アンドリュー・カーネギー(Andrew Carnegie)
1835年11月25日 - 1919年8月11日
スコットランド生まれ鉄鋼王と称された。米国の実業家。
カーネギーはスコットランドのダンファームリンで手織り職人の長男として生まれた。
当時のイギリスの織物産業は、蒸気機関(力織機)を使用した工場に移りつつあった。
手織り職人の仕事がなくなってしまったため、1848年に両親は米国ペンシルベニア州アラゲイニー、2013年現在のピッツバーグへの移住を決めた。
そのため、移住費用も借金する必要があった。なお、当時のアラゲイニーは貧民街だった。
1848年、カーネギーが13歳で初めて就いた仕事は綿織物工場でのボビンボーイ(織機を操作する女性工員にボビンを供給する係)で、1日12時間週6日働いた。
当初の週給は1.20ドルだった。
父は当初綿織物工場で働いていたが、リンネルを織って行商する仕事を始めた。母は靴の包装でかせいだ。
カーネギーはその後何度か転職し1850年、叔父の勧めもあってオハイオ電信会社のピッツバーグ電信局で電報配達の仕事に就いた(週給2.50ドル)。
この仕事は劇場にタダで入れるなどの役得があり、そのおかげでカーネギーはシェイクスピア劇のファンになったという。
カーネギーは記憶がよく非常に働き者で、ピッツバーグの企業の位置と重要な人物の顔をすべて記憶し、多くの関係を築いていった。
また、自分の仕事に細心の注意を払い、当時の電信局では受信したモールス信号を紙テープに刻み、テープからアルファベットに解読して電報を作成していたが、カーネギーは
モールス信号を耳で聞き分ける特技
を身につけ、1年以内に電信技士に昇格した。
ジェームズ・アンダーソン大佐は、働く少年たちのために毎週土曜の夜に約400冊の個人的蔵書を開放していた。
カーネギーはそこで勉強し読書好きになり、経済面でも知的・文化的面でも借りられるものは何でも借り、独力で成功を導いた。
1853年、ペンシルバニア鉄道の
トマス・アレクサンダー・スコット
がカーネギーを秘書兼電信士として引き抜いた。
週給は4.00ドルになった。
スコットがペンシルバニア鉄道の副社長に昇進すると、代わりに18歳でカーネギーがピッツバーグの責任者になった。
このペンシルバニア鉄道での経験は後の成功に大いに役立った。
当時の鉄道会社は米国初の大企業群であり、その中でもペンシルバニア鉄道は最大の企業であった。
カーネギーはそこで、特にスコットから経営と原価管理について多くを学んだ。
スコットはまた、カーネギーの最初の投資についても支援した。
スコットや社長の
J・エドガー・トムソン
は取引関係のある会社の内部情報を知りうる立場にあった。
それを利用して株式を売買したり、代償の一部として契約相手の株式を得たり個人財産を増やしていた。
1855年、スコットはカーネギーに500ドルで
アダムス・エクスプレス
の株式を購入する話をもちかけ、カーネギーの母が700ドルの家を抵当に入れて500ドルを捻出した。
数年後、オハイオへ移動中のカーネギーに、発明家
ウードルフ
が寝台車のアイデアを持ちかけた。
この話からペンシルバニア鉄道は試験的な採用を決めた。
ウードルフに誘われたカーネギーは、借金をして寝台車製造会社に出資し、大成功を収めた。
カーネギーは儲けた資金を鉄道関連の会社(鉄鋼業、橋梁建設業、レール製造業など)に再投資し、徐々に資金を蓄えていき、後の成功の基盤を築いた。
その後も企業を設立する際に、トムソンとスコットとの密接な関係を利用した。
カーネギーがレールと橋梁を供給する会社を設立した際にはこの二人に株主となってもらった。
南北戦争の前に、カーネギーはウードルフの会社とジョージ・プルマンの会社の合併を仲介した。
プルマンは800km以上の長距離の旅行が可能な一等寝台車を発明していた。
この投資では大いに成功し、ウードルフとカーネギーの利益の源泉となった。
その後もカーネギーはスコットの下で働き、鉄道のサービスにいくつか改善を施した。
スコットは1861年春、軍隊輸送の責任者(陸軍次官補)に任命され、カーネギーを東部の軍用鉄道と合衆国政府の電信網の監督に任命した。
カーネギーは南軍によって寸断されたワシントンD.C.までの鉄道路線の再建を支援した。
ブルランでの北軍の敗北の直後にワシントンD.C.への北軍の旅団を輸送する機関車に乗り込んだ。
カーネギーは危険と隣り合わせの敗軍の輸送も現場で監督した。
カーネギーの指揮下で電信サービスは効率化され、情報を正確に早くつかんだ北軍が最終的に勝利する一因となった。
南軍を打ち負かすには大量の弾薬を必要とし、補給には鉄道や電信が大いに活用された。
南北戦争の結果において、兵站線確保という目的から産業の重要性が明らかとなった。
南北戦争の際、艦船の装甲、砲、その他様々な工業製品に使用するため鉄鋼の需要が高まった。
鉄鋼業が盛んなピッツバーグは軍需産業の一大拠点となっていた。
カーネギーは戦前からも製鉄業に投資しており、それが富の源泉となった。
南北戦争終結後にペンシルバニア鉄道を退職し、製鉄業に専念した。
いくつかの製鉄所を創業し、最終的にピッツバーグで
キーストン鉄橋会社
ユニオン製鉄所
を創業した。
ただ、ペンシルバニア鉄道は辞めたがその経営陣(スコットやトムソン)とは密接な関係を保った。
カーネギーは、その関係を利用し、キーストン鉄橋会社が鉄橋建造の契約を結び、製鉄所がレール生産の契約を結んだ。
また、スコットとトムソンにはカーネギーの会社の株主になってもらい、ペンシルバニア鉄道はカーネギーの最大の顧客となった。
カーネギーが最初の製鋼工場を建設した際は、トムソンの名を冠した。
カーネギーは実業家として優れていただけでなく、人間的な魅力と文学的素養も備えており、多くの社会的行事に招待されるようになった。
また、それをうまく利用した。
セントルイスでミシシッピ川をまたいで建設されたイーズ橋(1874年完成)では、キーストン鉄橋を通して鋼製の材料を提供すると共に、このプロジェクト自体にも出資した。
このプロジェクトは、材料としての鋼の技術的優位性を実証する試金石という面があった。
それが成功したことで、鋼の需要が拡大した。
1884年、ペンシルベニア州ベナンゴ郡の産油地帯にある農場に4万ドルを出資した。
その農場に設置した油井から1年で石油が採れ利益が上がるようになり、配当金として100万ドルを得た。
カーネギーの母は彼を結婚させなかったため1886年に母が亡くなると、1887年4月22日、52歳の時、30歳のルイーズ・ホイットフィールドという女性と結婚した。
1897年、唯一の子どもである娘が産まれ、母の名をとってマーガレットと名付けた。
カーネギーはそれまでに米国で個人が所有する最大の製鋼所を経営し、製鋼業で財産を形成した。
製鋼にベッセマー法を採用して鋼を安価に大量生産できるようにした。
原材料の供給元を含めた垂直統合を成し遂げ、2回の重要な技術革新があった。
1880年代後半、カーネギーの会社は銑鉄、コークス、鋼製のレールの世界最大の供給業者となり、日産2,000トンの銑鉄を生産していた。
1888年、ライバルのホームステッド・ワークスを買収し、それに伴って石炭と鉄鉱石の鉱山、685kmもの長い鉄道、大型貨物船を入手した。
1892年、所有する会社をまとめて、カーネギー鉄鋼会社を創業した。
1889年には米国の鋼生産量はイギリスを抜き、その大きな部分をカーネギーが所有していた。
1901年、66歳になったカーネギーは引退を考え、その準備として会社を一般的な株式会社化した。
当時、米国金融業界の最重要人物である銀行家
ジョン・モルガン
は、カーネギーは非常に効率的に利益を生み出したと評価していた。
モルガンは鉄鋼業界を統一することで、コストを削減し、製品価格を下げ、大量生産し、労働賃金を上げることを考えていた。
そのためにカーネギーの会社や他の会社を買収して合併させ、無駄の排除を目指した。
1901年3月2日、モルガンらの折衝で時価総額10億ドルを越える史上初の企業
USスチール
が誕生した。
チャールズ・M・シュワブが秘密裏に交渉したこの買収劇は、当時の最大のものだった。
モルガンが組織したトラストとカーネギーが手放した企業がUSスチールに組み入れられた。
カーネギーの会社は年間売上高の12倍、4億8千万ドルで買収され当時最大の個人的取引となった。
カーネギーの保有していた総額2億2563万9000ドルの株式は、50年間5%の金価格債券と交換された。
そして3月2日、資本金14億ドル(当時のアメリカの国富の4%に相当)のUSスチールが創設された。
債券は2週間以内にニュージャージー州ホーボーケンのハドソン信託会社に運び込まれ、約2億3千万ドルぶんの債券を収めるための地下室が新たに建設されている。