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2024年05月12日

斎藤 道三 美濃のマムシ

斎藤 道三
   明応3年(1494年)
      −弘治2年4月20日(1556年5月28日)
 戦国時代の武将で美濃(岐阜県南部)の戦国大名である斎藤氏の初代当主。
 改名 長井規秀→斎藤利政→道三(号)
 僧侶から油商人を経てついに戦国大名にまで成り上がった人物で「美濃の蝮」の異名を持つ。
  
 父親は先祖代々御所の警備を担う
   北面の武士
をつとめていた家に生まれ、京都妙覚寺の僧侶となっていたが還俗し
   松波左近将監基宗
          (新左衛門尉)
を名乗り御所の警備の仕事に当った。
 暫く勤務したが事情があって牢人となり西岡に移り住んで当初は西村と名乗った。

 職を求め美濃守護土岐氏の家臣
   長井弥二郎
に仕え、次第に頭角を現し、長井の名字を称するようになった。

 明応3年(1494年)に山城乙訓郡西岡で生まれた
   左近大夫(道三)
は11歳の春に京都妙覚寺で得度を受け、法蓮房の名で僧侶となり学識を積んだ。
 法弟であり学友でもある
   日護房(南陽房)
が美濃国厚見郡今泉にある常在寺へ住職として赴くこと聞いた。
 この機会を捉えて法蓮房は還俗して
   松波庄五郎(庄九郎とも)
と名乗り、父がいる美濃に向かった。

 『美濃国諸旧記』によれば、油問屋の
   奈良屋又兵衛
の娘をめとった庄五郎は、油商人となり
   山崎屋
を称し、油売り行商を重ねていた。
 その商法は、油を注ぐときに漏斗を使わず、一文銭の穴に通してみせますとの口上で
   油がこぼれたらお代は頂きません
といって油を注ぐパフォーマンスで客を集め、芸を見せて売るというもので、美濃で評判になった。
 ある日、油を買った土岐家の矢野という武士から
   油売りの技
は素晴らしいが、所詮商人の技だろうと言われ、この力を武芸に注げば立派な武士になれるだろう。
 ただ、このままでは惜しい器量だと諭され、一念発起して商売をやめ、槍と鉄砲の稽古をして武芸の達人になったという。
 その後、美濃常在寺の日護房を改名した日運と再会し、その縁故を頼った庄五郎は、美濃守護土岐氏小守護代の
   長井長弘
の家臣となることに成功したという物語になっている。
  
 庄五郎は、長井氏家臣西村氏の家名をついで
   西村勘九郎正利
と称した。
 戦国時代の戦闘による人的消耗は激しく、庄五郎の父はつかえる時点では既に亡くなっていた可能性もある。

 勘九郎はその武芸と才覚で次第に頭角をあらわし、土岐守護の次男である
   土岐頼芸
の信頼を得るに至った。
   
 頼芸は兄政頼(頼武)との家督相続に敗れた。
 大永7年(1527年)8月、勘九郎は密かに策を講じ政頼を革手城に急襲して越前へ追いやり、頼芸の守護補任に大きく貢献した。

 頼芸の信任篤い勘九郎は、同じく頼芸の信任を得ていた長井長弘の除去を画策した。
 享禄3年(1530年)正月ないし天文2年(1533年)に長井長弘を不行跡のかどで殺害し、長井新九郎規秀を名乗るようになった。

 天文4年(1535年)に頼芸、頼純と激突し、後ろ盾となっていた朝倉氏、六角氏が両氏に加担したことにより、戦火が美濃全土へと広がった。
 天文7年(1538年)に美濃守護代の
   斎藤利良
が病死すると、その名跡を継いで斎藤新九郎利政と名乗った。
 なお、翌年には居城稲葉山城の大改築を行なって堅牢な城郭を作り上げた。
  
 天文10年(1541年)、利政による土岐頼満(頼芸の弟)の毒殺が契機となって、頼芸と利政との対立抗争が始まった。
 一時は利政が窮地に立たされたりもしたが、天文11年(1542年)に利政は頼芸の居城大桑城を攻めたてた。
 結果、頼芸とその子の二郎(頼次)を尾張国へ追放して、事実上の美濃国主となった。

 織田信長の父親でもある織田信秀の後援を得た頼芸は、先に追放され朝倉孝景の庇護を受けていた頼純と連携を結んだ。
 両者は、美濃復帰を大義名分に掲げて朝倉氏と織田氏の援助を受けて、美濃へと侵攻した。
 その結果、頼芸は揖斐北方城に入り、政頼は革手城(岐阜市正法寺町)に復帰することが出来た。

 天文16年(1547年)9月には織田信秀が大規模な稲葉山城攻めを仕掛けた。
 しかし、利政は
   加納口の戦い
の籠城戦で織田軍を壊滅寸前にまで追い込んだ。
 頼純が同年11月に病死したため、利政は織田信秀と和睦し、天文17年(1548年)に娘の帰蝶を信秀の嫡子織田信長に嫁がせた。

 この和睦により、織田家の後援を受けて利政に反逆していた相羽城主長屋景興や揖斐城主揖斐光親らを滅ぼした。
 さらに揖斐北方城にとどまっていた頼芸を天文21年(1552年)に再び尾張へ追放し、美濃を完全に平定することが出来た。
   
   
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中国人民銀が人民元安に不快感?国債相場の上昇を巡るリスクに警告

 中国人民銀行(中央銀行)は、本土の国債相場が数カ月にわたって上昇傾向にあることに遠回しの警告を発した。
 人民元への重しとなっている低い利回りに不快感を示した格好だ。

 人民銀は10日に公表した1−3月(第1四半期)の
   貨幣政策執行報告
で「長期国債利回りはこの先の景気改善傾向に、より良く調和していくだろう」と指摘した。
 また、ソブリン債の発行加速などの要因を挙げ「債券市場の需給はより均衡の取れたものになる公算が大きい」と記した。
 
 中国国債の一部は、利回りがこの20年余りの最低水準を付けている。
 高止まりしている米金利と中国国債利回りの差は拡大しており、それが人民元の魅力を損なっている。
 また、極めて低い利回りはまた、中国経済に対する悲観的な見方を反映している。
   
    
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ジョン・ヘイズ・ハモンド(John Hays Hammond) 米国の鉱山技師、外交官、慈善家で南アフリカの鉱山開発などで40 歳になる前に巨万の富を築いた

ジョン・ヘイズ・ハモンド
      (John Hays Hammond)
   1855年3月31日 - 1936年6月8日
 米国の鉱山技師、外交官、慈善家で南アフリカの鉱山開発などで40 歳になる前に巨万の富を築いた。
 深層鉱業の初期の提唱者であるハモンドは、南アフリカの
   セシル・ローズ鉱山
の全責任を任され、それぞれの事業を経済的に成功させた。
 ハモンドは 1895 年のジェイムソン襲撃を計画し、実行した主力部隊を率いた。
 この襲撃計画は大失敗で、ハモンドはヨハネスブルグ改革委員会の他の指導者らとともに逮捕され、死刑を宣告さた。
 改革委員会の指導者たちは高額の罰金を支払った後に釈放されたが、多くの指導者と同様にハモンドもアフリカから永久逃亡した。

 米国に戻り、ウィリアム・ハワード・タフト大統領の親しい友人となり、特別大使に任命された。
 同時に、彼はメキシコとカリフォルニアで鉱山の開発を続け、1923 年にバーナム探査会社で石油を掘削し、新たな富を築いた。

 ハモンドは、メキシコ戦争で戦ったウェストポイント出身の
   リチャード・ピンデル・ハモンド少佐
と、ハーモン・ヘイズとその妻、旧エリザベス・ケイジの娘でテキサス・レンジャーズのキャプテン・ジョン・コーヒー・ヘイズの妹
   サラ
の息子である。
 一家は 1849 年にカリフォルニアのゴールドラッシュを期待してカリフォルニアに移住した。
 幼いジョンはサンフランシスコで生まれ、アメリカ西部開拓時代で冒険に満ちた少年時代を過ごした。
 その後、ハモンドは東部に進みイェール大学のシェフィールド科学学校に通い、1876年に哲学の学士号を取得した。
 1876年から1879年までドイツのフライベルクにある王立鉱山学校に通っている。
 そこで彼は妻となるナタリー・ハリスに出会った。
 
 ハモンドは、1879 年から 1880 年にかけてワシントン D.C. で
   米国地質調査所
の特別専門家として初めて鉱山の仕事に就いた。
 彼は 1881 年にカリフォルニアに戻り、鉱山王
   ウィリアム ランドルフ ハースト
の父親であるジョージ ハースト上院議員の下で働いた。
 1882年、彼はミナス・ヌエバス市の教育長に就任するため、メキシコのソノラ近郊の敵国に派遣された。
 革命が勃発すると、ハモンドは家族を小さな家に立てこもり、襲いかかるゲリラと戦った。

 1884 年から 1893 年まで、ハモンドはユニオン製鉄所、セントラル パシフィック鉄道、サザン パシフィック鉄道のコンサルティング エンジニアとしてサンフランシスコで働いた。
 1893年、ハモンドはバルナト兄弟のためにトランスバールの金鉱山を調査するために南アフリカへ出発した。

 1894年、セシル・ローズと協力するために英国南アフリカ会社に入社し、マショナランド(後にローデシア(現在のジンバブエ)となった領土)のランドに鉱山を開設した。
 1895年、彼はヨハネスブルグに本社を置き、トランスバールにあるローズの資産を管理した。
 南アフリカ深層採掘の初期の提唱者であるハモンドは、ローズの金鉱山とダイヤモンド鉱山の全面的な責任を与えられた。
 ローズで働きながら、エンジニアとしての世界的な名声を築き続けている。
 ハモンドは 1899 年までロードス島で働いたが、アフリカでの出来事がハモンドの人生を永遠に変えることになった。

 ハモンドがトランスバールに到着したときには、政治情勢は緊迫していた。ゴールドラッシュによってかなりの数の外国人労働者が流入してきたが、主にイギリス人と米国人であり、ボーア人は彼らを「ユイトレンダー」(外国人)と呼んだ。
 これらの移民はローズに操られ、フランク・ローズ大佐(セシルの弟)やハモンドなどが率いる改革委員会を結成した。

 彼らは、安定した憲法、公正なフランチャイズ法、独立した司法、より良い教育制度を要求した。
 ポール・クルーガー大統領率いる政府が約束をしたにもかかわらず、それを守らなかったと非難した。
 これらの要求は、クルーガーが決して応じないことを知っていたローズによって画策されたもので、大多数がトランスバールリバーに投票したり定住する意欲を持たなかった英国の鉱山労働者の想定される利益を保護するためにその後の英国政府による介入を正当化した。

 英国南アフリカ会社のマタベレランド総督
   リアンダー・スター・ジェイムソン
が不運なジェイムソン襲撃で1500人の軍隊を率いてトランスバールに時期尚早に侵攻した、
 1895年12月にボーア人に捕らえられたとき、礼儀正しさはついに崩壊した。

 その直後、ボーア人は政府はハモンドと改革委員会のほとんどのメンバーを逮捕し、劣悪な環境に置いた。
 米国上院はクルーガー大統領に恩赦を請願した。
 なお、改革委員会の訴訟は4月に審理された。

 ジェイムソンの襲撃者とともに発見された有罪文書に署名したハモンド、ライオネル・フィリップス、ジョージ・ファラー、フランク・ローズ、パーシー・フィッツパトリックは全員絞首刑を言い渡された。
 しかし、クルーガーは翌日減刑され、次の数週間、ハモンドらは劣悪な環境下で刑務所に監禁された。
 5月に彼らには15年の懲役が発表されたが、6月中旬までにクルーガーは全員を減刑した。
 ハモンドと他の下級者はそれぞれ2,000ポンドの罰金を支払った。

 首謀者らは帝国政府による処理のためロンドンに移送され、1人当たり2万5000ポンドの罰金を支払った。
 約30万ポンドに達する罰金はすべてローズが支払った。
 その後すぐに、ハモンドはイギリスに向けて出発しました。

 1900 年頃、今では有名になったハモンドは米国に移住し、米国とメキシコの鉱山施設について報告した。
 彼は、1902 年の売却に基づいて、コロラド州のキャンプ バード鉱山の価値について報告した。
 同じくコロラド州にあり、その後ロンドン市場に上場されたウィンフィールド スコット ストラットンの
   インディペンデンス鉱山
に関する彼の報告書では、鉱石埋蔵量が非常に過大評価され、株式バブルが崩壊した。
 彼は 1902 年から 1909 年にかけてイェール大学で鉱山工学の教授となった。

 1903 年から 1907 年にかけてダニエル グッゲンハイムに
   グッゲンハイム探査会社(グッジェネックス)
の高給取りゼネラル マネージャーおよびコンサルティング エンジニアとして雇用さた。
 ハモンドの5年契約には、基本給25万ドルと「彼がグッジェネックスに持ち込んだ各不動産からの利息」が含まれていた。
 彼は最初の年だけで120万ドルを稼いだ。
 彼はグッジェネックスの最終的な後継者である教皇イェットマンとアルフレッド・チェスター・ビーティを雇用した。 

 1907 年、ハモンドは
   ロッキー マウンテン クラブ
の初代会長となり、1928 年に解散するまでクラブの会長を務めた。
 ハモンドは共和党でも活動し、ウィリアム・ハワード大統領の親しい友人になった。

 タフトとはイェール大学の学生時代からの知り合いだった。
 1908年初め、ハモンドが共和党の副大統領候補であることが発表された。
 しかし、全国大会では多くの代議員を獲得できなかった。

 彼は大会で多くの著名な政治家と知り合い、共和党クラブ連盟の会長になった。
 大統領に近づくためにワシントンに移り、タフト大統領の多くの遠征に同行した。

 1911年、タフトはジョージ5世の戴冠式に米国特別大使として彼を派遣した。
 ロシアのニコライ2世の灌漑やその他の技術問題を支援するために二度派遣している。
 タフトに加えて、ハモンドはグラント大統領、ヘイズ大統領、ルーズベルト大統領、クーリッジ大統領とも友人になった。

 ハモンドは 1922 年から 1923 年にかけて米国石炭委員会の委員長を務めた。
 アフリカ出身で知られ栄誉あるスカウトだった
   フレデリック・ラッセル・バーナム
との親密な友情と長年のビジネス関係により、1923年にバーナム探査会社がカリフォルニア州カーソン近くの
   ドミンゲス油田
で石油を採掘し、ハモンドは裕福な石油業者になった。
 1926年5月、「ジョン・ヘイズ・ハモンドの友人たちの会社」と呼ばれる組織が、ハモンドを讃えて世界中(マンハッタン、サンフランシスコ、ロンドン、パリ、東京、マニラなど)で11回の晩餐会を主催した。
 10,000人以上の人々がハモンドに追悼の意を表した。

 その中には、父親がハモンドに最初の仕事を与えてくれた
   ハースト
や父親(バーニー・バーナト)に南アフリカに連れて行かれた
   ウルフ・バーナト
共に死刑判決を受けた
   ライオネル・フィリップス卿
ハモンドを雇った
   グッゲンハイム夫妻 など
が含まれた。

 投資家のハリス・ヘイズ・ハモンド(1881〜1969)はドミンゲス油田会社の社長となり、1936年には200万ドルを稼ぎ出した。
 また、遠心分離機を製造するニュージャージーの小さな会社ラフリン・フィルター・コーポレーションの社長になった。
 1928 年、彼とアンソニー "トニー" ジョセフ ドレクセル ビドル ジュニアは、後にソノラ プロダクツ コーポレーション オブ アメリカとなるアコースティック プロダクツ社の取締役の一人である。

     
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米新規失業保険申請、8月以来の多さはNY市学校の休みと関連か

 米国では5月4日終了週の新規失業保険申請件数がは前週比2万2000件増加し、23万1000件先週に増加し、昨年8月以来の高水準となった。

 新規の失業保険申請は季節調整前のベースで2万件近く増加し、20万9324件となった。
 今年最大の増加となったが、伸びの半分以上をニューヨーク州が占めた。
 申請件数はカリフォルニア、インディアナ、イリノイの3州でも増えた。
 
 エコノミスト予想の21万2000件予想を上回る増加は、ニューヨーク市の
   公立学校が春休み
だったことと関係しているとの見方がある。


 スクールバスの運転手を含めニューヨーク市の公立学校職員は、冬休みや春休みの期間に
   失業保険を申請することが許可
されており、先週の申請急増は4月22日から30日までの春休みと重なったとみられる。

 なお、前週は20万9000件、速報値は20万8000件だった。
 また、失業保険の継続受給者数は4月27日終了週に178万5000人だった。
 
 より変動の少ない失業保険申請の4週移動平均は21万5000件に増加し、2月以来の多さとなった。
 新規申請件数は先週までの3カ月間、20万から22万2000件の狭いレンジ内で推移していた。

 底堅い需要を受けて、雇用主は人員を手放したくない状況が続いている。
 ただ、最新の月間雇用統計では採用の減速が示されたものの、1年前から労働市場は総じて予想を上回って推移し、経済の推進力となっている。

 新型コロナウイルスがパンデミック(世界的大流行)となる前の20年間、新規失業保険申請は平均で約34万5000件、継続受給者数はおよそ290万人だった。
   
 連邦公開市場委員会(FOMC)は適切な利下げのタイミングを見極めようと労働力の需要と賃金の伸びを注視している。

 
posted by まねきねこ at 04:00| 愛知 | Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ブレイナード氏がトランプ政権時代の法人減税を撤回すると表明

 バイデン米大統領の経済顧問トップであるブ
   レイナード国家経済会議(NEC)委員長
は、民主党は来年、トランプ政権時代に成立した法人減税を撤回するとの考えを示した。

 トランプ政権時代の法人減税措置は2025年末に期限切れを迎える。
 このため、11月の大統領選挙と連邦議会選の結果にかかわらず、来年は税制を巡って民主・共和党の間で激しい攻防が予想されている。

 ブレイナード氏はブルッキングス研究所での講演で、「2017年の超富裕層向け減税」を廃止し、コストのかかる恒久的な法人減税を縮小する必要があるのは明らかだと指摘した。
 また、「現行の税制は企業に対して以前よりもはるかに少ない負担しか求めていない」と述べた。

 バイデン大統領は、連邦法人税率を28%に引き上げることを提案している。
 これはトランプ政権時代の法人減税で引き下げられた21%の水準は上回るが、かつての35%は下回るものだ。

 また、個人向けの減税措置も25年末に期限切れとなるため、議会が行動しない限り、すべての所得層で増税となる。

 ただ、ブレイナード氏は「バイデン大統領にとって、中間層に対する現行の減税措置が維持されない状況は受け入れらない」と語った。

  
posted by まねきねこ at 03:00| 愛知 | Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする