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2024年07月27日

佐藤 晴雄(さとう はるお)日本の教育学者

佐藤 晴雄(さとう はるお)
   1957年 -生まれ
 日本の教育学者である。 日本大学文理学部教授、放送大学客員教授を務めた。
 定年後、日本大学文理学部特任教授。
 現在は、帝京大学教育学部長・教授(教育文化学科)。
 専門は教育経営学、教育行政学、社会教育学、青少年教育論、家庭教育。
 
 東京都世田谷区出身。大阪大学大学院人間科学研究科博士後期課程修了した博士(人間科学)。
 東京都大田区教育委員会社会教育主事、帝京大学専任講師・助教授(文学部教育学科。1992年〜2006年)を経て、2006年から現職。
 この間、大阪大学・大学院講師、九州大学・大学院講師、筑波大学大学院講師、東京学芸大学講師、金沢大学大学院講師、富山大学講師、群馬大学講師、東京学芸大学大学院講師、青山学院大学講師など歴任している。
 また、足立区・藤沢市・横浜市の社会教育委員などの会長のほか、墨田区・杉並区・藤沢市・逗子市・神奈川県教育委員会の点検・評価委員、中央教育審議会専門委員(初等中等教育分科会)、文部科学省コミュニティ・スクール企画委員会委員、文部科学省調査研究協力者会議委員、文部科学省「コミュニティ・スクールの在り方等に関する検討会議委員、千代田区生涯学習推進委員会会長などを歴任した。

 現在、神奈川県教育委員会県立学校第三者評価委員。同教員委員会点検・評価有識者、ちよだ生涯学習カレッジ学長、など。
 元々社会教育主事であったことから、生涯学習事業のプログラムづくりや野外活動の実際にも詳しく、学校と地域連携の具体的な在り方に精通している。
 社会教育職員時代は青少年教育・非行防止対策等を担当していた。
 そのためか、イギリスのユース・サービスに関する論文も手がけている。
 現在も教育現場を強く意識した研究を行っている。
 学校経営に関しては、元国立教育研究所次長であった牧昌見に師事した。
  
 コミュニティ・スクールや学校経営、生涯学習・社会教育、学校の危機管理、学校の保護者対応、生徒指導、教育法規などをテーマにした研修会等の講師として全国的に活動している。
 特に、コミュニティ・スクールの研究や学校支援ボランティア研究の草分け的な第一人者で足立区立五反野小学校のコミュニティ・スクール立ち上げにも直接関わった。
 その後、2007年(文教協会研究補助)、2011年(文部科学省委託調査研究)、2013年(同前)、2015年(同前)にはコミュニティ・スクールの全国調査を研究代表として実施し、その成果を公表している。

 そのほか、学社融合、社会教育・生涯学習プログラム、教職員論、学校と地域の連携、保護者(モンスターペアレント)の苦情対応などを専門とする。大阪大学教授の小野田正利が主催するイチャモン研究会のメンバー(学校の保護者対応の研究を目的にする研究会)でもある。
 学校教育と社会教育・生涯学習の双方に通じている。
 これまで日本教材文化研究財団の調査研究事業として、児童生徒・保護者・教職員を対象にした全国調査ょ2度を実施し、報告書をまとめている。

  
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ティエリー・エルメス(Thierry Hermès) フランスの実業家 エルメスの創業者

ティエリー・エルメス
     (Thierry Hermès) 
   1801年1月10日 - 1878年1月10日
 エルメス・インターナショナルを設立し、ファッションハウスデザイナーの称号を得たフランスの実業家
 当時ナポレオン帝国の一部であったドイツのクレーフェルトで宿屋を営む両親の6番目の子供として生まれフランス国籍を取得した。
 最初の工房では、ジュエリー、室内装飾品、シルクスカーフを展示していた。
 父のティエリ・エルメスはフランス出身で、母のアニエス・クーネンはドイツ出身である。

 病気と戦争で家族全員を失った後、1821年に孤児としてフランスに移住した。
 1878年に死去した後、息子と孫の
   シャルル=エミール・エルメス
   アドルフ・エルメス
   エミール=モーリス
が家業を引き継いだ。 

 1837年、ティエリ・エルメスは皮革細工の才能を生かし、パリのバス・デュ・ランパール通りに馬具製造会社としてエルメス社を設立した。
 エルメスは、社会の馬具、馬車、馬車に必要な馬具を専門にしていた。
 ]彼は、手でしかできないステッチの強さを武器に事業を築いた。
 サドルステッチは、2本の針で2本のワックスを塗った麻糸を引っ張り合うように縫い合わせることで完成するもの。
 店を開いた後、彼の顧客はパリの上流階級やヨーロッパの王族、皇帝ナポレオン3世と皇后ウジェニーなど富裕層であった。
 事業はすぐに馬具と鞍からトランク、ハンドバッグ、ジッパーへと拡大した。
 
 エルメスは妻クリスティーヌ・ペトロニール・ピエラール(1805-1896)との間に息子を一人
   シャルル・エミール
が生まれた。
 シャルル・エミールには
   アドルフ
   エミール・モーリス
という二人の息子がおり、彼らはヨーロッパ、北アフリカ、ロシア、アメリカ、アジアでエリート顧客を獲得する家業に携わった。
 エルメスが馬具会社を始めた後、息子のシャルル・エミール・エルメスが家業を引き継ぎ、店をフォーブール・サントノーレ通り24番地に移転した。
 この店は裕福な顧客の近くにあったことを意味した。
 アドルフは馬車の時代には会社の将来は長くないと考え、エミールに事業を託している。
 エミール・モーリスは馬具の需要に気づき、車、電車、船で旅行する顧客のために「サドルステッチ」の革製品やトランクを作るようエルメスに指示した。
 会社が自動車時代に突入していることに気づいた後、エミール・モーリスは「エルメスファスナー」として知られるジッパーの2年間の特許を取得した。
 このジッパーが導入されると、衣服の時代は一変した。
 ココ・シャネルなどの他の企業は、急速な成長と人気からエルメスから学びたいと考えた。
 エミール・エルメスの義理の息子
   ロベール・デュマ・エルメス(1898-1978)
   ジャン・ルネ・ゲラン・エルメス(1901-1993)
が1950年に会社を引き継いだ。
 彼の子供や孫の貢献が会社の運営に影響を与えた。
 1993年に会社は株式を公開した。
 なお、株式の80%はエルメス家のメンバーによって管理されていた。
 
 エルメスには、今日でも知られている多くの革新がある。
 1923年に発明されたエルメスのジッパーは、今日の多くのバッグに使用されている。
 エルメスが騎手のブラウスに使用したシルクは、1923年に最初の
   シルクスカーフ「Jeu des Omnibus et Dames blanches」
を開発した。
 1930年代頃、エルメス・インターナショナルは、後にグレース・ケリーにちなんで名付けられたケリーとして知られる大きなクロコダイルハンドバッグなど、クラシックとなったいくつかのアイテムを発売した。
 同社は後に、男性用のネクタイ、時計、新しいスカーフのデザインを開発した。
 今日、エルメスはチャーム(40ドルから)やクレマンスの雄牛の革で作られた特大の
   パンダベアビーンバッグ(最も高価なものは10万ドル) など
の製品を特徴としている。
 1984年にジャン=ルイ・デュマによって考案されました有名な定番アイテム
   バーキン
は、女優のジェーン・バーキンにちなんで名付けられた。
 現在、エルメスは世界中に283店舗を展開している。
 1923年以来、エルメスは毎年コレクションにカラーテーマを設け、「Year of the River」(2005年)シルクスカーフなどの限定版アイテムを制作している。

   
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アンドレ・クレージュ(André Courrèges)フランスのファッションデザイナー モダニズムと未来主義に影​​響され、現代の技術と新しい生地を活用した。

アンドレ・クレージュ
      (André Courrèges)
   1923年3月9日 - 2016年1月7日
 フランスのファッションデザイナーで、モダニズムと未来主義に影​​響され、現代の技術と新しい生地を活用した。
 1960年代の流線型のデザインで特に知られ、ゴーゴーブーツの定義者である。
 マリー・クワントとともにミニスカートを発明したデザイナーの一人とされている。

 クレージュはピレネー山脈のベアルヌ地方にあるポー市で生まれ、美術学校でデザインを学びたかったが、執事だった父親はエンジニアになることを望んでいた。
 このため、デザインへの情熱を認めなかった。 
 クレージュはポン・エ・ショセ国立学校(エコール・デ・ポン・パリテック)に通った。
 第二次世界大戦中、フランス空軍のパイロットになった。 
 1945年、25歳のとき、クレージュは土木技師になるために勉強した後、パリのファッションハウス
   ジャンヌ・ラフォリー
で働き始め、数か月後、クリストバル・バレンシアガのもとて職を得た。
 クレージュはバレンシアガで10年間働き、衣服の裁断と構造を習得した。
 
 クレージュは自身のファッションハウスを1961年に立ち上げ、女性用の「小さな白いドレス」やパンツなど、極めてシンプルで幾何学的なモダンなデザインで知られるようになった。
 これらは、ローヒールの白いアンクルブーツと組み合わせられることが多く、このスタイルはクレージュブーツとして知られるようになった。
 この流れは、人気のゴーゴーブーツへと進化した。

 クレージュの顧客は、可処分所得の高い成熟した保守的な女性であった。
 彼のデザインスタイルは、女性向けによく形作られた衣服でバレンシアガによって形作られた。
 クレージュの1964年秋コレクションは、当時は考えられなかったモダンで未来的なデザインでファッション業界を進化させた。
 コレクションには、彼流のミニスカートと組み合わせたテーラードチュニックやズボンが含まれていた。
 このスタイルは、その10年間で最も重要なファッションの発展の1つとなり、広く模倣された。
 その影響はあまりにも大きく、一部のファッションライターは、その重要性において
   クリスチャン・ディオール
の1947年のニュールックと比較される。

 ミニスカートのアイデアを誰が考案したかという論争は、クレージュとマリー・クワントをめぐって展開している。
 クレージュは明確にミニスカートを発明したと主張し、ロンドンのライバルであるクワントは単に「商品化した」だけだと非難した。
 クレージュは1965年1月、その年の春夏コレクションで短いスカート(膝上4インチ)を発表した。
 クレージュは前年にも「膝上」のスカートを発表しており、1964年8月のオートクチュールのプレゼンテーションは、ニューヨーク・タイムズ紙によってそのシーズンの「これまでで最高のショー」と評された。

 ヴァレリー・スティールは、クレージュが1961年には早くも短いスカートをデザインしていたと述べているが、証拠によってより説得力のある裏付けがあるとして、ミニスカートを最初に考案したのはクワントだという主張を支持している。
 ガーディアン紙のジェス・カートナー=モーリーなど、他の記者は、クレージュがミニスカートを発明したと明言している。
 インディペンデント紙も、「クレージュはミニスカートの発明者だ。少なくとも彼自身とフランスのファッション界にとってはそうだった。議論はハイファッション対ストリートファッション、フランス対イギリスということになったが、どちらにしても決定的な証拠はない」と報じている。
 なお、英国版ヴォーグ誌は、クレージュやクァントではなく、ジョン・ベイツこそがミニスカートの真の発明者だとみなした。

 1968年、クレージュは事業拡大の資金を調達するため、自社の株式を
   ロレアル
に売却し、1972年までに世界中に125のブティックを展開した。
 同年、クレージュはミュンヘン オリンピックのスタッフ ユニフォームのデザインを依頼された。
 1973年には紳士服の販売も開始した。
 また、アンプラント、クレージュ オム、オー ド クレージュ、クレージュ ブルー、スウィート クレージュ、ジェネレーション クレージュなどの香水も開発した。
 衣服に関しては、1960年代に確立した
   スペース エイジ スタイル
を貫き、1970年代にファッションが変化しても特徴的なデザインを変えることはなかった。
 1970年代の終わりに、クレージュは靴からタオルまで、いくつかの衣服のラインのライセンス契約を締結した。

 1983年初頭、クレージュは日本の自動車メーカーであるホンダと協力し、同社のスクーター「TACT」の特別版をデザインした。
 2005年までに、イトキンはクレージュブランドの日本の既製服ライセンスを取得した。
 その小売価格は5000万ユーロに達した。
 この時点で、コクリーヌ・クレージュが夫の後を継いでブランドのアートディレクターに就任していた。
 クレージュは、数回のオーナー交代があったにもかかわらず、1994年にブランドを成功裏に回復した後、1995年に引退した。

 1984年、クレージュはプジョー「クレージュ」自転車をデザインした。
 淡いブルーと、ピンクがアクセントになった白の2色展開で、パニエ、チェーンガード、ハンドルグリップ、マッドガードが付属し、スターメイ・アーチャーのハブギアが備わった限定モデルだった。

 2011年、アンドレとコクリーヌ・クレージュはクレージュブランドを1000万ユーロ(1305万ドル)以上で
   ヤング ・アンド・ルビカム
の広告担当役員2人
   ジャック・バンガート
   フレデリック・トルロティング
に売却した。
 2012年までに、同ブランドの総収益は約2000万ユーロに達した。

 2014年、フランソワ・アンリ・ピノーの個人投資会社
   グループ・アルテミス
がクレージュの少数株を購入した。
 2018年にグループ・アルテミスは同ブランドの筆頭株主になった。
 ニコラ・ディ・フェリーチェは2020年9月にクリエイティブ・ディレクターに任命された。
 ブランドを活性化し、関連性を取り戻したと評価されている。

 クレージュは生涯の最後の30年間、パーキンソン病に苦しんだ。
 彼は2016年1月7日にパリ郊外のヌイイ=シュル=セーヌで92歳で亡くなった。

    
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ハリス氏、9月10日の討論会に意欲。敵前逃亡かトランプ氏はABCの主催に難色を示し、先延ばし戦術?

 米大統領選で民主党の候補指名を確実にした
   ハリス副大統領
は25日、共和党候補トランプ前大統領との討論に意欲を示した。その上で、9月に予定されていた討論会から逃げようとしているとしてトランプ氏を非難した。

 ヒューストンでの演説を終えてワシントンに戻ったハリス氏は記者団に対し、「私はドナルド・トランプと討論する準備ができている」と発言した。
 また、「彼は後ずさりしているようだが、私は準備ができている」と語った。

 トランプ氏は23日、ハリス氏との複数回の討論会に応じる意向があると述べた。
 次回についてはABCニュース以外が主催者となることが好ましいと注文を付けていた。
 バイデン大統領が選挙戦撤退を表明する前の段階では、トランプ氏は9月10日にABC主催の討論会を行うことで合意している。

 ハリス氏は「前もって合意された9月10日の討論会に私は合意している。彼は以前は合意していた」とし、トランプ氏をけん制した。

 トランプ氏は、ABCが討論会を主催することには「乗り気ではない」と主張、同局を「フェイクニュース」と表現した。
 ただ、共和党支持者からの反発をおそれ、同局主催の討論会に参加しないとまでは言い切らなかった。
 同氏は以前、保守系テレビ局のFOXニュースが討論会を主催することを望んでいると語っていた。

 6月27日に行われた第1回討論会では、精彩を欠いたバイデン氏の高齢不安が民主党内に広がり、選挙戦からの撤退を求める圧力につながった。

 トランプ氏はブルームバーグ・ビジネスウィークの独占インタビューに応じた際、「ビッグな通貨問題」を指摘した。
 製造業者から「われわれの製品は高過ぎるから誰も買いたがらない」と言われ続けていると語り、外国は輸出で優位に立とうと自国の通貨を「常に弱い」状態に保とうとすると主張した。
  
ひとこと
 悪かろう高かろうでは誰も買わない点を忘れており、逆に、円安で安価な日本の製品は質に合わせた価格にして販売し、利益幅を広げる事が必要だろう。


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米債務上限問題の再燃に早くも備え、Tビルの推定発行額を見極め

 米連邦政府の債務上限問題が再燃するのに備え、今後の
   財務省短期証券(Tビル)
の発行規模を見極めるため、米財務省が発表する
   現金残高の推計値
から手掛かりを得ようとウォール街はすでに戦略を練り始めているようだ。
 
 米財務省は9月までの期間および10−12月(第4四半期)の政府借入額と現金残高の推計値を29日に発表する。
 現在適用が停止されている
   債務上限
が復活する来年1月2日まで、どの程度手元資金を減らす必要があるかを示す可能性がある。
 現金残高が多ければ財務省はTビルの発行規模を維持できる。
 しかし、残高が少なければTビルの発行を減らす必要が出てくることになる。

 米財務省は通常、法律に沿って期限が近づくにつれて現金残高を圧縮しなければならない。
 これは2021年まで、前回の問題時に達した最低水準まで現金残高を取り崩すことを意味していた結果、米政府が借り入れ能力を使い果たす直前まで、Tビルの発行額が大幅に削減された。
 現金残高は政府預金口座(TGA)と呼ばれてる。

 4月に再公表された司法省の文書では、これまでの
   債務上限適用停止に関する法律
で使われた文言は、財務省が現金残高を管理する上で一定の余地を与えるものであったが、政府が適用復活に向けて手元現金を増やすことはできないと指摘している。 


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正式指名の投票迫るなかハリス氏が副大統領候補探しを本格化

 米国民主党の大統領候補になることが確実視されているハリス副大統領は、正式指名に向けたバーチャル形式の点呼投票が迫る中、副大統領候補の選考を本格化させている。

 ハリス陣営の広報担当者、ケビン・ミュノス氏がメディアの取材で、ハリス氏は候補者の精査を開始するようチームに指示したことを明かした。
 大統領選の出馬表明からわずか数日で取り組みを加速させていることになる。
 ミュノス氏は「そのプロセスは本格的に始まっている」と発表文で明らかにした。
 
 また、選挙キャンペーン関係者は、必要であれば大統領職を引き受け、その役割を十分に担える副大統領候補をハリス氏は求めていることを明らかにした。
 中産階級の強化や機会均等など、ハリス氏の経済的価値観を共有できるパートナーとしても選考しているという。

 バイデン大統領の進退を巡り1カ月に及んだ民主党の内紛に加え、世論調査で共和党候補のドナルド・トランプ氏が優位に立っていることを受け、ハリス氏は失地回復を図っており、投票日まであと100日余りしかなく、この人選は選挙戦において極めて重大な決定となるのは明らかだ。
 
 民主党全国大会(DNC)の代議員は今後2週間以内にバーチャル形式で会合を開き、大統領候補としてのハリス氏とその副大統領候補を決定する。
 8月1日から7日の間に実施される投票の日程は、大会の共同議長によって決定される。

 ノースカロライナ州のクーパー知事やケリー上院議員(アリゾナ州)、ペンシルベニア州のシャピロ知事、ミネソタ州のウォルツ知事をはじめとする激戦州の知事や上院議員を中心に、選考に関する臆測がメディア情報として飛び交っている。

 レモンド商務長官も審査資料を受け取ったうちの1人だと、この件に詳しい関係者は匿名を条件にメディアの取材で語っている。
 また、2020年の大統領選で民主党候補指名争いに参加したブティジェッジ運輸長官は、副大統領候補になることに前向きであると示唆している。

 人種と性別が2024年の選挙に影響することを認識した上で、ハリス氏は主に男性の白人候補を検討している。
 副大統領として歴史に名を残したハリス氏は、米国史上初めて主要政党の指名を獲得した非白人の女性となるためだ。

 この選考に詳しい関係者から、ホルダー元司法長官が審査プロセスのリーダーに起用されたとの情報も流れている。
  
 
ひとこと
 知識や経験が乏しい政治家では何も出来ないのは明らかであり、当然の選択だろう。
 日本の政治家が閣僚に就任するのが、能力重視ではなく、マスコミ出身などでの知名度や忖度度が求められ、就任時の挨拶が勉強するなどと言った言葉を吐く輩では話にもならない。
 暴走政治が劇場化させた日本政治の軌道修正は急務であり宗教政党の支持者の影響を受ける歪んだ政治では金に卑しい政治家の本性まるだしだ。
 そもそも、TVなどでの芸人が宗教政党の信者の勧誘成果を優先して情報を意図的に操作するよう、露出度を多くしている状況には世論誘導の目論見の裏面を感じさせる違和感がある。
 
    
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ハリス選挙陣営が動画公開 オバマ元米大統領夫妻もハリス氏支持を正式に表明

 オバマ元米大統領夫妻は26日、ハリス副大統領を11月の大統領選の民主党大統領候補として支持すると正式に表明した。
 米国初の黒人大統領となったバラク・オバマ氏は、同国初の女性かつ黒人、アジア系副大統領であるハリス氏が大統領になれるよう、惜しみない支援を提供する。

 ハリス氏の選挙陣営は26日、同氏がオバマ夫妻からの選挙運動激励の電話に応える様子を捉えた動画を公開した。
 若くしてホワイトハウス入りを果たしたオバマ元大統領(62)がハリス氏(59)にバトンを渡す象徴的な内容となっている。

 オバマ元大統領はその中で、「ミシェル(夫人)と私が電話をしたのは、あなたが大統領選で勝利を収めるため、私たちが支持を表明して全力を尽くすことに、この上ない誇りを感じていると伝えるためだ」と話した。

 また、ミシェル夫人は「私の大切なカマラ(ハリス氏)。この電話で、あなたを誇りに思うと言わずにはいられない。これは歴史的なことになるでしょう」と語った。

 ハリス氏が大統領候補となることで共和党候補のトランプ前大統領(78)を破る可能性が高まるとして、民主党内は熱狂している。
 さらに、同党で今でも最も人気が高いオバマ夫妻の支持表明でさらに活気づくのは確実となった。

 バイデン大統領が21日に再選断念を発表後、民主党候補指名を勝ち取って大統領選に勝利する意向を表明したハリス氏は、すでに22日夜の時点で党の大統領候補指名を受けるのに十分な数の代議員を確保していた。

 6月27日の大統領選討論会での散々な結果を受け、バイデン氏(81)が再選を果たせるのか民主党内に危機感が広がった。
 その後も、オバマ元大統領はバイデン氏の立候補継続の判断を擁護していたが、米紙ワシントン・ポストはその後、バイデン氏勝利の道は大きく遠のいたと元大統領が周囲にプライベートに語っていると報じた。

 バイデン氏の選挙戦撤退表明を受け、オバマ元大統領はバイデン氏のリーダーシップをたたえ、「最も偉大な米大統領の1人」で「最高位に位置する愛国者だ」と称賛していた。

 バイデン氏は即座にハリス氏支持を打ち出した一方、オバマ元大統領は表明を控えていた。元大統領の考えに詳しい関係者によれば、こうした判断からは民主党が新たな大統領候補を中心に結束する時間を確保できるようにしたいとの意図がうかがわれるという。過去の選挙でもオバマ氏は同様のアプローチを取ってきた。
   
    
posted by まねきねこ at 02:00| 愛知 ☁| Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする