鈴木 久五郎(すずき きゅうごろう)
1877年(明治10 年)8月22日
ー 1943年(昭和18 年)8月16日
明治後期から大正期にかけての株式相場師
現在○○成金と人々が言い始めたのは、鈴木久五郎の破天荒な大儲けが始まりといわれている。
通称「鈴久」と呼ばれている。
埼玉県北葛飾郡八丁目村(現在の埼玉県春日部市八丁目)で酒造業6代目鈴木兵右衛門の次男として生まれた。
5代目鈴木兵右衛門の弟中村清蔵の許で築地商業学校を卒業した。
実兄の7代目兵右衛門が1897年(明治30年)に、埼玉県南埼玉郡越ヶ谷町(現在の埼玉県越谷市)に鈴木銀行を設立した関係から1903年(明治36年)同銀行草加支店長となった。
日露戦争中の1904年(明治37年)に株式市場の活況となったことから影響を受けて株売買を始めて大儲けをした。
中でも鐘紡の株をめぐり、神戸の華僑
との仕手勝負は東京取引所創業以来の凄まじい攻防戦となった。
同年に東京市日本橋区小網町に
鈴木銀行 東京支店
が開設された。
1905年(明治38年)9月5日に日露戦争後の賠償に対する不満から
日比谷焼打事件
が起こり、株は暴落したため、鈴木久五郎は東京支店の預金を使い株式の運用に流用した。
当然ながら鈴木銀行東京支店で取り付け騒ぎが起ったものの時が味方したのか株式市場の株価が大きく上昇したため事なきを得た。
1906年(明治39年)東京市日本橋区兜町に
株仲買店 丸吉
を開業し、店主に滝沢吉三郎を置き、株式証券界に乗り出した。
手始めに東京鉄道株を大量に買い占めたあと、株式取引所株を買い占めるため
丙午会
を組織し増資に成功した。
日本精糖株を買占め、日本精糖株式会社役員を辞任に追い込み、自ら監査役に就任し大日本精糖と社名を変更させた。
この他、豊鉱石油、日本坩堝の各取締役も兼ねた。
時折しも1906年(明治39年)日露戦争特需の大相場で大当たりを演じ、彼の資産は現在の貨幣価値で500 億とも1000億に達したとも噂され、1907年(明治40年)の正月は鈴久のために来たと謳われた程であった。
だが、大阪株式取引所では正月からバブルの反動が湧き上がって株価は年初の775円から年末には92円まで実に88%の暴落を演じた。
ただ、この下げ相場で買い方に回った鈴久は全財産を失い、巣鴨の家賃4円50銭の借家に移り住むこととなった。
ちなみに、この下げ相場で売り方の先頭に立ったのは野村證券の創業者である野村徳七で、このとき築いた資産がのちの野村財閥の基礎となったといわれている。
なお、1908年(明治41年)群馬県高崎市選挙区から中央倶楽部に所属し、衆議院議員に当選し一期務めた。
また、中国の孫文はじめ大隈重信、犬養毅、桂太郎ら政界にも交友関係があった。
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