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2024年05月17日

カーソン・カンバーバッチ(Carson Cumberbatch PLC) スリランカ最大の複合企業

    (Carson Cumberbatch PLC)
 スリランカ最大の複合企業の 1 つで、インドネシア、マレーシア、インドでも事業を行っている。
 Sri Krishna Corporation の創設者
   セルバナサン(Selvanathan)家
は、同社の最終支配株主である。

 総資産 ,995 億 1,800 万ルピー (2023 年)
 就業者数 14,964人
 
 同社の起源は植民地時代にあり
   RB カーソン
とロバート ウィリアム カンバーバッチの甥
   ヘンリー カンバーバッチ
が設立した 2 つの会社を合併して設立された。
 カーソン・アンド・カンパニーのゴム権益は、1910年に資本金150万ポンドでロンドン証券取引所で取引された当時この国最大のゴム事業となった。
 カーソン アンド カンパニーは1913 年に有限責任会社に転換し、1947 年にカンバーバッチ アンド カンパニーと合併した。
 1976 年、同社は
   ギリテール ホテル
   ムーンライト ビーチ ホテル
を建設し、ホテルを引き継ぐことでホテル事業に多角化させた。
 1988 年、創業 75 年の
   スリ クリシュナ コーポレーション リミテッド
は、カーソン カンバーバッチの経営権を取得した。
 1995 年にカーソンはパーム油権益をインドネシアに拡大し、1997 年にビヤガマに新しい醸造所を建設した。
 2006 年に、同社はAgro Bukitを通じて、インドネシアのカリマンタン島に 20,000 ヘクタール (49,000 エーカー) の新しい農園を取得した。
 グッドホープ アジア ホールディングスは、同社のプランテーション部門を統合するために 2008 年にシンガポールで設立された。
 2014 年にミラーズ ブルワリーを買収した。

 2020年9月、カーソン・カンバーバッチの投資管理子会社であるセイロン・ガーディアン・インベストメント・トラストPLCは、シンガポールに本拠を置く
   ガゼル・アセット・マネジメント
   ガーディアン・キャピタル・パートナーズPLC
の株式の84%を売却する契約を締結した。
 その合意が実現しなかったとき、カーソン・カンバーバッチは2021年10月にガーディアン・キャピタル・パートナーズPLCの75.6%の株式をレヌカ・ホールディングス主導のコンソーシアムに6億3,600万ルピーで売却した。
 
 カーソンズ・グループの一員である
   ブキット・ダラ PLC
が同社の筆頭株主であり
   スリ・クリシュナ・コーポレーション
の創設者であるセルヴァナサン家が最終支配株主である。

 次に、カーソン・カンバーバッチは、循環所有権シナリオでブキット・ダラ PLC の株式の 6.15% を所有し、同社は、ペガサス ホテルズ オブ セイロン、グッド ホープ PLC、セイロン ビバレッジ ホールディングス、ライオン ブルワリー (セイロン)を含む上場企業 10 社と、ミラーズ ブルワリー、アグロ ブキット、パブズ アンド プレイス (非公開) などの非上場企業を多数保有している。 
 
 
 同社はアブラヤシ農園、飲料、ポートフォリオおよび資産管理、不動産、レジャー分野の事業に従事し、スリランカ、インドネシア、マレーシア、インドで事業を展開している。

 新型コロナウイルス感染症のパンデミック中、同社は PCR 検査能力を強化するために 2,000 万ルピー相当の機器を保健省に提供した。
 2020年3月31日に終了した年度に、カーソン・カンバーバッチ・グループは26億5,000万ルピーの集団損失を被った。
 損失にもかかわらず、従業員の中で職を失ったり、減給を受けたりする人はいなかった。[

    
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個人資産1000億ドル超の大富豪、世界で過去最多の15人に

 ブルームバーグ・ビリオネア指数によると、個人資産が1000億ドル(15兆5000億円)を超える世界の大富豪は過去最多の15人となり、15人の純資産総額は計2兆2000億ドルと、今年に入って13%増えたという。

 これはインフレのペースや株式相場の上昇率を上回る伸びとなっており、この15人で世界の富豪500人が持つ富のほぼ4分の1を保有している状況という。

 仏スキンケア大手ロレアル創業者の孫
   フランソワーズ・ベタンクール・マイヤーズ
や米デル・テクノロジーズの創業者
   マイケル・デル
それに、メキシコの資産家
   カルロス・スリム
はいずれも過去5カ月の間に資産が1000億ドルの大台に達したことが明らかになった。

 世界1位の富豪は、LVMHモエヘネシー・ルイヴィトンの
   ベルナール・アルノー最高経営責任者(CEO)
で、純資産は2220億ドル。
 2位はアマゾン・ドット・コムの創業者
   ジェフ・ベゾス
で2080億ドル、3位にはテスラの
   イーロン・マスクCEO
が1870億ドルで入っている。
 なお、主にテスラ株で構成されるマスク氏の資産は今年、400億ドル余り目減りした。  

   
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複数の地区連銀総裁が16日、公の場で高金利を維持する必要等の発言

 米国債相場は下落(利回り上昇)した。なかでも、年限が短めの国債の利回りが特に上昇した。原油高を受け、利回りに一段と上昇圧力がかかった。

 複数の地区連銀総裁がO日、公の場で発言した。
 リッチモンド地区連銀のバーキン総裁は、サービス部門の物価が高水準だとして、インフレ率を目標の2%に引き下げるには
   高金利を維持する必要
があるとの考えを示した。

  ニューヨーク地区連銀のウィリアムズ総裁は、最新の米インフレデータは物価上昇圧力が徐々に和らいでいることを裏付けているが
   金利を調整
するにはさらなる証拠が必要だと主張した。

 クリーブランド地区連銀のメスター総裁も、インフレが米金融当局の目標である2%に向かう道筋にあるとの確信を得るには、さらなるデータが必要だとの見解を示した。  

 こうした発言を受け、ニューヨーク外国為替市場では、ブルームバーグ・ドル・スポット指数が小反発した。
 また、米国債利回り上昇を受けてドル買いが入った。前日は1カ月ぶりの安値に沈んでいた。 
 円はドルに対して一時0.4%安の1ドル=155円53銭まで下げた。
  
   
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グリーンウッズ・アセット・マネジメント(Greenwoods Asset Management ) アジア最大級のヘッジファンドを運営

  (Greenwoods Asset Management  グリーンウッズ 上海景林资产管理公司)
 中国上海に本社を置き、香港にも事務所を構える中国の投資管理会社  

 投資資産 200億米ドル(2023年) 
 就業者数 61人 (2023年)
 
 グリーンウッズはアジア最大級のヘッジファンドを運営し、プライベートエクイティ投資にも進出している。
 2004年にジョージ・ジャンによって設立されました。
 Jiang 氏はこれまで、深セン証券取引所の規制当局者および国森証券の資産管理責任者として働いていた。

 2004年7月、グリーンウッズは第三者投資家向けの資金管理を目的とした主力のゴールデン チャイナロング/ショート株式ファンドを立ち上げた。
 同社は 3,000万ドルでスタートし、資産の半分を上海と深センに上場しているB 株企業に投資した。
 Eurekahedge は、初年度にこのファンドが年率 38% の収益を上げたと公表した。

 2005年、グリーンウッズは香港にオフィスを開設した。
 2010年、グリーンウッズはプライベート エクイティ部門であるグリーンウッズ インベストメントを立ち上げた。
 現在、7つのプライベート・エクイティ・ファンドを管理している。
 2014年8月、グリーンウッズは香港で外国機関投資家向けの人民元ポートフォリオの管理を許可するRQFII割り当てを獲得した最初の中国の民間資産管理会社となった。
 また、同社は、米国証券取引委員会および証券先物委員会を含む外国規制当局に登録された最初の中国の民間資産運用会社でもある。

 2015年、グリーンウッズは 50億ドルの資産を運用し、その 3 分の 2 はノルジェス銀行やCPP 投資委員会などの外国機関投資家からのものであった。
 この時点で、ゴールデン チャイナ ファンドの設立以来の累積収益率は 1,496% となっている。
 同年3月、グリーンウッズは中堅資産運用会社長安基金管理の株式を取得し、第2位の株主となった。

 2022年の最後の2か月間、ゴールデン・チャイナ・ファンドは、中国が新型コロナウイルス感染症による規制を緩和し、経済活動を再開しているとのニュースを受けて45%上昇した。

 2023年6月、プライベート・エクイティ部門グリーンウッズ・インベストメントのトップ
   ガオ・ビン氏
は捜査のため中国捜査当局に汚職容疑で捜査を受けていた朱従九氏の捜査に関連して逮捕された。
 高氏と朱氏は合肥出身で、中国証券監督管理委員会で働いていた。
 このため、密接な関係にあったとみられる。
 その後、グリーンウッズはガオ氏を解雇し、ウェブサイトからプロフィールを削除した。
 後任には楊志堅氏が就任した。
 なお、ガオ氏は依然としてグリーンウッズ子会社数十社の指導的役割に名を連ねている。

 グリーンウッズはバリュー投資アプローチを採用しており、銘柄選択における強みは制度化された方法でのデューデリジェンスと現地の洞察から来ていると明らかにしている。

 同社は、パフォーマンスがマーケティングの最良の形態であると主張しているため、ファンドに対してあまり積極的なマーケティングを行っていないが、一部のアナリストは、グリーンウッドの多額のベータ版エクスポージャーは、その利益が銘柄選択によるものであるという反論として指摘している。
 2014 年末時点で、ゴールデン チャイナ ファンドのロングバイアスは 83% で、過去 3 年間維持してきた 20% 〜 70% の範囲を上回っている。

     
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先週の新規失業保険申請件数が前週比1万件減少

 米経済指標では、先週の新規失業保険申請件数が前週比1万件減少した。
 4月の住宅着工統計は、建設許可件数が2カ月連続で減少した。
 4月の輸入物価指数は約2年ぶりの大幅上昇を記録した。

    
posted by まねきねこ at 07:44| 愛知 | Comment(0) | よもやまばなし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

NY株反落して引けた、なお、ダウ平均は一時4万ドル台乗せ

 米株式市場では16日、ダウ工業株30種平均が一時、史上初めて4万ドルの大台に乗ったが、利益確保の売りで値を下げた。
 今後見込まれる利下げで、米企業の業績拡大が続くとの見方が背景に買いが入った。
 ただ、最終的には主要3指数がいずれも反落で終えていた。

 ダウ平均は底堅い経済、インフレ鈍化、堅調な企業業績といった見通しを背景に上昇基調をたどってきた。
 同指数が3万ドルを突破したのは、2020年11月だった。

 S&P500種株価指数は終値で5300を下回った。個別銘柄では通期予想をやや上方修正したウォルマートが大幅高となった。
 ただ、ミーム銘柄のゲームストップとAMCエンターテインメント・ホールディングスは利益確保の売りに押され大幅続落となった。 
  
  
posted by まねきねこ at 07:15| 愛知 | Comment(0) | マーケットの動き | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ムケシュ・アンバニ氏が1000億ドル(約14兆5000億円)以上の資産を持つセンチビリオネアに返り咲いた。

 インドの富豪
   ムケシュ・アンバニ氏
が1000億ドル(約14兆5000億円)以上の資産を持つセンチビリオネアに返り咲いた。
 インドおよびアジアの富豪番付首位のアンバニ氏は11日に資産が28億ドル増加し1018億ドルに達した。

 同氏率いる複合企業リライアンス・インダストリーズの株価は2.6%上昇し、終値で上場来高値を更新した。
 ブルームバーグ・ビリオネア指数によると、アンバニ氏が1000億ドルクラブに加わるのは2022年6月以来のこと。
 リライアンスの会長を務めるアンバニ氏は、同社の株式42%を所有しており、株価の上昇が寄与した。
 同社はエネルギーや通信、小売りなどの事業を展開しており、四半期利益の急増を報告した後、株価は昨年10月の安値から22%上昇した。

 アンバニ氏は現在、仏ロレアル創業者の孫
   フランソワーズ・ベタンクール・メイエール氏
を抜き世界で12番目の富豪だ。

 石油精製からスーパーマーケットまで幅広い事業で資産を持つアンバニ氏は、主にハイテク産業で財を成した世界の富豪の中では異端とも言える存在だ。
 資産家ランキングにおける同氏の上昇ぶりは、インド人富豪番付で以前トップだった
の保有する企業の株価の変動に伴うジェットコースターのような順位の変化に比べて着実な動きを示した。
 アダニ氏は空売り投資家による猛烈な攻撃を受け23年に誰よりも多くの富を失ったため、現在はブルームバーグ・ビリオネア指数でアンバニ氏の2つ下の順位にいる。
  
    
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ミネアポリス連銀総裁、「もう少し長く」金利を維持する必要がある

 米ミネアポリス地区連銀のカシュカリ総裁は15日ノースダコタ州ビスマークでの講演で、金融当局は現在の金利水準を「もう少し長く」維持する必要があるとの見解を改めて表明した。

 同総裁は「私が考える最大の不確定要素は、金融政策が経済にどれほどの下方圧力をかけているかということだ」と指摘。「それは未知数であり、確かなことはわからない。そうであれば結論を急ぐ前に、基調的インフレの動向を見極めるまで、もう少し長くここにとどまっている必要があるのではないだろうか」と語った。

 先週、インフレが当局目標への道筋を進んでいるとの確信が得られるまで、金利を現行水準に「長期間」維持する方針だと語っていた。

 この日発表された4月の米消費者物価指数(CPI)は、変動の大きい食品とエネルギーを除くコアベースで前月比の伸びが6カ月ぶりに鈍化した。

 同氏は、住宅市場とそれがインフレに与える影響を注視していると発言した。
 現在の政策金利および住宅ローン金利を踏まえると、経済への影響はもっと大きいと予想していたと述べた。

 なお、カシュカリ氏は今年の連邦公開市場委員会(FOMC)で議決権を有していない。
  
   
posted by まねきねこ at 05:00| 愛知 ☔| Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ハザール王国 コーカサス系の白人である遊牧民族

ハザール王国(Khazar הכוזרים)
 ハザール人は7世紀から10世紀にかけてカスピ海の北からコーカサス、黒海沿いに栄えたコーカサス系の白人である遊牧民族。
 アジアとヨーロッパを結ぶ回廊ともいうべきこの草原地帯には多種多様な民族が居住していた。

 東方の旅行家・地誌家やビザンチン帝国(東ローマ帝国)の著作家などは、これら諸民族が絡む様々な事件・事変についての記録を後世に残している。
 なお、ハザール人がいつ頃からか、この地域に登場したのか、具体的な記録はない。
 448年、ビザンチン帝国からフン族の
   アッチラ大王
への使節団報告の中にフン族の配下で活動しるハザール人が
   「戦士民族」
として記述されているのが初見でもある。

 アッチラ大王の死後、フン帝国は内部の権力抗争から分裂して崩壊した。
 東ヨーロッパに権力の空白地が生じたため、上からの重しがなくなった戦闘員として活動していた諸民族は自立し、他の遊牧民も肥沃な土地を求めた周囲から押し寄せてきた。

 6世紀初頭、ササン朝ペルシア帝国の
   カワード1世
の治世にはハザール人はコーカサスの北方地域であるグルジア、アルバニア、アルメニアを占領 し領土を確保した。

 6世紀半ば、カワード1世の息子である
   ホスロー1世
の治世にも、ハザール人のペルシア国境地帯、特にアルメニアとアルバニアへの侵入は、止むことが なかったとの記録がある。

 ハザール人は略奪行為を繰り返し、資金が潤沢となったことから軍事力を強化して、コーカサスの北にいる種族の中で最も力のある種族となった。
 ハザール人は軍事力を高めて台頭してきた
   突厥(西トルコ帝国)
の配下に組み込まれるようになったが、帝国内でも最強の実戦部隊として同盟関係の下で活躍した。

 627年、ビザンチン帝国の
   ヘラクレイオス皇帝
は、ササン朝ペルシア軍との戦いに備えてハザール人と軍事同盟を締結した。

 ハザール人はこの対ペルシア遠征軍 に4万人の援軍を出した。
 ビザンチン帝国軍はペルシアの首都クテシフォンに迫ったという。
 
 7世紀中頃、権威を誇っていた突厥(西トルコ帝国)は権力争いが激化して分裂し滅び、カスピ海沿岸草原において
   ハザール王国(ハザール汗国)
が支配層と入れ変わり、ハザール人は自らを「西突厥」の継承者と名乗った。
 ハザール人は周辺民族を吸収しながら軍事的な勢力を急速に拡大した。
 支配領域は広がりアゾフ海沿岸のブルガール人を服属させた。
 また、黒海沿岸北部も手中に納め、クリミアの草原の大部分を占めるまで広がった。

 
 ハザール王国は北コーカサスの山麓や隣接草原において勢力を拡大して国力を充実させていった。
 同時期に、イスラム教の宗教国家である
   アラブ帝国(イスラム帝国)
が中東地域や北アフリカで台頭し、シリアとメソポタミアを蹂躙した。

 その後、7世紀の半ばから、アラブ軍は組織的に裏コーカサス地域の攻撃を繰り返し、金品財法化ら穀物、奴隷などの略奪を欲しいままにするようになった。

 アラブ軍は繰り返しハザール王国の領土に侵入し都市を略奪したうえ破壊し、集落を焼き払った。 
 また、兵を養わせないように耕地・農園を蹂躙し荒らしたのち冬営地から家畜群を強奪し、住民を捕らえて、奴隷として連れ去るのを常としていた。
 ハザール王国とアラブ帝国の間で起きた大きな戦闘としては653年の「第1次アラブ戦争」と、721年の「第2次アラブ戦争」があった。
 「第1次アラブ戦争」は、アラブ軍がハザール王国に遠征したものの地の利を生かされ撃破された。

 また、「第2次アラブ戦争」はアルメニア総督
   ジェラーフ・イブン・アブダラーフ・アル・ハカミ
が率いるアラブ軍がハザール王国に遠征して、ベレンジェを攻略したのがきっかけで始まり、737年までの16年間続いた。

 この「第2次アラブ戦争」において、アラブ遠征軍に攻撃されたハザール軍は、アルバニアに侵入して
   アルデビール要塞
を攻略し、アラブ軍を撃滅した。

 アルメニア・アゼルバイジャンの総督を務めていた
   マルワーン将軍
が率いるアラブ軍がアルデビール要塞支援のため遠征し、ハザール軍に対して2つの峠から奇襲をかけてボルガ川まで退却させている。
 最終的に、アラブの将軍マルワーンに講和を求め ることを余儀なくされた。

 「第2次アラブ戦争」は、アラブ史料によれば双方合わせて10万あるいは30万の兵士が従軍したという。

 そして、マルワーンはハザール王国を攻撃した最後のアラブ将軍となった。
 これ以降、ハザール王国とアラブ人の戦争に関する記録はない。


 650年に成立したアラブ帝国は、711年にジブラルタルを渡ってスペインに侵入した。
 領土を拡大しながらピレネー山脈をこえてフランク王国の領土にはいった。
 732年トゥール・ポワ ティエでフランク王国と劇獲るしたが敗北し、西への進出は終了した。

 東は中央アジアまで進出したが、751年
   タラス河畔の戦い
で唐に敗れ、100年間におよんだアラブの征服戦争は終了した。

 
 ハザール王国はササン朝ペルシア帝国、ついでアラブ帝国と激しい戦いを繰り返した。
 両国と敵対していたビザンチン帝国(東ローマ帝国)とは同盟関係にあり、ハザール王国はしばしばビザンチン帝国の敵と戦った。


 8世紀のアラブ侵略以後、ハザール王国の首都はカスピ海沿岸西岸のサマンダルに遷都し、最後にボルガ河口のイティルに移った。

 ハザール王国の南方の前線は平定され、イスラム教国との関係安定してきたため暗黙の停戦協定にまで至った。
 
 ビザンチン帝国の前皇帝コンスタンチヌス5世と、ハザールの王女チチャクとの間に生まれた
   レオン4世
はハザール王室の血を持つ皇帝で、「ハザールのレオン」と呼ばれていた。

 
 アラブ帝国の侵攻が止まったのち、新たな強敵が北方から台頭してきた。
 バイキングと呼ばれる北方部族ルス人(後のロシア人)である。

 834年、ハザール王はビ ザンチン帝国に、北方への防御(対ルス人対策)のための砦を築くための援助を求め、直ちに建設された。こうして「サルケル砦」が誕生した。

 この「サルケル砦」のおかげで、ドン川の下流域や、ドン・ボルガ水路に沿ったルス人の艦隊の動きを封じることができた。10世紀半ばまでの間、全体 として見ると、ルス人の略奪は主としてビザンチン帝国に向けられていた。それに対してハザール人とは、摩擦や時には衝突はあったものの、本質的には交易を 基礎とした関係を結んでいた。ハザール人は、ルス人の交易ルートを押さえることができ、ビザンチン帝国やイスラム教国を目指して国を通り抜けていく全ての 貨物に10%の税金を課すこともできた。
 
 この時期のハザール王国内では、国の未来を左右する大きな変動が生じていた。9世紀初頭のオバデア王の国政改革(799〜809年)でユダヤ 教に改宗してしまったのである。これによってハザール王国は世界史上、類を見ない「ユダヤ人以外のユダヤ教国家」となった。
 しかし、ハザール王国のユダヤ教への改宗は、次第に悪い結果を生み出していった。

 もともとハザール王国は、人種的に異なる種族が混ざり合ったモザイ ク国家であった。
 ハザール王国のユダヤ教への改宗は、国を統一するどころか、なんとかハザール人によって統括されていた国内の微妙なバランスを崩すことに なっていった。

 ハザール人の貴族同士の間では、ユダヤ教を受容する王国中心部のグループと、首都とは没交渉に近い地方在住のグループの対立が目立つようになった。
 そし てついに835年頃、内乱の火の手が上がり、支配者側が勝利すると、反乱者の一部は皆殺しにされた。
 一部は国外に逃れた。
 この事件は、反乱を起こした有力貴族の部族名から「カバール革命」と呼ばれている。
 この有力貴族は家族とともにボルガのロストフの地に亡命した。

 このロ ストフはルス人の商人団が築いた根拠地のひとつであり、ここでルス商人団の長の娘とハザール人の反乱貴族の息子との婚姻が行なわれた。こうして「ルーシ・ ハン国」(後のキエフ・ロシア国の前身)が成立した。
 862年、ロシア史の中で決定的な出来事が起きた。ルス人リューリク大公の配下が、それまでハザール王国の支配下にあったドニエプル川沿いの重要都市キエフを無血併合した。
 キエフという名前は、もともとはハザールの将軍クイの砦からついた名前。
 このキエフはルス人の町として発展し、「ロシアの町の母」となった。
 この町の名をとった公国「キエフ・ロシア国(キエフ・ルーシ)」が、最初の ロシア国家の揺籃となった。

 ルス人がキエフに住み着いてから、ビザンチン帝国に対するルス人の脅威はますます増加し、この後200年の間、ビザンチン帝国 とルス人の関係は武装闘争と友好的条約の間を行ったり来たりした。

 ビザンチン帝国とキエフ・ロシア国は、浮き沈みはありながらも次第に親交を深め合うようになった。
 それにつれてハザール王国の重要性は減少していった。

 ハ ザール人の王国は、ビザンチン帝国とキエフ・ロシア国の通商ルートを横切っており、増大する物資の流れに10%の税をかけるハザール人の存在は、ビザンチ ン帝国の国庫にとってもキエフ・ロシア国の戦士商人にとってもストレスの原因となっていった。

 9世紀末あたりから、ルス人の艦隊が、ハザールの海「カスピ海」沿岸を侵略するようになった。
 そして913年、800隻からなるルス人の大艦隊が襲いかかり、事態は武力衝突へと進展し、カスピ海沿岸で大量の殺戮が行なわれた。 
 この侵攻によって、ルス人はカスピ海に足場を築いた。

 965年、キエフ・ロシア国のスビャトスラフによって、ハザールの防衛の「サルケル砦」が陥落した。
 このあと、ハザール王国の首都イティルも攻撃を受けた。

 『原初年代記』によれば、986年にハザール王国のユダヤ人が、キエフ・ロシア国のウラジーミル大公にユダヤ教改宗を進言したと記述されtレイルる。
 しかし ウラジーミル大公は、988年に、先進的な文明国であったビザンチン帝国(東ローマ帝国)からキリスト教を取り入れた。
 この地にキリスト教文化を広めるた。
 これ以後、ハザール・ユダヤ人は、ロシア人に改宗を挑んだ者としてキリスト教会側から敵意をもって見られるようになった。

 同じ時期にウラジーミル大公はビザンチン帝国の王女アンナと結婚した。
 これによって、ハザール王国とビザンチン帝国の「対ロシア同盟」は終焉した。
 それに代わって、ビザンチン帝国とキエフ・ロシア国の「対ハザール同盟」が成立した。
 当時、この地域で帝国としての地位を認められていたのは、ビザンチン帝国、アラブ帝国(アッバース朝)、それとハザール王国の3つである。
 
 ビザンチン帝国とキエフ・ロシア国の「対ハザール同盟」ができてから数年後の1016年、ビザンチン・ロシア連合軍はハザール王国に侵入し、ハザール王国は再び敗北を喫した。

 ハザール王国東部諸都市は灰燼に帰し、壮大な果樹園やブドウ畑は焼き払われた。
 ハザール王国のクリミア半島含む西部方面では、比較的被害は少なかったが、都市は荒れて交易路も乱れた。

 10世紀半ばの首都イティル陥落によってハザール王国は大きなダメージを受けた。
 なお、それ以後13世紀半ばまで、領土こそ縮小したものの独立を保ち、なんとかユダヤ教の信仰を維持し続けた。

 ハザール・ユダヤ人のコミュニティは、もとハザール王国の重要都市であったキエフの町の中にも近郊にも存在した。
 ハザール王国の崩壊期 に、ハザール人が多く流入して強化された。 

 キエフ・ロシア国はハザール王国の衰退に乗じてこの地域の主権を握った。
 西のカルパチア山脈から、東のボルガ川、そして南の黒海から、北の白海にかけて勢力を誇るようになった。
 ロシア人とそのスラブ系臣民は、草原の遊牧民戦士たちが駆使する機動戦略、ゲリラ戦法に対処できなかった。

 遊牧民の絶え間ない圧迫の結果、ロシア戦力の中核は徐々に南の草原地帯から北の森林地帯へ、ガリチア、ノブゴロド、モスクワの大公国へと移っていった。

 ビザンチン帝国は、新たな同盟国であるキエフ・ロシア国が、ハザール王国の後継として東ヨーロッパの護衛と通商の中心になるだろうと計算していた。しかし、キエフの衰退は速かった。独立した大公国が互いに果てしなく争いあう空 白の時期が続いたためだ。
 力の空白地帯に新たに乗り込んできたのが遊牧民族の
   クマン人(ポロヴェツ人)
で、ハンガリーに至るまでの草原地帯を11世紀終わりから13世紀にかけて支配した。
 1223年、ロシアの地にモンゴル軍が出現した。
 この時のモンゴル軍はチンギス・ハンの大遠征の別働隊で、カスピ海の南回りでカフカーズを通り、南ロシアを荒らした。

 1236年、チンギス・ハンの遺命により、チンギス・ハンの孫の
   バトゥ・ハン
がヨーロッパ遠征に出発した。
 ボルガ河畔からロシアに侵入したバ トゥ・ハンの遠征軍は、キエフ・ロシア国を壊滅させ(キエフ占領)、ロシアの主要都市を次々と攻略した。更にその一隊は、ポーランド、ハンガリーまで攻め 込んだ。

 バトゥ・ハンの遠征軍はヨーロッパ世界に脅威を与えた。
 ただ、オゴタイ・ハンが没すると、バトゥ・ハンの遠征軍はボルガ川畔まで後退し、カスピ海に注ぐボルガ川下流のサライを首都として「キプチャク汗国」を建てた(1243年)。
 こうして、「キプチャク汗国」はロシアの大部分を支配したうえ、その領土の外側にあった諸公国も従属関係に入り、「タタールのくびき」が始まった。

 「キプチャク汗国」が首都にした都市サライは、またの名をイティルと呼ばれ、ハザール王国の首都だった都市である。

 ハザール王国がいつ滅亡したのか具体的な記録は残されていない。
 この時期1243年、ハザールの中心部はバトゥ・ハンの権力下に吸収され、ハザール王国は「完全に崩壊」した。

 1245年、ローマ教皇イノセント4世は、「キプチャク汗国」のバトゥ・ハンに使節団を送った。
 新しい世界情勢とモンゴル帝国の軍事力を探るのが主 な目的であった。
 使節団はドイツのコローニュを出発し、ドニエプル川とドン川を通って、1年後にボルガ川下流にある「キプチャク汗国」の首都に無事到着し た。

 この使節団の長だった修道士
   カルピニ
は、帰国したあと、有名な『モンゴル人の歴史』を書いた。
 その歴史的、人類学的、軍事的資料の宝庫の中には、彼 が訪れた地域に住む人々のリストも残されている。
 そのリストの中で北部コーカサスの人々を列記した中に、アラン人やチュルケス人と並んで「ユダヤ教を信じるハザー ル人」の名がある。
  

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イラクが前日の発言から軌道修正し「減産延長」はOPECが決定すと…

 原油減産の延長は石油輸出国機構(OPEC)が決定することであり、イラクはどのような決定にも従う意向だとアブドルガニ石油相が述べた。

 「自主減産の延長はOPEC諸国間での決定次第だ」とアブドルガニ石油相は12日に記者団に述べ、「イラクはOPEC加盟国としてその決定を守り、同意する必要がある」と続けた。

 同石油相は11日、さらなる減産には同意しない考えを示していた。
 次回の閣僚会合は6月1日にウィーンで開催される予定で、現行の減産を下期まで延長するとの見方が強い。

 OPEC2位の産油国であるイラクは、既存の生産抑制を完全に実施しないことで既にグループ内に不安を引き起こしている。
 
 
ひとこと
 サウジ主導のOPECの体制がいつまで続くかだろう。
 生産量削減に従うOPEC加盟国の原理原則を拒否してOPECから離脱する国家もあり、スポットで販売して消費国の拡大を狙う場面が多々見られる。
 
   
posted by まねきねこ at 00:00| 愛知 ☔| Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする