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2024年07月22日

好調な米小型株だが、このまま上昇維持を後押しできる材料は不十分

 米国モルガン・スタンレーの米国株担当チーフストラテジスト
   マイク・ウィルソン氏
と同氏のチームは顧客向けリポートで、「小型株のセンチメントやポジショニングはまだ軽いとの見方は評価できるが、小型株の持続的なアウトパフォームを正当化できるファンダメンタルズやマクロ的な根拠は限られているとみている」と述べ、米国の小型株の最近のアウトパフォームはテクニカルな抵抗に直面しており、長期的に上昇を後押しするファンダメンタルズの要素に欠けていると指摘した。

 インフレ減速やトランプ前大統領返り咲きの可能性といった材料を追い風にラッセル2000指数は7月にこれまで6.7%上昇と、S&P500種株価指数の同0.8%高を上回るパフォーマンスを出している。
 なお、米消費者物価指数(CPI)が市場予想を下回ったことから、米連邦公開市場委員会(FOMC)による利下げ観測が強まった。

  
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来週の日銀会合、弱めの個人消費で追加利上げ判断が複雑化?円安で個人消費が広がらないのでは…

 日本銀行が来週開く金融政策決定会合では、足元で弱めの個人消費が追加利上げに踏み切るかどうかの判断を複雑化させていると、複数の関係者がメディアの取材を受けて話したという。

 この関係者によると、一部の日銀当局者は
   高水準の賃上げ
を背景に個人消費が想定通りに回復していくかを今後のデータや情報などで確認したいと主張し、今回会合では利上げ見送りが妥当な選択肢と考えているという経済データの取り方がそもそも実態を示していないことすら認識していない問題を棚の上に上げた、霞を食らっていっきる輩の主張ばかりだ。
 また、日銀が利上げを急いでいると受け取られることへの警戒感もあるという国際資本への忖度意識を全面いだした主張もしている。

 同時に、足元のインフレ動向が日銀のシナリオに沿って推移していることから、今会合での利上げに前向きな当局者もいると関係者は指摘した。
 政策金利が0−0.1%という極めて低い水準にある中で、先行き不透明感の強さを踏まえれば、機会を逃すリスクを意識する声もあり、役立たずの日銀理事の能力不足は日本経済を海外投資家に投げ売りにする姿勢が露骨だ。

 日銀は30、31日の会合での利上げの是非について、経済・物価情勢や市場動向を会合直前まで見極めた上で、最終的に判断するが愚かな相殺と取り巻きの暴走は続きそうだ。

 追加利上げの思惑を高めていた円安は、今月3日に付けた1ドル=162円付近から一時155円台に上昇するなど足元は円高方向に振れているが、単に円の売り方の買い戻しに過ぎず、懐に入った利益で再び圓を売りかねない。
 米国のインフレ指標の鈍化などで米連邦準備制度理事会(FRB)が9月にも利下げに踏み切るとの観測が強まっているが、大統領選挙におけるインフレへの対応もあり、日本の円安を続けるメリットは米国に有るのが現状となっており、為替相場を巡る環境にも変化が見られるも弱すぎる。


posted by まねきねこ at 22:37| 愛知 ☁| Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

小林 中(こばやし あたる)愛称はコバチュー 初代日本開発銀行(現・日本政策投資銀行)総裁、日本航空会長、東急電鉄社長、富国生命保険社長などを歴任した甲州財閥の一人

小林 中(こばやし あたる)
   1899年(明治32年)2月17日 – 1981年(昭和56年)10月28日
 日本の実業家で、初代日本開発銀行(現・日本政策投資銀行)総裁、日本航空会長、東急電鉄社長、富国生命保険社長などを歴任した。
 戦後の財界において影の財界総理と称されるほどの実力者である。
 愛称はコバチュー。
 初代石和町名誉町民。位階は正三位。勲等は勲一等旭日大綬章。

 山梨県中巨摩郡源村(現・南アルプス市)に、父「矢崎貢」、母「ふく」の次男として出生した。
 1899年(明治32年)12月に母方の祖父である
   小林伝右衛門
の養子となり、同1901年(明治34年)9月に家督を相続した。
 養父小林伝右衛門は東八代郡内における屈指の大地主で石和銀行の創設者。

 旧制甲府中学校(現・山梨県立甲府第一高等学校)を卒業後、上京して麻布北新門前町(現東麻布二丁目)に一軒家を借り
   慶應義塾大学経済学部
を受験するも失敗、1917年(大正6年)まで無試験だった早稲田大学政治経済学部経済学科に進学するも、後に中退した。
 1922年(大正11年)、郷里に帰り石和銀行取締役兼支配人を経て、1929年(昭和4年)に甲州財閥の一人
が社長を務める富国徴兵保険相互会社(現・富国生命保険)に入社した。
 小林は社長秘書として、根津から帝王学教育を授けられる一方、当時
   郷誠之助(元東商会頭)
を中心とする少壮実業家グループ「番町会」のメンバーとして名を連ね人脈を広げていった。

 1934年、番町会が帝人株の取引で不正な利益を得ていたとして、主要なメンバーが起訴された。
 この「帝人事件」では小林も連座し投獄の憂き目にあったが結局全員に無罪判決が下ることになった。

 「帝人事件」は、軍部の革新派と気脈を通じた
   司法・検察内部の一部勢力
による、既存の政財界指導層への揺さぶりを狙ったものと言われている。
 斎藤実内閣はこの事件が契機となって総辞職した。

 小林は遺書を用意するほどの暴力的で過酷な取調べを受けたが屈せず、1937年に解決後富国徴兵保険に復帰した。
 1938年取締役、1940年専務取締役を経て、1943年に社長に就任している。
 帝人事件の縁で、同じ根津財閥系の日清紡績社長
   宮島清次郎
と知己になり、また1940年に根津嘉一郎が逝去後、遺産整理に携わった。
 その過程で当時大蔵省国税課長の
   池田勇人
と知り合い、「オレ、オマエ」の友人関係となっている。
 こうして築かれた人脈が、戦後財界人としての飛躍の助けとなった。

 終戦後、公職追放された東急グループの頭目
   五島慶太
の要請により、1946年から1年半東京急行電鉄社長を兼任した。
 1947年には生命保険協会会長に就任した。
 
 1951年(昭和26年)、日本開発銀行の設立に伴い、吉田茂首相は親友の宮島清次郎の推挙により、小林に初代総裁の白羽の矢を立てた。
 吉田との会談の席上、小林は「開銀は政府金融機関ですから政党その他から多くの注文がくると思いますが、私は一切引き受けません。たとえ総理からでもお断りしますが、それで良ければお引き受けします」と明言したため、ますます吉田の信頼をかち得ることとなった。

 就任後は開銀の業務を市中銀行の肩代わり融資に限定しようと目論んだ
   ジョゼフ・ドッジ
を説き伏せ、基幹産業に直接融資するという方針を貫いた。
 資金不足にあたっては、開銀が政府保証を付けて外資を導入するという施策でまかなった。
 こうした開銀の融資により、鉄鋼、自動車、造船会社の設備投資が活発になり、戦後復興に弾みをつけた。
 しかしながら、開銀からは汚職事件に関与した者は皆無だった。

 当時、日本興業銀行から理事として出向していた
   中山素平
は「小林さんは一部に政商といった評があったので、僕らがしっかりしなければならないと思った。しかし一緒に仕事をしてみると、まったく違った。実に立派だった」と回想している。

 1951年、山梨県では翌1952年(昭和27年)4月の統一地方選挙に際して再選を目指す初代公選知事
   吉江勝保
に対して対抗馬を立てる動きが加速していた。
 県会議員の星野重次や竹中英太郎ら労組幹部は山梨県政刷新連盟を結成し民主党議員
   天野久
を擁立し、選挙戦では天野が勝利した。
 天野は当選すると副知事に経済・財政通の人物を求め、小林中ら山梨県出身の財界人は山梨県人の中央高級官僚を打診した。
 この要請に郵政省簡易保険局長の
   金丸徳重
が応じて副知事となった。
 1956年(昭和31年)に産業計画会議委員(議長・松永安左ヱ門)就任した。
 同年、池田勇人が大蔵大臣に就任すると、「親友の自分が開銀総裁のままでは資金の融資が色眼鏡でみられる」として、翌1957年(昭和32年)に辞任した。
 その引き際の良さが、財界で高く評価された。

 辞任後は小林事務所を開設して「天下の素浪人」を自称するも、各界の来客は引きもきらなかったという。
 池田が首相になると、公私のけじめをつけるために顕職にこそ付かなかった。

 なお、永野重雄(富士製鐵社長)、桜田武(日清紡績社長)、水野成夫(産経新聞社長)とともに「財界四天王」と呼ばれ、池田内閣に影響力を及ぼしていった。
 晩年にいたるまで、アラビア石油社長(1968年(昭和43年))、日本航空会長(1973年(昭和48年))をはじめ、アジア経済研究所初代会長(1960年(昭和35年))、海外技術協力事業団初代会長(現・国際協力機構、1962年)など、数多くの役職に就任した。
 財界の世話役、相談役として活躍した。

 1960年(昭和35年)10月15日、中央政界では自由党・日本民主党の保守合同により自由民主党が結成された。
 山梨県ではこれに対応して新党山梨県支部連合会が発足しており、会長人事は難航し参議院議員の広瀬久忠や小林中に打診された。
 小林は会長職を断るが後楽園社長の
   田辺宗英
を推薦し、田辺は翌年の参院選出馬後任を引き受け、自由民主党山梨県支部連合会が発足した。

 1964年(昭和39年)財団法人サンケイスカラシップ発起人の一人となった。
 他に太田垣士郎、大河内一男、高村象平、水野成夫、鹿内信隆、沢村義夫がいる。
 1981年(昭和56年)82歳で死去した。

   
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イスラエル軍がテルアビブ攻撃に報復としてイエメンの港湾都市を空爆

 イスラエル軍は、イエメンのイスラム教シーア派系武装組織
   フーシ派
が支配する港湾都市ホデイダを攻撃した。
 イランが支援するフーシ派によるテルアビブへのドローン(無人機)攻撃に報復したと主張しているが19日のテルアビブへの攻撃では1人が死亡し、イスラエルの防空の脆弱性が露呈した。

 フーシ派によると、イスラエル軍による20日の空爆では発電所と燃料貯蔵施設が標的となり、3人が死亡し87人が負傷した。
 同派が運営するテレビは、攻撃を受けたとされる施設から炎と煙が立ち上っている様子を放映した。
 イスラエルのネタニヤフ首相は、この港がイラン製武器のフーシ派への供給拠点として利用されていたと指摘したが、和平交渉の進展でネタニアフの汚職問題が再燃しかねず、こうしたイスラエル国民の視線をコントロールするための措置にも見える。

 同首相は20日遅くの動画メッセージで、「この作戦はわれわれの国境から1800キロ離れた標的を攻撃した」と説明した。
 また「イスラエルの力が届かないところはないことをわれわれの敵に明確に示すものだ」と続けた。
 ただ、イエメンまでの間の国の領空を戦闘機等が飛行しており、アラブ連合軍を使ったイエメンへの軍事作戦では飢餓等の問題を引き起こしており、サウジ等が背後で支援している可能性もあり、サウジの懐でもあるOPECの収益増加を目論んだ動きのひとつともいえる。

 フーシ派のスポークスマン、モハメド・アブドゥルサラム氏はXに投稿した声明で、標的となったのは民間施設であり、同派はイスラエルおよび紅海での商船への攻撃をやめないと警告した。

 イスラエル軍のハガリ報道官によると、今回の空爆はイスラエル空軍が実施したものとしては史上最も複雑で長距離の作戦だったと明かした。
 イスラエルは単独で攻撃を行い、事前に同盟国に通告したと別の軍関係者が述べた。

 フーシ派の報道官は、イスラエル軍の攻撃に対する「大規模な」報復は「不可避」だと警告した。
 イスラエル南部エイラートを向け弾頭ミサイルを発射したと明らかにした。
 これに対して、イスラエル軍は21日朝、紅海から接近した地対地ミサイルを迎撃したと発表した。

 サウジアラビア国防省は21日、ホデイダへの攻撃とは「関係も関与もしていない」と表明し、イスラエルへの協力を否定した。
 同国としてはいかなる勢力による領空侵犯も認めないとしたが、どのルートで空爆をしたのかが問題となる。

 バイデン政権はテルアビブが攻撃されて以来、イスラエル政府当局者と定期的に連絡を取り合っており、イスラエルの自衛権を完全に認識していると、ホワイトハウスの国家安全保障会議の報道官は述べた。

 イスラエル軍によると、イスラエル最大の商業都市テルアビブを攻撃した飛翔体はイエメンから飛ばされたもので、フーシ派によるイスラエルへの攻撃で死者が出たのは初めてとみられている。
 同軍によると、イラン製の
   「サマド3」無人機
を長距離飛行用に改造したものだったという。

 19日の攻撃で男性1人が死亡、8人が負傷した。
 イスラエルのメディアは、地中海上空を西から低空飛行するドローンがテルアビブに接近する映像を報じた。

 ガラント国防相は声明で「フーシ派がイスラエル国民に危害を加えたのはこれが初めてだ。われわれは彼らを攻撃した。そして、必要であればいかなる場所でも攻撃するだろう」と伝えた。


 ネタニヤフ首相は22日にワシントンに向かうところだが、この外遊は昨年10月にハマスとの戦争が始まって以降では初めてのことだ。
 首相府によると、23日にバイデン大統領と会談し、その翌日に米議会の上下両院合同会議で演説する予定で、蚊帳の外になりつつあるイスラエル軍の虐殺行為に対する米国民の意識の鎮圧抑制を意図したものがあり、次期大統領選挙のなか複雑な力学が働いている。

 フーシ派は、レーダーで探知されにくい新型ドローンを使用したとしており、テルアビブを含むイスラエルの都市を再び攻撃すると宣言した。
 同派はこの数カ月、紅海を航行する船舶を狙った攻撃を繰り返している。

 イスラエル軍によると、ドローンは防衛システムに検知されていた。
 それでは、なぜ撃墜されなかったのか調査中だとしている。
 これもハマスによる奇襲作戦が実行されたときと同じで、情報が無視された可能性もありそうだ。
 
   
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中国の習近平国家主席が決定文書で債務抱える「地方政府支援」を表明

 中国の習近平国家主席は、債務を抱える地方政府の財政状況を強化する抜本的な計画を明らかにした。

 国営新華社通信が21日に発表した文書の中で、習主席は地方当局が受け取る
   消費税収入
の増加を段階的に許可すると表明し、より多くの歳入が中央から地方の財源に移行すると示唆した。

 数日前に終了した第20期中央委員会第3回総会(3中総会)では、約400人の共産党幹部が習氏の経済ビジョンを支持した。
 今回の決定文書は、習氏がリスク管理のために政策を微調整している。
 一方で、中国経済を推進するために
   先進的な製造業に注力する包括的な計画
に大きな変化がないことを示唆した。

 中国地方政府の資金調達事業体、いわゆる「融資平台(LGFV)」は66兆人民元(約1430兆円)の負債を抱えている。
 不動産不況で土地の売却収入が減少しているため、地方当局には
   新たな歳入源
が必要になっている。
 地方政府の財政赤字は昨年に合計で15兆元と過去最高を記録した。
 今年は今のところ少し縮小しているとされる。

 公開された文書によれば、政府関係者は「権限と責任を明確に区分し、財政資源と調整し、地域にとって均衡のとれた中央と地方の財政関係を確立する」と表明した。
 また、「地方政府の自主財源を増やし、地方政府の税源を拡大する」という。
  
 
ひとこと
 中国地方政府が外国企業へのタカリが増えそうだ。
 
     
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バイデン氏が米大統領選から撤退すると投稿。ハリス氏は来月開催の民主党大会での指名を勝ち取る意向

 バイデン米大統領(81)は21日、X(旧ツイッター)への投稿で、大統領選から撤退すると明らかにした。
 その上で、ハリス副大統領(59)を民主党の大統領候補として支持するち続けた。

 大統領選の投票まで4カ月を切り、民主党全国大会(DNC)を数週間後に控えての英断となった。

 バイデン氏は「再選を目指す意向であったが、私が身を引き、残りの任期に大統領として職務を全うすることに専念することが、党と国にとって最大の利益であると信じる」と投稿したうえ、今週中に国民に詳細な説明をするとした。

 バイデン氏は大統領候補指名を受諾せずに残りの任期において現職大統領としての職務に全精力を傾けることを決めたと説明した。

 また、「私はカマラ(ハリス副大統領)が今年選挙での民主党の候補者となることを全面的に支持する。民主党は今こそ団結してトランプ氏を打倒する時だ」と投稿した。

 ハリス副大統領は、バイデン氏の支持を光栄に思うとした上で、「ドナルド・トランプを打ち負かすことを目指し、民主党とわが国全体を団結させるために全力を尽くす」と声明で明らかにした。

 民主党の有力者は、ハリス氏への支持で固まりつつある兆しが出ており、クリントン元大統領夫妻は、共同でXに声明を投稿し、「バイデン大統領とともにハリス副大統領を支持することを光栄に思う。ハリス氏支援のためにできることは何でもする考えだ」と述べた。
 また、リベラル派のウォーレン上院議員や激戦州の議員ら数名もハリス氏への支持を表明した。

 バイデン氏が撤退した場合の有力代替候補と目されていたカリフォルニア州
   ニューサム知事
とミシガン州の
   ウィットマー知事
は、バイデン氏がハリス副大統領を候補として支持したことで、指名を争わない意向を明らかにした。
 これは、CBSニュースが匿名を条件に関係者の話として報じた。(CBSの速報)

 また、オバマ元大統領はバイデン氏の実績を賞賛する声明を発表した。
 ただ、同氏の考えに詳しい関係者からは、オバマ氏は指名候補が確定するまで、どの候補者も支持するつもりはないと明かしたと伝えた。
 なお、過去の選挙でもオバマ氏はこうしたアプローチを採ってきたという。

 バイデン氏に対しては散々な結果となった第1回討論会の後、選挙に勝てるのか、また再選を果たしてもさらに4年の任期を務められるのかという不安が民主党議員や献金者、有権者の間で広がっていた。
 また、陣営の選挙運動はバイデン氏の新型コロナ感染でも打撃を受けた。

 バイデン氏は、世論調査でトランプ氏のリードが拡大している中での撤退となる。
 トランプ氏は21日のCNNとのインタビューで、ハリス氏の方が打ち負かしやすいと考えていると発言し戦闘モード全開だ。
 また、バイデン氏については「米国史上最悪の大統領」として記憶されるだろうと罵詈雑言を並べ、大統領力への尊敬を削ぐ暴れぶりだ。(CNNの速報)

 国際社会や金融市場では、11月の選挙でトランプ氏が勝利し、大きな政策転換がもたらされるとの見方がますます高まっており、投資家はすでに、貿易障壁の拡大やインフレ率上昇を見込んだ「トランプ・トレード」に乗り出しているが、ハリスが次期大統領候補に指名されるとして、副大統領候補を誰にするかによって、トランプと風見鶏ヴァンス副大統領候補の政権に対して、一部共和党員が嫌う可能性から、トランプ支持から民主党支持に鞍替えする流れが出てきそうだ。
 もともと、独裁色が強く、トランプが発表した政策も矛盾が見られ、八方美人的では話にもならないのは目に見えており、討論会での追求も受けやすく答弁に困るだろう。

 
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【速報】バイデン氏が大統領選挙を撤退!!

 ハリス米副大統領は21日、バイデン大統領が2024年大統領選から撤退を決めて自身を支持すると述べたことを受け、民主党の大統領候補指名の獲得を目指すと表明した。

 ハリス氏は「大統領の支持を得られたことを光栄に思う。この指名を勝ち取るのが私の意向だ」とする声明を発表した。


posted by まねきねこ at 06:33| 愛知 | Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ヘッジファンドの株式エクスポージャーは通常、大統領選挙にかけて減少

 ヘッジファンドの株式エクスポージャーは通常、大統領選挙にかけて減少する。
 ファンド運用者はその後、投票直前に素早くレバレッジを再び高めていおいて、投票後もポジションを増やし続ける。
 ゴールドマン・サックスのデータによれば、現在のネットエクスポージャーは
   選挙サイクル
における長期の平均をまだ上回っており、
   売りの余地
がなおあることを示唆しているようだ。

 通常、米国大統領選挙のような大きなイベント周辺では、まずは大きく仕掛けておいて、後で分析することがあり得るためだ。

    
ひとこと
 バイデン大統領が撤退すれば、ヘッジファンド投資家の意識は当然のことだが大きく変化するだろう。

  
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渋谷与右衛門 - 大西屋 安芸国尾道の豪商

 渋谷与右衛門(大西)は戦国時代末期から江戸時代前期にかけて活躍した、備後国御調郡尾道町尾道町の豪商
 渋谷家(大西屋)はもともとは相模国(神奈川県)の住人であった。
 天正10年(1582)頃、渋谷彦右衛門の代に安芸国高田郡吉田に来て領主
   毛利輝元
に仕えるようになり、やがて尾道に移り住み
   船持商人
として栄えるようになったと伝えられている。

 天明 3 年(1783)5 月に渋谷家13代目与兵衛が写した「歳代記」に6代目、7代目 の与右衛門の場合,戦国時代末期,,戦国大名毛利氏のもとで
   船持商人
として活躍し,武士身分を持た「渋谷与右衛門尉」と官途名で呼ばれたとの記録がある。
 江戸時代に入ると徳川幕府が士農工商の身分制度を徹底したため、「渋谷ノ与右衛門」と呼ばれるようになり、これ以降,自称・他称いずれにおいても,家の名前を「しふや」と平仮名で表わす事が増え、「渋谷」の漢字を用いることがなくなり,渋谷氏が武士身分を失い,町人身分に固定されたと見られる。
 
 渋谷氏が大西屋を名乗るのは,江戸時代も中頃以降とされ、明暦 2 年(1656)の時点で,9代目 市右衛門は「しふや市右衛門」と自称して、「しふや」が屋号となっていた。
 大西屋の呼称は,正徳 5 年(1715)の年貢下札で,「大西屋庄兵衛」と記されたのが確認されている。
 10代目の庄兵衛、11代目の治兵衛も,「大西屋治兵衛」との記録が残っている。
 
 渋谷家文書のうち,戦国時代の毛利氏関係の文書は,何度となく写しが作られており、最も早いものは,「しふや」から小物屋が分家したときものと見られる。
 瀬戸内海の交通の要衝に位置した尾道町では,鎌倉時代以前から船泊として栄えた。
 また、江戸時代末期には人口が 1 万近くにもなる大都市に発展していた。
 ただ、明治時代に入ると,かつて隆盛を誇ったが旧家の中で、家運が傾き家財を手放したり,あるいは尾道の町を離れるものも増え活気が消えた。
 このことも災いしてか,尾道の町方の古文書の多くが消滅してしまい江戸時代に活躍した豪商の記録は霧散した。
 ただ、残った町方文書としては,江戸時代に代々尾道町の町年寄を勤め,有数の豪商であった橋本家の文書が代表的なものとされるが、戦国時代から江戸時代初期のものはほとんど残っていない。 
 
 戦国時代末期、毛利輝元の直状(捻文)によれば、毛利氏の奉行人が渋谷与右衛門尉に公的な立場で毛利氏の基準貨幣「鍛(ちゃん)」や鉄炮の火薬「合薬」に関し、直々に指示を与えていたという。
 また、豊臣秀吉の太閤検地(惣国検地)で領地の石高を正確に把握する措置の中で、田麦三分の一公納令を渋谷氏にのみ格別に教えていた記録がある。
 豊臣秀吉の文禄・慶長の役のや関ヶ原合戦のおりの送状・請取状から船持商人であった渋谷氏と戦国大名毛利氏との深い結ぴ付きを裏付けている。
 惣国検地以降では渋谷氏が備後国沼隈郡・品治郡に所有していた記録がある。 
 
 渋谷氏は尾道町で 5 人の町年寄に次ぐ
   月行司筆頭(組頭)
の一員として町の運営を行っていた。
 尾道町に「自治」的組織があった元和 2 年(1616)3 月〔177〕と翌 3 年 5 月〔107〕に作成された「町定」には 5 名の年寄と60名の月行司が,衆議によって取り決められていた。
 また、「戸口(宗門改)」は,寛永10年10月の年代があり、宗門改め書は書式に不統一が目立ち,宗門改めの制度が確立する前段階のものであった。
 ここには島原落人とキリシタン取締に対する請書は,借家住人など地下のものを含む59名の連署が残されている。
 
 「租税」のうち「年貢」は,慶長 6 年(1601)から正徳 5 年(1715)までの年貢納入に関する資料があり、寛永15年(1638)まで,尾道町では町域として石盛が行われていなかった。
 このため,屋敷分については福島正則が統治した時代には「地子銭」,浅野長政の時代でも当初「地子銀」の形で納入されており、米などの物納ではないことがわかる。
 また、「加子役」について、福島・浅野両時代における「加子」の夫役徴発(尾道の加子は瀬戸内海の海上輸送に重要な役割を果たした)の支払勘定が加子浦から取り立てる苫・葛などの船具代銀として納入されていた。
 
 福島正則が芸備 2 か国の領主であった16年間については、佐伯町所蔵の小田文書(同町の指定文化財)で確認できる。
 しかし、浅野時代初期の文書は民間にはほとんど伝わっていない。
 亀山士綱が文化13年(1816)に著した『尾道志稿』で、「渋谷系譜 大西屋」という柱を掲げ、絵入りで渋谷金王丸の鎧・甲冑・太刀を紹介したうえ、毛利輝元の直状16通を載せている。 

 その後の江戸時代の尾道の出来事として記録について
 延宝元年(1673)には、尾道は北前船の入港で港を中心とした商業が盛んになった。
 元禄 5 年(1692)には、椋浦廻船 2 艘、尾道廻船 1 艘が年貢米を大坂へ輸送した。
 享保 6 年(1721)には、椋浦廻船中が椋浦金蔵寺観音堂を建立した。
 享保 12 年(1727)には、尾道町人が大坂登せ米請け合い積みを廃し、蔵方より直接回船するようになった。
 元文 5 年(1740)には、広島藩士・平山角左衛門尚住が尾道町奉行に任命される
 寛保元年(1741)には、平山奉行が住吉浜の埋め立てに着手した。
 天明 7 年(1787 )には、尾道に米船入港せず食糧不足。米の港外積出を禁じている。
 寛政〜文化期(1789〜1817)、この頃、兼吉渡し(後の公営渡船、尾道渡船)が開設された。
 文化 2 年(1805)には、 椋浦廻船中が椋浦港に金毘羅大権現常夜燈を建立
 文政 2 年(1819 )には、林屋竹内要助(隼太)が尾道−大坂間に定期船便を開いた。

  
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