呉 起(ご き)
紀元前440年頃 - 紀元前381年
中国戦国時代の軍人で政治家、軍事思想家
孫武、孫臏と並んで兵家の代表的人物とされる。
兵法の事を別名「孫呉の術」とも呼ぶ。
死後兵法書『呉子』の作者に擬せられた。
子は呉期
周代・春秋時代から戦国時代にかけて河南省の一部を支配した諸侯国 衛の左氏(現在の山東省菏沢市定陶区)の出身。
立身出世を志して、孔子の主要な弟子の一人で親孝行の人として知られ『孝経』『大学』『曾子』の著者とされ
曾子(曽子、紀元前505年 - 没年不詳)
に学んだが、母の葬儀に帰らなかったため不孝として破門になった。
母の葬儀に帰らなかったのは、かつて仕官のため各地を転々とし、仕官先が見つからないまま家の財産を使い果たししまったことを、馬鹿にした人を故郷で殺害していたため、帰郷できなかったというものであった。
破門された呉起は素直に曾子のもとを去っている。
紀元前412年に斉が魯を攻撃した。
魯の穆公は呉起を将軍として招聘し、呉起が率いる魯軍は斉軍を撃破した。
斉の人を妻にしていたために将軍に任用する事が危ぶまれたが、先んじて妻を殺すことでそれを晴らした。
しかし、それが結局人格に対する
不信感
となり、魯の大夫たちにより「呉起は自分の妻を殺害したばかりでなく、魯と兄弟国である衛を独断で侵略した怪しからん人物である」という讒言にあい、罷免された。
紀元前411年、身の危険を感じた呉起は魏に亡命した。
魏の文侯は名君で、積極的に人材を集め、魏の国力を上昇させた。
文侯が呉起を任用するかどうかを家臣の
李克
に下問したところ、李克は「呉起は貪欲で好色ですが、軍事にかけては名将司馬穰苴も敵いません」と答え、文侯は呉起を任用する事に決めた。
呉起は軍中にある時は兵士と同じ物を食べ、同じ所に寝て、兵士の中に傷が膿んだ者があると膿を自分の口で吸い出してやった。
ある時に呉起が兵士の膿を吸い出してやると、その母が嘆き悲しんだ。
将軍がじきじきにあんな事をやってくだされているのに、何故泣くのだと聞かれると「あの子の父親は将軍に膿を吸っていただいて、感激して命もいらずと敵に突撃し戦死しました。あの子もきっとそうなるだろうと嘆いていたのです」と答えたと言う。
この逸話は「吮疽の仁」と呼ばれている。
兵士たちは呉起の行動に感激し、呉起に信服して命も惜しまなかった。
こnため、この軍は圧倒的な強さを見せた。
紀元前409年に呉起は軍の指揮を執り秦を討ち、5つの城を奪った。
この功績により西河郡の郡守に任じられ、秦・韓を牽制した。
紀元前396年に文侯がが亡くなり、子の武侯が即位すると田文と宰相の座を争ったもののこれに敗れる。これを不服として、本人に抗議し、軍略・政治力・諸侯への威信、それぞれどちらが優れているかを問い質した。すると、田文は三つとも呉起の方が優れていると述べた上で、「だが、今の主君は年若くして民からの信望も薄い。このような状況においては、私と貴殿とどちらが大役を任されるだろうか?」と尋ね返した。ここにおいて呉起は己が田文に及ばないことを認めた。
紀元前389年に恵公率いる50万もの秦軍が侵攻した
陰晉の戦い
では呉起が撃退したうえ、紀元前387年には斉を破った。
その後、田文が亡くなり、文侯の女婿でもある韓の公族の
公叔痤
が後任の宰相となったものの、公叔痤は呉起を嫌っており、妻の弟である武侯に呉起のことを讒言した。
そのために武侯は呉起を疎み始め、両者の間は上手くいかなくなった。
さらに、公叔痤は呉起を陥れる策略を画策した。
武侯へ「呉起を他国に移さない方法がございます。公女を娶らせるのです」と入れ知恵し、その一方で呉起を公叔痤の家に誘った。
呉起がそこで見たのは、公女である公叔痤の妻が夫を罵倒する姿だった。
呉起が殊更名誉を重んじるので、公女を貰うとこうなると思えば話を受けないだろうと見ての芝居であった。
呉起は公叔痤の目論見通りに断り、武侯の懸念が増大した。
武侯への讒言がされたので、ミニ危険を察した呉起は南の楚に逃亡した。
その際に「武侯様は奸臣の讒言を聞き、私を理解しない。西河は秦に取られるだろう」と述べたという。
後にその通り、魏は秦に侵略され西河を奪われた。
楚では時の君主で17代王の
悼王
により呉起は令尹(宰相)に抜擢され法家的な思想を元とした国政改革に乗り出した。
元々、楚は宗族の数が他の国と比べてもかなり多かったため、王権はあまり強くなかった。
また、国土は広かったが人の居ない地が多く、仕事の割に官職の数が多かった。
これに呉起は
法遵守の徹底
不要な官職の廃止 など
を行い、これにより浮いた国費で兵を養ったうえ、領主の権利を三代で王に返上する法を定めた。
また、民衆、特に農民層を重視した政策を取ったことで富国強兵・王権強化を成し遂げた。
楚は南は百越を攻略し、北は陳・蔡の二国を併合して三晋を撃破、西は秦を攻めるほどの強盛国家に伸し上がった。
この事から呉起は
法家の元祖
と見なされる事もある。
ただし、管仲や伝説でもある太公望も、その政治手法は法家的とされ、時代的にはこれよりも古い。
楚がは中央集権的な国家に成長した裏では権限を削られた貴族たちの強い恨みが呉起に向けられ、呉起もそれを察知していた。
呉起が無事なのは悼王の寵愛が強く、反発する貴族も行動等を自粛したためでしかなく、悼王は既に高齢であった。
悼王21年(紀元前381年)、悼王が老齢で薨去した。
すると、反呉起派は呉起を暗殺するために宮中に武装した兵士を派遣した。
逃れられない事を悟ると呉起は悼王の死体に覆いかぶさり、遺体もろとも射抜かれて絶命した。
次期王が決まる前の政権空白期の事故であった。
伍子胥(ご ししょ、? - 紀元前484年)
が楚の12代王である平王の死体に鞭打ったため、楚の法律で
「王の遺体に触れた者は死罪」
と言う決まり事があり、父の後を継いだ
粛王
は、反呉起派の放った矢が亡父の悼王にも刺さった事を見逃さず、巧みにこの法律を持ち出し、悼王の遺体を射抜いた改革反対派である者たちを大逆の罪で一族郎党に至るまで全て処刑した。
死の間際において呉起は、自分を殺す者たちへの復讐を目論み、かつ改革反対派の粛清を企てたとも言える。
しかし、粛王の機転にもかかわらず、呉起の死により改革は不徹底に終わり、楚は元の門閥政治へと戻ってしまった。
この半世紀後、呉起と並び称される法家の
商鞅
が秦にて法治主義を確立した。
結局、商鞅も恨みを持つ者たちにより処刑された。
しかし、秦はその後も法を残したことで秦は着実に覇業を成し遂げ、嬴政(後の秦の始皇帝)が秦の王となり、楚も滅ぼし中国を統一したのとは対照的な結果となっている。