒りを買い、疎遠となり、実質的に2人が接合型トランジスタに取り組むことを阻止した。

 その後、バーディーンは超伝導の理論を追求し始め、1951年にベル研究所を去った。
 ブラッテンはショックレーとそれ以上一緒に働くことを拒否し、別のグループに配属された。

 ブラッテンは、トランジスタの発明から1年を過ぎても、トランジスタの開発にはほとんど関与しなかった。
 ショックレーは1953年頃にベル研究所を離れ、カリフォルニア工科大学に就職した。
 ショックレー、バーディーン、ブラッテンは1956年にノーベル物理学賞を受賞した。
 
 1956年、ショックレーはカリフォルニア州マウンテンビューに
   ショックレー半導体研究所
を設立した。
 そこは、カリフォルニア州パロアルトに住む高齢の母親の住む場所の近くだった。
 ベックマン・インストゥルメンツ社の一部門であるこの会社は、シリコンバレーとして知られるようになった地域でシリコン半導体デバイスを研究する最初の企業でとなった。

 ショックレーは優秀な従業員を自社に採用した。
 しかし、独裁的で、横暴で、気まぐれで、満足しにくく、次第に偏執的になっていったため、従業員の能力にを引き出す仕事を与えることなく執拗に彼らを弱体化させたことで彼らを疎外した。
 「彼はエレクトロニクスの歴史上最悪のマネージャーだったかもしれない」と伝記作家のジョエル・シュルキンは述べている。

 ショックレーが関わった「よく知られた事件」の1つは、会社の秘書が軽い怪我を負った後、彼が「犯人」を見つけるために嘘発見器テストを要求したことだ。
 1957年後半、ショックレーがシリコンベースの半導体の研究を続けないことを決めたため、後に「裏切り者の8人」として知られるようになる、ショックレーの最も優秀な研究者8人が辞職した。

 彼らはフェアチャイルドセミコンダクターを設立したが、ショックレーセミコンダクターは損失から立ち直ることができず、3年後に別の会社に買収された。
 その後20年間で、65以上の新しい企業がフェアチャイルドとのつながりを持つことになった。
 約30人の同僚のグループは1956年以来、断続的に集まり、グループの主催者が2002年に述べたように「シリコンバレーにシリコンをもたらした男」であるショックレーとの思い出を語り合ってきた。
 
 ショックレーはショックレー半導体の取締役を退任した後、スタンフォード大学に加わり、 1963年にアレクサンダー・M・ポニアトフ工学・応用科学教授に任命され、1975年に名誉教授として退職するまでその職を務めた。
 遺伝学の学位を持っていなかったショックレーは、生涯の最後の20年間に、
   人種と人間の知能に関する極端な見解
   優生学の擁護
で広く知られるようになった。

 ロサンゼルス・タイムズ紙の死亡記事では、「彼は、非の打ちどころのない学歴を持つ物理学者からアマチュア遺伝学者に転落し、その見解がキャンパスでのデモと中傷の連鎖を引き起こす避雷針となった」と評されている。

 彼は自分の研究が人類の未来にとって重要であると考え、またそれを自分のキャリアで最も重要な側面であるとも述べた。
 彼は、知能が低いとされる人々の再生産率が高いことが遺伝的劣化を引き起こしていると主張し、平均知能の低下は文明の衰退につながると主張した。また、黒人は遺伝的にも知的にも白人より劣っていると主張した。

 ショックレーの伝記作家
   ジョエル・シュルキン
は、当時の人種差別のあったアメリカでショックレーが過ごした人生の大半において、黒人とほとんど接触がなかったと述べている。
 精神科医
   フランシス・クレス・ウェルシング
との討論や
   ウィリアム・F・バックリー・ジュニア
との『ファイアリング・ライン』でショックレーは「私の研究は、アメリカ黒人の知的・社会的欠陥の主な原因は遺伝的かつ人種的遺伝子に由来しており、したがって環境の実際的な改善によって大幅に改善できるものではないという意見に必然的に私を導いた」と主張した。

 ショックレーはパイオニア基金から資金提供を受けた人種理論家の一人で、少なくとも1回は基金の創設者で優生学者の
   ウィクリフ・ドレイパー
から寄付を受けた。
 ショックレーは、 IQが100未満の個人には、自発的な不妊手術を受ける見返りとして、IQが100未満のポイントごとに1,000ドルを支払うべきだと提案した。
 この提案により、リーズ大学は彼への名誉学位の申し出を取り下げた。
 なお、人類学者で極右活動家の
   ロジャー・ピアソン
は、ショックレーとの共著で自費出版した本の中でショックレーを擁護した。

 1973年、ウィスコンシン大学ミルウォーキー校の教授
   エドガー・G・エップス
は、「ウィリアム・ショックレーの立場は人種差別的な解釈を招きやすい」と主張した。
 南部貧困法律センターは、ショックレーを「彼の研究が人種差別主義者の奇人変人によるものであることがほぼ普遍的に認められている」中で優生学理論の証拠を提示できなかった白人至上主義者であると評している。
 また、科学ライターのアンジェラ・サイニは、ショックレーを「悪名高い人種差別主義者」と評している。

 ショックレーは、自分は人種差別主義者ではないと反論した。
 彼は、自分の研究結果は白人至上主義を支持するものではなく、東アジア人とユダヤ人は白人よりも知的に優れていると主張していると書いた。
 1973年、エドガー・エップスは「ショックレー教授がアーリア人至上主義者でないことは喜ばしいが、東洋人やユダヤ人の遺伝的優位性を主張する理論は、アーリア人至上主義と同じくらい本質的に人種差別的であることを彼に思い出させたい」と書いた。

 ショックレーの優生学の主張は抗議を引き起こした。ある事件では、科学団体シグマ・サイが暴力を恐れ、ショックレーが講演を予定していた1968年のブルックリンでの集会を中止した。

 ショックレーは23歳でまだ学生だった1933年8月にジーン・ベイリーと結婚した。
 二人には息子2人と娘1人が生まれた。
 ショックレーは1953年に彼女と別れた。
 彼は1955年に精神科看護師のエミリー・ランニングと結婚し、彼女は彼の理論のいくつかを手伝った。
 息子の一人はスタンフォード大学で博士号を取得し、娘はラドクリフ大学を卒業した。
 ショックレーは子供たちが「非常に大きな退行を示している...私の最初の妻、つまり子供たちの母親は私ほど学業成績が優れていなかった」と考えていた。

 ショックレーは熟練したロッククライマーで、ハドソン川渓谷のショーンガンク山脈によく出かけていた。
 彼が登った張り出しを越えるルートは「ショックレーの天井」として知られ、この地域の古典的な登山ルートの一つである。
 彼は長年、アリのコロニーを育てる趣味を持っていた。

 ショックレーは、人類の最良の遺伝子を広めることを目的としてロバート・クラーク・グラハムが設立した精子バンク「生殖選択のための貯蔵庫」に精子を提供した。
 メディアから「ノーベル賞精子バンク」と呼ばれたこのバンクは、ノーベル賞受賞者の提供者が3人いると主張した。
 ショックレーは関与を公に認めた唯一の人物だった。 
 PBSによると、ショックレーは子供たちに対して残酷で、人生に不満を抱いていた。
 自殺未遂の一環としてロシアンルーレットを試みたとも伝えられている。
 
 ショックリーは1989年に79歳で前立腺癌で亡くなった。
 亡くなった当時、彼は2番目の妻であるエミー・ランニング(1913年 - 2007年)を除いて、ほとんどの友人や家族と疎遠になっていた。
 彼の子供たちは新聞の死亡記事を読んで彼の死を知ったと伝えられている。

    
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ジョージ・コズメツキー(George Kozmetsky)テレダイン社の共同設立者

ジョージ・コズメツキー
     (George Kozmetsky)
   1917年10月5日 - 2003年4月30日
 米国の技術革新者、実業家、教育者、作家、慈善家
 コズメツキーは
   テレダイン社
の共同設立者であり、テキサス大学経営学部(現マコームズ経営大学院)の学部長を16年間務めた。
 1977年、コズメツキーは、ビジネス、政府、教育の交差点を研究するシンクタンク
   IC2研究所
を設立した。
 1993年、彼はビル・クリントン大統領から国家技術賞を受賞した。
 コズメツキーはワシントン大学で学部教育を受け、予備役将校訓練課程に参加した。
 第二次世界大戦で陸軍に勤務した後、ハーバード・ビジネス・スクールに入学し、MBAと商学博士号を取得した。
 コズメツキーは2002年にオペレーションズ・リサーチ・マネジメント科学研究所のフェローに選出された。


   
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アーサー・ロック(Arthur Rock)シリコンバレーを拠点とした大企業の初期投資家

アーサー・ロック(Arthur Rock)
   1926年8月19日生まれ
 米国の実業家、投資家である。
 カリフォルニア州シリコンバレーを拠点とし
   インテル
   アップル
などの大企業の初期投資家であった。

 ロックはニューヨーク州ロチェスターのユダヤ人家庭に生まれ育った。
 彼は一人っ子で、父親は小さなキャンディショップを経営していた。
 ロックは若い頃にそこで働いていた。

 彼は第二次世界大戦中に米軍に入隊したが、派遣される前に戦争は終わった。
 その後、復員兵援護法を利用して大学に進学した。
 1948年にシラキュース大学で経営学の学士号を取得し、 1951年にハーバードビジネススクールでMBAを取得した。
 
 ロックは1951年にニューヨーク市で
   証券アナリスト
としてビジネス・キャリアをスタートし、その後ニューヨークの
の企業財務部門に加わり、小規模なハイテク企業の資金調達に注力した。

 1957年に「裏切り者の8人」が
   ショックレー半導体研究所
を去ったとき、ロックは彼らの行き先を見つけるのを手伝った人物として知られる。
 この時、シャーマン・フェアチャイルドを説得して
を設立させた。
  
 1961年にカリフォルニアに移り、
   トーマス・J・デイビス・ジュニア
とともにサンフランシスコのベンチャーキャピタル会社
   デイビス・アンド・ロック
を設立した。

 1968 年、
   ロバート・ノイス
そしてフェアチャイルドの別の従業員である
   アンディ・グローブ
は、新しい会社
   Intel
を設立する準備を整えていた。
 ノイスは、ハイキングやキャンプで一緒に過ごした親友のロックに連絡を取った。

 ロックは Intel の設立の経緯について、「ボブ(ノイス)が電話してきた。私たちは長い間友人だった。…書類?ほとんど何もなかった。ノイスの評判は良かった。私たちは1ページ半の小さなチラシを出したが、人々がそれを見る前に私は資金を集めていた。」と明かしている。

 インテルは、1968年7月18日にカリフォルニア州マウンテンビューで、「ムーアの法則」で知られる化学者の
と物理学者で集積回路の共同発明者の
   ロバート・ノイス
によって設立された。
 当初の50万株のうち、ノイスが24万5000株、ムーアが24万5000株、ロックが1万株を保有した。
 価格は、いずれも1株1ドルだった。
 ロックは、限られた個人投資家グループから1日で250万ドルの
   転換社債
を調達し、ロックはインテルの初代会長となった。

 1978年、アップルコンピュータのマイク・マルカラは
をロックと引き合わせた。
 ロックはアップルコンピュータの株を64万株購入し、長年同社の取締役を務めた。

 ロックの投資と個人的な指導は、インテルアップルのほか
   サイエンティフィック・データ・システムズ
   テレダイン
   ゼロックス
   アルゴノート・インシュアランス
   エアタッチ
   ナスダック・ストック・マーケット 
   エシェロン・コーポレーション
を含む一連の企業の設立と経営に貢献した。
    
 アーサー・ロックとゴードン・ムーアにちなんで名付けられた
   ロックの法則
またはムーアの第二法則によれば、半導体チップ 製造工場のコストは4年ごとに倍増する。
 2023年の時点で、その価格はすでに約200億ドルに達している。

 ロックの法則は、高密度集積回路内のトランジスタの数は 2 年ごとに倍増するという
   ムーアの法則 (第一法則)
の経済的な裏返しと見ることができる。
 後者は、資本集約型半導体産業の継続的な成長の直接的な結果である。
 革新的で人気のある製品はより多くの利益を意味し、より高いレベルの大規模統合に投資できる資本が増えることを意味し、それがさらに革新的な製品の創出につながることになる。
 
 2003年、ロック氏はハーバードビジネススクールに2500万ドルを寄付し
   アーサー・ロック起業家センター
を設立した。
 ロック氏は妻のトニ氏とともにスタンフォード大学に
   アーサー&トニ・レンベ・ロック企業統治センター
を設立した。
 ロック氏は、スラム街の子供たちにK-8私立学校に通う奨学金を与える
   ザ・ベーシック・ファンド
の共同創設者で元会長である。
 また、ティーチ・フォー・アメリカとチルドレンズ・スカラーシップ・ファンドの理事であり、 KIPPの積極的な資金提供者でもある。

 ロックは多くの政治活動に寄付を行っており、特に教育分野で寄付を行っている。
 全国30以上の教育委員会選挙に寄付を行っている。
 2021年には、2022年のサンフランシスコ教育委員会リコール選挙に50万ドル以上を寄付した。 

 彼は弁護士のトニ・レンベと結婚した。
 ロックは妻とともにティーチ・フォー・アメリカの支援者でもある。
 同団体の毎年恒例のソーシャル・イノベーション賞は彼らにちなんで名付けられている。
 ロックは、2013年の伝記ドラマ「ジョブズ」で俳優のJ・K・シモンズによって演じられた。

   
posted by まねきねこ at 06:29| 愛知 ☁| Comment(0) | 人物伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする