柴栄(さい えい)
龍徳元年9月24日(921年10月27日)
―顕徳6年6月19日(959年7月27日)
―顕徳6年6月19日(959年7月27日)
五代後周の第2代皇帝
廟号は世宗
異民族国家が建国していた五代で随一の名君とされている。
祖父は柴翁で、実父の柴守礼(字は克譲)は後周初代皇帝となる
郭威(太祖)
の妻・柴氏の兄にあたる。
柴氏は郭威と同郷の邢州(けいしゅう)出身。
郭威の即位前より内助の功を発揮し、その覇業を助けた。
なお、柴氏は郭威の即位前に死去し、即位後に郭威がその死を惜しんで皇后を追贈した。
柴栄は幼い頃より叔母の嫁ぎ先である郭威の家で養われた。
後晋末には郭威の養子となっていた。
郭威が権力を獲得していく戦いの中で柴栄も助力した。
郭威が後漢の枢密使・天雄軍節度使となると、柴栄も郭威の下で
天雄軍牙軍(親衛隊)
の総指揮官となった。
郭威は天雄軍牙軍を指揮して、契丹を撃退するなど多大な軍功があり、人望を集めたため、その実力を劉承祐(隠帝)に恐れられるようになり、一族を皆殺しにされた上、自身も命を狙われるようになる。
節度使は、大きな軍事力、支配地に対する
行政・財政権(軍民財の三権)
を兼ねて持ち、軍閥化して独立・割拠の傾向が強い。
なお、五代を通じて戦乱の大きな原因となっていた。
郭威が後漢に対してクーデターを起こして開封へと侵攻した際には、根拠地である魏州の防衛を任された。
郭威が即位して周を建てると、澶州(現在の河北省濮陽県)節度使とされている。
954年に郭威が没すると後継者に指名されて即位することになった。
もともと、郭威は邢州堯山の出身で漢人のようであり、柴栄は邢州龍岡(河北省邢台市)の出身であった。
郭威の妻の兄の子から郭威の養子となったから同じく漢人のようであるが、異民族とされる唐朝の興った隆堯県は異民族の住地であり、同じ異民族の安禄山も邢州出身だったことから。
こうした背景を考えると郭威・柴栄はもともとは突厥沙陀部の血筋を引いている。
即位後、郭威が死んだ隙を突いて、北漢が
契丹の援軍
を受けて侵攻してきた。
両軍は沢州高平(現在の山西省晋城県)で激突、序盤で自軍の一部が北漢に降り窮地に陥った。
世宗は自ら矢石を冒して督戦し、将軍趙匡胤の奮戦によって押し返して北漢軍を撃破した。
逆に北漢の首都・太原を包囲している。
ただ、将兵の消耗が激しく戦力不足などの影響からこの戦いでは北漢を滅ぼすまでは至らずに退却した。
955年、初めに四川の後蜀を攻めて秦州(現甘粛省天水)を初めとする4州を奪った。
さらに同年の冬から、十国のうちでの最強国である南唐を攻めた。
南唐も激しく抵抗し、この戦いは3年にわたった。
958年に君主の李mは降伏し、和睦の代償として南唐の長江以北の領土の割譲や、後周に対して南唐は皇帝号を廃して国主と名乗るなどといった条件を取り決めた。
この淮河から長江に至る地域は、中国でも最大の塩の産地が含まれていた。
南唐の高い経済力はこの地がを保有したことによるもので、この地の占領はまさに南唐の生殺与奪権を握ったと同義であった。
以後、南唐では自国内の塩の供給をまかなうことが出来ず、逆に後周から毎年30万石(17,800キロリットル)の援助を受けるようになる。
南唐を抑えた柴栄は、次に軍事的に最強の敵である北の契丹とその衛星国である北漢を相手取り、959年に燕雲十六州のうち、南寄りの2州を奪取した。
さらに軍を北上させようと幽州へと入った。
しかし、柴栄はこの陣中で病に倒れ、開封へ引き返し、間もなく死去した。享年39。
柴栄の後を継いだのはわずか7歳の息子・柴宗訓であった。し
かし五代の先例に漏れず、すぐに軍内の兵士たちによる実力者擁立の動きが出た。
それが柴栄に最も信頼された殿前都点検
趙匡胤
である。
軍部の推戴を受けた趙匡胤は柴宗訓より禅譲を受け、北宋を建てた。
なお、殺伐とした戦乱の時代である五代十国時代では、前王朝の皇帝は殺されるのが通例であった。
しかし、柴宗訓は手厚く保護され、柴氏は南宋の滅亡まで実に約320年の間、勅命により優遇された。
太子少保であった父とともに宮中にあり、郭威に見出されてその養子となった。
周初に澶州節度使となり、晋王に封ぜられた。
顕徳元年(954)、太祖(郭威)の遺言により即位した。
即位直後に、契丹と北漢が連合して来寇した。
しかし、これを親征して撃ち破り、北漢の都・太原を包囲した。
趙匡胤を長とする殿前軍を整備し、節度使の横暴を押さえ、後蜀・南唐を討った。また燕雲十六州のうち三州を契丹より奪回した。
外征のほかに内治にもつとめ、租税の軽減や土地の開墾、治水をおこなった。
顕徳二年(955)には仏教に弾圧を加えて、秘かに僧尼になることを禁じ、多くの寺院を廃し、土地を没収した。
寺院にあった銅器や仏像をつぶして銅銭を鋳造したりした。
この仏教弾圧は「三武一宗の法難」のひとつに数えられている。
しかし、世宗の時代に社会秩序は安定し、次朝の宋による中国統一の基礎を築いた。
そのため、五代第一の名君とも評価されている。