斎藤 道三
明応3年(1494年)
−弘治2年4月20日(1556年5月28日)
戦国時代の武将で美濃(岐阜県南部)の戦国大名である斎藤氏の初代当主。
改名 長井規秀→斎藤利政→道三(号)
僧侶から油商人を経てついに戦国大名にまで成り上がった人物で「美濃の蝮」の異名を持つ。
父親は先祖代々御所の警備を担う
北面の武士
をつとめていた家に生まれ、京都妙覚寺の僧侶となっていたが還俗し
松波左近将監基宗
(新左衛門尉)
を名乗り御所の警備の仕事に当った。
暫く勤務したが事情があって牢人となり西岡に移り住んで当初は西村と名乗った。
職を求め美濃守護土岐氏の家臣
長井弥二郎
に仕え、次第に頭角を現し、長井の名字を称するようになった。
明応3年(1494年)に山城乙訓郡西岡で生まれた
左近大夫(道三)
は11歳の春に京都妙覚寺で得度を受け、法蓮房の名で僧侶となり学識を積んだ。
法弟であり学友でもある
日護房(南陽房)
が美濃国厚見郡今泉にある常在寺へ住職として赴くこと聞いた。
この機会を捉えて法蓮房は還俗して
松波庄五郎(庄九郎とも)
と名乗り、父がいる美濃に向かった。
『美濃国諸旧記』によれば、油問屋の
奈良屋又兵衛
の娘をめとった庄五郎は、油商人となり
山崎屋
を称し、油売り行商を重ねていた。
その商法は、油を注ぐときに漏斗を使わず、一文銭の穴に通してみせますとの口上で
油がこぼれたらお代は頂きません
といって油を注ぐパフォーマンスで客を集め、芸を見せて売るというもので、美濃で評判になった。
ある日、油を買った土岐家の矢野という武士から
油売りの技
は素晴らしいが、所詮商人の技だろうと言われ、この力を武芸に注げば立派な武士になれるだろう。
ただ、このままでは惜しい器量だと諭され、一念発起して商売をやめ、槍と鉄砲の稽古をして武芸の達人になったという。
その後、美濃常在寺の日護房を改名した日運と再会し、その縁故を頼った庄五郎は、美濃守護土岐氏小守護代の
長井長弘
の家臣となることに成功したという物語になっている。
庄五郎は、長井氏家臣西村氏の家名をついで
西村勘九郎正利
と称した。
戦国時代の戦闘による人的消耗は激しく、庄五郎の父はつかえる時点では既に亡くなっていた可能性もある。
勘九郎はその武芸と才覚で次第に頭角をあらわし、土岐守護の次男である
土岐頼芸
の信頼を得るに至った。
頼芸は兄政頼(頼武)との家督相続に敗れた。
大永7年(1527年)8月、勘九郎は密かに策を講じ政頼を革手城に急襲して越前へ追いやり、頼芸の守護補任に大きく貢献した。
頼芸の信任篤い勘九郎は、同じく頼芸の信任を得ていた長井長弘の除去を画策した。
享禄3年(1530年)正月ないし天文2年(1533年)に長井長弘を不行跡のかどで殺害し、長井新九郎規秀を名乗るようになった。
天文4年(1535年)に頼芸、頼純と激突し、後ろ盾となっていた朝倉氏、六角氏が両氏に加担したことにより、戦火が美濃全土へと広がった。
天文7年(1538年)に美濃守護代の
斎藤利良
が病死すると、その名跡を継いで斎藤新九郎利政と名乗った。
なお、翌年には居城稲葉山城の大改築を行なって堅牢な城郭を作り上げた。
天文10年(1541年)、利政による土岐頼満(頼芸の弟)の毒殺が契機となって、頼芸と利政との対立抗争が始まった。
一時は利政が窮地に立たされたりもしたが、天文11年(1542年)に利政は頼芸の居城大桑城を攻めたてた。
結果、頼芸とその子の二郎(頼次)を尾張国へ追放して、事実上の美濃国主となった。
織田信長の父親でもある織田信秀の後援を得た頼芸は、先に追放され朝倉孝景の庇護を受けていた頼純と連携を結んだ。
両者は、美濃復帰を大義名分に掲げて朝倉氏と織田氏の援助を受けて、美濃へと侵攻した。
その結果、頼芸は揖斐北方城に入り、政頼は革手城(岐阜市正法寺町)に復帰することが出来た。
天文16年(1547年)9月には織田信秀が大規模な稲葉山城攻めを仕掛けた。
しかし、利政は
加納口の戦い
の籠城戦で織田軍を壊滅寸前にまで追い込んだ。
頼純が同年11月に病死したため、利政は織田信秀と和睦し、天文17年(1548年)に娘の帰蝶を信秀の嫡子織田信長に嫁がせた。
この和睦により、織田家の後援を受けて利政に反逆していた相羽城主長屋景興や揖斐城主揖斐光親らを滅ぼした。
さらに揖斐北方城にとどまっていた頼芸を天文21年(1552年)に再び尾張へ追放し、美濃を完全に平定することが出来た。