モンク・イーストマン(Monk Eastman)
1875年 - 1920年12月26日
ニューヨークを拠点としたユダヤ系ギャングで多数の偽名を使っていた。
本名はエドワード・オスターマン(Edward Osterman)
曲がった鼻とつぶれた耳と全身に傷があることで知られていた。
親は中堅レストラン経営者の家系でブルックリンで生まれた。
1895年ごろニューヨーク市のロウアーマンハッタンに移住し、ブルーム・ストリートの有名クラブ
ニューアーヴィング・ダンスホール
の武装用心棒を務めた。
その威圧的な風貌と体躯からすぐにギャングのリーダーに成長した。
収入は、賭けトランプ、管理売春、各地のスリや略奪犯罪からの上納金を受け取った。
腐敗した民主党政治団体タマニーホールへの武力サービスなどで、構成員は一時1100人以上にもなった。
このギャング組織はイーストマンズと呼ばれた。
リチャード・フィッツパトリック、マックス・ツヴェルバッハ、ジャック・ゼリグなどを部下に持っていた。
経済不況化に激増した労働運動に最初に介入したギャングの一人といわれている。
手下を使いストライキをする労働者やスト破りをする者を病院送りにした。
なお、誰を襲うかは誰が多くイーストマンに金を多く払ったかによって決めていた。
政治団体のタマニー・ホールでは、選挙の時期になると、1200名以上のイーストマン一派による
Get out the Vote"運動(有権者を選挙に行かせる運動)
に依存していた。
また、同一人による複数投票などの不正投票を指揮した。
政敵の支持者を痛めつけるなど武力サービスも請け負っていた。
その見返りに裁判でタマニー系の弁護士がメンバーの殺人以外の犯罪もみ消しに協力したという。
アジトとしてはニューアーヴィングホールの他、シルバーダラーズという酒場を使った。
シルバーダラーズはタマニー協会とのビジネス会談にも利用されていた。
ブルーム・ストリートでペットショップを開いていたが ギャング稼業が本格化した後も店を続けた[3]。
イーストマンは、イタリア系の
ファイブ・ポインツ・ギャング
と激しい縄張り争いを繰り広げた。
1902年9月29日、イーストマンズ総勢60人がファイブ・ポインツの縄張りに侵入し、乱射になった。
警察に17人が逮捕され、リボルバー15個、ナイフ8個、ブラックジャック3つが押収された。
1902年10月4日、ファイブ・ポインツのガンマン35人が9月29日の仕返しでイーストマンズのサフォーク通りのアジトを急襲した。
2階のビリヤード場に駆け上がっりガンファイトの結果、数人が怪我し、29人が逮捕された。
同年10月、タマニーホールの
トム・フォーリー
が仲介してファイブ・ポインツと平和協定を結んだ。
1903年9月にはポール・ケリーが率いるギャングとリヴィングトンで派手な銃撃戦を繰り広げた。
1904年に傷害罪で逮捕され、10年刑で収監された。
モンクが収監された後のイーストマンズのボスの座は
マックス・ツヴェルバッハ
が継ぎ組織を維持した。
モンクは5年服役後の1909年に出所すると、組織を継いだマックス・ツヴェルバッハは既に死に、組織は小集団に分裂しており、モンクの命令を聞く者はいなくなっていた。
往時のギャングリーダーに戻れないまま、小物の泥棒稼業を始め、強盗やアヘン密売で逮捕され数回服役した。
ただ、1912年、内紛でボスを亡くしたイーストマンズに一時復帰してはいる。
1917年、43歳のとき、第一次世界大戦に際して米国陸軍第27部隊の第106歩兵隊"オライアンズ・ラフネックス"に入隊した。
フランスでドイツ相手に最前線を死守したうえ、敵の砲台陣地を撃破し、負傷した味方を助けに危険な場所に飛び込むなど活躍した。
1919年、終戦で除隊し米国に戻ると、戦争の英雄として迎えられた。
軍の同僚は、モンクの「最高レベルの勇敢さと忠誠」を称えて署名活動を展開して、失っていた市民権をニューヨーク州知事アル・スミスにより、回復された。
1920年12月26日早朝4時過ぎ、ロウアー・マンハッタン14丁目の路上で何者かに5発の銃弾を浴びて殺害された。
深夜から明け方までユニオンスクエアの酒場で仲間6人と飲んで、解散した後に銃撃が起こったという。
飲み会に参加していたとされる酒密造取締官
ジェリー・ボーハン
と賄賂のことで揉めて、その場を去るボーハンを追いかけて泥棒呼ばわりするなど侮辱の暴言を発しながら近づき、コートの内側ポケットに手を伸ばしたため、ボーハンに撃たれた。
ボーハンはイーストマンらギャングのスピークイージーの上がりから賄賂を受け取っていたとも言われている。
3日後、ボーハンが自ら殺害犯を名乗り出頭した。
殺害理由が明らかにされなかったが、第1級殺人罪で有罪となり、最長10年刑でシンシン刑務所に送られた。
しかしモンクの死に多くの不審点があるとして審理差戻しになり、ボーハンは17か月後に釈放されている。
家族が遺体を認めながら葬式を拒否したため、軍友が再び動いた。
「大統領より国に貢献したこの男に、国民は報いていないどころかギャング呼ばわりしている。我々は、アメリカを救ったその貢献にふさわしい葬式で送ってやるべきだ」と新聞にメッセージを載せ、葬式の募金を募った。
12月30日、葬儀の行進を1万人の群衆が見守る中、軍葬の礼によりサイプレス・ヒル墓地へ埋葬された。