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2024年06月30日

相場師 鈴木 久五郎(すずき きゅうごろう) 破天荒な大儲け

鈴木 久五郎(すずき きゅうごろう)
   1877年(明治10 年)8月22日
       ー 1943年(昭和18 年)8月16日
 明治後期から大正期にかけての株式相場師
 現在○○成金と人々が言い始めたのは、鈴木久五郎の破天荒な大儲けが始まりといわれている。
 通称「鈴久」と呼ばれている。

 埼玉県北葛飾郡八丁目村(現在の埼玉県春日部市八丁目)で酒造業6代目鈴木兵右衛門の次男として生まれた。
 5代目鈴木兵右衛門の弟中村清蔵の許で築地商業学校を卒業した。
  
 実兄の7代目兵右衛門が1897年(明治30年)に、埼玉県南埼玉郡越ヶ谷町(現在の埼玉県越谷市)に鈴木銀行を設立した関係から1903年(明治36年)同銀行草加支店長となった。

 日露戦争中の1904年(明治37年)に株式市場の活況となったことから影響を受けて株売買を始めて大儲けをした。
 中でも鐘紡の株をめぐり、神戸の華僑
   呉 錦堂
との仕手勝負は東京取引所創業以来の凄まじい攻防戦となった。
  同年に東京市日本橋区小網町に
   鈴木銀行 東京支店
が開設された。
 1905年(明治38年)9月5日に日露戦争後の賠償に対する不満から
    日比谷焼打事件
が起こり、株は暴落したため、鈴木久五郎は東京支店の預金を使い株式の運用に流用した。

 当然ながら鈴木銀行東京支店で取り付け騒ぎが起ったものの時が味方したのか株式市場の株価が大きく上昇したため事なきを得た。
 1906年(明治39年)東京市日本橋区兜町に
    株仲買店 丸吉
を開業し、店主に滝沢吉三郎を置き、株式証券界に乗り出した。
 手始めに東京鉄道株を大量に買い占めたあと、株式取引所株を買い占めるため
    丙午会
を組織し増資に成功した。
 日本精糖株を買占め、日本精糖株式会社役員を辞任に追い込み、自ら監査役に就任し大日本精糖と社名を変更させた。
 この他、豊鉱石油、日本坩堝の各取締役も兼ねた。
 時折しも1906年(明治39年)日露戦争特需の大相場で大当たりを演じ、彼の資産は現在の貨幣価値で500 億とも1000億に達したとも噂され、1907年(明治40年)の正月は鈴久のために来たと謳われた程であった。
 だが、大阪株式取引所では正月からバブルの反動が湧き上がって株価は年初の775円から年末には92円まで実に88%の暴落を演じた。
 ただ、この下げ相場で買い方に回った鈴久は全財産を失い、巣鴨の家賃4円50銭の借家に移り住むこととなった。

 ちなみに、この下げ相場で売り方の先頭に立ったのは野村證券の創業者である野村徳七で、このとき築いた資産がのちの野村財閥の基礎となったといわれている。
 なお、1908年(明治41年)群馬県高崎市選挙区から中央倶楽部に所属し、衆議院議員に当選し一期務めた。
 また、中国の孫文はじめ大隈重信、犬養毅、桂太郎ら政界にも交友関係があった。


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ロナルド・ジェームズ・クルシェフスキー(Ronald James Kruszewski) スティフェルの会長、最高経営責任者、元社長

ロナルド・ジェームズ・クルシェフスキー
         (Ronald James Kruszewski)
   1958年生まれ
 米国の経営者で、スティフェル(Stifel Financial Corp.)の会長、最高経営責任者、元社長である。
 キャリアの初期に、KPMGの公認会計士および監査監督者であり、後に独立系投資会社
   ロバート・W・ベアード・アンド・カンパニー
の最高財務責任者であった。
 クルシェフスキーは、2013年にセントルイス地区連邦準備銀行の理事会によって連邦諮問委員会に任命されている。

 彼は、証券業および金融市場協会、セントルイス大学、セントルイス地域商工会議所などの組織の理事を務めてきた。
 2007年にアーンスト・アンド・ヤングの起業家オブ・ザ・イヤー賞を受賞し、 2019年にホレイショ・アルジャー著名アメリカ人協会によって表彰された。

 インディアナ州クラムスタウンで、労働者階級の家庭で育った4人兄弟の2番目として生まれた。
 ユダヤ系の彼の父親は理髪師で、後に消防士と芝刈り店のオーナーとなり、彼の母親は敬虔なカトリック教徒で家庭で家族を育てた。
 高校時代、クルシェフスキーは叔母のレストランで給仕として働き、父親の芝刈り店を手伝い、女性用の靴を売った。
 彼は家族で初めて大学に通い、芝刈りとガードマンとして働いて学費を稼いだ。
 彼は1980年にインディアナ大学ブルーミントン校で会計学と財務学の学位を取得した。
 
 大学卒業後、クルシェフスキーは公認会計士となり、監査監督者としてKPMGに入社した。
 投資銀行業界に参入したいと考え、シカゴに移り
   イリノイ・カンパニー・インベストメント
で上級副社長兼最高財務責任者として働き始めた。
 その後、ロバート・W・ベアード・アンド・カンパニーの戦略計画担当最高財務責任者に就任した。
 同社のCEOである
   フレッド・カステン
の指導を受け、後にスティフェル・ファイナンシャル・コーポレーションのCEOに就任した。

 クルシェフスキーは、1997年にジョージ・ハーバート・ウォーカー3世の後任としてスティフェルの会長兼最高経営責任者を務めている。
 最初の取り組みの1つは、従業員の福利厚生として同社の資産形成プランを導入することだった。
 それ以来、同社は2000年代と2010年代に一連の買収を完了し、大きく成長した。
 クルシェフスキーは、投資ブローカーが利益相反のアドバイスを提供することを阻止することを目的とした米国労働省の受託者規則案に対し、同社の手数料体系に影響を及ぼす可能性があるため反対を表明している。
 クルシェフスキー氏は大手銀行の最高経営責任者として最長の在任期間を誇る。
 
 クルシェフスキー氏は
   アンジェリカ・コーポレーション
   ダウンタウン・セントルイス・パートナーシップ
の取締役会長を務めていた。
 2013年後半、セントルイス地区連邦準備銀行の理事会から連邦諮問委員会委員に任命された。
 2014年後半と2019年初めに再任された。

 クルシェフスキー氏は、アメリカ証券協会とダウンタウン・ナウ!の会長を務めており、 コンコーダンス・アカデミー、証券業界・金融市場協会、セントルイス地域商工会議所の理事も務めている。
 現在、セントルイス大学と米国スキー・スノーボードチーム財団の評議員を務めている。
 セントルイス地域ビジネス協議会と世界大統領機構の地方支部の会員でもある。

 クルシェフスキーは2007年に金融サービス部門でアーンスト・アンド・ヤングのアントレプレナー・オブ・ザ・イヤー賞を受賞した。
 2008年、セントルイス・マガジンは、市、コーディッシュ・カンパニー、セントルイス・カーディナルズのビル・デウィット3世社長がセントルイス・ボールパーク・ビレッジに資金を提供することで合意するのを支援したとして、クルシェフスキーを称賛した。
 クルシェフスキーは2011年に他の3人の幹部とともにセントルイス・コマース・マガジンの表紙を飾った。

 2019年、彼はホレイショ・アルジャー賞の受賞者13人のうちの1人となった。
 この賞は、困難にも関わらず成功した優れたアメリカ人の功績を称えるためにホレイショ・アルジャー米国著名人協会が授与する栄誉である。 
 
 2012年、クルシェフスキーは、スティフェルが後援するインディペンデンス・センターのチャリティーイベントである「ダンシング・ウィズ・ザ・セントルイス・スターズ」で優勝した。
 2013年のコンテストで審査員を務めた。

    
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呉 錦堂(ご きんどう) 明治から大正時代の在日中国人貿易商で相場師

呉錦堂(ご きんどう)
   1855年11月14日 - 1926年1月14日
 明治から大正時代の在日中国人貿易商で相場師
 浙江省寧波府慈谿県の生まれ
 在日華僑最大の豪商で勲六等瑞宝章・紺綬褒章を受章している。

 中国浙江省で安政5年に生まれ、長崎に31歳(明治18年)の時に上陸し、のち大阪に移り、行商をしながら日銭を稼ぐ生活を続けた。
 多少の蓄財ができたところで、神戸で貿易商を開いた。
 その後、店を呉錦堂合資会社と名称を変更してからは経営が軌道に乗り、マッチ、綿花、穀類を扱いながら次第に店を大きくしていった。

 日露戦争中に、ドイツ船(1427トン)を買い入れて錦生丸と名づけ商品の運送に利用した。
 その後、実力をつけた華商に成長、中国に紡績工場を建設した武藤山治と知り合った。

 1890年、資本金30万円で神戸において貿易、海運の会社
   怡生号
を創立、1899年、住友と契約して石炭を中国に輸送した。

 日露戦争開戦前に、当時のお金で45万円の軍債を提供、日露戦争の頃、呉錦堂は製造業にも乗り出し、先ず紡績に投資し、ついで東亜セメントを創立するとともに日中の多くの企業に投資した。
 武昌蜂起の後、三井物産は日本政府と横浜正金銀行に対し、孫文に借款を提供して中華民国政府樹立を支援し、漢冶萍公司の日中合作の経営権取得を提案した。

 鐘紡の社勢は武藤が経営に携わってから順調に伸びていった。
 武藤は紡績合同論を推し進め、中国を将来の開拓地とにらんで上海に進出を画策して、明治31年訪中の旅に出た。
 その時同行したのが、鐘紡の糸を一手に販売する八木商店の
   八木与三郎
で、手薄い資本ながら大阪・南久太郎町に店開き、持ち前の商売熱心で頭角を現し、神戸にも週二、三回来ていたという。

 八木は中国商人から綿糸を買って売りさばくのが主な仕事だが、ヒマを見つけては鐘紡兵庫工場を訪れていた。
 ここで綿糸の善し悪しを勉強した。
 鐘紡製品にはとことんほれ込み、商売を広げた八木もまた、合理主義を経営の中心においていた商人であった。

 福沢諭吉の薫陶を受けた三田系経済人のリーダーであり三井の総帥
   中上川 彦次郎
が鐘紡の再建に武藤山治を送り込んだが、明治34年10月7日に働きざかりの48歳で中上川が死去した。

 なお、三井の後見人をしていた井上馨が組織を拡大しすぎて手持ち資金が不足し、経営危機に陥った三井を救うために、山陽鉄道社長だった中上川を三井組参事、三井銀行副長に登用したものである。
  
 中上川の就任後は、三井の経営において井上とことごとくに意見が食い違い鋭い対立を続けており、中上川の死によって、三井が鐘紡から手を引く恐れが出た。

 1909年虞洽卿と共に寧紹汽船会社を設立、 1910年その寧紹航行維持会会長に選ばれ、その後、1918年温州府青田県の鉱山と舟山列島のタングステン鉱石の採掘権を取得した。
 そして1925年、呉錦堂合資会社を設立した。

 呉錦堂が、巨額の資金を投入した漢陽鉄工場・漢治萍石鉄鉱石会社から成り立つ鉄鋼連合企業たる漢治萍石会社は、中国史上初の新型機械設備を導入した企業としても有名となった。
 兜町の仲買人は“買いの鈴久”とおそれた
   鈴木九五郎
は4万数千株を持つ大株主の呉は、売り買いを自由に操作しながら利ザヤをかせいでいるのを、鈴久は見抜いた。

 鈴久としては一介の華商に、日本の仲買人が手も足も出せないのはコケンにかかわると負けん気が頭をもたげ、内密に東京、大阪両取引所に出入りする配下に鐘紡株の“買い”を指令した。
 140円前後をウロウロしていた鐘紡株に照準をあわせ明治39年9月、呉が145円で売りに出たのを知って
   チャンス到来
とばかりに買い向った。

 武藤山治は投機をもっとも嫌う人手、かねがね
   事業は人である
を唱え、重役に就任した呉に対しても
   軽はずみな投機はしない
ようにと申し入れていた。
 しかし、紡績株の取得で味をしめた呉はその妙味が忘れられなかったようで、ライバルがいない間はうまく立ち回ることが出来た。
 そこへ鈴久の出現となり日に日に高騰する紡績の値動きに、さすがの呉もあわてた。

「非常にいら立った態度で、早口にしゃべりながら自分の手で頭をたたいたりしている。部屋中を歩き回って私に何かを言うのだが、アクセントのある日本語だからよく聞きとれない。そのうち相場にひっかかって困っている様子がくみとれた」
そのころの呉の動揺ぶりを、武藤はあとでこう述懐している。

 呉はムリを承知で、銀行から200万円借りて売りを通した。
 しかしいくら売り込んでも相場は上がり続け、ついに200円を突破してきた。
 呉は持ち株を全部はたき、そのうち追敷金を要求されて完全に行き詰まった。

 武藤は呉の“慢心”をしかりつけたが、自分自身株を持たない一介の支配人でしかない。
 呉の金ぐりを銀行に口ききするのがやっとで、鈴久の押しを防ぐ手だてはなかった。

 ただ、鈴久側にも豊富な資金があったわけではなかった。
 現物でなく、月限の強気の思惑買い。仲間の株を合わせて、もはや鐘紡の過半数を占めていた。
 しかし、実株を買い取る資金調達が大変であった。
 この一戦を天王山とみた彼は必至にあらゆるツテを求めて奔走したが、ほとんどの金融筋は、加熱した投機を危ぶんで、融資を断ってきた。

 意外なところから援軍が現れた。安田銀行の安田善次郎頭取は
  「株価が200円なら、200円いっぱい貸そう」
と話し、鈴久の度胸というより、鐘紡株の持つ将来性を買った。
    
   
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英国2大政党党首、選挙前最終回のテレビ討論でスナク首相の挽回ならず

 英国のスナク首相と最大野党・労働党のスターマー党首が26日夜、総選挙前の最終回となる1対1のテレビ討論を行った。
 スターマー氏は首相の感覚が有権者から「かけ離れている」と批判したうえ、停滞する英国経済と貧弱な公共サービスを立て直すと約束した。
 世論調査で劣勢に立たされている首相は、労働党の
   税制政策
を攻撃した。

 スナク首相にとって、イングランド中部ノッティンガムで行われたこの討論は労働党の圧勝を阻止する上で最後のチャンスだった公算が大きい。
 
 世論調査会社ユーガブが討論終了後に1700人を対象に行った調査によると、結果は引き分けで、投票日までの失策回避が目標のスターマー氏に有利に働きそうだ。

 ユーガブ調査によると、スナク氏は税制や移民について優勢だったと視聴者は判断した。
 しかし、好感度や信頼性でスターマー氏が上回り、重要視されそうな経済に関する議論でも47%対43%でスナク氏をリードした。
 2016年の労働党議員刺殺事件をきっかけに発足した調査団体
   モア・イン・コモン
が発表した別の調査では、56%が討論全体の勝者はスターマー氏だったと回答した。
 一方、スナク氏を勝者に選んだのは44%にとどまった。

 ここ2週間の選挙戦は、保守党の候補者や関係者がスナク首相の発表前に総選挙投票日がいつになるか賭けを行っていたスキャンダルで持ちきりだ。
 この賭けに内部情報が利用されていたとの疑惑は有権者の関心を引きつけ、保守党に残っていたわずかな望みも打ち砕かれたことが、世論調査で示唆されている。

  
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米国議会襲撃が「犯罪の根拠となった法律」の適用を米最高裁が制限

 米国連邦最高裁判所は28日、
   公的な手続きの妨害
を犯罪とする2002年の法律について、司法省がこれを根拠とすることを(行政の裁量権を)制限する判断を下した。
 これは21年1月6日に米国議事堂を襲撃した被告らに有利になるほか、トランプ前大統領の裁判にも影響が及ぶこととなる。

 米エネルギー商社エンロンの破綻を受けて制定されたこの法律は、文書などの記録を保護することが目的だと、最高裁判事は6対3で結論付けた。
  
  
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エドウィン・リチャード・ギリランド(Edwin Richard Gilliland) 化学技術者、マサチューセッツ工科大学の教授

エドウィン・リチャード・ギリランド
         (Edwin Richard Gilliland)
   1909年7月10日 - 1973年3月10日
 米国の化学技術者であり、マサチューセッツ工科大学の教授
 ギリランドは、オクラホマ州エルリノで生まれ、 1918年に家族とともにアーカンソー州リトルロックに移住した。
 1930年にイリノイ大学アーバナ・シャンペーン校で理学士号を取得し、 1931年にペンシルベニア州立大学で理学修士号を取得した。
 1933年には
の指導の下、MITで理学博士号を取得した。
 ギリランドはウォーレン・K・ルイス教授とともに分留塔の数学的分析を開発し、両者ともに流動接触分解技術を開発した。
 エクソン、メルク、グッドイヤー、ゼネラル・エレクトリック、ネスレで幅広くコンサルタントを務めた。
 1946年から1971年にかけては
   アイオニクス社
の社長兼CEOも務めた。

 公職にも就いており、1942年から1944年にかけては戦時生産委員会のゴム担当副部長、国防研究委員会の化学工学部門の副部長、統合参謀本部の誘導ミサイル委員会の副委員長、ケネディ大統領とジョンソン大統領の下では大統領科学諮問委員会の委員を務めた。
 1948年に米国科学アカデミー、 1965年に米国工学アカデミーに選出された。
 ギリランドは1938年にアン・フランシス・ミラーと結婚した

    
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