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2024年07月31日

徳田 昂平 (とくだ こうへい)徳田商会(のちの内外証券、東海東京証券)社長 相場師

徳田 昂平 (とくだ こうへい)
   1878年(明治11年)5月- 1951年(昭和26年)10月5日)
 日本の実業家、相場師
 徳田商会(のちの内外証券、東海東京証券)社長
 日本証券取引所総裁、貴族院議員、大蔵省証券取引委員会委員長等を務めた。
 
 山梨県出身で旧制甲府中学(のちの山梨県立甲府第一高等学校)を経て、東京高等商業学校(のちの一橋大学)を卒業。
 山梨銀行等を経て、1897年徳田商会に入社した。
 入社後頭角を現し、3年後に支配人に就任した。
 徳田商会創業者の徳田孝平の婿養子となり、ロンドンに3年間留学した。
 その後、ニューヨークのウォール街の仲買店で株式仲買を学んだ。
 1918年株式会社徳田商会に改組し社長に就任した。

 1924年から1933年まで東株一般取引組合委員長に就任した。
 また、東京商工会議所副会長や日本証券取引所総裁を務め、1946年6月8日、貴族院勅選議員に任じられた。
 研究会に所属して1947年5月2日の貴族院廃止まで在任した。
 同年、大蔵省証券取引委員会委員長に就任した。
 東京板紙株を巡る富士製紙と樺太工業の買収合戦では、山一證券の初代社長の
   杉野喜精
とともに事態の収拾にあたった。
 1951年10月5日、下腹部の腫瘍が悪化し、ガン研究会附属分院にて死去した。

   

    
posted by まねきねこ at 20:00| Comment(0) | 人物伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

激戦7州の最新世論調査でハリス氏がトランプ氏のリードを消し去った!!

 ブルームバーグ・ニュースとモーニング・コンサルトの最新世論調査で11月に行われる米大統領選で民主党大統領候補指名を確実にしたハリス副大統領が激戦7州の有権者支持率で共和党候補のトランプ前大統領のリードを消し去ったことが分かった。

 調査結果によると、ハリス氏の支持率は選挙戦の結果を左右する可能性のある激戦7州全体で見て48%と、トランプ氏の47%を上回った。
 この数値は統計上の大接戦と言えるが、選挙戦撤退前の時点でバイデン大統領はトランプ氏に2ポイントリードされていた。

 ハリス氏は若年層や黒人、ヒスパニック系の有権者の熱狂の波に乗った形で、アリゾナ、ネバダ両州でトランプ氏のリードを覆したうえ、ミシガン州ではバイデン氏がトランプ氏に対して持っていたリードを2倍余りに広げた。   

 最新の数値は、バラク・オバマ氏をホワイトハウス入りさせた有権者層をハリス氏が再結集させる可能性があり、民主党の支持基盤を固めるのに苦戦したバイデン氏よりも当選に向けた道筋が一段と明確であることを示唆した。

 ハリス氏が民主党大統領候補指名を確実にしてから1週間ほどで、現職大統領に再選の取り組み断念を促すという同党の歴史的な戦略が期待していたような効果を発揮している早期のヒントが示された形だ。

 調査を行ったアリゾナ、ジョージア、ミシガン、ネバダ、ノースカロライナ、ペンシルベニア、ウィスコンシン各州でのハリス、トランプ両氏の差は統計上の誤差の範囲内であり、選挙戦が予断を許さない状況に変わりはない。
 さらに、トランプ氏選挙陣営の世論調査担当者の表現では、ハリス氏は現在、「ハネムーン局面」にあると考えられ、経済運営や移民対策を中心に有権者にとって重要な問題で信頼を勝ち取るという課題に直面しており、支持が加速するか失速するかは今のところわからない。

   
posted by まねきねこ at 07:56| 愛知 | Comment(0) | よもやまばなし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ルーファス・カトラー・ドーズ(Rufus Cutler Dawes) 石油・銀行業の実業家

ルーファス・カトラー・ドーズ
        (Rufus Cutler Dawes)
   1867年7月30日 - 1940年1月8日
 米国オハイオ州の名門家庭出身の石油・銀行業の実業家で彼と3人の兄弟は全国的に有名になった。
 1920年代、彼は第一次世界大戦後の連合国に対する敗戦国ドイツの賠償金を管理する
   ドーズ計画とヤング計画
を準備する委員会の専門家として働いた。
 ドーズはキャリアの大半をシカゴで過ごし、シカゴ商業クラブの会長を務め、1934年から1940年にかけては万国博覧会組織と科学産業博物館(MSI) の責任者を務めました。
 ドーズの先祖は、メイフラワー号の乗客であったエドワード・ドーティと、米国の独立戦争勃発時にポール・リビアとともにイギリス軍の進軍をアメリカ植民地人に警告したウィリアム・ドーズの家系である。

 ドーズはオハイオ州マリエッタで、ルーファス・R・ドーズ准将 とメアリー・ビーマン(ゲイツ)・ドーズの子として生まれた。
 チャールズ・G・ドーズの弟であり、独立戦争の人物
   ウィリアム・ドーズ
の玄孫である。
 2人の弟、ビーマン・ゲイツ・ドーズとヘンリー・メイ・ドーズも全国的に有名になった。
 ミドルネームのカトラーは、父方の祖母サラ・カトラーの家族にちなんで付けられたもの。
 サラはマナセ・カトラーの息子エフライム・カトラーの娘である。
 また、カトラーは、南北戦争でルーファス・ドーズの同僚だったアイアン旅団のライサンダー・カトラーの名前でもある。
 1886年にマリエッタ大学を卒業し、学士号を取得し、1889年に修士号を取得した。
 ドーズは1893年6月3日にヘレン・B・パーマーと結婚した。

 ドーズは兄弟とともに多くのガスおよび照明事業で活躍した。
 彼はユニオン・ガス・アンド・エレクトリック・カンパニー、メトロポリタン・ガス・アンド・エレクトリック・カンパニー、およびドーズ・ブラザーズ社の社長に就任した。
 1918年にイリノイ州年金法委員会(1918-1919)に任命され、公務に携わ​​るようになった。
 1920年にはイリノイ州憲法制定会議の代表に選ばれた

 1924年、政治家の弟チャールズはヨーロッパの国際危機を解決し、ドイツが賠償金を支払うための段階的な計画を策定するためのドーズ計画を準備する専門家委員会のメンバーにルーファスを任命した。
 ドーズの貢献を考慮して、1929年に後継のヤング計画を策定したオーウェン・D・ヤングの助手としても働くよう依頼された。
 ドーズはシカゴ商業クラブの会員で、1925年から1926年まで会長を務めた。
 また、1927年から1940年に亡くなるまで、A Century of Progress Corporationの社長を務めた。
 1934年から死去するまで、ドーズは万国博覧会組織と科学産業博物館(MSI) の会長を兼任した。

 ドーズは、シーウェル・エイブリー、ウィリアム・ルーファス・アボットに次ぐ、MSI の3代目の会長である。
 それ以前は、理事会の積極的なメンバーであり、ヴァルデマール・ケンプファートが1928年に科学産業博物館の初代館長に就任した際には、ケンプファートに状況を説明するのを手伝った。
 なお、ケンプファートはニューヨーク・タイムズの科学編集者で、博物館での任期を終えた後も同職を務めた。
 ドーズは、アメリカ合衆国忠誠在郷軍人会軍事勲章の世襲会員であった。
 ルーファス・C・ドーズは1940年1月8日にシカゴで亡くなった。
 
 第二次世界大戦中の1943年、米国海軍は彼に敬意を表してSS ルーファス・C・ドーズと名付けられたリバティ船を就役させた。
 なお、この船は1968年に解体された。

   
posted by まねきねこ at 06:43| 愛知 | Comment(0) | 人物伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする