当ブログ内の情報はあくまでも参考情報です。投資にあたっての判断は投資する人の自己責任でお願いします。
当ブログでは、一切の責任を負いませんでご了承下さい。

マーケット出来事貴金属とレアメタル宝石と宝飾品貴金属の取引方法貴金属取扱会社

2024年07月08日

池田惣左衛門 (鐙屋)  江戸時代 酒田の豪商

戦国時代の庄内地方でも豪族が入り乱れて、その興亡は激しいものがあった。
上方の堺や桑名のように、酒田は三人の月番で12ヵ月、町行事、町政を担当する三十六人衆を中心に
   自由都市
としての発展を続けた。
 戦国時代の末には伊達政宗の伯父にあたる
   最上義光
      天文15年1月1日(1546年2月1日)
        ー 慶長19年1月18日(1614年2月26日)
が庄内を治め、酒田の豪商
   池田惣左衛門
に「鐙屋」の屋号を与えた。
 最上家は跡目相続で内紛が起こり元和8年(1622年)に改易された。
 寛永年間(1624年から1644年まで)には、鐙屋は三十六人衆の筆頭となり、井原西鶴の「日本永代蔵」に
   「北の国一番の米の買い入れ、惣左衛門という名を知らざるはなし」
と書かれるほど、全国でも有数の米問屋となっている。
 元和8年(1622)、最上氏に代わり、信州松代から
   酒井忠勝
が、庄内藩の藩主として入部して以降、明治維新までの250年間、庄内の地を治めた。
 庄内藩は鶴岡の鶴ヶ岡城を居城とし、酒田の亀ヶ崎城には城代を置いた。
 酒田は、戦国時代と変わらずに自由な町人の町であり、三十六人衆が団結して揺るぎない自治体制を敷いていた。
 酒田三十六人衆は酒田町組という町組織を掌握し、町政を担当した。
 彼らは平泉藤原氏の武士であるという誇りを持っており、酒井家の入部に際しても、「二君に仕えずなどと申し上げ」と、武士になろうという野心もなく、町人として生きていた。
 これに対して庄内藩では、名字、帯刀を許し、宅地に対して無税として扱った。

池田惣左衛門
 屋号 鐙屋
 最上義光が
   東禅寺城
の橋の渡初めの時に鐙屋と言う屋号を与えたとの謂れがある。
 また、鶴岡の方の家来には轡屋(くつわ)と言う名前を与えた。
 東禅寺城は奉行所の所に大きな亀が揚がったので亀ヶ崎城と改めた。
 また、鶴岡の大宝寺城は鶴ヶ丘城と名前を変えた。

 酒田港は江戸時代に
 西廻り航路(北陸・山陰沖を経由し下関から瀬戸内に入り大阪に至る)と
 東廻り航路(津軽海峡を抜け三陸沖を通って江戸に至る)
の起点であった。

 商売の方は、山形、新庄、その他藩の蔵米を扱い、蔵宿を商っていた。
 酒田を訪れる商人や船乗り達の宿泊所として、また、西回り航路を利用した北前船での回船問屋などで繁盛した。
 元禄時代に好色一代男を書いた井原西鶴が日本永代蔵の頃には、表口36間、奥行き65間という一町が鐙屋の店であった記述されている。
 また、酒田に、北の国一番の米を商いする大問屋が住まいするとも書かれている。

 なお、宿の食事を作るのに飯釜にはしご架けて登ったり、おかずを作るのに鉈や鎌で切って作ったと言う話が残っている。
 また、敷地内に防火林として松並木が在り、屋敷は石置杉皮葺屋根の典型的な町家造りであった。

 「慶長出羽合戦」ともいわれる慶長5年(1600年)、家康は会津の
   上杉景勝
が軍備を増強していることを詰問し、上杉家の重臣
   直江兼続
はこれに対して絶縁状ともいえる直江状で返答した。
 これを受けた家康は同年6月、家康は会津征伐を開始した。

 1600年に起こった長谷堂城合戦(守将・志村光安率いる1,000名)で、上杉と最上が戦った。
 この戦いで最上軍が勝利すると庄内は最上義光の領土になり、慶長13年(1608)に最上義光から鐙屋の屋号を与えられた。
 本性は池田であったが、屋号を与えられてからは『鐙屋惣左衛門』と称したている。
 鐙屋は廻船問屋として繁栄し、その繁盛ぷりは本や挿図にも記載されている。
  
 鐙屋は酒田三十六人衆として町政にも参画し、江戸時代の日本海海運の大きな役割を担っていた酒田を代表する廻船問屋となった。

 平泉藤原氏の武士であるという誇りがあ三十六人衆による町政の歴史は鎌倉時代る1192年に始まっている。
 この頃から港町として発達し問屋業を中心とする 三十六人衆の町政の成立期となり
   自治組織の会合衆(えごうしゅう)
を結成した。
 1338年室町時代始まる 酒田という地名は室町時代ころに書籍等で初見されるようになった。
 戦国末期には大規模な戦闘における物資輸送の必要生が兵站線の確保から高まり船運の全国的に発達し、酒田は中継地として日本有数の港町となった。
 1521年頃から三十六人衆が最上川北岸(現在の酒田)に移った。
 天正18年には豊臣秀吉の小田原の陣の際に秀吉配下の五奉行から 
   粕谷源次郎
が海上船舶の監視と海上警備の権限を与えられ その費用として1000石につき1石5斗の役米徴収権を付与された。

 天正20年年頃と推定されるが
   長束正家書状
によって豊臣秀吉の朝鮮出兵に際しては 酒田にも船舶の供出が命じられている。
 慶長6年(1601)の安土桃山時代の末期なまで最上氏の領となっていた。
 当時の三十六人衆は のとう市助、松村彦一、村井利右衛門、上林若狭 、渡辺七郎兵衛 、粕谷源治郎 、永田伝次7家だけの記録がある。

 1686年の三十六人衆。
・本町一丁目
 小川与三右衛門、白畑太郎左衛門、伊東弥治衛門、青塚治(次)郎左衛門、小島半兵衛、
・三丁目弥兵衛
・本町二丁目
 近江屋嘉右衛門、本間九(久)右衛門、山本三郎右衛門、七森利兵衛、二ノ丁孫右衛門
・本町三丁目
 押判屋四郎兵衛、松田又右衛門、加賀屋又兵衛、美濃屋彦兵衛、西野長兵衛、美濃屋新兵衛、
 谷口九兵衛、加賀屋与助、鐙谷惣左衛門
・本町四丁目
 渡辺三平、永野五郎兵衛、上林治左衛門、薮田弥右衛門、上林七郎左衛門
・本町五丁目
 渡部源助、小林喜左衛門
・本町六丁目
 玉屋九右衛門、加賀屋太右衛門、渡辺七郎兵衛、粕谷源治郎、野治嘉兵衛、粕谷半左衛門
・本町七丁目
 最上谷嘉右衛門、加賀屋太郎左衛門、粕谷掃部
の三十六人衆であるが、出入りは激しく1868年慶應元年には三十人となっていた。
 また、80年間に65家が入り変わり継続したのが10家だけと言われている。

     
posted by まねきねこ at 22:00| Comment(0) | 人物伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

貿易開発銀行(Trade Development Bank  TDB) ジュネーブを拠点とする民間銀行

貿易開発銀行
    (Trade Development Bank  TDB)
 1950年代にブラジルで6番目に大きな銀行
   バンコ・サフラ
を設立したエドモンド・サフラによって設立されたジュネーブを拠点とする民間銀行。
 わずか100万ドルの資金から始まったTDBは、1980年代初頭までに預金残高が50億ドル近くに達するサフラの国際銀行帝国の旗艦銀行に成長した。
 TDBの銀行業務の形態は、バランスシートや具体的な数字よりも預金者の性格との親密さと熟知性に依存していた。
 このため、西洋諸国の銀行業務の形態の多くとは異なった。
 1983年、サフラはTDBを5億5000万ドルで
   アメリカン・エキスプレス
に売却した。
 この買収はアメリカン・エキスプレス会長
   ジム・ロビンソン
による個人預金者向け銀行業界への参入計画の一環であった。
 TDBはアメリカン・エキスプレスの金融帝国の第三部門となり、裕福な海外の個人預金者にリーチすることを目指した。
 TDBの買収と引き換えに、サフラはアメリカン・エキスプレスの取締役に就任した。

 しかし、TDBは、アメリカン・エキスプレスが、買収を受け入れるきっかけとなった約束を守れないこと、そしてミネアポリスの金融サービス会社
   インベスターズ・ダイバーシファイド・サービシズ
の10億ドルでの買収など、会社の重要な決定から排除されていることにすぐに気づいた。

 TDBがインベスターズとの買収について知らされたのは、幹部がダウ・ジョーンズのニュースワイヤーから最新の速報を受け取った後のこと。
 他の出来事の中でも、アメリカン・エキスプレスは、カリフォルニアに拠点を置く保険会社
   ファイアマンズ・ファンド
を通じて支払われた過剰な保険金請求により、2億4,200万ドルの利益損失を公表した。
 この請求は、アメリカン・エキスプレスの最初の年間純利益損失の一因となったが、TDBにはこれについて何の警告もなかった。

 クレーム事件の後、サフラはTDBを親会社から切り離そうとした。
 アメリカン・エキスプレスがTDBの売却を何度も拒否すると、サフラは競合する銀行を開設した。
 これに対し、アメリカン・エキスプレスはサフラの事業活動に対する疑惑に基づいて行動し、サフラがイラン・コントラ事件への関与、麻薬密売、マフィアとの協力の疑いでFBIの捜査を受けているとメディアに報じた。
 これらの告発は後にロビンソンの右腕で広報部長の
   ハリー・フリーマン
によって虚偽であることが確認され、フリーマンは最終的にアメリカン・エキスプレスを辞任した。

 1989年7月、アメリカン・エキスプレスはサフラに公式に謝罪し、サフラが選んだ慈善団体に800万ドルを寄付した。
 1989年、アメリカン・エキスプレスはスイスの銀行業務をCompagnie de Banque et d'Investissementsに売却した。
   
   
posted by まねきねこ at 22:00| 愛知 ☁| Comment(0) | よもやまばなし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ビットコインにマウントゴックス債権者の売りを懸念し、再び下押し圧力が強まった 

 暗号資産(仮想通貨)ビットコインはアジア時間8日、再び下押し圧力にさらされた。
 2014年に経営破綻した交換業者マウントゴックスの再生管財人は債権者に対し、
   ビットコイン約80億ドル(約1兆2800億円)相当
の弁済を開始しており、債権者が
   ビットコインを売却する可能性
が懸念されている。

 ドイツ政府が押収したビットコインを処分する兆候も市場のセンチメントを悪化させている。
 さらに、投資家が7日に決選投票が行われたフランス国民議会選の結果を見極めようとしており、世界市場全体に慎重なムードが広がっている。

   
posted by まねきねこ at 16:38| 愛知 ☁| Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

米大統領選でバイデン氏の撤退を望む民主党下院議員がじわり増加する傾向が出ている

 米国議会下院民主党トップのジェフリーズ院内総務は7日午後、非公開のオンライン会合を開催し、同党有力下院議員のうち数人が11月の大統領選で再選を目指すバイデン大統領に撤退を望む考えを新たに示した。

 会合の様子に詳しい複数の関係者が匿名を条件にマスコミの取材を受け明らかにしたもので、バイデン氏撤退を求める民主党下院議員はこれで計9人に増えた。
 その中には下院の各委員会で党トップの筆頭理事を務める議員も含まれている。

 先月27日のトランプ前大統領との討論会でバイデン氏のパフォーマンスが精彩を欠いたことを契機に、比較的重鎮とされる議員の中にも同氏以外の新たな候補擁立を望む動きが徐々に広がりつつあることが示された。

 バイデン氏はこうした撤退要求にもかかわらず、立候補を辞退する考えはないと繰り返し表明している。だが討論会以降、年齢や職務執行能力について民主党内でも懸念が増したバイデン氏は、今週もクリアしなければならないハードルを幾つか抱えている。

 議会休会明け8日には、議員がワシントンに戻ってくる予定で、9日午前には民主党下院議員全員が参加する定例会合が開かれる。

 7日のオンライン会合の参加者は11月の下院選で議席を失うリスクが小さい議員が大半だったが、9日の会合には激戦が見込まれる議員も含まれ、同党下院全体としてのムードが一段と明確に示されると考えられる。

 現在少数ながらも民主党が多数派となっている上院よりも、11月の選挙での多数派奪還に強い期待を抱いていた下院の方が同党議員の間の焦りが濃厚となっている。
 ジェフリーズ院内総務の報道官は7日の会合について、非公開であることを理由にコメントを控えた。

 9日からはワシントンで北大西洋条約機構(NATO)首脳会議が開催され、バイデン氏は開催国として会議を取り仕切る。
 会議に参加する首脳や当局者の一部は、先月にイタリアで開催された主要7カ国首脳会議(G7サミット)の際、バイデン氏の高齢や注意力について舞台裏で懸念を表明していた。

  
ひとこと
 西側政府の入れ替わりが激しくなりそうだ。
 
  
posted by まねきねこ at 13:33| 愛知 ☁| Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

周囲が見えない政治家が首相では話にもならない滑稽さだ!!

 共同通信によると、茂木派の
   笹川博義元環境副大臣は
7日の党群馬県連大会で、「残念ながら、組織のトップにけじめをつけてもらわなければ困る」と発言した。聞く耳がないトップの存在は組織全体に害毒を垂れ流し続けるだけだろう。
 対人の引導を渡す人物がいないのも組織的には問題の根が深くなるばかりだ。

 林芳正官房長官は8日午前の記者会見で、都議補選について問われ、国民の政治に対する不信の声を受け止めつつ、能登半島地震からの復興や経済再生、外交など「先送りできない課題に専念して結果を出したい」と論点をすり替えるかのごとき、質問の回答にはなっていないトンチンカンな発言ではぐらかされた記者では話にもならない。
 
  
posted by まねきねこ at 13:24| 愛知 ☁| Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

財政改革が最大リターン生む、新興国債券市場では高利回りよりも重要

 新興国市場では
   金融政策よりも、優れた政府の方が重要
だとのシグナルを債券投資家は発している。

 4月に入って以降、投資家は政府が財政政策を緩和している
   高利回り国の債券
をさらに積極的に売り始めた。
 一方で、財政への警戒を促している国の債券は、低利回りあるいはマイナス利回りであっても意欲的に購入している。

 この傾向は第2四半期(4−6月)のパフォーマンスに表れている。 
 3月までの2年間にわたって、新興国債券の投資家は高い利回りを追い求め、最もタカ派的な中央銀行を持つ国々が最高のリターンをもたらしていた。

 メキシコの債券のリターンはこの期間に37%。ブラジルは22%、ポーランドとコロンビアは18%だった。
 また、トルコやアルゼンチン、南アフリカ共和国などパフォーマンスが悪かった国は、金融政策がハト派的過ぎるとみなされ、懲罰を受ける格好となった。

 その後、為替のボラティリティーが再燃し、マネーマネジャーは方針を変更した。
 キャリー戦略が巻き戻され、米国債に対するドル建て国債の上乗せ利回りが四半期ベースで2022年以来最大の上昇を記録する中、リスクプレミアムが再び重要視されるようになった。

 今は厳格な財政政策を選択している政府が最も報われており、例えばアルゼンチンは、現地通貨建て債券のパフォーマンスで4−6月期にトップとなった。
 ミレイ大統領が挫折を乗り越え、財政目標の達成とインフレの抑制につながる税制措置の承認を獲得したことが背景にある。
 これと同様に、エジプト国債もシシ大統領が経済改革の準備を進めていることの恩恵を受けている。投資家は財政の正常化に回帰したトルコも評価している。

 アルゼンチンやトルコ、エジプトなどパフォーマンス上位国は、いずれも財政改革に取り組んでおり、その対極にあるのは財政赤字が拡大している国で、メキシコやブラジルなどがこれに当たる。

   
posted by まねきねこ at 10:00| 愛知 | Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

今週議会証言でパウエル議長がインフレ鈍化の「一層の確認必要」と説明するとの予想

 米連邦準備制度理事会(FRB)の
   パウエル議長
は今週、上下両院の委員会が開催する公聴会で金融政策に関する半期に一度の証言を行う予定だ。
 
 米国の経済統計では経済成長と雇用が減速している兆候は見られるものの、議長は公聴会で、金融当局が利下げへの態勢に入るにはインフレが鈍化していることをさらに確認する必要があると説明する公算が大きいと市場では予想している。

 利下げに向けた新たな一歩になると予想されるのが
   6月の消費者物価指数(CPI)
だが、同統計が発表されるのは11日となるため、パウエル議長が議会証言を終えた後のことだ。
 パウエル氏は9日に上院銀行委員会で、10日に下院金融委員会でそれぞれ証言する予定。

 失業率が2021年遅く以来の水準に上昇しており、その他のデータでも
   経済成長の減速
が示されている。
 そうした状況を受け、議員らは金融当局が利下げにちゅうちょしている理由をパウエル氏に問いただす可能性が高い。

 パウエル議長は2日、最新の経済データはインフレが再び鈍化傾向をたどっていることを示唆していると指摘してるものの、当局者らは利下げに動く前にさらに多くのデータを目にしたい考えだと付け加えている。

 市場調査では、食品とエネルギーを除くコアCPIは6月に前月比0.2%上昇と、前月と同率の伸びが予想されている。
 実際そうなれば、連続した2カ月の伸びとしては昨年8月以来最小となり、金融当局にとってより許容可能なペースとなる。
 コア指数は、基調的なインフレをより正確に反映すると捉えられている。

 総合CPIについては前月比0.1%上昇と、小幅な伸びにとどまる見通し。
 前年同月比では3.1%上昇と、過去5カ月で最も低い伸びとなると見込まれている。

  
posted by まねきねこ at 09:00| 愛知 | Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

バイデン氏に再選断念を促す米財界リーダー168人が署名した書簡

 米財界トップリーダーたちの間でバイデン米大統領に
   再選を断念
させようとする動きが進んでいる。
 バイデン氏に選挙戦からの撤退を求める
   企業家団体「リーダーシップ・ナウ・プロジェクト
の書簡には168人が署名した。

 同書簡の署名者には、ウォルマート・ストアーズ創業一族ウォルトン家の一員である富豪
   クリスティ・ウォルトン氏
や、暗号資産(仮想通貨)投資会社ギャラクシー・デジタル・ホールディングスの創業者で最高経営責任者(CEO)の
   マイケル・ノボグラーツ
ナショナル・フットボール・リーグ(NFL)のコミッショナーだった
   ポール・タグリアブ氏
らが名を連ねている。
 この書簡では「米国の民主主義は11月、まさに危機にさらされる」と指摘したうえ、同団体が3日に発表した無署名の声明では「現在の路線について深い懸念を共有しながらも、発言するのを恐れているという多くの人の声が聞こえている」としていた。

 署名入りの書簡はバイデン氏について、「南北戦争以来の深刻な脅威から米国の民主主義を救った」と称賛した上で「そのレガシーを確固たるものとするため、再選を断念することで次世代の民主党指導者たちにリーダーシップの灯火を渡してもらいたい」と書かれている。

  
ひとこと
 米国大統領としてのフットワークが後退しているバイデン氏に変わる若手有力候補が出れば、トランプの劇場型政治に嫌悪感を抱く共和員も多くおり、トランプに変わる候補が出る可能性もある。
 
    
posted by まねきねこ at 09:00| 愛知 | Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

優勢とみられた極右のRN、マクロン氏連合にも及ばない見通し

 フランスの国民議会(下院、定数577)選挙で7日投開票され、マクロン氏の支持基盤ともなる左派連合が第1党となる見通しとなった。
 これは出口調査の結果で明らかになったもので過半数を確保して次期政府の組閣を狙っていた極右政党・国民連合(RN)を実質的に率いるルペン氏は予想外の打撃を被った形だ。

 出口調査によると、穏健派の社会党から極左の「不屈のフランス」まで寄り集まった左派連合「新人民戦線」は172−210議席を得る見通しで、ただ、過半数に必要な289議席には大きく届かない状況。

 先週の世論調査では第1党になる見通しが示されていたRNは113−155議席で第3党にとどまる見込みであった。
 マクロン大統領の中道連合は150−175議席でRNを上回りそうな情勢だという。

 なお、フランスの公的財政状況を懸念する投資家にとってはマクロン大統領の
   新人民戦線の勝利
は警戒すべき要因となる公算が大きい。
 選挙戦では、最低賃金の引き上げや定年の引き下げなど公的支出の大幅な拡大を公約しているためだ。
 これらの措置は、欧州連合(EU)との深刻な対立を引き起こす可能性がある。

 左派勝利の見通しを受け、シドニーで始まった8日の外国為替市場でユーロは対ドルで下落している。

 「不屈のフランス」のメランション党首は7日、「新人民戦線は政策を実行する」と記者団に表明したうえ、政策しかない。全て政策だ」と述べた。

 左派が単独で政府を担えるだけの議席を獲得しない場合、政府発足のため左派はマクロン氏に新たな支出への確約を要求する可能性があるが調整には時間が必要となるだろう。

 いずれの政党も過半数の議席を取れない見通しのため、マクロン氏は少数内閣を率いる首相を指名することになる。
 首相は通常、議会内第1党から指名されるものの、明確な勝者のいない結果であれば複数の政党が一定期間連立を組む展開もあり得る。

 フランス大統領府の発表文によると、次期首相の指名についてマクロン氏は「新議会の構成」を見てからさらなる決定を下すと話しており、大統領が7日夜に選挙結果に関して話すことはないとい続けた。

 マクロン氏は先週の第1回投票でルペン氏のRNに圧倒されており、出口調査の結果通りであれば、議会解散に踏み切った同氏の決定は完全には間違っていなかったことになる。
 第1回投票で与党連合はRNに得票率で大差を付けられ3位にとどまり、解散の判断は広く批判されており、フランス国民のバランス思考で調整されたようにも見える。

 マクロン氏は以前、「極端なグループ」を阻止するため対立する諸政党がともに統治することもできると示唆しており、少数の中道連立内閣の可能性に言及していた。

  
posted by まねきねこ at 08:00| 愛知 | Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

テスラ中国部門の6月出荷台数は前年比−24%減と今年4回目の数前年割れ

 米国のイーロン・マスク氏が率いる電気自動車(EV)メーカー
   テスラ
の中国部門が6月に出荷した台数は7万1007台と前年同月比で24.2%減少した。
 価格競争が続く中国で、テスラ車の出荷台数前年割れは今年4回目となった。

 全国乗用車市場情報連合会(乗連会)が2日発表した暫定集計データを基に、ブルームバーグが試算したもので、販売者すの少なさもあり、テスラ車の出荷台数は前月比でも2.2%減少するなど売れない車となっている。

 業界全体の新エネルギー乗用車販売台数(卸売りベース)は6月に前年同月比28%増の97万台に拡大したとみられ、前月比でも8%の伸びと市場が拡大する中での減少だ。

 
ひとこと
 欧米国際資本の投資会社がスタートアップ企業として資金を投入してきた企業のひとつであり、株価の上昇を促す地球温暖化対策などのツールのひとつとしてもてはやすべく、積極的に購入しメディアを使って情報誘導し意識を向けてきた分野で、株価の上昇後半で利益確保で売り抜け懐に資金を入れた後のネガテイブな情報でしかないだろう。
 
    
posted by まねきねこ at 08:00| 愛知 ☀| Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ユーロが対ドルで下落、仏下院選で左派が予想外の勝利となる方向

 週明けのアジア時間8日の外国為替市場で、ユーロはドルに対して下落して始まった。
 7日投開票されたフランスの国民議会(下院、定数577)選挙で左派連合が第1党となる見通しが出口調査の結果で明らかになったことが背景だ。
 これは市場にほとんど織り込まれていなかった結果で、市場混乱を再び招く恐れがある兆候だ。

 シドニー時間早朝の取引でユーロは一時、前週末比0.3%安の1ユーロ=1.0807ドル付近まで売られた。

   
posted by まねきねこ at 07:25| 愛知 | Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ユーロが対ドルで下落、仏下院選で左派が予想外の勝利となる方向

 週明けのアジア時間8日の外国為替市場で、ユーロはドルに対して下落して始まった。
 7日投開票されたフランスの国民議会(下院、定数577)選挙で左派連合が第1党となる見通しが出口調査の結果で明らかになったことが背景だ。
 これは市場にほとんど織り込まれていなかった結果で、市場混乱を再び招く恐れがある兆候だ。

 シドニー時間早朝の取引でユーロは一時、前週末比0.3%安の1ユーロ=1.0807ドル付近まで売られた。

  
posted by まねきねこ at 07:20| 愛知 | Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

バイデン氏の大統領候補辞退を警戒するウォール街がポートフォリオ見直し

 バイデン米大統領が
   選挙戦から撤退するか否か
を巡る観測はウォール街を揺らしている。
 トレーダーは、トランプ氏がホワイトハウスに返り咲いた場合に影響を受けるであろうドルや国債、その他の資産の間で資金を移動させている。

 ポートフォリオの再調整は、大統領選に向けて6月27日夜に行われた第1回討論会が終わった直後から始まった。
 同討論会でバイデン氏は一時固まったように見えたり、同じことを繰り返したりする場面があるなど、散々な結果となった。
 最も大きく反応したのは国債市場で、10年債利回りは翌日以降の数日で一時20ベーシスポイント(bp、1bp=0.01%)近く上昇した。

 バイデン氏が候補を辞退するとの観測は急速に高まっている。
 賭け市場では選挙戦を継続する可能性は50%未満とみられている。
 投資家は米独立記念日の祝日や週末に何らかの発表がある場合に備え、対応策を急いでいる。

 匿名を条件にメディアの取材で語ったファンドマネジャーは、バイデン氏撤退によって引き起こされるであろう
   リスク急増に対するヘッジ
として、休みの前にポートフォリオのポジションをドルと短期債に傾けていると語った。

  
posted by まねきねこ at 07:00| 愛知 ☁| Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

フレッド・スターク・ピアソン(Fred Stark Pearson)米国の電気技師、起業家

フレッド・スターク・ピアソン
        (Fred Stark Pearson)
   1861年7月3日 - 1915年5月7日
 米国の電気技師、起業家であった。
 ピアソンは、アンブローズとハンナ(エッジャーリー)ピアソンの息子として生まれた。
 1883年にタフツ大学を経営学修士号(AMB)で卒業し、1年後に経営学修士号(AMM)を取得した。
 それ以前には、1年間(1879〜80年)、マサチューセッツ工科大学で化学の講師を務めた後(1883〜86年)、タフツ大学で数学と応用力学の講師を務めました。
 大学卒業後は、ボストンで電気輸送システムの開発に携わり、電気で動く路面電車が大きな役割を果たしたことから、1894年にニューヨーク市の
   メトロポリタン・ストリート・レールウェイズ
の主任技師に任命された。
 ピアソンは、米国で革新的な電気技師としての評判を築き、すぐに政府や企業から
   北米全域の発電所のコンサルタント技師
として契約されました。
 優れたビジネススキルと先見の明を備えたピアソンは、資金援助を受けて、南北アメリカで大規模なプロジェクトを引き受けた。
 彼はバルセロナ・トラクションとサンパウロ・トラムウェイ・ライト・アンド・パワー・カンパニー(現在はブルックフィールド・アセット・マネジメント)の創設者でもある。

 カナダ滞在中、彼はケベック州モントリオールの弁護士兼株式仲買人
   ジェームズ・ダン
と親交を深めた。
 ピアソンはダンに、当時世界で最も重要な金融市場であったロンドンに居住するよう勧めた。
 ダンの証券会社が彼のベンチャー企業の株式公開を引き受けたことにより、ピアソンがブラジルの
   サンパウロ路面電車・電力会社
やメキシコの
   メキシカン・ノース・ウェスタン鉄道
   メキシコ路面電車会社
   メキシコ電力会社
カナダの
   ブリティッシュ・アメリカン・ニッケル会社
を含む巨大なビジネス帝国を築くのに十分な資本が調達された。

 なお、メキシコの不安定な政府と、公務員の横行する賄賂や汚職が、ピアソンに多大な失望感もたらした。
 ベナスティアーノ・カランサ大統領の政府は、彼のメキシコ路面電車会社を接収して国有化し、結局、彼はメキシコに投資したほぼすべての資産を失った。
 この間、彼は1911年に現在のテキサス州ミコのメディナ川に
   メディナダム
を建設し、34,000エーカー(138 km 2 )を超える灌漑地区を建設した。
 なお、テキサス州ピアソンの町は、彼にちなんで名付けられた。
 1912年、ピアソンはテキサス州ヘイル郡プレインビュー近郊で組合を組織した。
 ここで灌漑用井戸を掘削して約6万エーカー(243 km 2 )の土地を灌漑した。
 テキサスでの活動中に、ピアソンはナタリアという町を創設し、娘のナタリー・ピアソン・ニコルソンにちなんで名付けた。

 1913年、彼はエブロ川の水力発電プロジェクトについてスペイン政府と交渉した。
 バルセロナ牽引・電灯・電力会社を設立して建設工事を遂行し、1915年に完成させた。
 しかし、第一次世界大戦により彼の活動は制限されている。

 彼と妻のメイベル・ワード・ピアソンは、1915年5月7日に、当時イギリスに住んでいた娘のナタリーを訪ねて仕事でイギリスへ旅行中、乗船していた定期船RMS ルシタニア号がドイツの潜水艦U-20の魚雷攻撃を受け沈没して命を落とした。
 なお、タフツ大学化学学部の本拠地であるピアソンホールは彼にちなんで名付けられた。

     
posted by まねきねこ at 06:06| 愛知 | Comment(0) | 人物伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ドミニオン鉄鋼石炭会社( Dominion Steel and Coal Corporation DOSCO)  カナダの石炭採掘および鉄鋼製造会社

ドミニオン鉄鋼石炭会社
    (Dominion Steel and Coal Corporation DOSCO)
 カナダの石炭採掘および鉄鋼製造会社
 1928年に設立され、1930年に操業を開始したDOSCOは
   ドミニオン・コール・カンパニー
   ドミニオン・アイアン・アンド・スチール・カンパニー
   ノバスコシア・スチール・カンパニー
の合併により誕生した
   大英帝国鉄鋼会社(British Empire Steel Corporation BESCO)
の構成会社である。
 DOSCOは、1930年代から1950年代にかけて、カナダ最大の民間雇用主の1つであった。
 1957年、DOSCOは航空機製造会社
   アブロ・カナダ(AV Roe Canada Ltd.)
の子会社として買収されました。
 1966年に石炭事業は終了し、1967年に国営企業
   ケープブレトン開発公社( DEVCO )
が設立され、事業を引き継いだ。 
 産業地帯のケープブレトンは、シドニー港の「北側」と「南側」という、産業活動の地理的特徴が異なる 2 つの地域から構成されていた。
 北側は、1800 年代にケープブレトン島植民地がノバスコシア州に再統合された後の 1820 年代に設立された
   総合鉱業協会(General Mining Association GMA)
が支配していた。
 南側にはいくつかの独立した炭鉱が開設され、1870 年代までにカナダ連邦政府は経済保護政策の国家政策を実施していた。
 この 10 年間に、「南側」の主要事業者は、東カナダで失われた米国の石炭市場をケープブレトンの石炭で置き換えるために合併と近代化を行うことの利点を予見した。
 1889年、マサチューセッツ州ボストンの
   ヘンリー・メルヴィル・ホイットニー
   フレデリック・スターク・ピアソン
は、ノバスコシア州ハリファックスのピープルズ・ヒート・アンド・ライト・カンパニーの経営者
   ベンジャミン・フランクリン・ピアソン
とともにホイットニー石炭シンジケートを結成した。
 このグループは1つの炭鉱を購入し、ケープブレトン島東部のシドニー南部にある他の炭鉱のオプションを取得した。

 ウィリアム・スティーブンス・フィールディング州首相と自由党の州政府は、ホイットニーの
   蒸気船と路面電車発電機
が大量の石炭を消費するため、石炭ビジネスへのホイットニーの参入を支持した。

 ホイットニー・シンジケートには、前例のない固定ロイヤルティによる99年間のリース契約が提示された。
 グループはオプションを行使してケープブレトン東部の既存の瀝青炭鉱のほとんどを取得した。
 また、ジョン・スチュワート・マクレナンやデビッド・マッキーンなどの地元有力者を取り込んだ。
 このプロセスには数か月かかり、ホイットニーがシドニーでの事業を統合する準備が整ったのは1893年初頭という。

 1893年2月1日、ドミニオン石炭会社(DOMCO)が設立され、ホイットニーが社長、BFホイットニーが秘書、FSピアソンが主任技師となった。
 この事業の初期投資家には、ホイットニーの弟
   ウィリアム・コリンズ・ホイットニー
と義理の兄弟ヘンリー・F・ディモックとチャールズ・T・バーニー、そして後にウィリアムの娘ポーリンと結婚したアルメリック・H・パジェットがいた。

 DOMCO は、さまざまな鉱山を結ぶさまざまな鉄道路線も継承した。
 これらを統合し吸収し会社の部門として運営され、1895 年に南のルイスバーグまで延長した。
 鉄道路線は 1910 年にシドニー アンド ルイスバーグ鉄道として統合した。
 1912 年までに、DOMCO は 16 の炭鉱を運営し、カナダの石炭生産の 40% を占めた。
 同社は数多くの効率化と改善を行ったが、大きな損失を生むミスも発生させている。
 そのなかでも顕著だったのが、関連会社との取引関係から低価格契約 (ホイットニーの会社など) に縛られ、高価格の大きな市場を逃してしまう傾向があった。
 1901 年までに、生産量の約 90% がこのような低価格契約に充てられていた。
 同社は大規模な株式公開を行ったが、ホイットニーが
   米国の石炭輸入関税
を撤廃または少なくとも引き下げることができなかったため、同社の株価は暴落した。
  
1890 年代に DOMCO を設立して成功を収めたホイットニー シンジケートは、DOMCO の石炭洗浄工場で混合および選別プロセスから生じる「スラック コール」の用途を模索した。
 ホイットニーは、1899年3月にカナダと米国の両方から資金提供を受けた
   Dominion Iron & Steel Company Ltd. (DISCO)
を設立し、シドニーでの事業を拡大した。

 ホイットニーは、長年のビジネス仲間である
   FS ピアソン
   BF ピアソン
   WC ホイットニー
   CT バーニー
   HF ディモック
   AH パジェット
   JS マクレナン
らとこの新しい事業に加わった。
 連邦政府からの補助金の約束と、ジョージ ヘンリー マレー州首相の自由党州政府からの譲歩により、DISCO は 1899年6月に大英帝国最大の統合製鉄所の建設に着手した。
 ホイットニー氏によれば、シドニー港の南側は世界のどこよりも製鉄に有利な場所であり、この工場は1901年に完成した。

 ディスコはコークス炉を運営し、この余剰石炭を加熱してコークスを製造し、酸素高炉の燃料として利用した。
 この酸素高炉は、ディスコがニューファンドランド島のベル島の鉱山で採掘し、シドニーに出荷した鉄鉱石を精錬するのに使用された。
 当初、英国、フランス、ドイツ、米国の競合企業は懸念を示した。
 しかし、「経営とコスト管理の問題」が続いたため、ホイットニーは早期にプロジェクトから撤退した。

 1901 年後半、ホイットニーとその仲間は
   DOMCO の過半数の経営権
を、エンジニアから実業家に転身したモントリオールの
   ジェームズ ロス
に売却し、DISCO の少数株をロスとその他のカナダ企業に売却した。
 ホイットニーは 1902 年に DISCO の社長を辞任し、1909 年 12 月に DOMCO の取締役を辞任した。
 なお、その後も1909 年まで DISCO の取締役を務めた。

 1901 年には、ケープブレトン島の石炭および鉄鋼産業にさらなる変化があった。
 シドニー港の「北側」で炭鉱を経営し、その場所に新設された製鉄所も所有していたライバルの GMA が、その資産をニューグラスゴーの
   ノバスコシア鉄鋼会社(SCOTIA)
に売却した。
 1903年、ロスとディスコのカナダ人投資家は、オンタリオ州トロントの
   ジェームズ・H・プラマーに
経営権を売却した。
 1910年までにプラマーはロスからDOMCOの経営権を獲得し、DOMCOとディスコの両社を
   ドミニオン・スチール・コーポレーション
という新会社の子会社とし設立した。
 この新会社はノバスコシア州本土のカンバーランド鉄道・石炭会社も子会社に含めた。

 ケープブレトン島での産業活動のさらなる強化により、スコシア社の製鉄所は1914年に閉鎖された。
 1917年に米国の投資家が同社を買収し、シドニー鉱山での石炭採掘に注力し、ピクトゥー郡トレントンの広大な施設で鉄鋼製品を製造した。

 第一次世界大戦の余波で、 1919年、ケベック州モントリオールの実業家
   ロイ・M・ウォルビン
が率いるイギリス人投資家シンジケートがプラマーからドミニオン・スチール社の買収交渉を行った。
 BESCOは、DOMCOとDISCO、およびイギリスの鉄鋼および造船業のさまざまな企業を5億ドルで合併することを提案した。
 1921年、SCOTIAは複合企業と合併して
   大英帝国鉄鋼会社(BESCO)
が設立された。
 BESCOはシドニー炭田全域で炭鉱と製鉄所を完全独占的に運営していたほか、トレントン、ニューグラスゴー、ステラートン、ウェストビルのピクトウ炭田でも炭鉱、製鉄所、鋳造所を運営した。
 また、北米で最も深いノバスコシア州スプリングヒルの炭鉱や、ニューファンドランド州ベル島の鉄鉱山も運営していた。
 さらに、州全体でいくつかの産業鉄道とさまざまな港湾も運営した。

 しかし、BESCOの設立につながった合併は、法外な額の負債も統合した。
 8年間の歴史の中で、BESCOは
   常に財政危機
に陥り1925年までにこれらの財政的義務を満たすために年間800万ドル(2010年のインフレ調整後1億ドル)の営業利益が必要となった。
 その結果、BESCOの投資家は、従業員の生産性を高めるために多くの困難な労働条件を強制するよう経営陣に圧力をかけた。
 これは前例のない
   労働不安と闘争
をもたらし、産業ケープブレトンを永遠に変えることになった。

 1920 年代を通じて北米の産業と消費者の習慣が変化し、利益は減少し、石炭と鉄鋼の市場は衰退した。
 BESCO の経営陣は必死に会社を救おうとしたものの、労働者の激しいストライキが 1925 年に
   社会不安と市民不安
を広範囲に引き起こし、BESCO はさらに負債を抱えた。

 BESCO の子会社である DISCO (製鉄所) は、短期融資が拒否された。
 その後、1926年春に破産管財人の管理下に入り、これが最終的に複合企業の解体につながっていった。
 DISCO は 1927年に清算されたものの、ノバスコシア州最高裁判所は BESCO の解散を拒否した。

 ウォルビンは、他の株主によって再建計画が拒否された後、社長を辞任して持ち株を売却し、CB マクノートが後任となった。
 
 1928年、マクノート氏と BESCO のさまざまな投資家によって
   ドミニオン スチール アンド コール コーポレーション( DOSCO )
という新しい持ち株会社が設立された。
 1930年5月に BESCO は解散し、新しい会社がその工業資産を引き継いだ。
 DOSCO は、1930年代を通じて財政難に終止符を打つ管理プロセスを導入した。
 第二次世界大戦により、製造業とその投入物の管理によって会社の運命は好転し、一時は国内最大の民間雇用主とななった。

 しかし、戦後、代替燃料や鉄鋼原料が台頭し、両産業に対する政府補助金が減少したため、DOSCOの産業的重要性は低下し続けた。
 1957年、AV Roe CanadaがDOSCOの経営権を取得し、航空機製造と防衛産業以外にも事業を多様化しようとした。
 1958年、DOSCOの子会社
   カンバーランド鉄道石炭会社
がスプリングヒルの炭鉱を閉鎖した。
 炭鉱はスプリングヒル炭鉱災害を受けて閉鎖された。
 関連する鉄道サービスは1961年に廃止の許可が下りるまでなんとか存続し、最後の列車が運行されたのは1962年だった。

 カンバーランド鉄道は法人として存続し、1961年にS&Lが子会社となり、カンバーランド鉄道のシドニー・アンド・ルイスバーグ部門として事業を行った。
 これは主に、州認可のS&Lが連邦鉄道補助金の対象になるためであった。
 1962年にAVロー・カナダは解散し、その資産は新しく設立された複合企業
   ホーカー・シドレー・カナダ
に統合され、赤字事業からの脱却を目指した。

 1960年代初頭までに DOSCO は衰退の一途をたどっており、ピクトウ炭田とシドニー炭田の採算の悪い炭鉱を閉鎖して衰退を食い止めようとした。
 閉鎖された炭鉱は 1960年の9炭鉱から1965年には 5 炭鉱にまで減少した。
 しかし、他の赤字子会社を整理したにもかかわらず、DOSCO は依然として赤字を出し続け、ホーカー シドレー カナダから赤字削減の圧力を受けた。
 1965年、DOSCO は、残りの炭鉱の生産可能期間はわずか 15年であり、これ以上の設備投資は行わず、数か月以内に業界から撤退すると発表した。
 ケープブレトン工業地帯における DOSCO の発表に対する国民の激しい抗議により、レスター・ピアソン首相の少数派政権は危機解決のために強い政治的圧力にさらされた。
 ピアソンは業界に関する
   ドナルド調査委員会
の設立を発表し、それが最終的に連邦の公社
   ケープブレトン開発公社(DEVCO)
と州の公社
   シドニー鉄鋼公社(SYSCO)
の設立につながり、1968 年に DOSCO の鉱山と製鉄所が接収された。

(DOSCO子会社)
 ・アカディア・コール・カンパニー・リミテッド、ノバスコシア州ステラトン
 ・アルミニウム インダストリーズ リミテッド、モントリオール、ケベック州
 ・Canadian Bridge Company Limited、ウォーカービル、オンタリオ州
 ・Canadian Bridge Engineering Company Limited、ウォーカービル、オンタリオ州
 ・カナディアン・スチール・コーポレーション・リミテッド、オンタリオ州オジブウェイ
 ・Canadian Steel Lands Limited、オンタリオ州オジブウェイ
 ・カナダ送電塔会社、モントリオール、ケベック州
 ・Canadian Tube and Steel Products Limited、モントリオール、ケベック州
 ・Cibou Steamship Company Limited、ロンドン、英国
 ・ドミニオン コール カンパニー、グレイス ベイ、ノバスコシア州
 ・ドミニオン コール インポート カンパニー リミテッド、モントリオール、ケベック州
 ・ドミニオン ローリング ストック カンパニー リミテッド、シドニー、ノバスコシア州
 ・カンバーランド鉄道石炭会社、スプリングヒル、ノバスコシア州
 ・シドニー・アンド・ルイスバーグ鉄道会社、ノバスコシア州グレイスベイ
 ・ドミニオン鉄鋼会社、シドニー、ノバスコシア州
 ・ドミニオン ライムストーン リミテッド、アグアスナ
 ・ドミニオン シッピング カンパニー リミテッド、シドニー、ノバスコシア州
 ・ドミニオン ワバナ オーレ リミテッド、ベル アイランド、ニューファンドランド ラブラドール州
 ・DOSCO海外エンジニアリング有限会社、ビーコンズフィールド、イギリス[7]
 ・エンパイア ハウジング カンパニー リミテッド、シドニー、ノバスコシア州
 ・エセックスターミナル鉄道会社、ウォーカービル、オンタリオ州
 ・イースタン カー カンパニー リミテッド、トレントン、ノバスコシア州
 ・グラハム ネイル & ワイヤー プロダクツ リミテッド、トロント、オンタリオ州
 ・ハリファックス造船所有限会社、ハリファックス、ノバスコシア州
 ・ノバスコシア鉄鋼石炭会社、ノバスコシア州トレントン
 ・オールド シドニー コリアーズ リミテッド、シドニー鉱山、ノバスコシア州
 ・ジェームズ・ペンダー・アンド・カンパニー、セントジョン、ニューブランズウィック州
 ・スコシア・ローリング・ストック・カンパニー・リミテッド、ノバスコシア州トレントン
 ・シーボード パワー コーポレーション リミテッド、グレイス ベイ、ノバスコシア州
 ・ストザート・アンド・ピット(カナダ)リミテッド、モントリオール、ケベック州
 ・ストウェル スクリュー カンパニー リミテッド、ロンゲール、ケベック州
 ・トレントン インダストリーズ リミテッド、トレントン、ノバスコシア州
 ・トレントン スチール ワークス リミテッド、トレントン、ノバスコシア州
 ・トラスコン・スチール・カンパニー・オブ・カナダ・リミテッド、ウォーカービル、オンタリオ州

   
posted by まねきねこ at 06:02| 愛知 | Comment(0) | よもやまばなし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする