ジョン・ジェイコブ・アスター(John Jacob Astor)
1763年7月17日-1848年3月29日
出生時はヨハン・ヤーコプ・アストアあるいはアストル( Johhan Jakob Astor)
米国の財閥アスター家の祖である実業家で米国で初のミリオネアになった。
初めてトラストを創設し、毛皮貿易、不動産およびアヘンからその資産を築いた。
ドイツの貧しい家の出身で、ロンドンに続いてアメリカ独立戦争後の米国に移民した。
五大湖やカナダに跨る
毛皮貿易帝国
を作り上げた後、米国西部や太平洋岸まで商いの範囲を拡大した。
1800年代初期にはニューヨーク市の不動産を手掛けた。
後には美術等文化事業の著名なパトロンになった。
1848年に亡くなったときには最も富裕な人物として知られており、少なくとも2,000万ドル相当と見積もられる資産を遺した。
アスターの祖先はサヴォイアから逃げてきたフランス系キリスト教の一派ヴァルド派教徒だった。
19世紀にドイツのバーデンの一部となった古い宮中伯領にあるハイデルベルクに近いヴァルドルフ(現在はライン=ネッカー郡)で生まれた。
名前が同じ父のヨハン・ヤーコプ・アスターは肉屋だった。
息子の方のアスターはロンドンで楽器を作っていた兄の
ゲオルク(後にジョージ)・アスター
のために働きながら英語を学んだ。
アメリカ独立戦争が終わって間もない1784年3月に一旗揚げようとアメリカ合衆国に到着した。
アメリカン・インディアンと毛皮の交易を行い、続いて1780年代暮れにニューヨーク市で毛皮商品の店を始めた。
サラ・トッドと結婚したアスターは「私が知る中でもサラは最もビジネスセンスがある」と言った、と伝えられている。
1794年にイギリスとアメリカ合衆国の間で結ばれたジェイ条約によって、五大湖とカナダの新しい市場が開けた利点を生かした。
1800年までに25万ドル近くを蓄え、毛皮貿易では指導的存在の一人までになった。
1800年、米国では初めての中国貿易船エンプレス・オヴ・チャイナの例に続いて、中国広東で毛皮、茶および白檀材を貿易して大きな利益を得たが、1807年の通商禁止法でその輸出入事業が妨害された。
トーマス・ジェファーソン大統領の許可を得て、1808年4月6日にアメリカ毛皮会社を設立した。
その後にコロンビア川や五大湖地域での毛皮貿易を統括するために、子会社
太平洋毛皮会社
とカナダ人との共同経営で
南西毛皮会
を設けた。
コロンビア川の交易基地
アスター砦(1811年4月設立)
は太平洋岸ではアメリカ初の地域社会と言われ、1810年から1812年に掛けての山岳地を行くアスター遠征隊に出資し、これが交易基地となる場所に到着した。
遠征隊の隊員が
サウス・パス
を発見した。
その後ここを通って数多い開拓者達がロッキー山脈を抜け、オレゴン・トレイル、カリフォルニア・トレイルおよびモルモン・トレイルに進んだ。
アスターの毛皮貿易事業は、米英戦争のときにイギリス軍がアスターの交易基地を占領したことで妨害された。
1817年にアメリカ合衆国議会が保護貿易の法を通して合衆国領土から外国人貿易業者を締め出したことで、アスターの毛皮貿易事業も立ち直った。
アスターが率いるアメリカ毛皮会社が五大湖地域周辺での交易を支配するようになった。
1822年、アスターは再編成したアメリカ毛皮会社の本社としてヒューロン湖のマキナック(マキノー)島に「アスター・ハウス」を建てた。
この島を毛皮貿易の中心地とした。
アスターはニューヨーク州議会議員
アーロン・バー
から1804年に「マンハッタンの資産を99年間借用する」という条件で購入した。
アーロン・バーはバンク・オブ・マンハッタンを1799年に設立した。
当時、バーはトーマス・ジェファーソン政権で副大統領となっており、その購入代金62,500ドルを是が非でも必要としていた。
借地は1866年まで続けられた。
アスターはその土地を250近くに区切り、これらを又貸しした。
貸与の条件は店子が21年間その土地で何をやってもよく、その期限が過ぎれば借用を更新するか、アスターが引き取るというものだった。
1830年代、アスターは次に経済好況がニューヨークにもたらされた時、ニューヨーク市はすぐに世界最大の都市の一つとして頭角を現すだろうと予見した。
アスターはアメリカ毛皮会社やその他の事業から引退した。
その売却資金を使ってマンハッタンの広大な不動産を購入して開発した。
マンハッタン島北方の急速な成長を予測し、現在の市域を超えて次から次に土地を購入した。
アスターはその土地に建物を建てることは滅多になく、他人にそれを使わせては賃料を手に入れた。
その事業からの撤退後、残りの人生を文化事業のパトロンとして過ごした。
鳥類学者ジョン・ジェームズ・オーデュボンや詩人で作家のエドガー・アラン・ポーを支援した。
また、ヘンリー・クレイの大統領選挙運動を支えた。
ニューヨーク市の大衆のためにアスター図書館を建てる費用として40万ドルを遺贈した。
その後にニューヨーク公共図書館に統合された。
また、ドイツの故郷ヴァルドルフにある救貧院には5万ドルを寄付した。
アスターはその遺産の大半を次男のウィリアム・バックハウス・アスター・シニアに遺した。
なお、長男のジョン・ジェイコブ2世は精神障害があり、その人生を全うするに十分な医療費は遺されていた。
ニューヨーク公共図書館(五番街と42番街角)入り口に座っている2頭のライオン大理石像は元々
レオ・アスター
レオ・レノックス
と名付けられていた。
これは図書館の創設者であるアスターとジェイムズ・レノックスに因む命名である。
その後、ロード・アスターとレディ・レクソンと呼ばれるようになった。
ニューヨーク市長
フィオレロ・ラ・ガーディア
は世界恐慌のさなかに2頭を「忍耐」(Patience) と「不屈」(Fortitude) と改名している。