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2024年07月18日

バーキン総裁 持続の証左求めなか、ディスインフレの広がりを歓迎

 米国リッチモンド地区連銀の
   バーキン総裁
は17日、イベント後に記者団に対し、「インフレと雇用には両面でリスクがある」と発言したうえ、「労働市場の全体像は依然として非常に健全だ」と語最近のディスインフレの広がりは心強いがとしながらも、それが持続する証左を「まだなお探している」と述べた。
  
 同総裁は今年の連邦公開市場委員会(FOMC)会合で議決権を有する。
   

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ブッチ・キャシディ(Butch Cassidy) 強盗団「ブッチ・キャシディのワイルドバンチ」を結成

ブッチ・キャシディ
   1866年4月13日 - 1908年11月7日
 米国のアウトロー、強盗でサンダンス・キッドなどと共に強盗団
   「ブッチ・キャシディのワイルドバンチ」
を結成、ネバダやモンタナなどで銀行強盗や列車強盗を繰り返した。
 ユタ州ビーバーのモルモン教徒の家庭に生まれ、本名はロバート・ルロイ・パーカー(Robert LeRoy Parker)。
 官憲や鉄道会社から雇われた探偵に追われて、サンダンス・キッドとともにボリビアに高飛びした。
 隠れ家を包囲されて殺されたとされる。
 1969年の西部劇映画『明日に向って撃て!』の題材になった。 

 父はイングランド移民のマキシミリアン・パーカー(Maximillian Parker)、母はスコットランド移民のアン・キャンベル・ギリーズ(Ann Campbell Gillies)という。

 母アンは、北東イングランドニューキャッスルのタインサイド(Tyneside)に生まれ暮らし、1850年代後半にアメリカのユタ準州に移り、そこでマキシミリアンと結婚した。

 パーカーの両親はイングランド、ランカシャー、プレストン(Preston)、ヴィクトリア・ロード(Victoria Road)で暮らしていた。
 そのモルモン教の信仰の宗教的迫害を逃れるために移住した。
 パーカーは13子の第1子であった。

 パーカーはユタ州ソルト・レーク・シティーの北346キロメートル(215マイル)のユタ州サークルヴィル(Circleville)近くの牧場で育った。
 パーカーは10歳代前半で家を出て、酪農場で働きながら、ウマやウシの窃盗を主な職業とした
   マイク・キャシディ(Mike Cassidy)
を尊敬し、その指導を受けたという。
 パーカーは、ワイオミング州ロック・スプリングス(Rock Springs)で屠殺者(butcher。ブッチャー)として短期間働いた。
 そのとき「Butch」(ブッチ)というあだ名がついた。

 パーカーの最初の犯罪は軽犯罪で、1880年ころ、別の町の衣服店まで旅行したものの、あいにく店は閉まっていた。 

 パーカーは誰もいない施錠された店内に侵入しジーンズ1着とパイをいくらか取り、次に来た時に支払うことを約束する借用証書を残した。
 衣服店はパーカーの行為に激怒し告発した。
 パーカーは逮捕され、裁判に引き出されたものの陪審裁判で無罪放免になった。
 パーカーは1884年まで牧場で働き続けた。

 パーカーは、表向きは仕事を探すために、裏では盗んだウマを買手に引き渡すため、コロラド州テルユライド(Telluride)に移住した。
 パーカーはワイオミング州とモンタナ州でカウボーイ生活を送り、それから1887年にテルユライドに帰った。

 パーカーは、競走馬所有者のマット・ウォーナー(Matt Warner)に初めて会った。
 ウォーナーらはさまざまな催しでウマをレースに出場させ、勝利金を自分たちの間で分けた。
 
 パーカー、ウォーナーおよびマカーティ兄弟(McCarty Brothers)のうち2人は、1889年6月24日のテルユライドのサン・ミゲル・ヴァレー銀行(San Miguel Valley Bank)から約21,000ドルを強盗する事件を起こした。


 パーカーは1890年にワイオミング州デュボア(Dubois)近くの牧場を購入した。
 この場所は、悪名高い「壁の穴」から州を横切ったところにあり地形が複雑で入り込んだ無法者らを追っ手から保護する役割を自然と持っていた。
 そのためにパーカーの牧場経営はうまくいっているとは言えない状態であったが、「壁の穴」の無法者らとの密約で収入があったようだ。

 1894年前半、パーカーは、西部開拓時代の無法者で牧場労働者の
   アン・バセット(Ann Bassett。1878年 - 1956年)
と関係を持った。

 バセットの父である牧場主
   ハーブ・バセット(Herb Bassett)
は、パーカーに新鮮なウマと牛肉を供給して取引をしていた。

 パーカーはワイオミング州ランダー(Lander)でウマの窃盗と地元の牧場主らからの保護料の取立てで逮捕された。

 ワイオミング州ララミー(Laramie)の州刑務所に収監された。
 パーカーは、2年の刑のうち18ヶ月、服役し、1896年1月に、州知事ウィリアム・アルフォード・リチャーズ(William Alford Richards)に、刑の軽減の返礼に州内で再犯をしないと約束して出所した。

 出所するやパーカーは、アン・バセットの姉ジョシー(Josie)と短い関係を持ち、それからアンとの関係に復した。

 パーカーは、犯罪者との交流を強めた。
 そのなかには特に親友エルジー・レイ(Elzy Lay)、ハーヴェイ・「キッド・カリ」・ローガン(Harvey "Kid Curry" Logan)、ベン・キルパトリック(Ben Kilpatrick)、ハリー・トレーシー(Harry Tracy)、ウィル・「ニューズ」・カーヴァー(Will "News" Carver)、ローラ・ブリオン(Laura Bullion)およびジョージ・カリ(George Curry)がいた。

 パーカーは「ワイルド・バンチ」として知られるギャングを結成し、犯罪活動を活発化させた。

 1896年8月13日、パーカー、レイ、ハーヴェイ・ローガンおよびボブ・ミークスは、アイダホ州モントピリア(Montpelier)で銀行強盗を働き、約7,000ドルを持って逃げた。
 その直後、パーカーは、ペンシルヴェニアの土着人である
   ハリー・ロングボー
別名サンダンス・キッドをワイルド・バンチに加入させた。
 1897年前半、パーカーは、自分の断続的なガールフレンドであるアン・バセット、エルジー・レイおよびレイのガールフレンドであるモード・デーヴィスと、ロッバーズ・ルースト(Robbers Roost)で合流し共同で生活を始めた。
 4人はそこに4月前半まで隠れていた。

 1897年4月21日、ユタ州のキャッスル・ゲート(Castle Gate)という採鉱町で、パーカーとレイは、鉄道駅からプリーザント・ヴァレー・石炭会社(Pleasant Valley Coal Company)の総賃金を事務所に運搬する小集団の男性たちを待ち伏せして襲い、金貨で7,000ドル入りの袋を盗み、それを持ってロッバーズ・ルーストに逃げ帰った。

 
 1899年6月2日、ギャングはワイオミング州ウィルコックス(Wilcox)近くでユニオン・パシフィックの急行列車を襲った。
 この強盗事件は有名になり、大量の人狩りにつながった。
 当時の多くの法執行者が、強盗をさがすための人狩りに参加したが、見つからなかった。
 強盗の容疑で追跡した保安官らと撃ち合いとなり、キッド・カリとジョージ・カリの両者が保安官
   ジョー・ヘーゼン(Joe Hazen)
を撃ち殺した。

 雇われ殺し屋として有名で
   ピンカートン探偵社
の契約社員である
   トム・ホーン(Tom Horn)
は、爆発物専門家ビル・スペック(Bill Speck)から、パーカーらがヘーゼンを撃ったという情報を入手した。

 それをピンカートンの探偵チャーリー・シリンゴ(Charlie Siringo)に伝えた。
 ギャングは「壁の穴」のなかに逃げ込み潜伏した。
 なお、シリンゴは、無法者のギャングを捕える仕事を割り当られていた。


 シリンゴはエルフィー・ ランダスキー(Elfie Landusky)と友人になった。
 ランダスキーはそのときまでに、キッド・カリの兄弟
   ロニー・カリ(Lonny Curry)
が自分を妊娠させたと主張してカリというラスト・ネームで知られていた。

 ランダスキーを通じて、シリンゴは、ギャングの居所を探し出すつもりであった。
 1899年7月11日、レイその他はニュー・メキシコ州フォルサム(Folsom)近くの列車強盗に関わった。

 襲撃では地元の保安官らとの撃ち合いになり、パーカーの親友レイが、保安官エドワード・ファー(Edward Farr)と民兵ヘンリー・ラヴ(Henry Love)を殺したため、ニュー・メキシコ州重罪犯刑務所で終身刑に服することになった。


 犯罪者集団の「ワイルド・バンチ」は強盗につづいてさまざまな方向にむかって分裂して活動を個々に始めるようになった。

 のちに「壁の穴」の隠れ家、「ロッバーズ・ルースト」、あるいはテキサス州サン・アントニオ(San Antonio)のおかみ
   ファニー・ポーター(Fannie Porter)
が経営する売春宿のような定められた地点で再結成するのが常となった。


 「壁の穴」の隠れ家は、ワイオミング州オールド・トレール・タウン(Old Trail Town)で組み立てられた。
 それは1883年にアレクサンダー・ゲントによって建てられた。
 
 レイを失った結果かもしれないが、ユタ州は1896年に連邦に加盟した。
 パーカーは、恩赦を取り決めようとユタ州知事ヒーバー・ウェルズ(Heber Wells)に近づいた。
 ウェルズは、パーカーにかわりにユニオン・パシフィック鉄道に刑事告発を取下げるように説得するように鉄道に近づくように助言した。
 E・H・ハリマン(E. H. Harriman)会長のユニオン・パシフィック鉄道はつぎに、パーカーの盟友である、出所していた
   マシュー・ウォーナー(Matthew Warner)
を通じてパーカーと会おうとした。
 1900年8月29日、しかしながら、パーカー、ロングボーその他は、ワイオミング州ティプトン(Tipton)近くでユニオン・パシフィックの列車を襲って、パーカーの、その州内で再犯しないというワイオミング州知事との約束を破り、恩赦の見込みを事実上、無くした。

 1900年2月28日、法執行者らがキッド・カリの兄弟ロニー・カリを、そのおばの家で逮捕しようとした。
 ロニーはその後に続く撃ち合いで殺され。
 また、彼のいとこボブ・リー(Bob Lee)は窃盗で逮捕され、ワイオミング州内の刑務所に送られた。

 民兵らはキッド・カリとビル・カーヴァーに追いつき、彼らを撃ち合いに巻き込み、その間に、保安官代理
   アンドルー・ギボンズ(Andrew Gibbons)
と保安官代理フランク・レスーア(Frank LeSueur)が殺された。
 カーヴァーとカリは逃げた。

 4月17日、ジョージ・カリは、ユタ州グランド郡(Grand County)で、保安官
   ジョン・タイラー(John Tyler)
および副保安官
   サム・ジェンキンズ(Sam Jenkins)
との撃ち合いで殺された。

 5月26日、キッド・カリは、ユタ州モーアブ(Moab)に騎り込み、タイラーとジェンキンスの両者を、ジョージ・カリの殺害と兄弟ロニーの死亡の報復として、厚かましい撃ち合いで殺した。

 パーカー、ロングボーおよびビル・カーヴァーは、ネヴァダ州ウィネマッカ(Winnemucca)に旅行した。
 そこで1900年9月19日、彼らはネヴァダ州のファースト・ナショナル銀行ウィネマッカを襲って、32,640ドルを奪った。

 12月、パーカーは、テキサス州フォート・ワース(Fort Worth)で、今や有名なフォート・ワースの5人の写真を撮らせた。
 これにはパーカー、ロングボー、ハーヴェイ・ローガン(別名キッド・カリ)、ベン・キルパトリックおよびウィリアム・カーヴァーが写っている。
 ピンカートン探偵社はその写真を1部、入手し、それを最新の指名手配のポスターに使用した。

 キッド・カリはギャングに再加入し、パーカーおよびロングボーとともにモンタナ州ワグナー(Wagner)近くで
   グレート・ノーザン鉄道
を襲った。
 こんどは、彼らは現金60,000ドルを運んだ。

 ふたたびギャングは分裂し、ギャング構成員ウィル・カーヴァーは、保安官イライジャ・ブライアント(Elijah Briant)が率いる1人の追跡中の民兵団によって殺された。
 1901年12月12日、ギャング構成員ベン・キルパトリックはテネシー州ノックスヴィル(Knoxville)で、ローラ・ビュリオンとともに捕えられた。
 12月13日、法執行者らとの撃ち合い中、キッド・カリはノックスヴィルの警察官ウィリアム・ディンウドル(William Dinwiddle)およびロバート・セーラー(Robert Saylor)を殺し、逃げた。
 カリは、ピンカートンの探偵らおよび他の法執行者らに追跡されているにもかかわらず、モンタナに戻り、そこで彼は、幾年も前の兄弟ジョニー殺害の責任がある牧場主ジェームズ・ウィンターズ(James Winters)を殺した。

 パーカーとロングボーはそれからニュー・ヨーク市に逃げた。
 1901年2月20日、ロングボーの女性友人エセル・「エッタ」・プレースとともに、彼らは、パーカーはプレースの虚構の兄弟ジェームズ・ライアン(James Ryan)を装って、イギリス汽船ハーミニアス(Herminius)に乗ってアルゼンチン、ブエノス・アイレスにむけて出発した。
 そこで彼は、アンデス近くの、アルゼンチン中央西部のチュブ(Chubut)州チョリラ(Cholila)近くのリオ・ブランコの東岸に彼らが買った、15,000エーカー(61平方キロメートル)の牧場の4室の丸太小屋に、ロングボーおよびプレースとともに、落ち着いた。
 
 1905年5月1日、警察が彼らに追いつきかけているので3人組はチョリラの農場を売った。
 ピンカートン探偵社は少し前に彼らの居所を知っていたが、雨季のために割り当てられた探偵
   フランク・ディメーオ(Frank Dimaio)
はそこに行き、逮捕することができなかった。
 知事フリオ・レサナ(Julio Lezana)はそのとき逮捕状を出していたが、それが執行される前に、パーカーと親しく、エッタ・プレースに惚れていたウェールズ系アルゼンチン人保安官エドワード・ハンフリーズが彼らに内報した。

 3人組は、北のサン・カルロス・デ・バリローチェ(San Carlos de Bariloche)に逃げ、そこで彼らは汽船コンドル(Condor)に乗り、ナウェル・ウアピ湖(Nahuel Huapi Lake)を渡った。
 ただ、年末までに彼らはアルゼンチンに戻っていた。
 12月19日、パーカー、ロングボー、プレースおよび不明の男性(ハーヴェイ・ローガンかもしれない)は、ブエノス・アイレスの西方400マイル(640キロメートル)のビージャ・メルセデス(Villa Mercedes)の国立銀行(Banco de la Nacion )の強盗に参加し、12,000ペソを奪った。
 武装した法執行者らに追跡されて、彼らはパンパとアンデスを横切り、チリに無事、帰着した。

 1906年6月30日、エッタ・プレースは、逃亡生活はもうたくさんだと考え、ロングボーに護衛されてサン・フランシスコに帰った。
 パーカーは、中央ボリビアのアンデスのサンタ・ベラ・クルス(Santa Vera Cruz)地域の
   コンコルディア(Concordia)錫鉱山
で「ジェームズ・『サンティアゴ』・マックスウェル」(James "Santiago" Maxwell)という別名で仕事を得て、そこで彼は帰ってきたロングボーといっしょになった。
 皮肉にも、彼らの主たる仕事には会社の総賃金を護衛することもふくまれていた。
 それでもやはりりっぱな牧場主として落ち着きたくて、パーカーは1907年後半、ボリビア西部のサバンナの辺境都市サンタ・クルス(Santa Cruz)に、ロングボーとともに、旅行した。

 パーカーの死亡にかんする諸事実は、はっきりとは知られていない。 1908年11月3日、ボリビア南部のサン・ヴィンチェンテ(San Vicente)の近くで、「Aramayo Franke y Cia」銀鉱山の急使が、会社の賃金総額15,000ボリビア・ペソ相当をロバで運搬中に、パーカーとロングボーであると信じられると面を付けたアメリカン人2人の山賊に襲われ、強盗された。山賊たちはそれからサン・ヴィンチェンテという小さい採鉱町に進み、そこでボニファシオ・カサソラ(Bonifacio Casasola)という地元の鉱山労働者が所有する小さな下宿屋に下宿した。左横腹に帯びていたその採鉱会社のロゴからアラモヨ鉱山からのものと確認し得る、彼らが所有していたロバのほかに、外国人の下宿人2人をもカサソラが疑うようになったとき、カサソラは家を出て、近くの電信吏に通知し、電信吏は近くに駐屯する小さなボリビア陸軍騎兵部隊に通報したが、それはアバロア連隊であった。部隊は、ジャスタ・コンチャ(Justa Concha)大尉が率いる兵3人をサン・ヴィンチェンテに急派し、そこで彼らは地元当局に通報した。11月6日晩、下宿屋は、兵3人、警察署長、地元市長とその職員の幾人か取り巻かれたが、彼らはアラモヨ強盗を拘束する意図であった。

 兵3人が家屋に近づいたとき、山賊たちが射撃を始め、兵のうち1人を殺し、もう1人を負傷させた。
 それから拳銃での撃ち合いが続いた。午前2時ころ、発砲の休止中に警官隊と兵たちは家屋のなかから1人の男性が悲鳴をあげるのを聞いた。まもなく、一発の銃声が家屋のなかから聞え、そののち悲鳴がやんだ。
 複数分ののち、もう一発の銃声が聞えた。

 地元の人々が場所の周囲を包囲していたため膠着状態が翌朝まで続いたが、そのとき、彼らは中にはいると、両腕、両脚に多数の銃創を負った遺体2体を見つけた。
 男らのうち1人は前額に銃傷があった。
 また、、残り1人はこめかみに弾痕があった。
 地元警察報告の推理によれば、遺体の位置から判断して、1人の山賊が、一時的な共犯者を安楽死させるために撃って致命傷を負わせ、その直後、最後の弾丸で自殺した。

 トゥピサ(Tupiza)警察による捜査において、山賊たちはアラモヨ総賃金強盗をはたらいた男たちであると身元が特定された。
 しかしボリビア当局は彼らの本当の名前を知らなかったし、彼らの身元を明確に特定することはできなかった。
 これらの遺体は小さなサン・ヴィンチェンテの共同墓地に埋葬された。
 1991年のアメリカの法医学人類学者クライド・スノー(Clyde Snow)による試みがなされて、パーカーとロングボーの生存する親戚と合致するDNAを持つ遺物は発見されなかったことから、1人または両者が生き延び、結局、合衆国に帰ったという主張につながっている。

   
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今回の増加はそれほど深刻ではない

 ジェフリーズのアナリスト
   アカシュ・テワリ氏
は、この急増は、夏と冬に新型コロナの感染がピークを迎えるというこれまでのパターンに一致しており、今回の兆候は「より穏やかな季節を示唆しているようだ」と、今回の増加はそれほど深刻ではないとの見方を、最近の調査リポートに記している。

    
posted by まねきねこ at 07:00| 愛知 | Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

トランプ氏をかつてのライバルが称賛、共和党全国大会で団結演出

 ヘイリー元国連大使はかつて、トランプ前米大統領を「完全に常軌を逸している」「落ちぶれている」などと評した。
 また、フロリダ州のデサンティス知事は、前大統領は自分に「従属する」なら最も「価値のない共和党員」でも受け入れるだろうと述べていた。

 そして16日、彼らは、トランプ氏こそが次期大統領に最もふさわしい人物だと主張を大きく変えている。

 ウィスコンシン州ミルウォーキーで開催されている共和党全国大会では、大統領選の党候補指名をトランプ氏と争っていたライバルたちが次々と登壇し、かつて
   「あざけりの対象とした人物」
を支持して見せた。
 トランプ氏が堅く掌握している党内で、自分たちの将来を確保するために必要な、忠誠心を公に示すパフォーマンスだった。

 この夜、トランプ氏は、バイデン大統領を打ち負かす挑戦をする上で、最も忠実な支持者層以外にも支持を広げるチャンスを得たことになる。
 2016年大統領選で候補指名を争ったルビオ上院議員とクルーズ上院議員とともに、今回の指名争いの対抗馬も出席したことは、共和党がトランプ氏の完全な支配下にあることを示す明白な証しだった。

 トランプ氏はここ数カ月、共和党全国委員会の共同委員長に義理の娘を据えるなど、その影響力を誇示してきた。

 また、13日のトランプ氏暗殺未遂事件を受けての結束の呼びかけは、共和党へのものであり、国全体に対するものではないことも明確になった。
 
 ヘイリー氏は「私たちはより大きな存在であるときにより良い」と語り、より多くの有権者を共和党側に引き入れるよう呼びかけた。
 また、他の登壇者たちは、バイデン氏が不法移民や医療用麻薬「フェンタニル」といった問題を制御できていないと非難した。

 ヘイリー氏は当初、大会で演説する予定ではなかった。
 しかし、同氏とトランプ氏の両チームがこの数日で調整した結果、演説を引き受けることに同意したものだ。
 拍手とブーイングの中、ステージに上がったヘイリー氏は、トランプ氏が「団結」の名のもとに彼女を演説に招待したと伝えた。

 ヘイリー氏は「私たちの国のため、私たちはトランプ氏を支持しなければならない」と述べ、トランプ氏への支持を力強く表明した。
 トランプ氏は副大統領候補のバンス上院議員の隣の席から立ち上がってみせた。

 ヘイリー氏が自分とトランプ氏の相違点を指摘すると、トランプ氏は、「意見が合わないことよりも意見が一致することの方が多い。米国を強く保つことについては意見が一致している」と応じた。

 また、ロシアのプーチン大統領がウクライナを攻撃しなかったのは、当時大統領だったトランプ氏が強硬な姿勢を取ったからだとヘイリーが指摘すると、トランプ氏は「true(真実)」と口走ったようにも徴収には見えただろう。
 予備選挙中、ヘイリー氏はトランプ氏とウクライナ問題で対立し、米国によるウクライナ政府への支援継続を支持していた。

 トランプ前政権下で国連大使を務めたヘイリー氏は、演説はトランプ前大統領を支持することに今も懐疑的な有権者を対象としたものだと述べた。

 ヘイリー氏は「私のメッセージは単純だ。トランプ氏に100%賛同する必要はないが、彼に投票する必要がある」と訴えた。

 デサンティス氏はヘイリー氏の後で登壇し、有権者に「第45代アメリカ合衆国大統領、第47代大統領に」投票するよう呼びかけた。
 また、デサンティス氏は党大会でアイオワ州の共和党員と会談した。2028年に実施される第48代大統領選への出馬を決めた場合、候補指名争いで早い時期に党員集会が行われる同州を味方につけるためだ。

 登壇者たちは、この日のテーマである「米国を再び安全に」というテーマに次々と触れた。
 バイデン氏の移民政策を繰り返し批判し、大統領を終末論的な言葉で表現した。国境を越えてやって来る人身売買業者、麻薬組織、テロリストの問題がバイデン氏によるものだと糾弾する動画も流された。

 クルーズ氏は「私たちは南の国境からの侵略に直面している。比喩的な意味ではなく、文字通りの侵略だ」と聴衆に呼びかけた。

 移民の急増は、バイデン政権にとって最も厄介な課題の一つとなっている。
 有権者にとって決定的な問題であると世論調査が示すこの危機に、共和党は飛びついた。
 トランプ氏の呼びかけを受け、国境警備の強化を目的とした超党派の上院妥協案を拒否し、バイデン大統領の政治的勝利を阻んだ。

 バイデン氏はその後、亡命を求める移民の流入を阻止するための別の制限を導入し、国境取り締まりを強化するための措置に踏み切った。

 トランプ氏は当選した場合、大量国外追放を含む、米国の法律の限界を試すような広範な移民改革を実施すると明言している。
 選挙キャンペーンの中で、トランプ氏は移民によるものとされる凶悪犯罪を取り上げ、「バイデン移民犯罪」と呼ぶなど扇動政治による独裁政治が復活しそうな流れだ。
 
    
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ECBのインフレ退治が最終1マイル?鍵となる生産性が利下げ左右する公算

 欧州中央銀行(ECB)はインフレ率2%の目標の達成には
   生産性の向上
が鍵だとしているが、想定通りに生産性が高まらなければ
   持続的な利下げ
が実現しない可能性がある。

 消費者物価上昇率が、ECBの想定通りに来年後半に2%ま下がるためには
   賃金上昇鈍化
   企業の利益率縮小
と同時に生産性が向上しなければならない。

 生産性の高い労働力が増えれば、単位生産量あたりのコストが下がることからインフレ率に低下圧力がかかると共に、ユーロ圏経済が
   停滞を脱するのに役立つ
ことが期待されている。
 しかし、生産性改善はなかなか実現しない。
 新型コロナウイルスのパンデミック(世界的大流行)やロシアのウクライナ侵攻の衝撃が長く影を落とす可能性がある。

 十分な改善がない場合、ECBの政策スタンスを支える予測が揺らぐ恐れがある。
 アナリストは現在、ECBが今週の会合で利下げを見送った後、秋に利下げを再開するとみている。
 
 一部のアナリストは、2025年と26年に生産性が約1%上昇するとのECBの見通しは、最新の予測で下方修正された後でも
   まだバラ色に過ぎる
と指摘しており、その予測はパンデミック前20年間の平均の0.6%を上回っているためだ。

 生産性の指標は、昨年は約1%、今年1−3月(第1四半期)は0.6%低下した。
 一般的な説明は、労働力不足が、成長低迷にもかかわらず
   多くの企業に労働者を雇用し続けること
を促したというものだ。

 ECBは18日に金利を決定する予定だが、エコノミストの多くが、中銀預金金利が3.75%に据え置かれると予想している。
 次回会合は9月で、新たな経済見通しが得られるに伴い再び利下げが実施される可能性が高いとみられている。
 先月の金融政策決定会合の議事要旨によれば、当局者はリスクを理解しており「賃金上昇によるインフレ圧力を企業が利益率でどの程度吸収するのか、また生産性が予想通りに反転上昇するのかについて、さらなる証拠が必要だ」としている。
 
 
ひとこと
 労働生産性を比較するに米ドルベースで比較することが多い。
 当然為替に数値が左右されるため、1ドル100円と1ドル150円で比べれば、付加価値が変わらなければ生産性は100円から150円に下がれば、労働生産性は5割低下したことになる。労働生産性が30%とすれば15%しかないということ。
 視点を変えれば、労働生産性を増やすには付加価値のある製品を作り、為替を円高にする事が必要であり、現在の日銀の金融政策は逆のことを行い、日本企業や日本の労働者の生産性が低いと主張しているということにほかならない。
 安倍政権でポンコツF35などを防衛目的で購入する愚かな政治が行われたが、これも、欧州からユーロファイターなど競合戦闘機を競わせて購入すれば、整備はより高度に達成できたが、長期政権維持目的でトランプら米国軍産複合体制への朝貢政治が繰り返されている。
 
   
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トランプ氏の機密文書裁判で連邦地裁判事が起訴取り下げを指示

 フロリダ州の連邦地裁アイリーン・キャノン判事は15日、トランプ前大統領が機密文書を不適切に所持・管理していたとされる裁判で、捜査を率いたスミス特別検察官の任命を違憲だと判断し、起訴取り下げを指示した。

 キャノン判事が下した今回の判断でトランプ氏の刑事裁判4件のうち一つが消滅した。
 ホワイトハウス返り咲きを目指す同氏の運動に弾みが付く判決となった。
 米司法省はこの判断を不服として控訴することができるが、大統領選挙までに結論は出ない。

 スミス特別検察官はこの件とは別に、トランプ氏が2020年の選挙結果を覆そうと不法に共謀したとする起訴案件で、ワシントンの連邦裁判所での裁判を進めている。
 なお、このケースを担当する判事に、今回キャノン判事が下した判断は拘束力を持たない。
 
 公判はトランプ氏の
   免責範囲
を巡る双方の主張が折り合わず、開始のめどがついていない。
 ニューヨーク州では口止め料の不正処理を巡る裁判で有罪評決が出たが、量刑の言い渡しが延期されている。
 トランプ氏はジョージア州でも選挙結果を覆そうとした罪で起訴されている。
   
   
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新型コロナ感染者が米国で急増するも重症化の懸念は小さいと米国の専門家

 米国では、再び新型コロナウイルス感染者が増えているが、ウイルスは時間の経過とともに毒性が弱まっており、専門家は心配する必要はないと主張している。
 米国人は過去のコロナ感染やワクチン接種による免疫の残存が多く、ウイルスは広がり続けているものの、その影響は和らいでいる。

 米バンダービルト大学の
   ウィリアム・シャフナー教授(感染症学)
によると、現在優勢となっている亜型は、「非常に感染力が強い」が、「重症化はしない」と述べた。
 また、感染の指標となる、下水に含まれる新型コロナウイルスの残存量は、米国の一部地域では昨年の夏場の急増時を上回っているものの、入院患者数は少ないままだと続けた。

 シャフナー氏は「私たちの集団免疫力は非常に高い」と述べた。
 高齢者や一部のグループにはリスクが残るが、ほとんどの健康な人は、過去の感染やワクチン接種によって、十分に守られているというが、米国のワクチン接種率は50%である。

 
ひとこと
 ワクチン接種者と非接種者の感染率を示してもらいたいものだ。
 ワクチン接種に伴い、体質変化で抵抗力が低下し、感染症に罹患しやすくなっていると言った見方もある。
 また、欧米と比較し日本の医療において金儲けとも言える抗生物質の多用による認知症の増加との因果関係も指摘されており、薬物利用による健康被害の増加への対応が遅れる原因が政治家の金儲けの源泉では話にもならない。

 
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ベルテルスマン(Bertelsmann AG) ドイツに本社を置くメディア・コングロマリット

ベルテルスマン(Bertelsmann AG)
 ドイツに本社を置くメディア・コングロマリットで、出版・放送・音楽ソフトなどの事業を営む。
 主な事業
 ・RTLグループ
   ヨーロッパ最大の放送・番組制作会社。
 ・グルナー・ヤール
   ヨーロッパ最大の雑誌出版社。
 ・ペンギン・ランダムハウス
   世界最大の出版グループ
   2013年、ランダムハウスがイギリス・ピアソン傘下の
     ペンギン・ブックス
   と合併して誕生した。
 ・arvato - メディアサービス、ロジスティックス(印刷、光ディスク製造、データセンターなど)。日本支社あり。
 
 宗教や社会活動に熱心な
   カール・ベルテルスマン
が1835年7月1日に
   カール・ベルテルスマン出版社
を設立し、キリスト教の書籍や雑誌を出版した。
 息子のハインリヒ・ベルテルスマンや婿のヨハネス・モーンが継承し、小説も出版して、会社を成長させた。

 第二次世界大戦後の1947年
   ラインハルト・モーン
が会社を再建した。
 1950年に始めた、通信販売方式の「ベルテルスマン読書サークル」が大成功を収め、数年後には会員数が100万人に達した。
 1956年、「レコードサークル」も設立し、音楽業界に進出し
   アリオラ・レコード
や製造会社ソノプレス(現在のArvato)を設立した。
 また百科事典の販売も成功した。
 1960年代から1970年代、読書サークルは国際化し、西ヨーロッパや米国、アフリカに広まった。
 また、雑誌や映画にも進出し、映画会社のウーファや出版社グルナー・ヤールを買収した。

 1980年代から1990年代、音楽・出版事業は米国に進出した。
 バンタム・ブックス(1980年)やダブルデイ(1986年)、ランダムハウス(1998年)などの有力出版社、アリスタ・レコード(1979年)、RCA(1986年)、ウィンダム・ヒル・レコード(1996年)に買収して、1987年に
   BMG(ベルテルスマン・ミュージック・グループ)
に統合した。
 その後、テレビ業界やインターネットにも参入した。
 1996年 にはアレクサンダー・ファルク(Alexander Falk)と交渉し、大手電子地図メーカーのファルク(Falk AG)を買収した。
 ドイツでは1984年に民間のテレビ放送が始まり、映画会社の
   ウーファ (Ufa Film-und Fernseh-GmbH)
を買収して
   RTLplus
を設立し成功を収めた。

 インターネットではAOLと提携して、インターネット接続サービスを開始した。(2000年に提携解消)
 その他にもオンライン書店のbol.comを設立し、Napsterに出資したが、あまり成功しなかった。
 2000年代に入り、ソニーやピアソンと協力して、ソニーBMGやRTLグループを設立した。
 2006年にBMGミュージックパブリッシングを仏ヴィヴェンディ・ユニバーサルに売却することを発表した。
 2008年にソニーBMGの全株式をソニーへ売却、一部の音楽出版関係の権利は売却せず、新会社BMGライツマネージメント(BMG Rights Management)が継承した。
 
 ベルテルスマンはルパート・マードックのような独裁的な企業運営ではなく、労使協調のパートナーシャフトを特徴としている。
 取締役会・監査役会の他に、経営協議会や従業員協議会を設けて分権的・権限委譲的な企業運営をしている。
 ベルテルスマン財団を1977年に設立して創業家から株式を移し、資本所有の継続性を維持している。
 従業員の利潤参加制度や資本参加制度を整えて、従業員からの資金調達や利益配分を行っている。
    
    
posted by まねきねこ at 05:11| 愛知 | Comment(0) | よもやまばなし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

野村がディール落ち込み受けアジア投資銀チームを人員削減し再編

 野村ホールディングス(HD)は、アジアの投資銀行チームを再編し、人員削減に動く。
 中国と香港でのディール落ち込みに伴う
   コスト削減
の一環という内部文書の内容を広報担当者が確認した。

 この内部文書によれば、日本を除くアジアの投資銀行責任者を2年余り務めた
   パトリック・クワン氏
が退職、東南アジア部門責任者のジュワラント・ナナバティ氏が後任を兼務する。

 なお、この情報が非公開となっていることを理由に複数の関係者が匿名を条件にメディアの取材で語った内容が市場に流れ出しており、今回の幹部交代は、少なくとも3人のマネジングディレクターを含む約10人のバンカーが関わる今週の人員削減と同時に実施されると見られる。 
 
 また、オーストラリア部門の最高経営責任者(CEO)で、投資銀行責任者を務めるアンドルー・マクゴニガル氏が、アジア地域の
   投資銀行共同責任者
を7月17日付で兼務することも分かった。

 中国経済の成長が失速し、共産党による
   経済統制が強化
される状況で、モルガン・スタンレーゴールドマン・サックス・グループJPモルガン・チェースを含むグローバルバンクや投資銀行も過去2年の間に香港と中国で人員の合理化に動いた。

 野村HDでは今年5月、2031年3月期に税引き前利益5000億円超えを達成し、24年3月期の実績との比較で、利益をほぼ倍増させる目標を掲げた。

    
posted by まねきねこ at 02:00| 愛知 ☔| Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする