フランクフルトを本拠地とするドイツのメガバンクのこと。
19世紀後半の大不況期にドイツ国内最大の銀行へと成長した。
ドイツ国内大手同様、戦前から監査役を複数の投資先等で兼任させてきた。
ドイツ銀行は民間の市中銀行であり、中央銀行のドイツ帝国銀行(ライヒスバンク)や
ドイツ連邦銀行とは異なる。
パウル・アクライナー会長(Paul Achleitner)
と、ドイツ銀行生え抜きの
クリスティアン・ゼーヴィング社長(Christian Sewing)
という陣立てである。
ドイツ銀行はニューヨーク証券取引所とフランクフルト証券取引所に上場している市中銀行で、ドイツ株価指数(DAX)の採用銘柄である。
中央銀行と誤解されやすいが、ドイツの中央銀行はドイツ連邦銀行である。
1890年には保険会社
アリアンツ
の創業に参加した。
戦後から日本公共外債引受け大手の一つでもある。
1995年からは商業銀行から投資銀行へ事業の主軸を移しており、2005年までにドイツ銀行は収入の75%を投資銀行部門から出すようになった。なお、同じころ自己資本利益率(ROE)は4%から25%へと伸びた。
2004年、ミューチュアル・ファンドの短期取引・時間外取引で不当な利益をあげたスキャンダルが報道された。
2003年9月から同様の不正競争が捜査されていた。
ドイツ銀行は、ドレスナー銀行がコメルツ銀行に買収される2009年まで、両銀行と併せ、「ドイツ三大銀行」と呼ばれた。
2013年12月、欧州委員会からLIBOR等不正操作により制裁を受けた。
2014年、ルクセンブルク・リークスに租税回避を暴露された。
2016年9月、米国内で住宅ローン担保証券(MBS)を不正に販売した疑いで米司法省から
和解金 140億ドル
を請求された。
MBS証券はサブプライム住宅ローン危機の一因だったとされている。
10月17日、他行と共謀して
銀価格を不正に操作していた疑惑
をめぐり、投資家に対して3800万ドルを支払うことで和解した。
原告は、ドイツ銀行が1999年以来、HSBCやスコシアバンクと シルバー・フィックスと呼ばれる秘密会合を毎日開いて銀価格を不正に操作し、UBSはこの価格を利用していたと主張していた。
なお、この会合の参加者にはJPモルガンもふくまれる。
なお、この会合はゴールド・フィックスより参加者が少なく、その分共謀が容易な構造であった。
銀価格は歴史上の大不況を経て世界的に下落したが、ちょうどこの時代にドイツ銀行が台頭した。
2017年1月、ロシアでの100億ドルもの資金洗浄と英国での金融犯罪、双方における避止義務違反で6.3億ドルの制裁金を課された。
1870年1月22日、統一ドイツ資本の海外進出を促進するため
外国貿易に特化した銀行
としてベルリンで創業した。
創業者は銀行家
アデルベルト・デルブルック(Adelbert Delbruck)
と政治家の
ルートヴィヒ・バンベルガー(Ludwig Bamberger)
で、重役には銀行家の
ヘルマン・ヴァリッヒ
らのほか、ドイツ銀行設立を指導した
ゲオルク・フォン・ジーメンス
が就いた。
ゲオルクはヴェルナー・フォン・ジーメンスの従弟で後に頭取となった。
創業2年後の1872年(明治5年)、初の海外支店を日本の横浜と清の上海に開設した。
この際の人材は、普仏戦争でパリ割引銀行中国支店から解雇された職員を用いた。
翌年にはロンドン支店も開設した。
ただ、東アジア取引は思ったほどうまくゆかず、経営を圧迫し、横浜支店も上海支店も3年で閉鎖した。
以後は国内の産業に投資するユニバーサルバンク(銀証非分離)への道を選んだ。
ベルリナー・バンク=フェアアインとドイチュ・ウニオン=バンクを1876年に吸収合併し、ドイツ銀行は国内最大の銀行となった。
翌年5月にはAEG の新株700万マルクの引受幹事として200万マルクを投じて、ゲオルクも合計で10年ほど監査役などの肩書きでAEG の経営に携わった。
また、集中した資本をドイツ銀行は国外にも投じた。
サンクトペテルブルクの海外貿易銀行(1881年)、アメリカ合衆国のノーザン・パシフィック鉄道(1883年)、ラテンアメリカのドイツ海外銀行(1886年)、オスマン帝国のバグダード鉄道(1888年)・ヒジャーズ鉄道(1900年)などに出資した。
国内では鉄鋼・兵器コンツェルン
クルップ
へ融資をしたり、化学大手
バイエル
がベルリン株式市場へ上場するのを仲介したり、また多くの企業を傘下に置いたりした。
1896年、ジーメンス・ウント・ハルスケが最初に発行した社債1千万マルクを幹事として引受け販売した。
この年にゲオルクはAEG の監査役を辞めてジーメンス・ハルスケの方へ鞍替えした。
1889年、ディスコント・ゲゼルシャフトに従い独亜銀行を設立した。
ここにはドイツ銀行の他に
ロスチャイルド
などが参加した。
そして6年後にドレスデン銀行とシャフハウゼン銀行が続いた。
独亜銀行の監査役会は、同行のベルリン支店から多めに代表を選び、経営実権を握る事業委員会へ送り出した。
元来ディスコント・ゲゼルシャフトは元アーヘンの毛皮商人
ダーフィト・ハンゼマン
が1849年に興したベルリン信用組合である。
1837年にライン鉄道会社の設立をリードし、三月革命のとき蔵相に就任していた。
産業革命による人間疎外のあまり1849年2月9日には勅令でツンフトが復活するほどであった。
しかし、ベルリン信用組合はそんな戦いに臨む職人らの無限責任信用組合であった。
この革命でベルギーではジョナサン・ラファエル・ビショフサイムがブリュッセルの信用組合Union du Crédit を創設しており、これをモデルにベルリン信用組合ができた。
政府はベルリン信用組合を社団法人とみなし、免許権を用いて組合の存続を妨害した。
そこでハンゼマンは1851年に定款を変更して
合資会社ディスコント・ゲゼルシャフト
を誕生させた。これに対して、プロイセン銀行が会社の裏書する手形について購入や割引を拒否した。
会社総会は1855-1856年に事業範囲を急拡大し、鉄道・鉱工会社の発起に関わる大銀行となった。
このようなディスコントは1901年にフランクフルトのM. A. von Rothschild & Söhne を継承した。
1904年、Deutsche Petroleum-Aktiengesellschaft (DPAG) をベルリンに設立し、後にブリティッシュ・ペトロリアムとなる。
第一次世界大戦勃発時点で、トルコ石油の25%を支配しもpののロイヤルダッチ・シェルも25%を占め、あとの50%はBP が保有した。
交渉を重ねてもドイツ銀行の支配率は変わらなかった。
1917年、ドイツ銀行元重役が映画会社ウーファの設立を資金面で主導した。
1924年、ドイツ銀行はロスチャイルド傘下の
ヴュルテンベルク手形交換組合銀行
(Württembergischen Vereinsbank)
を吸収した。
この銀行は1870年と翌年にそれぞれドイツ銀行とDeutsche Vereinsbank in Frankfurt am Main の設立資本金を提供した。
1874年に兵器会社Ludwig Loewe & Co. に資本参加した。
同行のカウラ一族がLLを代表してオスマン帝国に軍需品を提供した。
また、カウラ一族の銀行はドイツ銀行へアナトリア鉄道(バグダード鉄道西部)の敷設事業を斡旋した。
1888年、ビスマルクは関知しないと通告したが、ドイツ銀行とヴュルテンベルク・フランクフルトそれぞれの手形交換組合銀行が鉄道会社を設立した。
認可の見返りに帝国の外債3千万マルクをBerliner Handels-Gesellschaft, Robert Warschauer とで引受けた。
ブライヒレーダーや Vincent Henry Penalver Caillard (1856–1930) が参加する
オスマン債務管理局
に鉄道事業の保証財源を集中させ、見返りにヴィンセントが鉄道敷設に参加した。
ピアソンに建設を断られ、会社はRégie générale des chemins de fer に現場を引受けさせた。
全線の開通したころに起きたベアリング恐慌をきっかけに、会社資本はドイツ銀行グループが独占した。
1929年、ドイツ銀行はシャフハウゼン銀行やシュレジエン銀行だけでなく、ディスコント・ゲゼルシャフトも合併した。
これは過去からディスコント・アソシエーションと呼ばれてきたコネクションであった。
反ユダヤ的政策を強化したヒトラーのナチ党は、総選挙に勝利し1933年にドイツの政権を握ると、ドイツの大手企業にユダヤ系社員の追放を強制する方針を示した。
これを受けてドイツ銀行は取締役会からユダヤ系役員3人を追放した。
また、ドイツ政府によるユダヤ系資本の押収による経済の「アーリア化」に関与している。
社史によれば、1938年11月までに363件の事業押収に協力した。
第二次世界大戦では占領地の銀行を併合し、規模を拡大させた。
第二次世界大戦のドイツ敗戦と東西ドイツへの分割に伴い、ドイツ銀行は資本主義体制下の西ドイツに組み込まれた。
しかし、連合国軍司令部から10分割命令を受け1948年4月1日に分離解体された。
連合国による占領体制が終わった後の1952年には、10の銀行は3つに統合し、1957年にはこれらの銀行も合併統合し、西ドイツのフランクフルトを本店として「ドイツ銀行」が復活した。
戦前からドイツ経済の巨人であったヘルマン・ヨーゼフ・アプスの活躍があった。
1956年に敵性資産として、シュティンネス・コンツェルンの後継であり、創業者の息子が56%を支配していた
ヒューゴー・シュティンネス・コーポレーション
が競売にかけられることになった。
なお、アプスはシュティンネスを弁護して競売にかけたりして国の返済能力が落ちたらどうするのかと凄んでみせた。
コンラート・アデナウアー首相にも個人的に働きかけた。
合衆国政府は彼らの主張を受け容れて、シュティンネスの競売を特例としてあつかい、ここへ西ドイツが参加することを認めた。
西ドイツの財閥解体は失敗したため1958年になってから競争制限禁止法ができた。
西ドイツでは銀行法第12条と第19条により自己資本規制さえクリアすれば持ち株比率を好きなだけ上げることができた。
また、1965年の株式法改正までは、株主の指示がないかぎり、寄託されている株式議決権をずっと使えた。
なお、改正してもなお最長5ヶ月利用できた。このような法律環境で、銀行は戦前同様に参加企業へ監査役を派遣して経営を支配した。
ベルリンの壁崩壊直前においてさえ、株式法第100条は一企業の役員が他企業の監査役を最高10社まで兼務することを認めていた。
寄託株式による議決権シェアは、1986年のドイツ銀行が保有するものでは、ダイムラー・ベンツ株で41.80%、次にクレックナー・フンボルト・ドイツ株で44.24%、そして自己株式では47.17%であった。
なお、ドイツ銀行は1975年、フレデリック・カール・フリックからダイムラー・ベンツの株式を10億ドル超を買っていた。
金融ビッグバン後の1989年11月7日
アルフレート・ヘルハウゼン
の主導でダイムラークライスラー・エアロスペースが設立された。
ヘルハウゼンはダイムラー・ベンツの監査役会会長であった。
ヘルムート・コール首相の経済顧問としても辣腕をふるったものの11月30日ドイツ赤軍がらみのテロに遭って死亡した。
同年11月にドイツ銀行はロンドンの投資銀行
モルガン・グレンフェル銀行
を買収した。
ドイツ銀行は機関化された資力で1998年に米国8位のバンカース・トラスト(Bankers Trust)を買収した。
クレディ・リヨネ・ベルギー
を買収した。
日本政府の規制緩和により、日本の三井グループ中核企業のさくら銀行(現三井住友銀行)の買収も検討されていた。
2001年、ドイツ銀行はJPモルガンがウォール街で本部としていた高層ビル60 Wall Streetを買収した。
2009年3月までにドイツポスト(ドイツ郵便)が所有するポストバンク株の29.75%を買収すると発表した。
同時にドイツポストは残る21.25%の株についても優先的にドイツ銀行に売却することも決まっている。
2015年1月、スイス国立銀行が従来の姿勢を変えてスイスフランの急騰を許した。
この動きにより、匿名筋からの情報がら約1億5000万ドルの損失を出したと見られる。
同年6月には9人の顧客が脱税容疑で捜査を受けて、Caxton Associatesへの人材流出が起こるなどした。
9月に起きたフォルクスワーゲンの排出ガス規制不正問題の際には1兆円を超える緊急融資を行った。
2016年8月には、2017年にアルゼンチン部門を
に売却することで合意し、ブラジル部門の人員の半数をリストラする方針を固めるなど中南米市場からの撤退を進めた。
2017年4月には中華人民共和国の
海航集団
が筆頭株主となった。
なお、海航集団の経営はその後悪化し、2018年には独銀株の売却を決定した。
海航集団は香港民主化デモや新型コロナウイルスなどの影響もあり2021年1月29日には破綻した。
2018年9月、ユーロ・ストックス50指数の算出開始以来続いた最古の銘柄から除外された。
2019年7月には従業員の2割に当たる1.8万人の削減、株式売買業務からの撤退を含む投資銀行部門の大規模なリストラを実施した。