ウィリアム・クラポ・“ビリー”・デュラント
(William Crapo "Billy" Durant)
1861年12月8日 - 1947年3月18日
米国の企業家で馬車製造販売事業でミリオネアとなり、自動車産業創成期に
を創業した米国自動車産業界の先駆者のひとり。
また、ウォール街(株式市場)では相場師としても名をはせた。
自動車産業創成期のGMで車種構成、流通販売網、自動車ローンなどで現代の自動車販売方法の基礎を作り、自動車会社が車両メーカーと部品メーカーを統合する垂直水平統合の基礎を形作った人物として知られる。
デトロイト流の自動車製造方法(オートメーション)は
が築いたが、顧客による選択、業界統合、自動車流通に関して先鞭をつけたビリー・デュラントがデトロイト流の自動車販売方法を作った。
デュラントはゼネラル・モーターズを1908年にミシガン州フリントに創設した。
その後、1度ならず2度も経営権を失った。
ビリー・デュラント(Billy Durant)として知られ、「小柄で、活力に満ちた、心の温かい人物」として誰もが親しみを込めてビリーと呼んだ。
小柄であったためリトル・ビリーともよばれた。
ボストンでフランス系の子として生まれ、6歳の頃に母子家庭となったため、祖父のいるミシガン州フリントに、デュラント10歳の時移った。
母方の祖父が裕福な家庭で、南北戦争時代にミシガン州知事を務めた名士一族であった。
デュラントは学業途中から働き始めさまざまな職業を経験する中で
天性の営業センス
を発揮し、5歳の時に友人とともに馬車販売会社を起業した。
当初、下請けに出した馬車製造も含め、部品製造・組立・内装・塗装を自社グループ企業での垂直統合で効率をあげて大量生産をおこなった。
一方で全米各地に販売網を整備し、全米最大の馬車製造会社となり40歳を前にミリオネアとなった。
それまで馬車の競争相手と嫌っていた自動車だったが、この手腕を買われて40代半ばの1904年に技術力はあったが経営力がなく破産寸前だった
ビュイック社
の事業を請われた。
自身の馬車事業ですでに手がけていた生産の垂直統合、販売網の活用、プロモーション方法をビュイック事業に適用して短期間で全米トップの売上に成長させ、同じ新興企業のフォード・モーターなどと全米トップを争った。
次いで、ビュイック社を土台とした
自動車産業界の企業トラスト
を目指して、1908年にゼネラルモーターズ(GM)を設立した。
傘下には2年の間に30もの会社を束ね、ビュイックで行っていた垂直統合を、さらに多数の会社の企業合同による水平統合に拡大した。
この時期の傘下企業には、オールズモビル、キャディラック、オークランド(ポンティアック)、ACスパークプラグなどがある。
しかし、企業買収による拡大策の中での失敗が財務に負担を与え、1910年に銀行の意向によってデュラントのGM経営権が剥奪された。
デュラントはGM取締役を兼ねながらGM外で複数の自動車会社を起業した。
1911年にビュイックレースチームのレーサー
ルイス・シボレー
をコンサルタントとしてシボレー社を起業した。
シボレーで生産した自動車は、デュラントの意向に沿った低価格大衆車を販売して短期間に人気となった。
その後、デュラントは、ピエール・デュポンの個人的支援を得てGM株を買い戻した。
一方、シボレーの成功をばねにシボレー株をGMの株式と交換することで最終的にGMの過半数の株式を所有することに成功した。
シボレー社がGMの最大株主となった。
1915年にデュラントはGM経営に復帰し、再び買収による拡大策に奔走した。
個人の資金を用いても企業買収さえもしながらGMに吸収させた。
当初はデュラントの個人的な買収企業に所属していた
アルフレッド・P・スローン
やチャールズ・F・ケタリング(GM研究所長)などのちにGMを世界の優良企業に築きあげる人物を事業買収と共にGMに迎え入れた。
1920年には第一次世界大戦後の金融危機によりGM株が暴落した。
株価維持のためにデュラント自ら株の買いざさえに出たが却って莫大な負債を負う結果となった。
GM破綻を恐れたデュポンではモルガン商会の資金援助によって危機を脱した。
デュラントは保有する資本の支配力が弱まったため、GMを去り、ピエール・デュポンが後任となった。
デュラントは、自ら創設したGMから追放されても、自身の株取引能力で何度も富豪となった。
GM追放後すぐに自らの名を冠した会社
デュラント・モーターズ
を設立し自らの信じる自動車事業を継続した。
デュラントは、相場師としてもウォール街での金融取引の中心人物の一人となり「ウォールストリートのブル(雄牛)」と呼ばれた。
また、銀行も手がけ、人的に複数の自動車会社の大株主となり、デュラント社を核とした企業群で再び幅広い購買層のための複数ブランド車種を取り揃えた。
1929年秋にはじまる世界大恐慌後に会社と自身が破産した。
70歳を過ぎても新規事業に意欲を燃やし、デュラントはレクリエーションやレジャーが次世代産業となると確信して、スーパーマーケット、ドライブインレストラン、ボウリング場などを経営し1947年に85歳で亡くなった。
posted by まねきねこ at 13:38| 愛知 ☁|
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