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2024年08月20日

商 鞅(しょう おう) 中国戦国時代の秦国の政治家・将軍・法家・兵家。

商 鞅(しょう おう)
   紀元前390年 - 紀元前338年
 中国戦国時代の秦国の政治家・将軍・法家・兵家。
 姓は姫、氏は公孫、名は鞅
 また、衛の公族系のために衛鞅(えいおう)とも呼ばれた。
 なお商鞅とは、後に秦の商・於に封じられたため商君鞅という意味の尊称である。
 法家思想を基に秦の国政改革を進め、後の秦の天下統一の礎を築いた。
 ただ、性急な改革から自身は周囲の恨みを買い、逃亡・挙兵したが秦軍に攻められ戦死した。

 公孫鞅は、若い頃は魏の
   恵王(在位:紀元前370年 - 紀元前335年)
の宰相で、韓の公族の
   公叔痤
の食客となり、中庶子[2]にに任ぜられている。

 公叔痤は死去する際に、恵王に後継の宰相として公孫鞅を推挙したが恵王はこれを受け入れず、公叔痤はこれを見て「公孫鞅を用いることをお聞き入れくださらないならば、私はやはり臣下よりも主君を優先せねばならぬから(鞅が他国に行けば強敵となるため)お前を殺すように進言した。お前はすぐに逃げた方がよい」と述べた。
 しかし、公孫鞅は「私を用いよというあなたの言葉を王が採用出来ないならば、私を殺せというあなたの言葉も王が採用するはずがありません」と述べて、かえって逃亡しなかった。
 公孫鞅の考えどおり、恵王は公叔痤が耄碌してこんな事を言っているのであろうと思い、これを聴かずに公孫鞅を登用も誅殺もしなかった。

 公孫鞅は魏を出て秦に入国し、宦官の
   景監
を頼って秦の若き君主
   孝公
に面会する事が出来た。
 公孫鞅は自分の弁舌が発揮するのはここぞとばかりに孝公に向かって熱弁した。
 最初に会った時はまず最高の為政者である帝の道を説いたが、孝公は退屈そうにして途中で居眠りしてしまった。
 次に会った時は一つ程度を下げて王の道を説いた。しかし、この時の孝公の反応は変わらずであった。
 三度目に会った時にさらに程度を下げて覇の道を説いた。そうすると孝公は熱心に聞き入り、無意識の内に公孫鞅ににじり寄るほどにこの話を気に入った。

 孝公の信任を受けた公孫鞅は国法を変えようとしたものの、孝公は批判を恐れて躊躇した。
 これに対して公孫鞅は「疑行は名なく、疑事は功なし」と述べて孝公を励ました。
 「疑」は確信を欠いたあやふやな気持ちをいう。なにごとであれ、やるからには自信を持って断行しなくてはいけない。あやふやな気持ちでやったのでは、成功もおぼつかなければ名誉も得られないという意味。
 この言葉は後世にて故事成語となった。
 しかしなお甘竜(かんりゅう、かんりょう)・杜摯(とし)といった者たちが「法は慣習となり人民も役人も馴染んでおり、法を変えずとも臣民を従わせるのは徳によってなされるべきです。道具は利が十倍なければ変えぬもの。法ともなれば百倍なければ」と旧制を変えるべきではないと述べた。
 公孫鞅はこれを「夏・殷・周はいずれも異なる法で王となり、五覇の法も異なります。古来より賢者が法を定め、愚者はただそれに従うものです。国に利無くば慣習に従う必要はありません。殷の湯王・周の武王は慣習に従わず王者となり、夏の桀・殷の紂王は変えず滅びました。法とは慣習に従うから良い、反するから悪いとするものではありません」と論破し、孝公も公孫鞅の言を由とした。

 紀元前356年、孝公は公孫鞅を左庶長に任じ、変法(へんぽう)と呼ばれる国政改革を断行した。
 これは第一次変法と呼ばれる。
 戸籍を設け、民衆を五戸(伍)、または十戸(什)で一組に分け、この中で互いに監視、告発する事を義務付け、もし罪を犯した者がいて訴え出ない場合は什伍全てが連座して罰せられる。
 逆に訴え出た場合は戦争で敵の首を取ったのと同じ功績になる。
 一つの家に二人以上の成人男子がいながら分家しない者は、賦税が倍加させられる。
 戦争での功績には爵位を以て報いる。
 私闘をなすものは、その程度に応じて課刑させられる。
 男子は農業、女子は紡績などの家庭内手工業に励み、成績がよい者は税が免除される。
 商業をする者、怠けて貧乏になった者は奴隷の身分に落とす。
 遠縁の宗室や貴族といえども、戦功のない者はその爵位を降下する。
 
 まず、民衆に法をしっかりと執行することを信用させるために、三丈もの長さの木を都である雍の南門に植え、この木を北門に移せば十金を与えようと布告した。しかし、民衆はこれを怪しんで、木を移そうとしなかった。
 そこで、賞金を五十金にした。すると、ある人物が木を北門に移したので、公孫鞅は布告通りに、この人物に五十金を与えた。
 こういったことで、まずは変法への信頼を得ることができた。

 しかし、最初は新法も成果が上がらず、民衆からも不満の声が揚がったが公孫鞅は意に介さなかった。
 公孫鞅は法がきちんと守られていないと考えた。
 孝公13年(紀元前349年)、太子の嬴駟(後の恵文王)の傅である公子虔が法を破ったのでこれを処罰する事を孝公に願い出た。
 公子虔を鼻削ぎの刑に処し、また教育係の公孫賈を額への黥刑に処した。
 さらにもう一人の太子侍従の祝懽を死刑に処した。
 このために公子虔・公孫賈の両人は恥じて外出しなくなり、公孫鞅を憎悪したという。
 この後は全ての人が法を守った。

 そうすると法の効能が出始め、10年もすると田畑は見事に開墾され、兵士は精強になり、人民の暮らしは豊かになった。
 道に物が落ちていてもこれを自分の物にしようとする者はいなくなった。
 秦の民衆には、はじめ不満を漏らしていたのに手のひらを返して賞賛の声をあげる者もあった。
 しかし、公孫鞅はそのような者も「世を乱す輩」として、容赦なく辺境の地へ流した。
 これにより、法に口出しする者はいなくなり「変法」は成功を収める。

 紀元前353年の
   桂陵の戦い
で魏が斉に大敗すると、紀元前352年には変法で蓄えられた力を使い秦は魏に侵攻し、城市を奪った(安邑・固陽の戦い)。
 同年、この功績で公孫鞅は大良造に任命された。
 紀元前350年、秦は雍から咸陽へ遷都した。
 この年に公孫鞅はさらに変法を行い、法家思想による君主独裁権の確立を狙った。
 今回の主な内容は父子兄弟が一つの家に住むことを禁じる。
 全国の集落を県に分け、それぞれに令(長官)、丞(補佐)を置き、中央集権化を徹底する。
 井田を廃し田地の区画整理を行う。
 度量衡の統一
 
 秦では父子兄弟が一つの家に住んでいたが、中原諸国から見るとこれは
   野蛮な風習
とされていた。
 一番目の法は野蛮な風習を改めると共に、第一次変法で分家を推奨したのと同じく戸数を増やし、旧地にとどまりづらくして未開地を開拓するよう促す意味があった。
 二度の変法によって秦はますます強大になった。

 紀元前341年の
   馬陵の戦い
で斉の孫臏によって魏の龐涓が敗死すると、紀元前340年には魏へ侵攻し、自ら兵を率いて討伐した(呉城の戦い)。
 またかつて親友であった魏の総大将である公子卬を欺いて招き、これを捕虜にして魏軍を打ち破り黄河以西の土地を奪った。
 危険を感じた魏は首都を安邑(現在の山西省運城市夏県)から東の大梁(現在の河南省開封市)に遷都した。
 恵王は「あの時の公叔痤の言葉に従わなかったために、このような事になってしまった…」と大いに悔やんだという。
 この功績により公孫鞅は商・於という土地の15邑に封ぜられた。これより商鞅と呼ばれる。
 
 比類なき功績で得意の絶頂であった商鞅も、強引に変法を断行した事により太子の傅を初めとして商鞅を恨む人間を大量に作っていた。
 彼らの多くは旧来の貴族であり、変法によって君主の独裁権が確立されると彼らの権限が削られていくので商鞅を恨んでいた。
 商鞅の腹心であった趙良は主人の身を案じて「あなた様は今すぐ宰相を辞し、他国に赴くことをお勧めします」と厳重に忠告したが商鞅は「趙良よ、私の身を案じるのは有難いが、私はまだまだやることがたくさんあるのだ」とこれを退けたという。
 これを聞いた趙良は禍を恐れて他国に逃亡した。

 紀元前338年、孝公が死去し、太子駟が即位し、恵文王となった。
 この時にかねてより商鞅に恨みを持つ新王の後見役の公子虔・公孫賈ら反商鞅派は讒訴し、商鞅に謀反の罪を着せようとした。
 恵文王も太子時代に自分を罰しようとした商鞅に恨みを持っていたので、危機を悟った商鞅は慌てて都から逃亡した。
 途中で宿に泊まろうとしたが、宿の亭主は商鞅である事を知らず、「商鞅さまの厳命により、旅券を持たないお方はお泊めてしてはいけない法律という事になっております」とあっさり断られた。
 商鞅は「法を為すの弊、一にここに至るか」(ああ、法律を作り徹底させた弊害が、こんな結果をもたらすとは…)と長嘆息したという。
 いったん魏に逃げるが、公子卬を騙した事を忘れていない魏は、軍を発し即座に国内から追放した。
 仕方なく商鞅は封地の商で兵を集めたが、秦の討伐軍に攻められて戦死した。
 恵文王の厳命でその遺骸は黽池で見せしめとして車裂の刑に処せられ、身体は引き裂かれて曝しものとなった。
 
   
posted by まねきねこ at 21:00| 愛知 ☔| Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

主導権を際限なく維持することは元々不可能

 米国の戦争研究所(ISW)は、ロシア軍はウクライナ東部前行きで
   主導権を際限なく維持すること
はできないと指摘した。 
 報告では、「ロシア軍は、ウクライナ東部全域で主導権を際限なく維持できるわけではなく、ロシアの攻勢作戦が最高点に達すれば、それはウクライナ軍にその後の主導権を争う機会を与えることになる」と書かれている。
 また、ISWは、ロシアが戦場全域で主導権を得ることで、同国はウクライナにおける戦闘の場所、時間、烈度、要件を決めることができ、攻勢のテンポを決めるためにこの優位を活用してきたと指摘している。
 また、「ロシア軍は、継続的攻勢努力を支えるために、2024年夏を前に戦略・作戦予備戦力を構築する長期の努力を追求してきたのであり、ロシア軍は、おそらく2024年春から夏にかけてウクライナ東部と北東部の全域での攻勢作戦にこれらの予備戦力の多くを消費、投入したとみられる」と指摘した。

 しかし、ウクライナのクルスク州での作戦とロシア側のドネツィク州での攻勢作戦のテンポ維持という優先課題により、ロシアの残存する作戦予備兵力への負荷が強まり、それは戦場での一貫した攻勢作戦を維持する能力に影響を与え始めるだろうと続けた。
 そして、ロシア兵力さらにクルスク州に再配置されれば、ロシアがウクライナ北東部・東部での攻勢作戦を維持する能力はさらに弱まるだろうとしつつ、しかし、ロシア軍は前線全域で均等に攻撃活動を低下させるよりは、優先度の低い場所で攻撃活動を低下させ始める可能性の方が大きいだろうと予想されている。
  

ひとこと
 ロシア軍の移動が必要であり、新兵の投入も出来ずに将兵の消耗が続いており、北朝鮮からの義勇軍などが投入されかねない状況にも見える。
  
    
posted by まねきねこ at 19:55| 愛知 ☔| Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

トランプ陣営のハッキング被害 の背景に「イラン関与」をFBIらが初めて公式に指摘した。

 米国大統領選挙におけるトランプ陣営がハッキング被害を受けた問題で、連邦捜査局(FBI)などは初めて公式にイランの関与を指摘した。
 トランプ前大統領の陣営は10日、「敵対的な外国勢力」によるハッキングで
   内部文書
の一部が流出したと発表した。
 この被害に関してFBIや国家情報長官室などは19日、共同声明で
   イランの仕業だ
と述べ、「アメリカの選挙プロセスに影響を与えることが目的だ」と指摘したうえ、政府としての見解を初めて公表した。
 そのうえで「アメリカ国民への影響工作や、大統領選の陣営を狙ったサイバー工作を確認している」と指摘している。
 また、ロシアも過去に同様の手法で選挙を妨害しようとしたと指摘し、「選挙に影響を与えたり介入したりする外国の動きを容認しない」と対応を強化する考えを強調した。

    
ひとこと
 内部文書が公開されることで問題が起きる可能性もあり、歌手に似た映像を使う偽情報を使った工作をトランプ自身が行うなど劇場型政治家の素行の悪さも目立ってきた。

  
posted by まねきねこ at 19:40| 愛知 ☔| Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

末期的劇場政治家の暴走 トランプ氏がT・スウィフト氏の支持受けたと偽画像を投稿 「フェイク画像を見分けることもできない」とSNSで批判多数

 トランプ前大統領が、アメリカの有名歌手
   テイラー・スウィフトさん
から選挙戦で支持を受けたかのように見せる偽の画像を投稿し、批判の嵐に晒されているようだ。
 トランプ前大統領は18日、自身のSNSでテイラー・スウィフトさんが星条旗のデザインの帽子をかぶり、「トランプ氏に投票してほしい」と呼びかけるような画像などを投稿した。

 他の画像には、テイラーさんのファンを意味する「スウィフティーズ」と書かれたTシャツを着た人々がトランプ氏を支持するような様子が写っており、トランプ氏は「支持を歓迎する!」と投稿した。

 アメリカメディアによりますと、これらの多くが偽画像で、AIの生成画像という。
 そもそも、テイラーさんはトランプ氏への支持は一切表明しておらず、SNSでファンらからは「トランプ氏はフェイク画像を見分けることもできない」などと批判するコメントが多く寄せられている。
  
   
   
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複数のシナリオのうちどれに沿って経済が実際に動くか金利決定に関与する当局者も確信が持てない

 英中銀の直近のMPCでは、利下げに反対したチーフエコノミスト
   ヒュー・ピル氏
とベイリー総裁の意見が分かれた。
 ベイリー氏は、複数のシナリオのうちどれに沿って経済が実際に動くか金利決定に関与する当局者も確信が持てず、それらの可能性を巡る見解も異なっていると説明した。 
   
    
posted by まねきねこ at 19:09| 愛知 ☔| Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

円高一服し147円台の押し戻され、日経平均が600円超上げ

 日本株式市場では20日、為替の円高一服が好感され、週後半に開かれるジャクソンホール会合(カンザスシティー連銀主催のシンポジウム)で米国の金融当局者が9月利下げの可能性を示唆すれば、米経済や企業業績の安定成長につながるとも期待され反発し、日経平均株価の上げ幅は600円を超えた。 

 為替の円高一服が好感され、今後の適切な利下げで米国景気が安定するとの見方も投資家の買いを促した。
 来週28日に控える米半導体メーカーのエヌビディアの決算内容を期待する声も聞かれた。

 業種別では電機や精密機器、輸送用機器など輸出セクターを中心に、大和証券が投資判断を上げた大阪ガスなど電気・ガス、お盆期間中の利用が前年比で伸びたJR西日本などの陸運株も高い。
 東証33業種は31業種が上げ、銀行と小売りの2業種が下落した。
 TOPIX採用の2132銘柄中、上昇は1914、下落は176。
 
 実19日に674円下げた日経平均はきょうの取引で674円上昇と同じ値幅で終了しており、3万8000円の大台を意識しながら膠着ムードも広がりつつあるという。
 
 
posted by まねきねこ at 18:49| 愛知 ☔| Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

クラインワート・ベンソン(Kleinwort Benson) 英国およびチャンネル諸島各地にオフィスを構え、幅広い金融サービスを提供する大手投資銀行

クラインワート・ベンソン(Kleinwort Benson)
 英国およびチャンネル諸島各地にオフィスを構え、幅広い金融サービスを提供する大手投資銀行であった。
 クラインオート家とベンソン家がロンドンで2つの異なる商業銀行を設立し、。両家は1961年に合併し
   クラインオート・ベンソン・ロンズデール(後のクラインオート・ベンソン)
を設立しました。
 2016年6月に
   ソシエテ・ジェネラル
に買収された後、既にソシエテ・ジェネラルの子会社であった
   SGハンブロス
と合併し、 2016年11月にクラインオート・ハンブロスとなった。

 クラインオート家で最も早く銀行業を始めた人物として知られているのは、当時24歳の
   ハインリッヒ・クラインオート
で、初代準男爵サー・アレクサンダー・ドレイク・クラインオート(1858–1935)の祖父にあたる。
 1786年、ハインリッヒはドイツ北部ホルシュタイン州で
   オットー・ミューラー
と提携し、イギリスとの貿易に資金を提供した。
 クラインオート家はキューバで貿易事業を成功させ、 H・アップマン・アンド・サンズの葉巻事業の拡大で利益を得た。
 1830年代に
   エドワード・コーエン
   ジェームズ・ドレイク
がこの会社に加わり、しばらくの間
   ドレイク・クラインオート・アンド・コーエン
として知られていたが、1880年代にクラインオート・サンズ・アンド・カンパニーに改名された。
 同社は1937年9月15日に4%の利子で80万ポンドの融資を承認し、スペインにおける
   フランシスコ・フランコ
の軍事クーデターの資金調達を支援した。
 1か月後、クラインワーツは3%の利子で150万ポンドの別の融資にも同意した。

 1786年、クエーカー教徒の
   ロバート・ベンソン
は、ウィリアム・ラスボーン商会のウィリアム・ラスボーン4世と合併し、主にアメリカと取引するリバプールの企業
   ラスボーン・アンド・ベンソン
を設立した。
 この会社は19世紀を通じて家長
   ロビン・ベンソン
の支配下にあるベンソン家は、イギリス、ヨーロッパ、アメリカの鉄道金融を通じて富を築いた。
 1852年にはイリノイ・セントラル鉄道の株式を販売するシンジケートに加わっている。

 1947年、ロバート・ベンソン・アンド・カンパニーはレオ・ロンズデールが設立した
   ロンズデール・インベストメント・トラスト
と合併し、ロバート・ベンソン・ロンズデール・アンド・カンパニーを設立した。
 ベンソン家のグループに対する関心は薄れたが、銀行の運営管理は会長の
   レックス・ベンソン
が引き続き行っていた。

 1961年、クラインオート社とロバート・ベンソン・ロンズデール社が合併して
   クラインオート・ベンソン・ロンズデール社
が設立された。
 合併後の会社は1966年に金地金ディーラーの
   シャープス・ピクスリー社
を買収し、NMロスチャイルド・アンド・サンズの事務所で1日2回会合を開いていた
   ロンドン金価格決定委員会
に議席を確保した。
 クラインオート・ベンソン社は当時、 1969年の
   キャドバリーとシュウェップスの合併
など、いくつかの大規模な合併や買収に携わっていた。
 同社は1984年10月に株式仲買業者の
   チャールズワース・アンド・カンパニー
を買収し、証券市場への参入を決定した。
 また1986年4月には大手株式仲買業者の
   グリーブソン・グラント
を買収した。

 1980年代、クラインオート・ベンソンは民営化の先駆者となって活動していた。
 同社は1981年、英国政府の売却計画の第一弾として
   ブリティッシュ・エアロスペース
の再民営化を手掛けたうえ、同年、ケーブル・アンド・ワイヤレスの上場も手掛けた。
 次に、1983年にはアソシエイテッド・ブリティッシュ・ポートの民営化について助言した。
 さらに、1984年には、当時としては過去最大の株式発行となった
   ブリティッシュ・テレコム
の50.2%の売却について英国政府に助言した。
 同年、エンタープライズ・オイルの民営化を支援した。
 また、当時の重要な民間部門の取引には、1984年のファイド兄弟によるハロッズの買収などがある。

 同社は海外の民営化にも携わり、1993年にはイタリア政府にエネルのIPOについて助言した。
 英国では同年、カールトン・コミュニケーションズによるセントラル・テレビジョンの7億2,300万ポンドでの買収について助言した。

 1995年、クラインオート・ベンソンは
   ドレスナー銀行
に買収され、ドレスナー・クラインオートとして同銀行の投資銀行部門となった。
 2001年にはブルース・ワッサーシュタインから米国の投資銀行
   ワッサーシュタイン・ペレラ
を買収し、世界的な展開を拡大した。
 同銀行のフランクフルト支店は、 2003年に
   CO2排出権取引
の開始に重要な役割を果たした。

 2004年、ロシア政府はドレスナー・クラインオートを雇用し、ユコスの
   ユガンスクネフチェガス
の評価を行った。
 ユガンスクネフチェガスは後にロシア国営石油大手ロスネフチに売却された。

 2006年1月、同銀行は、女性労働者に対する偏見と組織的差別を主張する6人の従業員による14億ドルの集団訴訟の対象となった。

 2008年12月、ドレスナー銀行の買収を進めていたコメルツ銀行は、ドレスナー・クラインオートのM&A部門を閉鎖することを決定した。
 その後、2009年3月に日本事務所が閉鎖されることが明らかになった。
 また、資本市場および株式部門も閉鎖され、コメルツ銀行のドイツ国内顧客に対するアドバイザリー業務のみが行われることが明らかになった。


 2009年2月、コメルツ銀行の経営陣は、ドレスナー・クラインオートを含むコメルツ銀行グループ全体でボーナスを支払わないと発表した。
 これは、フロントオフィスのスタッフは2008年12月に約束されたボーナスの10%を受け取るが、サポート部門はボーナス全額を受け取ることを意味すると明確にされた。
 これは、退職金と保証されたボーナス支払いに関する問題と相まって、いくつかの訴訟を引き起こした。
 元キャピタルマーケット部門長の
   イェンス・ペーター・ノイマン
は、2009年4月にドイツで150万ユーロの退職金を求めて訴訟を起こした。
 また、元上級管理職のマーティン・ニューソン、エドゥアルド・リストルティ、マイケル・アダムスも訴訟を起こしたが、示談で和解した。
 他の幹部(アレスキ・イベラケネ、エフストラティオス・ハツィステファニス、カヴェ・タレガニ、ステファン・グッター)は、2009年8月に銀行に対するボーナス訴訟に勝訴した。
 ドレスナー・クラインオートの執行委員会メンバーであるジョン・マッキンタイア、ベルトラン・ピネル、アルベルト・ピエドラは、2009年8月に1100万ユーロを求めて追加の訴訟を起こした。
 2009年9月、ドレスナー・クラインオートの元および現フロントオフィス従業員72人が、争点となっているボーナス支払いで3000万ポンドを求めて訴訟を起こした。

 2009年9月、コメルツ銀行はドレスナー・クラインオートの名称の使用を中止することを決定し、2009年10月にはクラインオート・ベンソンに改名した同社をRHJインターナショナルに売却した。

 2011年7月、RHJインターナショナルは、子会社のクラインオート・ベンソンが、プライベートバンキング、資産運用、金融市場、コーポレートバンキングの業務を手掛けるドイツ最強の銀行ブランドの一つであるBHF銀行の買収についてドイツ銀行と独占交渉中であると発表した。
 2012年9月、同社はクラインオート・ベンソンがBHF銀行を3億8,400万ユーロで買収することでドイツ銀行と合意に達したと発表した。

 2011年11月、サフラン・タックス・パートナーズは、クラインオート・ベンソンから個人顧客向け税務コンプライアンス事業を買収すると発表した。
 2012年12月、ロンドンを拠点とする独立系コンサルティング会社SKファイナンシャルは、小売流通見直しの実施後、クラインオート・ベンソンが利益を上げてサポートできなくなったと判断した約1,000人の顧客をクラインオート・ベンソンから買収した。
 同銀行は2012年にロンドンのセント・ジョージ・ストリートにある新社屋に移転した。

 RHJインターナショナルは2015年3月に「BHFクラインオート・ベンソン・グループ」となり 、 2016年初頭にオッド・アンド・シーに買収された。
 その後、2016年6月にソシエテ・ジェネラルがオッド・アンド・シーからクラインオート・ベンソンを買収した。
 同社は2016年11月にこの銀行を既存のプライベートバンキング子会社SGハンブロスと合併し、クラインオート・ハンブロスを設立した。

 著名な現従業員等
  ・サー・アラン・ヤロー、元ロンドン市長(2014年〜2015年)
  ・ブルース・ワッサースタイン、ラザード社の元会長兼CEO 
  ・ザビエル・ロレ、ロンドン証券取引所グループ、CEO
  ・サー・デイビッド・クレメンティ、プルデンシャル、会長(2002年 - 2008年)
  ・サー・エイドリアン・モンタギュー、フレンズ・プロビデント会長

  ・カラム・マッカーシー、財務省、非常勤取締役
  ・ロナルド・クレイマー
    ウィン・リゾーツ元社長
    現グリフォン・コーポレーションCEO 
  ・ルーク・ジョンソン、王立芸術協会会長
  ・ニコラス・レッドメイン卿 ( 1938年 - 2008年)
    1995年からKBIMの会長
  ・マキシマ・ゾレギエタ、元新興市場部門副社長、オランダ王妃
  
  ・ラーム・エマニュエル
    米国下院議員(2003年 - 2008年)
    ホワイトハウス首席補佐官(2008年 - 2010年)
    駐日米国大使
  ・ピーター・ウォーカー
    ウスター男爵 、イギリス国会議員(1961年 - 1992年)
   

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シャープス・ピクスリー(Sharps Pixley) イギリスの金地金商社

シャープス・ピクスリー(Sharps Pixley)はイギリスの金地金商社で、1957年に2つの民間金地金合名会社が合併して設立された。
 シャープス・ウィルキンスは1740年に設立され、ピクスリー・アンド・アベルは1852年に設立された。
 ロンドン金相場の(取引価格を決める)調整のために1日2回会合を開いていた5社のうちの1社である。
 他の4社はNMロスチャイルド・アンド・サンズ、ジョンソン・マッセイ、モカッタ・アンド・ゴールドスミッド、サミュエル・モンタギュー・アンド・カンパニーである。
 シャープス・ピクスリーは1966年に
   クラインオート・ベンソン
に買収されたが、これは主にイングランド銀行の要請によるものであった。


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市場脆弱化で乱高下の頻度が増加しているウォール街にメルトダウンが教訓を与えた。

  ウォール街では恐怖よりも強欲が優勢となり、世界をここ数週間震撼させた市場の大混乱も、長期チャート上では単なる乱高下の一つになりそうだ。

 しかし、この夏の暴落は、現代の金融市場の最近の傾向が極まったケースとして歴史に刻まれるだろう。
 ここ数年、ほとんど前兆もなく衝撃的な相場変動が発生する頻度が高まる傾向が見られるからだ。

 暴落の後、ボラティリティーは同じく急速に沈静化し、S&P500種株価指数の週間の上昇率は昨年11月以来最大となった。
 米国債利回りは安定を取り戻した。
 UBSグループによると、恐怖指数として知られるシカゴ・オプション取引所(CBOE)のボラティリティー指数(VIX)は日中ベースで過去最大の上昇を記録した後、過去最速のペースで急落した。

 この乱高下を合理的に説明するのは難しい。
 背景として、テクニカルな要因を指摘する人もいれば、米金融当局の政策ミスや人工知能(AI)バブル崩壊に関する懸念を挙げる人もいる。
 いずれにせよ、レバレッジをかけたトレーダーが相互に影響し合う中で、熱を帯びた市場は周期的に高揚感から絶望へと、そしてまた高揚感へと変化する。


posted by まねきねこ at 01:00| 愛知 ☁| Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする