ジェームズ・フィスク・ジュニア( James Fisk Jr.)
1835年4月1日 – 1872年1月7日
米国の株式仲買人およびエリー鉄道などの企業幹部で「ビッグ・ジム」、「ダイアモンド・ジム」、「ジュビリー・ジム」など金ぴか時代の「強盗男爵」として知られる。また、南北戦争において、北軍の民兵組織の大佐としても知られる。
フィスクはニューヨークの労働者階級やエリー鉄道から賞賛されていた。
しかし、グールドとフィスクらは、金価格の上昇により、収穫前で品薄となっている西部の小麦価格を上昇させ、東部のパン原料輸送料を増やし経営する
エリー鉄道
の荷受量の増加に繋がることを画策し、疑いを持たない
ユリシーズ・S・グラント大統領
に近づき、大統領の名声を利用して、ニューヨーク市の金市場を追い詰めようと市場で金投機を1869年8月から開始した。
金投機が加熱し、約1月後の9月24日に「暗黒の金曜日」と言われる恐慌を引き起こした。
買い上がる資金が底をつき、20ドル金貨表面価格に対する割増率が62%から35%まで暴落した。
この「1869年のブラックフライデー」でフィスクの役柄で多くの米国の投資家の不評を買った。
なお、1872 年 1 月 7 日、フィスクはビジネス取引に関連してニューヨーク市で暗殺されました。
フィスクは バーモント州ベニントン郡のポウナル村で生まれました。
短期間学校に通った後、1850 年に逃げ出し、Van Amberg's Mammoth Circus & Menagerieに潜り込んだ。
その後、ホテルのウェイターに転職、最終的には行商人だった父親の仕事を引き継いだ。
サーカスで学んだことを行商に応用し、父親の事業を成長させた。
その後、ボストンで乾物品会社ヨーロッパからのリネン、シルク、その他の乾物を輸入し市内およびその
周辺の卸売顧客に販売していた
ジョーダン・マーシュ
の営業社員になった。
ただ、営業社員としては失敗したフィスクは、1861 年に繊維製品を政府に販売するためにワシントン D.C.に派遣された。
南北戦争中には北軍との契約を抜け目なく取り引きし、父親の協力を得て敵陣の中のルートを使って綿花を密輸して、かなりの財産を築いたものの、蓄えた金はすぐに投機し失った。
戦争の終わりの北軍フィリップ・シェリダン少将の騎兵隊が
ファイブフォークスの戦い
で南軍のリー将軍の右側面に回ったため、翌日1865年4月2日、グラント軍は
ピーターズバーグの防御線
を終結、南軍の敗北が確実となったこと知り、その知らせがロンドン市場に届く前に
できるだけ多くの南軍の債券
を空売りするため、高速船でロンドンに代理人を送り込んで莫大な利益を上げた。
当時、ヨーロッパ市場では
コットン・ボンド
と呼ばれる国債を南軍の戦費調達として発行し、ポンドで元利金の支払いを行なっていたことが背景にある。
この空売りは、ロンドン・ロスチャイルド家当主ネイサンがいち早く、イギリス・オランダをはじめとする連合軍およびプロイセン軍とフランスのナポレオン軍との間で1815年6月18日に起きた
ワーテルローの戦い
でナポレオンが大敗したことを知ったものの、それまでにロスチャイルド5家の情報収集の早さが他の投資家にも知られており、その動向が注目されていることを利用し、逆にイギリス公債を売って公債を暴落させた後、買いに転じてイギリス勝利のニュースがイギリス本国に伝わるとともに巨額の利益を上げた手法と同じもの。
1864年、フィスクはニューヨーク市のて蒸気船と鉄道企業を保有した投資家
ダニエル・ドリュー(Daniel Drew)
1797 年 7 月 29 日 - 1879 年 9 月 18 日
に株式仲買人として雇われた。
フィスクはエリー鉄道の支配権を巡り
コーネリアス・ヴァンダービルト
との間で行われた通称「エリー戦争」でドリューを支援した。
この結果、フィスクとジェイ・グールドはエリー鉄道経営陣のメンバーとなった。
その後、綿密に計画した乗っ取りによってフィスクとグールドは鉄道を掌握した。
なお、グールドとの関係はフィスクが亡くなるまで続いた。
フィスクとグールドは、極端なまでに不道徳で非倫理的な金融手法で企業への強盗行為を行った。
彼らの計画には、ニューヨーク市の腐敗した政治家で タマニー・ホールの指導者
ボス・ツイード
との間の公然たる提携や市議会等への大規模な賄賂、裁判官の買収などが含まれていた。
金市場を追い詰めようとする彼らの試みでは、1869 年 9 月 24 日の運命のブラック フライデーで頂点に達し、多くの投資家が破滅しましたが、フィスクとグールドは重大な経済的損害を免れた。
フィスクは1854年、マサチューセッツ州スプリングフィールドで孤児のルーシー・ムーアと結婚した。
また、ニューヨークでは、フィスクはヴィクトリア朝時代の女性の魅力の基準からすれば、官能的な美しさがあった
ジョシー・マンスフィールド
と関係を持り、西23番街にあるエリー鉄道本社から数軒隣のアパートに住まわせたうえ、本社と彼女のアパートの建物の裏口を結ぶ屋根付きの通路を建設させた。ただ、フィスクとマンスフィールドの関係はニューヨーク社会をスキャンダルに陥れている。
なお、マンスフィールドは最終的に、フィスクのビジネス仲間
エドワード・スタイルズ・ストークス(1840年 - 1901年)
と恋に落ち、マンスフィールドはフィスクを去った。
マンスフィールドとストークスは金欲しさから
フィスクの法的不正行為
を証明したとされる、フィスクがマンスフィールドに宛てて書いた手紙の公開を脅迫し、フィスクを恐喝しようとした。
その後、法廷闘争と広報闘争が続き、フィスクはマンスフィールドに何も支払うことを拒否した。
ただ、破産への不満が高まり、浮気を始めたストークスは、1872年1月6日、ニューヨーク市の
グランド・セントラル・ホテルでフィスクと対峙し、腕と腹部を2度撃った。
フィスクは、ストークスを殺人犯とする供述を行った後、翌朝腹部の傷がもとで死亡した。
裁判では、ストークスは、非常に矛盾した状況を緩和するために、自己防衛を主張した
その行為を行った当時、精神的混乱に苦しんでいたと主張した。
フィスクの死は、致命傷を治療した人々による
医療過誤が原因
であると非難された。
ストークスはその後、フィスク殺人事件で裁判にかけられた。
第一級殺人罪で起訴された最初の裁判は陪審員が絞首刑に終わり、陪審員が賄賂を受け取ったという噂も流れた。
また、二審では第一級殺人罪で有罪判決を受け、死刑判決を受けたが、控訴審で判決は覆された。
3回目の裁判は過失致死の有罪判決で終わり、ストークスはシンシン刑務所で懲役6年のうち4年間服役した。
フィスクの遺体は、彼が所有していたグランド・オペラ・ハウスで一般弔問がされ、約2万人が追悼の意を表しに訪れた、
ただ、その5倍以上の人が入場を求めて路上で待っていたという。