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2024年06月22日

友野次郎兵衛尉 宗善 友野屋 江戸時代初期 駿府商人 友野座と呼ばれる座の棟梁

友野 宗善(ともの そうぜん)
   生没年不詳
 通称は次郎兵衛尉
 祖先は信濃国伴野荘出身と伝えられているが、詳細は不詳で、その活動が確認できるのは、天文22年(1553年)に
   今川義元
が友野二郎兵衛に発給した判物がある。
 それによれば、友野氏はこれ以前より駿府の商人頭で、友野座と呼ばれる座の棟梁として駿河国各地の木綿商人から
   木綿役
を徴収し、他の座が友野氏に新規の課役をかけることを禁じる特権を与えた。
 その代わりに、友野氏の本拠である駿府の今宿から京都に向けて搬出される荷物に今川氏に代わって
   駄別3貫文の路銀
を徴収し、搬出荷物の点検と許可札の交付、他国商人の駿府往来や居住に関する取締を行うなどの今川氏への奉公を行っていた。
 戦国時代に駿河国府中を拠点とした豪商で今川氏の商人頭を務めた。
 また、東海道の
   伝馬の業
も行ったうえ、酒や胡麻油、茜、米の取引などにも関わった。
 その他、今川氏や周辺大名から半手の特権を認められ、領域をまたぐ取引も認められていた。
 この権限は跡を継いだ
   友野宗善(次郎右兵衛尉)
に継承され、今川氏が没落し、駿府の支配者が武田氏・徳川氏・中村氏と推移しても地位と特権が保証された。

 江戸時代に入ると、徳川家康が駿府城に大御所として戻るとともに町の再整備が進められた。
 友野宗善は彦坂光正を助けて駿府の町割りを遂行した。その功績によって友野氏は駿府の町年寄に任ぜられ、長崎の糸割符の一員に加えられた。江戸時代の友野氏は駿府で呉服商を主な業務とし、当主は代々與左衛門(与左衛門)を称した。

 明暦2年(1656年)、当時の與左衛門は安倍川の治水と新田開発に私財を投じた。
 後に「与左衛門新田」と呼ばれるが、洪水対策などで私財を使い果たし、家運が傾いたと伝えられている。
 なお、この新田開発は享保2年(1717年)のことであるとする説もあるため、18世紀前期には家業の衰えとともに御用商人としての特権を喪失した。

     
posted by まねきねこ at 13:07| Comment(0) | 人物伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

円が対ドルで下げ幅を拡大

 ニューヨーク外国為替市場では21日、円が対ドルで下げ幅を拡大し、159円80銭台まで値下がりした。

 ニューヨーク時間午前9時45分に発表された6月の米国サービス業購買担当者指数(PMI)速報値が2022年4月以来の高水準に上昇したことなどに反応した。
 終盤にかけてじりじり下げ、一時159円84銭まで下落した。
 重要な心理的節目として意識される160円に近づいている。

 ブルームバーグ・ドル・スポット指数は5週連続の上昇で、2月以来の長期連続高となった。
 ドル独歩高の様相が強まっており、主要通貨では今週、円の下落が最もきつく売られた。
 また、政治が混迷してきた英ポンドとスイス・フランも大幅安となった。

 ドル一強の構図は為替市場全般に混乱をもたらしており、異次元の金融政策の転換が遅れ失政とも言われ続けてきた「超低金利の円」は今年、対ドルで11%余り下落し、日本経済が「茹でガエル」となったままスタグフレーションに叩き込まれ兼ねない状態になっている。

 日本の当局は、リップサービスで「過度な変動」があれば適切な行動を取ると繰り返し発言するが、効果は低くなっており市場における意識は薄らいでいる。
 円を下支えし投機的な取引を抑制するため、すでに4月と5月に記録的な規模の為替介入を行っているが規模が長期に渡る売りを反転させるには力不足となっており、「過度な変動」というものの本質がそもそも曖昧であり、ゆっくりと売り込まれ日本経済の力が削がれている状況にある。

 レバレッジドファンドの円ショートは、日米金利差を背景に4月に記録的な水準に達したが、その後は利益確保の買い戻しで縮小している。
 素点を変えれば売り方の懐には莫大な利益が生まれており、反転した場合でも、売り方有利の展開となりポンド危機と同様に売り込まれ180円付近まで急落するか、ゆっくりと真綿で首を絞めるかのごとく円が安くなる可能性を日銀は意識すらしておらず、主導できない日本政府の政策が足を引っ張る形となっている。
 また、スイス・フランに対するショートポジションも今月、2021年11月以来の高水準に達している。
 スイス・フランは年初来、対ドルで約6%の値下がりだが、これはスイス・フランが一段安となっている背景には、スイス国立銀行(中央銀行)が追加利下げに踏み切ったことがある。

 金融市場が比較的落ち着いているため、ドルの上昇には一定の歯止めがかかっているものの、大統領選挙における逆風ともなりかねないインフレへの対応もあり、ドル高の流れは当面続きそうだ。

   
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S&P500種株価指数とナスダック総合指数が続落

 米国株式市場では21日、S&P500種株価指数とナスダック総合指数が続落した。
 オプションの満期日が集中する「トリプルウィッチング」となったこの日、慎重ムードが強まったほか、これまで米株高の原動力となってきたエヌビディアは利益確保で再び売られた。

 トリプルウィッチングでは株価指数先物、個別銘柄、株価指数オプションの3つに関連する
   約5兆5000億ドル(約878兆円)相当
のデリバティブ取引が満期を迎えた。
 そのためトレーダーは一斉に既存のポジションを
   ロールオーバー
するか、
   新たなポジション
を構築するか決める必要に迫られた。
 
 今回は、エヌビディアの影響が加わったようだ。
 21日に満期を迎えるエヌビディアに絡む契約の規模は、原資産としてはS&P500種に次いで2番目に大きい。
 また、S&Pダウ・ジョーンズ・インデックスによる指数のリバランスも重なった。

 エヌビディアはこの2日間で時価総額2000億ドル余りを失った。(投資家による利益確保の売りが広がったとも言える。)
 時価総額は約3兆1000億ドルで、アップルの3兆2000億ドル、マイクロソフトの3兆3000億ドルを下回った。


posted by まねきねこ at 07:40| 愛知 | Comment(0) | マーケットの動き | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

NY金相場 米利下げ時期に関する予想は再検討が必要とのムードが広がり反落

 ニューヨーク金相場は米PMIでサービス業と製造業の指数が上振れしともに市場予想を上回ったことを受け、米利下げ時期に関する予想は再検討が必要とのムードが広がり反落した。

 ニューヨーク商品取引所(COMEX)の金先物8月限も前日比−1.6%下げて2331.20ドルで終了した。

   
posted by まねきねこ at 07:37| 愛知 | Comment(0) | マーケットの動き | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

エヌビディア株が続落 時価総額2000億ドルを消失し首位の座から陥落

 米半導体大手エヌビディアは今週、時価総額で世界最大の企業となった。
 その地位は長くは続かず3日天下に終わった。

 エヌビディア株は20、21日と続落し、合計の下落率は一時7%を超えた。
 18日には上昇して時価総額が約3兆3000億ドル(約526兆5000億円)に達し、マイクロソフトアップルを上回っていた。
 
 今回の続落に根本的な理由はないとトレーダーらはみている。
 ただこの続落は少なくとも、過去1年間だけでも約200%という脅威的な上昇ペース、そしてその上昇により今回のような突如とした下落にいかに脆弱になっているかを浮き彫りにした。

 エヌビディアはこの2日間で時価総額2000億ドル余りを失ったわけだが、すぐに首位の座を奪還する可能性はある。

 そもそも、21日は米国株関連オプションの満期日が集中する「トリプルウィッチング」となったことが影響したとの指摘もある。
 オプションの満期に伴い投資家がポジションを調整するため、取引量が増え、価格変動が大きくなる傾向があるためだ。

   
posted by まねきねこ at 07:17| 愛知 | Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ラルフ・プラット・ホグランド3世(Ralph Pratt Hoagland III) CVSヘルスの共同設立者

ラルフ・プラット・ホグランド3世
        (Ralph Pratt Hoagland III)
   1933年8月1日 - 2020年1月17日
 米国の実業家。
 ボストンで生まれ、プリンストン大学とハーバードビジネススクールに通った。
 1963年、ホーグランドはビジネスパートナーの
   シドニー・ゴールドスタイン
とともにCVSヘルスを共同設立した。
 ホーグランドは1960年代から1970年代にかけて
   オーソン・ウェルズ・コンプレックス
の所有者であった。
 ホーグランドは2020年1月17日に後部皮質萎縮症により86歳で死去した。

    
posted by まねきねこ at 06:19| 愛知 | Comment(0) | 人物伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ウィットウォータースランド ゴールド ラッシュ(Witwatersrand Gold Rush) ヨハネスブルグの設立につながったゴールド ラッシュ 

ウィットウォータースランド ゴールド ラッシュ
           (Witwatersrand Gold Rush)
 1886 年に始まり、南アフリカのヨハネスブルグの設立につながったゴールド ラッシュのこと。
 現在の南アフリカムプマランガ州では
   バーバートン
   ピルグリムズ レスト
の沖積鉱山の金鉱山労働者と地元の部族が金鉱床の存在を疑っていた。
 1886 年にウィットウォータースランド地域で金が発見された。
 ヨハネスブルグからウェルコムまで伸びる「ゴールデンアーク」はかつては巨大な内陸湖があり、発見された金を形成した地域には漂砂金からのシルトと金の堆積物が堆積していた。
 ヨハネスブルグ郊外、パールスフープ近くのトランスヴァール共和国(1902年まで存在)
   ウィットウォータースランド
にある農地で1886年に初めて金が発見された。

 この地域での金の最初の発見は、1852 に南アフリカ共和国(ZAR) のクルーガーズドープにある
   パーデクラール農地
で、ウェールズの鉱物学者
   ジョン・ヘンリー・デイビス
によって行われた。
 デイビスは自分の金発見をアンドリース・プレトリウス大統領に報告した。
 この発見が広く知られたら新共和国に何が起こるかを懸念した。
 デイビスは600ポンド相当の金をトランスバール財務省に売却するよう言われ、その後出国を命じられ国境まで護送され、ケープ植民地に戻った。

 カリフォルニアで金を掘っていた
   ピーター・ジェイコブ・マレ
による別の発見は、1853年にジュクスケイ川で記録されたものの、これと同様の秘密の対象であった。
 1853 年 9 月 3 日にポチェフストルームに到着したマレは、将来の主礁から数キロメートル離れたウィットウォータースランドの北斜面を探索した。
 そこからクロコダイル川とジュクスケイ川をパンニングしながら小さな金のサンプルを発見した。

 1853 年 10 月から 11 月にかけて南部のスイカーボシュラントで行われた。
 12 月 1 日、マレは金を探すための許可を国民裁判所に求めた。
 共和国の既存の地区の委員会から
  @発見された場合は通知すること。
  A¥共和国の存続に混乱を引き起こす可能性のある発見について外国勢力に話した場合は死刑に処される
という条件で受け入れられた。
 その後、マレは 1854 年 1 月にサンド川とドワール川を漕ぎました。
 小さな金の発見物は、1854 年 1 月にポチェフストルームの裁判所に展示された。
 1855年4月7日にZAR政府から退陣すると、彼は1855年にZARを離れ、ケープ植民地のドルドレヒトに定住した。
 1856 年、リス中尉はピーターマリッツバーグからプレトリアに旅行し、ドリーフォンテン農地(現在のジャーミストン) の沼地を横切る途中で立ち往生し、荷馬車に戻ると、砕くと金が含まれる礫岩を発見、そこがナイツ鉱山となった。

 この地域では小規模な採掘事業が行われていた。
 ウィットウォータースランドのゴールドラッシュが本格的に始まったのは、1884 年とその後の 1886 年のラングラーグテでの発見まで遅れた。

 探検家で探鉱者の
   ヤン・ゲリット・バンチェス(1840-1914)
は、1884 年 6 月にウィットウォータースランド金礁の最初の発見者であった。
 彼は 1880 年代初頭からこの地域の探鉱を行っており、1883 年に北西でクロムドラアイ金鉱山を運営した。

 現在のヨハネスブルグのパートナー
   ヨハネス・ステファヌス・ミンナール
とともに、今日「人類のゆりかご」として知られる地域に滞在した。
 しかし、彼はマイナーなサンゴ礁を発見しており、今日では主要な金サンゴ礁の発見は
   ジョージ・ハリソン
によるものであるという誤った認識が広まっており、彼のラングラーグテ農地での発見は1886年7月に偶然か組織的な探査によって行われた。
 これは、ウィットウォータースランド油田が英国のものであると主張することを正当化するために、
アングロサクソン部門の発見の功績を認めようとする英国の試みであった。
 この動きは、1899 年から 1902 年の
を引き起こす要因の 1 つとなった。
  
 ハリソン氏は当時の南アフリカ共和国(ZAR)政府に主張を表明し、この地域の開放が宣告された。
 彼の発見は、元の金の露頭があったと考えられる記念碑と、彼にちなんで名付けられた公園とともに記録された。
 ハリソンさんはその地域を離れる前に、自分の権利を10ポンド未満で売却したと考えられている。

 金発見のニュースは急速に広がり、キンバリーの
に届いた。
 ローズと彼のパートナーのロビンソンは、好奇心をそそられ、仲間のチームとともにフォーゲルストロイスフォンテーンにあるバンジェスのキャンプまで400キロ以上を馬で向かい、そこで後にロードポートとなる地域の近くで彼と一緒に2泊した。
 ローズはウィットウォータースランド金の最初のバッチをバンジェスから 3000 ポンドで購入した。
 この買収は、新しく設立された会社
   Consolidated Gold Fields of South Africa
の最初の取引である。

 このニュースは世界中に伝わり、オーストラリアからカリフォルニアまで探鉱者が大挙して到着し始め、やがてヨハネスブルグにも入植者が到着した。
 外国人の入国は順調に進んでいたが、数年後、南アフリカ共和国(ZAR)の
   ポール・クルーガー大統領
は外国人の数がボーア人を上回ることを懸念し、これを阻止する措置を講じた。
 クルーガーは、バンチェスとその対策を話し合った。バンチェスの父親である
   ヤン・ゲリッツェ・バンチェス
は、クルーガーが少年だった頃、グレート・トレッキング中に教育を受けていた。
 対策の一つは、勢いを鈍らせるために外国人へのダイナマイト販売に重税を課すものだった。
 ただ、これは鉱山労働者を激怒させ、イギリス人はこれを自分たちの金鉱脈の所有権を主張する理由とみなした。

 ジェイムソン襲撃が続き、セシル・ローズに注目が集まった。
 ジェイムソン襲撃はローズによって支援され、リーアンダー・スター・ジェイムソン卿が指揮した。
 その目的は、トランスバール政府を打倒し、この地域をイギリスの植民地に変えることであった。
 武装蜂起に参加した男性は500人で、 21人が殺害され、多くが逮捕され、裁判を受けて判決を受けた。

 フェレイラのキャンプの鉱山村は、金を求める人々がこの地域に定住した。
 その後、正式に集落として整備された。
 当初、ZARは金が長く続くとは信じておらず、できるだけ多くの区画を詰め込むために小さな三角形の土地を計画した。

 ヨハネスブルグの中央ビジネス地区の通りが非常に狭いのはこの時の土地区分が背景にあるためという。
 ヨハネスブルグという名前の由来や、オランダの一般的な名前であるヨハネスにちなんでこの都市が名付けられたかについては論争がある。
 一説によると、この名前は、新市街のレイアウトのためのエリアを選択するために派遣された二人の州測量官
   ヨハン・リシック
   クリスチャン・ヨハネス・ジュベール
にちなんで付けられたというものがある。

 金発見から10 年以内にこの町は南アフリカ最大となり、200 年以上古いケープタウンよりも早く成長した。
 ゴールド ラッシュではヨハネスブルグとウィットウォータースランドが大規模に開発され、今日この地域は南アフリカの主要都市圏となっている。
 ゴールドラッシュの結果の 1 つは、アフリカのこの地域に
   最初の鉄道路線
が建設されたことである。

 1880 年代のウィットウォータースランドの金鉱床の急速な開発と成長産業による石炭需要の結果、1888 年7 月 20 日に南アフリカランド政府によりオランダ南アフリカ鉄道会社(NZASM)に利権が与えられました。
 ヨハネスブルグからボクスブルグまでの25キロメートル(16マイル)の鉄道線を建設した。
 この路線は 1890 年 3 月 17 日に開通し、最初の列車は14 トンの機関車によって牽引された。
 鉄道であり路面電車の交通専用ではなかったが、「ランドトラム」として知られるようになった。
 これはトランスバールで最初に実用化された鉄道路線である。

 ウィットウォータースランドでの金の発見は、ランドロードとして知られる超富裕層の鉱山労働者や実業家を生み出した。
 多くの地主がパークタウン リッジに大規模な不動産や邸宅を建てた。

   
posted by まねきねこ at 06:00| 愛知 | Comment(0) | 用語集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする