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2024年10月07日

ハリウッドのセレブも大谷選手を応援

 米国人気俳優で映画監督の
   ロブ・ロウ氏
が、自身のインスタグラムを更新し、5日(日本時間6日)に行われたドジャースとパドレスの地区シリーズ第1戦を観戦したことを報告し、大谷翔平投手が本塁打を放った瞬間の動画を投稿した。
 ロウ氏は「ザGOAT(史上最高) ショウヘイ・オオタニがポストシーズンデビュー戦で一撃を放つ!」と記し、三塁側観客席から撮影したと見られる大谷の本塁打動画をアップした。
 このなかで、ファンは「目撃できたのはラッキーだったね!」「君のお気に入りのチームに加入してよかったね」と投稿している。

 大谷はこの試合の2回に、3ランを右翼席に突き刺していた。
 大谷もロブ・ロウ氏の投稿にリポストしている。
 ロウ氏は大のドジャースファンとして知られ、今年5月に、ユニホーム姿の大谷との2ショット写真を公開している。
 ユニホームに着替えて写真撮影に応じた大谷の“神対応”を「他のスーパースターでこんなことをする人は思いつかない」などと絶賛した。

 ロウ氏の投稿にファンは続々反応したコメントが寄せられている。

 この試合では俳優のブラッド・ピット氏、レッド・ホット・チリ・ペッパーズのベーシスト、フリー氏、NBAレイカーズで活躍しドジャース共同オーナーでもあるマジック・ジョンソン氏、俳優のジェイソン・ベイトマン氏、サイ・ヤング賞3度のOB、サンディ・コーファックス氏らが観戦していた。


ひとこと
 こうした中、日本のメディア2社の取材の暴走行為が問題となったままだ。
 特ダネ最優先で視聴率を稼ぎたいなど、卑しい思考が周囲への突撃取材となり顰蹙さは話にもならない水準だ。
 また、こうした番組を提供してきた日本企業もいまだ番組を継続させており厚顔無礼は呆れさせるものであり、問題意識も乏しいようで話にもならない。
 問題行動を起こした番組を提供している企業の製品等のボイコットを消費者に意識させるレベルだろう。


   
posted by まねきねこ at 17:29| 愛知 ☁| Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「裏金議員」比例重複認めず 議員が屁理屈を並べた声明 謝罪するも「決定プロセスには理解に苦しむものが多々」と口先だけでは話にもならない。

 石破茂首相は6日、
   自民党派閥裏金問題
を受けた衆院選対応を表明した。
 政治資金収支報告書に
   不記載があった裏金議員
らを原則公認した上で、比例代表への重複立候補は認めないとうものだ。
 国会の政治倫理審査会に出席していない旧安倍派の
   萩生田光一
   三ツ林裕巳氏
らとともに名前が挙がった平沢勝栄衆院議員は7日、SNSを通じ、「衆議院選挙に於ける自民党の公認方針が決定しました」と書き出し、「政治資金に関する問題について深く反省し、今回の党の判断を重く受け止めております。改めて国民の皆様にお詫び申し上げます」と謝罪した。
 一方で「なお、この問題に関する決定プロセスには理解に苦しむものが多々あります」と主張し責任感をあまり考えていないようにも見える。

 「今後は自重自戒し、襟を正して、引き続き地元葛飾・日本の発展のために一意専心して参ります。何卒ご理解賜りますよう、伏してお願い申し上げます」と続けた。


ひとこと
 自民党派閥裏金問題が指摘されている自民党代議士に対する衆院選対応を表明しているが、適切に政治資金収支報告書に記載している自民党議員から見れば大甘とも言えるものだろう。
 安倍長期政権による忖度で公認を受け、当選した安倍派議員も多いが、反省するのであれば、自民党の公認を受けることなく、無派閥で選挙に出ることが禊だろうが、言い掛かりを並べて公認を迫る姿勢が有権者の怒りを買うことすら理解できていない政治家の特権意識が与野党ともに問題だろう。

   
posted by まねきねこ at 16:57| 愛知 ☁| Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

米金融当局の緩和策と中国の景気刺激策によって、ノーランディングの可能性が高まっている

 ブランディワイン・グローバル・インベストメント・マネジメントのポートフォリオマネジャー  
   トレイシー・チェン氏
は「0.5ポイント利下げは今や問題外だろう」と述べ、「米金融当局の緩和策と中国の景気刺激策によって、ノーランディングの可能性が高まっている」と続けた。

    
posted by まねきねこ at 16:07| 愛知 ☁| Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

メトロポリタンウェストファイナンシャル(Metropolitan West Financial) 多角的な金融サービス持株会社で2010 年に分割解体された。

メトロポリタンウェストファイナンシャル
       (Metropolitan West Financial) 
 別名メットウェスト ベンチャーズは、金融アドバイスや戦略計画、資本管理、資産管理、投資アドバイス、債券ポートフォリオ管理などを提供するさまざまな企業に出資する多角的な金融サービス持株会社であった。
 同社はいくつかの部門に分割され、一部は 2010 年に
に買収され、残りはワコビアが所有している。
 同社は買収されたのちも、その名前はメットウェスト ファンドで引き続き使用されている。

 メトロポリタンウェストファイナンシャルの買収会社は、米国の企業や富裕層にサービスを提供している。買
 収される前の運用資産は650億ドル以上であった。
 顧客には、ボーイング従業員信用組合、アメリカン航空、カリフォルニア州公務員退職年金制度、マイクロソフトなどがある。
 2001年、元副大統領の
   アル・ゴア
はメトロポリタン・ウェスト・ファイナンシャルに入社し、情報技術とバイオテクノロジーの分野でビジネス戦略を策定していた。

   
posted by まねきねこ at 14:17| 愛知 ☁| Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

雇用統計堅調で「ノーランディング」シナリオが復活、景気過熱を懸念

 米国経済成長の継続とインフレ再燃で利下げ余地がほとんどないという「ノーランディング」シナリオはここ数カ月、債券市場の話題からほぼ消えていた。

 4日発表された雇用統計で復活した。

 米雇用統計では非農業部門雇用者数は6カ月ぶりの大幅増となり、失業率は予想に反して低下した。
 賃金上昇も示されたことで米国債利回りは急上昇した。
 投資家は来月にも通常より大幅な0.5ポイントの利下げが実施されるとの見方を急速に撤回した。

 米政策金利の動向に敏感な米短期債を買い上げることで、成長鈍化や緩やかなインフレ、積極的な利下げに備えていたトレーダーにとって、痛みを伴う再調整となった。
 それどころか雇用統計によって、景気過熱を巡る新たな懸念が再び浮上した。
 2年債利回りを数年ぶりの低水準に押し下げていた米国債相場上昇を台無しにした。

 最近では市場議論の中心は、経済がリセッションに陥ることなく減速する「ソフトランディング(軟着陸)」を達成できるか、それとも深刻な景気下降である「ハードランディング」に陥るかだった。
 金融当局は2年以上にわたるインフレとの闘いを経て、労働市場悪化の阻止に重点を移すことを示唆し、9月に0.5ポイントの大幅利下げに踏み切った。
 だが、株価が過去最高値を記録し、経済が堅調に拡大し、インフレ率がなお当局の目標に戻っていない局面での利下げに違和感を抱く人にとって今回の雇用統計は追い風となった。
 つまり、ノーランディングのシナリオだ。
  
   
posted by まねきねこ at 12:00| 愛知 ☔| Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ドラッケンミラー氏はFRBが「ガイダンスに縛られないこと望む」

 資産家でジョージ・ソロス氏の右腕として知られた著名投資家の
   スタンレー・ドラッケンミラー
は、米金融当局が先行きの金利引き下げを巡り自らを厳しい立場に追い詰めているとの懸念を示した。

 ドラッケンミラー氏は4日、9月の米雇用統計発表後に電子メールで「米金融当局が2021年のようにフォワードガイダンスに縛られないことを私は望んでいる」とコメントした。
 「国内総生産(GDP)はトレンドを上回り、企業利益は力強く、株価は史上最高値、信用は非常にタイト、金は最高値を更新している。抑制はどこにあるのか」と問いかけた。
 同氏はデュケーヌ・ファミリーオフィスを率いている。

 今週ニューヨークで開催された会議で、ドラッケンミラー氏はFOMCが9月の会合で0.5ポイント利下げを選択するべきだったのか疑問を呈していた。
 米資産運用会社ブラックロック
   ラリー・フィンク最高経営責任者(CEO)
は今週、米経済が成長を続ける中で市場は利下げを織り込み過ぎているとの見方を示した。

 9月の米雇用統計で、非農業部門雇用者数の伸びは全ての市場予想を上回り、失業率は予想外に低下した。

 ドラッケンミラー氏(71)の見解は、米金融緩和のペースと規模に関して市場は期待を抑える必要があるとする他のウォール街関係者の警告に沿うものだ。
 今回の雇用統計を受けて、金融市場では来月の大幅利下げ観測が後退、50ベーシスポイント(bp、1bp=0.01%)の利下げが実施される確率はゼロとなった。
 米連邦公開市場委員会(FOMC)は先月、年内残り2回の会合で計50bp利下げを支持すると示唆していた。


posted by まねきねこ at 09:00| 愛知 ☁| Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ピエール・デュポン(Pierre S. du Pont) 著名なデュポン家の一員 デュポン社、ゼネラルモーターズの社長

ピエール・サミュエル・デュポン(Pierre Samuel du Pont)
   1870年1月15日 - 1954年4月4日
 米国の起業家、実業家、慈善家
 著名なデュポン家の一員であった。

 ピエール・デュポンは1915年から1919年までデュポン社の社長を務め、1940年まで同社の取締役を務めた。
 また、 1915年から1920年まで
の経営に携わり、1920年にGMの社長に就任した。
 1928年までGMの取締役を務めた。
 その他の注目すべき業績としては、1931年にオープンした
   エンパイアステートビル
の創設取締役の一人であったことが挙げられる。
 
 デュポンは、デラウェア州ウィルミントン近郊の家族の土地で生まれ、祖父の
   ピエール・サミュエル・デュポン・ド・ヌムール
にちなんで名付けられた。
 彼は、ラモット・デュポンとメアリー・ベリンの3人の息子の長男である。
 名前の由来となった人物は、フランスの経済学者(制憲議会に選出された後、貴族の称号「ド・ヌムール」を授けられた)であり、デュポン家の家長であった。
 デュポン・ド・ヌムールは、フランス革命による恐怖政治による混乱もあり息子のエルーテール・イレネー・デュポンを含む親戚とともに米国に移住した。
 エルーテール・イレネー・デュポンは1802年にデュポン社を設立し、その子孫はその後2世紀にわたっ米国で最も裕福なビジネス一族の1つを形成した。
 1884年、父親が労働災害で亡くなった。
 10人兄弟の長男として、彼は一家の長となった。
 その後の人生、兄弟、さらには姉たちも彼を「お父さん」または「パパ」と呼んだ。
 彼はMITに入学し、1890年に化学の学位を取得して卒業した。
 1890年にMITを卒業した後、ブランディワイン川沿いのエルーセリアン・ミルズの副監督になった。

 彼と従弟のフランシス・ガーニー・デュポンは、 1892年にニュージャージー州のカーニーズポイント工場で米国初の
   無煙火薬
を開発した。
 1890年代の大半を、デュポン(主にT・コールマン・デュポン)が一部所有する鉄鋼会社、ペンシルベニア州ジョンズタウンの
   ジョンソン・ストリート鉄道会社
の経営陣とともに働いた。
 ここで彼は、社長のアーサー・モックスハムから金銭の扱い方を学んだ。
 1899年、デュポンの保守的な経営に不満を抱き、会社を辞めてジョンソン社を買収した。
 1901年、デュポンがオハイオ州ロレインにあるジョンソン社の資産の清算を監督していたとき、彼は
   ジョン・J・ラスコブ
を個人秘書として雇い、2人の間に長く有益なビジネスおよび個人的関係が始まった。

 ピエール・デュポンは、従兄弟の
   アルフレッド・I・デュポン
   T・コールマン・デュポン
とともに、1902年に
   EIデュポン・ド・ヌムール・アンド・カンパニー
を買収した。
 社長のユージン・I・デュポンの死後、家族で会社を存続させるためだ。
 彼らは小規模な火薬会社の買収に着手した。
 1914年にコールマン・デュポンが病気療養中だった間、ピエール・デュポンは財務担当、副社長、社長代行を務めた。

 1915年、ピエール率いる部外者を含むグループがコールマンの株式を買収した。
 アルフレッドは憤慨し、背信行為でピエールを訴えた。
 ピエールは1919年までデュポンの社長を務めた。

 ピエールはデュポン社に近代的な経営体制と会計方針をもたらし、投資収益率の概念を最優先にした。
 第一次世界大戦中、同社は連合国の軍需契約の前払いにより急速に成長した。
 彼はまた、他の産業にも多くのデュポンの事業を設立した。

 彼はタイム誌の1927年1月31日号の表紙を飾った。同
 年、彼はデラウェア・シンシナティ協会の名誉会員に選出された。
 1930年にはペンシルバニア鉄道の取締役に選出された。
 
 1915年、デュポンはゼネラルモーターズ(GM)の取締役に選出された。
 デュポンはGMの成功に大きく貢献し、同社に
   多額の個人投資
を行ったほか
   ジョン・J・ラスコブ
によるデュポンの自動車会社への投資提案を支持したことで知られる。
 1920年、彼はウィリアム・C・デュラントの後任としてゼネラルモーターズの社長に就任したが1923年に辞任したのち
が後任となった。
 ピエール・デュポンは、GMアルフレッド・スローン社長とラスコブの民主党全国委員会への関与をめぐる論争を受けて、GMの会長を辞任した。
 デュポンが取締役を退いたとき、GMは世界最大の企業の成長していた。
 
 デュポンは、家族の中で最初にマサチューセッツ工科大学に通った者の一人である。
 弟のイレネー・デュポン(1897年)とランモット・デュポン2世(1901年)は2人ともMITを卒業している。
 デュポン、彼の親族、そしてデュポン社は長年にわたりMITへの寛大な後援者であり、大学のために多くの基金、フェローシップ、奨学金、教授職の設置に尽力した。
 1917年にMITが現在のケンブリッジに移転したとき、ピエール、T・コールマン・デュポン、チャールズ・ヘイデンは、鉱山工学冶金学部(現在の材料科学工学部)の移転のために21万5千ドルを寄付した。

 デュポンは複数の理事会や委員会に所属し、1916年から1951年までは大学の理事会であるMITコーポレーションの会員であった。
 1951年に理事会を退任した際、兄のラモットとともに終身名誉会員の栄誉を受けた。
 2000年にデュポンMITアライアンス(DMA)が結成されました。
 その後10年間でデュポン社は大学に5500万ドルを寄付し、20もの研究プロジェクトに資金を提供しました。
 
 ピエールは1940年にデュポンの取締役を退任した。
 彼はデラウェア州教育委員会の委員でもあり、デラウェア州の公立学校に数百万ドルを寄付した。
 また、デラウェア州の老朽化した黒人学校の建て替えに資金を提供した。
 1943年に彼の系図研究書『デュポン家の系図、1739-1942』が出版された。

 デュポンは45歳まで独身だった。1915年10月16日、母親の死後、彼はペンシルバニア州スクラントン出身の
   ヘンリー・ベリン・ジュニア
の娘で従妹のアリス・ベリン(1872年 - 1944年)と結婚した。
 式はマンハッタンのパークアベニュー400番地、彼女の兄F・ラモット・ベリンの家で行われた。
 ペンシルバニア州の法律では従妹同士の結婚が禁じられていたため、彼らはニューヨーク市で結婚した。
 彼らには子供はいなかった。
 アリスは1944年6月23日にペンシルベニア州ケネットスクエアの自宅で亡くなった。 

 デュポンはそれからほぼ10年後の1954年4月4日、デラウェア州ウィルミントンのメモリアル病院で亡くなった。
 ロングウッドで葬儀が執り行われた後、ブランディワイン川近くのデュポン家墓地に埋葬された。 

 デュポンは1917年にアメリカ哲学協会に選出された。
 1919年にデュポンはデラウェア州教育委員会の委員となり、1920年代に委員長となった。
 当時、州法では白人納税者から集めた資金を州の黒人児童のための学校の支援に使うことを禁じていた。
 黒人学校の状態に愕然としたデュポンは、86校の新しい校舎を建設するために400万ドルを寄付した。
 1927年までに、デラウェア州の児童の43%に校舎を提供したと報告されている。
 1925年にデラウェア州の税務長官となり、その地位を利用して税務署の近代化と税金徴収の確保に努めた。

 1927年、デュポンは
   禁酒法改正反対協会
の会長に就任した。
 デュポンは、美しい庭園、噴水、温室を備えた個人所有のロングウッド ガーデンを一般に公開したことで有名である。
 この庭園の建設は、世界中の素晴らしい庭園を訪れた彼の海外旅行からインスピレーションを得たという。

 また、ウィルミントンにある旧PSデュポン高校(現在は中学校)は、彼にちなんで名付けられた。
 デラウェア大学のデュポンホールという建物も彼にちなんで名付けられた。
 ここには工学部のオフィスと研究室が入っている。

 デュポンはまた、 1924年にケネット高校の建設と設立のために90万ドルを寄付した。
 これは現在の価値で1280万ドル以上に相当する。

     
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パーズ銀行(Parr's Bank Limited ) 1782年から1918年まで存在したイギリスの銀行 ナットウェスト・グループの前身の一つ

パーズ銀行(Parr's Bank Limited )
 1782年から1918年まで存在したイギリスの銀行
 イギリスのランカシャー州ウォリントンに
   パー&カンパニー(Parr & Co.)
として設立された。
 1918年にロンドン・カウンティ・アンド・ウェストミンスター銀行に買収され、銀行・保険持株会社
の前身の一つとなりました。

 1905年の著作で、ウィリアム・ハワースはパーズを「国内最大の合併銀行の一つ」であり「金融界の勢力」と評した。
 銀行の歴史は18世紀後半に遡り、おそらく1782年に始まった。
 最初の共同経営者は、砂糖工場の
   ジョセフ・パー
と義理の兄弟
   マシュー・リヨン
弁護士の
   ウォルター・カーフット
であった。
 その後、共同経営者の名前は変わり、会社はパー&カンパニー、パー・リヨンなど様々な名前で知られたのち、ウォリントン銀行として知られるようになった。

 パーズは1865年までウォリントン、ランコーン、セントヘレンズに支店を持つ地方銀行であった。
 その後パーズ銀行という名称で株式会社となった。
 リバプール国立銀行を含む一連の買収により、パーズはチェシャー、ランカシャー、スタッフォードシャーに拠点を築入れ勢力を広げた。
 1890年までに22の支店と21の支社を持つようになった。

 パーズ銀行の最も重要な戦略的動きは、1891年にロンドンの小さな銀行
   フラー・バンバリー・ニックス・アンド・カンパニー(Fuller, Banbury, Nix & Co)
を買収したときで、この買収によりパーズは
   ロンドン銀行手形交換所
に席を置くことが出来た。
 近くで本社をおいたままで活動していたリバプール銀行とは対照的に、買収直後に本社をロンドンに移転させた。
 ロンドンに最初の拠点を置いたことで、 1892年の
   アライアンス銀行
の買収によって実質的な基盤が築いた。
 アライアンス銀行は
   金融再建
によりリバプールとマンチェスターの支店を売却し、ロンドンに12の支店を持っていた。
 アライアンス銀行の知名度からの信用の重要性を認識し、銀行名は「Parr's Banking Company and the Alliance Bank」に変更した。
 他のロンドンの小規模銀行も買収され、1896年にはアライアンス銀行よりわずかに規模が小さい
   コンソリデーテッド銀行
を買収した。
 コンソリデーテッド銀行はマンチェスターに支店を持つロンドンの銀行であった。
 この時点で、名前をパーズ銀行に戻した。

 1890年代には、パーズがミッドランドと南西部で買収に乗り出した時期で、重要なものとしては、1902年の
   パーズ・レスターシャー銀行
1914年のクロンプトン・アンド・エバンスの
   ダービー・ユニオン銀行
が挙げられる。
 しかし、最も大きな買収は
   スタッキーズ銀行(1909年)
であり、「イングランド西部で大きな力を持ち、イングランド銀行以外のイングランドのどの銀行よりも紙幣の流通量が多かった」。
 
 スタッキーズ銀行を創業した
   サミュエル・スタッキー
はサマセット州ラングポートを拠点とする雑貨商人で1770年代までには、スタッキーに資金を預ける顧客によって銀行業の萌芽が生まれた。
 1782年までにスタッキーはロンドンに代理店を持ち、1806年までには銀行業として成長したため、スタッキーは
   ラングポート銀行
として別個に設立した。
 支店は直ちにブリッジウォーターとブリストルに開設され、銀行のパートナーが6人までという制限を回避するために別個に設立された。
 1826年の法律に従って、この銀行は合資銀行となった最初の銀行の1つとなった。
 支店は正式にスタッキー銀行会社に編入された。
 その後10年間で、スタッキーは7つの地元銀行を買収し、ロンドンに事務所を開設した。
 スタッキー銀行の著名なメンバーの1人は、後にエコノミストの編集者となり、1855年に経営委員会の書記に任命された
   ウォルター・バジョット
であった。
 スタッキー銀行は新しい支店を開設するだけでなく、買収を続け、最後の買収は1883年のティバートンの
   ダンズフォード
であった。
 1909年の買収時までにスタッキー銀行の預金残高は700万ポンドであった。
 これに対し、パー銀行は3100万ポンドであり、タッキー銀行の買収によりこの銀行はイングランドで6番目に大きな株式会社銀行となった。
 
 1914年に第一次世界大戦が勃発するまでに、パーズは400近くの支店と支社を抱えていた。
 1918年にパーズはロンドン・カウンティ・アンド・ウェストミンスター銀行との合併に同意した。
 パーズの会長は「我々はホーム・カウンティの非常に広い地域へのアクセスを得る。彼らはランカシャーやレスター、ダービーといったミッドランド地方の主要都市への第一級の案内を得るとともに、イングランド西部との非常に貴重なつながりを得る」と主張した。

 拡大した銀行はロンドン・カウンティ・ウェストミンスター・アンド・パーズ銀行と改名され、1923年に
   ウェストミンスター銀行
に短縮された。

 ウォリントンの元のパーズバンクの建物は2020年にイギリスの建設会社
   YPグループ
が買収し、高級ブティックホテル、コーヒーショップ、イベントスペースに改装した。
  
   
posted by まねきねこ at 06:17| 愛知 ☀| Comment(0) | よもやまばなし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

フィッチ・レーティングス(Fitch Ratings Inc.) 米国の信用格付け会社であり、「ビッグ3信用格付け会社」の一つ

 米国の信用格付け会社であり、「ビッグ3信用格付け会社」の一つである。
 他の2社はムーディーズとスタンダード・アンド・プアーズである。
 同社は1975年に米国証券取引委員会によって指定された3つの全国的に認知された統計格付け機関(NRSRO)の一つである。

 収益 17億ドル
 従業員数 5,000人(概算)
 
 親会社 ハーストコーポレーション(Hearst Corporation,)
 
 フィッチ・レーティングスはニューヨークとロンドンに本社を置いている。
 ハーストは2018年4月12日に28億ドルでさらに20%を取得し、同社の株式を100%所有している。
 ハーストは2014年12月12日に19億6500万ドル相当の取引で所有権を30%増やし、同社の株式を80%所有していた。
 ハーストの以前の株式保有率は、2006年に当初20%の株式を取得し、その後拡大した後の80%だった。

 ハーストは、2018年の取引まで同社の20%を保有していたFIMALAC SAとフィッチを共同所有していた。
 フィッチ・レーティングスとフィッチ・ソリューションズはフィッチ・グループの一員である。

 同社は1914年12月24日に
   ジョン・ノウルズ・フィッチ
によってニューヨーク市で
   フィッチ・パブリッシング・カンパニー
として設立された。
 1989年に、同社は
   ロバート・ヴァン・カンペン
を含むグループに買収された。

 1997年にフィッチはFIMALACに買収され、ロンドンに拠点を置くFIMALACの子会社であるIBCAリミテッドと合併した。
 2000年にフィッチはシカゴに拠点を置くダフ・アンド・フェルプス・クレジット・レーティング・カンパニー(4月)とトムソン・ファイナンシャル・バンクウォッチ(12月)の両社を買収した。

 フィッチ・レーティングスはNRSRO格付け機関としては3番目に大きく、S&Pやムーディーズよりも市場シェアは限られている。
 しかし、買収によって成長し、他の2つの格付け機関が規模は同等ではないものの類似している格付けを持つ場合に「タイブレーカー」としての地位を確立した。
 2011年9月、フィッチ・グループはアルゴリズミックス(リスク分析ソフトウェア)をIBMに3億8,700万ドルで売却すると発表した。

 2022年6月、フィッチグループはAIを活用したデータ・テクノロジー企業であるG​​eoQuantを買収した。
 
 フィッチ・レーティングスの長期信用格付けは、「AAA」から「D」までのアルファベット順に割り当て、1924年に初めて導入され、後にS&Pによって採用され、認可した。
 S&Pと同様に、フィッチもAAからCCCまでのカテゴリーごとに中間の+/−修飾子を使用している。

 投資適格
  AAA:最高品質の企業、信頼性と安定性
  AA:質の高い企業、AAAより少しリスクが高い
  A:経済状況は財政に影響を与える可能性がある
  BBB:現時点では満足できる中堅企業
 
 非投資適格
  BB:経済の変化の影響を受けやすい
  B:財政状況が著しく変化する
  CCC:現在脆弱であり、コミットメントを果たすには好ましい経済状況に依存している
  CC:非常に脆弱で、投機性の高い債券
  C:非常に脆弱で、破産または滞納の恐れがあるが、依然として債務の支払いを続けている
  D:債務不履行を起こしており、フィッチは、今後大部分または全ての債務不履行に陥ると予測している。
 
 NR:公的に評価されていない
 
   
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