胡耀邦(胡耀邦 ピンイン)
1915年11月20日 - 1989年4月15日
中華人民共和国の高官であり、中国の政治家であった。
1981年から1987年まで中国共産党の最高幹部を務めた。
文化大革命(1966年 - 1976年)後、胡は当時の中国の最高指導者であった
ケ小平
の側近として台頭し、1981年から1982年までは主席、1982年から1987年までは総書記を務めた。
胡は1930年代に中国共産党に入党した。
文化大革命中、
毛沢東
によって粛清、召還、そして再び粛清された。
毛沢東の死後、ケ小平が権力を握ると、胡錦濤は
博饉撰正計画
において重要な役割を果たした。
1980年代を通して、胡錦濤はケ小平の指導の下、一連の経済・政治改革を推進した。一方で、胡錦濤の政治・経済改革は、自由市場と政府改革に反対する党内の有力幹部の敵にもなった。
1986年12月から1987年1月にかけて中国全土で大規模な学生運動が発生した際、胡錦濤の政敵たちは、この混乱の責任を胡錦濤になすりつけ、胡錦濤が「ブルジョア自由化」を容認していたことが抗議運動の引き金になったとケ小平に確信させた。
胡錦濤は1987年初頭に総書記の職を辞任せざるを得なかったが、政治局員としての地位は維持された。
胡錦濤の書記長としての地位は、胡錦濤の側近であった趙紫陽に引き継がれ、胡錦濤の経済・政治改革の多くを引き継いだ。
1989年4月に胡錦濤が死去した翌日、北京で小規模な非公式追悼式が開催され、人々は中国政府に対し胡錦濤の功績を再評価し、認めるよう求めた。1週間後、胡錦濤の葬儀の前日には、約10万人の学生が天安門広場にデモ行進を行った。
最終的に1989年6月の天安門広場での抗議行動と虐殺(天安門事件)へと発展した。
その後、中国政府は胡錦濤の生涯に関する詳細な情報を検閲した。
2005年に胡錦濤の生誕90周年を機に、公式に胡錦濤のイメージを回復し、検閲を解除した。
胡錦濤は江西省公慶城に埋葬された。
胡耀邦の祖先は
江西省の客家人
であった。
明朝(1368〜1644年)の間に、彼らは湖南省に移住し、そこで胡耀邦が生まれた。
胡耀邦は貧しい農民の家庭に生まれ、正式な教育を受けず、独学で読み書きを習得した。
胡は12歳の時に最初の反乱に参加し、わずか14歳で家族を離れて中国共産党に入党した。
1933年に正式な党員となった。
1930年代、中国共産党を二分した派閥争いの間、胡は毛沢東を支持し、28人のボルシェビキに反対した。
胡は長征の最年少の退役軍人の一人であった。
毛沢東が権力を失い、第四次包囲戦が始まる直前、毛沢東支持者たちは迫害され、胡耀邦は死刑を宣告された。
長征開始直前、胡耀邦らは斬首刑に処せられるところだった。
しかし、地元の有力な共産党指導者
譚玉宝
が土壇場で介入し、胡耀邦の命は救われた。
ただ、胡耀邦は毛沢東を支持していたため、信頼できないとみなされ、監視下に置かれるため長征に参加するよう命じられた。
胡耀邦は、遵義近郊の
廬山の戦い
で重傷を負った。
遵義会議を経て毛沢東が権力を取り戻した地域に近い。
胡が負傷した後、共産党の
野戦医療チーム
は胡を助けず、彼を戦場に置き去りにし、道端で死なせようとした。
胡は、たまたま通りかかった幼なじみの
中国赤軍司令官
に救助された。
胡は友人のあだ名を呼んで助けを求めた。
友人は撤退する中国赤軍主力部隊に追いつき、傷の治療を受けさせるのを手伝った。
胡は長征中に
国民党の捕虜
となった。
1936年、胡は
張国涛
が率いる遠征軍に加わった。
張国涛率いる2万1800人を超える軍勢の目的は、黄河を渡り、陝西省西部の共産党拠点を拡大し、ソ連軍、あるいは共産党とソ連の同盟国であった新疆ウイグル自治区の軍閥、盛世才と合流することだった。
ただ、張国涛軍は、地元の国民党軍閥である馬一派に惨敗した。
胡耀邦は秦継衛と共に、馬一派の軍に捕らえられた数千人の捕虜のうちの2人となった。
胡は、馬歩芳が処刑ではなく
強制労働
として用いることを決定したわずか1500人の捕虜のうちの1人であった。
馬歩芳は、馬彪将軍が率いるイスラム騎兵数個師団を日本軍との戦いに派遣した。
しかし、蒋介石は馬歩芳に対し、日本軍との戦闘にさらに多くの兵力を投入するよう圧力をかけた。
馬歩芳は、自軍の兵力を増やす代わりに、1,500人の中国赤軍捕虜を徴兵として送り込むことを決定した。
行軍経路は陝西省の共産党拠点の境界を通過しなければならなかった。
このため、胡耀邦と秦継衛は共産党側に戻ることを決意し、秘密裏に脱走を計画した。
脱走は計画通りに成功し、捕虜1,500人のうち1,300人以上が延安に帰還した。
毛沢東は帰還した共産党員を自ら歓迎し、胡耀邦は共産党軍に復帰し、生涯をそこで過ごすことになった。
延安に到着した胡耀邦は
抗日軍事学校
に入学した。
延安で学んでいた胡氏は、同じく延安の学生だった
李趙
と出会い、結婚した。
研修後、胡氏は政治部に勤務し、
彭徳懐
が率いる第三戦線軍の一員として勤務した。
胡氏は1930年代にケ小平と親交を深め、緊密に協力するようになった。
1940年代には、ケ氏の下で
第二野戦軍の政治委員
を務めた。
国共内戦の末期、胡氏はケ氏に同行して四川省に赴き、1949年に共産党軍は国民党軍から四川省を奪還することに成功した。
中国の土地改革運動の最終段階において、胡錦濤は党による
農民の地主
に対する暴力の抑制に尽力した。
「地主を殲滅せよ」という呼びかけは地主の生命ではなく財産を奪うことを意図していると説明し、地主という理由だけでは処刑しなかった。
胡錦濤は党の工作班に対し、
「問題解決のために斬首を用いる」こと
は決してしてはならないと指示した。
なお、胡錦濤の見解では、「邪悪な暴君」(最も搾取的または犯罪的な地主)と
反革命的な地主の処刑
は「彼らを殺すよう我々に強いているのは、彼ら自身である」ため適切であったと主張した。
1949年、中国共産党は中国本土で国民党軍を破り、中華人民共和国を建国した。
1952年、胡氏はケ小平に同行して北京に赴任した。
1952年から1966年まで
共産主義青年団
の指導者を務めた。
その後、胡氏は共産党内で急速に昇進した。
1964年に毛沢東から「実務研修が必要だ」と述べて陝西省党書記に任命された。
胡氏が北京以外の場所で活動するよう命じられたのは、彼が
「毛沢東主義への熱意が十分ではない」
と判断されたため、左遷したものと考えられる。
ただ、多くの同僚とは異なり、胡氏は1969年4月の第9回党大会まで党中央委員会の委員職を維持した。
文化大革命の間、胡氏は二度の粛清と二度の復権を経験した。
これは胡氏の師であるケ小平の政治的経歴を彷彿とさせるものであった。
ただ、1969年、胡氏は北京に召還され、迫害を受けた。
胡氏は「三胡」の「ナンバーワン」となり、その名は中傷され、首には重い木の首輪を着けられて北京市内を練り歩かされた。
他の二人の「胡」は、共産主義青年団で二番目に幹部だった
胡克世
と、共産主義青年団で三番目に幹部で、ケ小平の側近でもあった
胡奇麗
だった。
公衆の面前で辱められた後、胡氏は厳重な警備の下で「労働改造」に参加するために隔離された
労働収容所
に送られた。
政治亡命中、胡錦濤は大きな岩を手で運ぶ労働を強いられた。
1973年から1976年までケ小平が北京に一時的に召還された際、胡錦濤も召還された。
ただ、1976年にケ小平が再び粛清された際、胡錦濤も粛清された。
二度目の粛清の後、胡錦濤は牛の飼育に送られた。
胡錦濤は毛沢東の死後間もない1977年に二度目の召還と名誉回復を受けた。
胡錦濤は召還後、党組織部の部長に昇進した。
後に政治局の一部門を通じて党の宣伝活動を指揮した。
胡錦濤は、文化大革命中に迫害された人々の運命を再評価する責任を負った主要指導者の一人であった。
中国政府によれば、胡錦濤は300万人以上の人々を無罪放免にする個人的な責任を負っていた。
胡錦濤は1978年の
民主化の壁の抗議活動
を暗黙のうちに支持し、活動家2人を北京の自宅に招待した。
胡錦濤は毛沢東の後継者である
華国鋒
の「二つの何でも」政策に反対し、ケ小平の権力掌握を強く支持した。
胡耀邦の権力掌握はケ小平の仕業であり、ケ小平が華国鋒を中国の「最高指導者」の座から追い出すと、胡は党の最高位にまで上り詰めた。
1980年、胡は中央委員会書記局長に就任し、強力な権力を持つ政治局常務委員に選出された。
1981年、胡は中国共産党主席に就任した。
1982年には中国を
毛沢東主義政治
から遠ざけるための広範な取り組みの一環として、
党主席の職を廃止すること
に尽力した。
主席の職務の大部分は総書記に移管された。
胡はそのポストに就いた。
ケ小平による華国鋒の退陣工作は、中国は
厳格な毛沢東主義経済政策
を放棄し、より現実的な政策を採用すべきだという党指導部の合意を示すものであった。
胡はケ小平による中国経済改革の試みの多くを指揮した。
1982年までに、胡はケ小平に次ぐ中国で第二位の権力者となった。
胡錦濤国家主席は、国家主席としての最後の10年間を通じて、知識人の役割が
中国の「4つの近代化」の達成
に不可欠であると主張し続けた。
1980年代初頭、ケ小平は胡錦濤と趙紫陽を「右腕」と呼んだ。
総書記に昇進した後、胡錦濤は趙紫陽としばしば協力しながら、数々の政治改革を推進した。
なお、胡錦濤の改革の最終目標は、時に曖昧に定義されていた。
胡錦濤は、政治局入りするための
候補者の直接選挙
を義務付けること、
複数候補者
による選挙をより頻繁に実施すること、
政府の透明性
を高めること、党の政策決定前に国民の意見を聴取すること、そして政府職員が自らの過ちに対して直接責任を負う度合いを高めることなど、中国の政治体制改革を試みた。
胡錦濤は在任中、文化大革命中に迫害された人々の社会復帰に尽力した。
多くの中国人は、これが胡錦濤の最も重要な功績であると考えている。
また、胡錦濤は、以前の政策の誤りを認識し、チベット自治区において現実的な政策を支持した。
胡錦濤主席は、1980年5月にチベット自治区を訪問した後、チベット人とウイグル族には自らの問題を管理する権限を与えるべきだと考え、数千人の漢人幹部をチベット自治区から撤退させるよう命じた。
胡錦濤は漢人党幹部の数を減らし、社会統制を緩和した。
なお、残った240人の漢人はチベット語とウイグル語を学ぶことを義務付けられた。
彼は「現状」の改善に向けた6つの要求を提示した。
チベット自治区への国家資金の増額、教育の改善、チベット・ウイグル文化の復興への取り組みなどを挙げた。
同時に胡氏は、「チベットの現状に合わないものはすべて拒否または修正すべきだ」と述べた。
胡氏は今回の訪問中、チベット人に対し、中国の同地域における誤った統治について明確に謝罪した。
また、新疆ウイグル自治区における
兵団(農民兵)の廃止
を宣言した。
しかし、八大元老の1人となる
王震
の反対により実現しなかった。
その後、胡氏の民族政策は、
ケ立群
などの高官や、胡耀邦が少数民族に過剰な社会的特権を与えていると考える漢民族主義者から批判された。
胡錦濤は総書記在任中、広範囲に渡航し、1500もの地区や村々を訪問して地方官吏の業務を視察して一般民衆との交流を深めた。
1971年には長征のルートを辿り、チベット、新疆ウイグル自治区、雲南省、青海省、内モンゴル自治区にある遠隔地の軍事基地を視察する機会を得た。
胡氏はその自由主義と率直な意見表明で知られ、時に他の中国高官を動揺させた。
1984年の内モンゴル訪問の際、胡氏は伝染病予防のため、中国国民は西洋式(フォークとナイフを使い、個別の皿で)の食事を始めるべきだと公に示唆した。
彼は毛沢東風のスーツを脱ぎ捨て、西洋風のビジネススーツを好んだ最初の中国高官の一人だった。
毛沢東のどの理論が現代中国にとって望ましいかと問われた際、胡氏は「どれも望ましいとは思わない」と答えたと伝えられている。
胡氏はマルクス主義を完全に放棄する用意はなかったものの、共産主義は「人類のあらゆる問題」を解決できないという意見を率直に表明した。胡氏は知識人に対し、民主主義、人権、そして中国政府における共産党の影響力に法的制限を導入する可能性など、物議を醸す問題をメディアで取り上げるよう促した。
多くの党長老は当初から胡錦濤を信用しておらず、やがて彼の影響力を恐れるようになった。
八大長老の一部の怒りが最終的に胡錦濤総書記の辞任につながった。
胡錦濤は日中関係の修復に真摯に尽力したが、その努力の範囲については批判を受けた。
1984年、北京が日本の中華人民共和国承認12周年を祝った際、胡錦濤は3,000人の日本の青年を北京に招待した。
また、上海、杭州、南京、武漢、西安への視察を手配した。
前年に日本が招待した中国の青年はわずか500人だった。
このため、多くの政府高官は胡錦濤の尽力を過剰とみなした。
胡錦濤は、訪中した日本政府高官への豪華な贈り物や、中曽根首相の息子が北京を訪問した際に娘を個人的に同行させたことで、内部から批判を受けた。
胡錦濤は、強固な日中関係の重要性、そして第二次世界大戦中に日本が中国で犯した残虐行為は軍閥によるものであり、一般市民によるものではないという信念を理由に、自らの行動を擁護した。
胡錦濤は2年連続で中国の国防予算削減を提言したことで人民解放軍内の潜在的な同盟者を疎外し、軍幹部から批判を浴びるようになった。
軍当局は、1985年にオーストラリアから
軍事装備
を購入した際に胡錦濤が誤った判断をしたと非難した。
胡錦濤が英国を訪問した際には、エリザベス2世女王主催の晩餐会でスープを大音量で飲んでいたとして、軍当局から批判された。
趙と胡錦濤は
大規模な反汚職プログラム
を開始した。
親の影響下で育った党高官の子弟に対する調査を許可した。
胡錦濤によるこの「皇太子党」に属する党幹部への調査は、多くの有力党幹部の不興を買った。
ケ小平が胡錦濤の改革の一部への支持を拒否した。
その後、胡錦濤はケ小平の優柔不断さと「古い」考え方を批判する私的な発言をした。
ケ小平は最終的にその意見を知ることとなった。
1986年12月、学生グループが政治・経済の自由化を支持するため、12以上の都市で抗議活動を組織した。
抗議活動は安徽省合肥市の理工大学で始まり、当時同大学の副学長を務めていた活動家で天体物理学者の
方立志
が主導した。
方氏は、中国政府における共産党の影響力を終わらせる政治改革の導入について公然と発言した。
抗議活動は、
王若旺氏
劉斌燕氏
という二人の「急進的知識人」によっても主導された。
ケ小平は3人の指導者全員を嫌っており、胡主席に彼らを黙らせるために党から解任するよう命じた。
ただ、この命令に対して胡耀邦は拒否した。
1987年1月、西洋式の自由拡大を求める学生デモが2週間続いた後、党の長老、軍高官、そしてケ小平の一派は、胡主席が学生デモに甘すぎたこと、そして自由市場型の経済改革へとあまりにも性急に進んだことを理由に、胡主席の辞任を強要した。
胡主席の強制解任後、ケ小平は自由主義派の胡主席に代わり
趙紫陽
を党総書記に昇進させた。
また、趙紫陽をケ小平の後継者として「最高指導者」の地位に就かせた。
胡主席は1月16日に正式に党総書記を辞任したが、政治局常務委員会の委員は留任した。
胡氏が「辞任」すると、党は彼に屈辱的な「党の集団指導原則に違反する、政治原則の重大な問題における自身の誤りに対する自己批判」を強いた。
党幹部、政治局、書記局、中央諮問委員会の全メンバーが出席したこの式典では、親友の
を除くすべての側近が胡氏を見捨てた。
習氏は立ち上がって胡氏を擁護し、胡氏への扱いについて全員を非難した。
胡氏は習氏の怒りを抑え、「仲勲、心配するな。私が何とかする」と言い聞かせなければならなかった。
その後、胡氏はより孤立し、中国政治への関与を控えるようになった。
余暇には革命史の研究や書道の練習、運動のための長距離散歩などに励んだ。
胡錦濤は辞任後、実質的な権力を持たず、主に儀礼的な役割に追いやられたと一般にみなされた。
胡錦濤の「辞任」は中国共産党の信頼性を損なう一方で、胡錦濤自身の信頼性を高めた。
中国の知識人の間では、胡錦濤は政治的抵抗に直面しても信念を曲げず、その結果として代償を払った人物の典型となった。
胡錦濤が行政レベルの役職から退いた後、保守派の
李鵬
が首相に昇格したことで、政府は改革への意欲を失墜させ、ケ小平から胡錦濤のような政治家への
秩序ある権力継承という計画
を覆した。
1987年10月、胡錦濤は第13回党大会で共産党中央委員会委員に留任した。
その後、中央委員会第1回全体会議で新設された政治局委員に選出された。
1989年4月8日、胡錦濤は教育改革を議論するため中南海で開かれた政治局会議に出席中に
心臓発作
を起こした。
胡錦濤は妻に付き添われて病院に緊急搬送された。
数日後の4月15日、胡錦濤は73歳で亡くなった。
胡錦濤は最期の言葉として、故郷に簡素に、贅沢な埋葬をしないよう求めた。
公式の死亡記事では、胡錦濤は「長年の試練に耐えた不屈の共産主義戦士、偉大なプロレタリア革命家であり政治家、中国軍の傑出した政治指導者」と評された。
西側諸国の記者は、胡錦濤国家主席の死亡記事が意図的に「誇張」されていたと指摘した。
また、党が胡錦濤国家主席を虐待したという疑惑をそらすためだったと続けた。
追悼式で、胡錦濤国家主席未亡人の
李昭氏
は、胡錦濤国家主席の死は
党の過酷な扱い
のせいだと責め、ケ小平に「すべてあなたたち人民のせいです!」と批判した。
胡氏は死去する頃には半ば引退した官僚であり、「失策」により実権を握る地位から追放されていた。
ただ、世論の圧力により中国政府は党幹部を招いて国葬を執り行わざるを得なかった。
胡氏の葬儀の弔辞では、文化大革命後の
政治の正常化
経済発展の促進
における胡氏の功績が称賛された。
胡氏の葬儀には16キロメートル(10マイル)にわたって弔問客が列をなした。
これは中国の指導者たちを驚かせた。
胡氏の葬儀後まもなく、北京の学生たちは政府に対し、
胡氏の「辞任」につながった判決
を公式に覆し、より豪華な国葬を行うよう請願し始めた。
その後、政府は人民大会堂で胡氏の追悼式を執り行った。
1989年4月22日、5万人の学生が胡錦濤国家主席の追悼式典に参加し、
李鵬首相
に嘆願書を届けるため、天安門広場までデモ行進を行った。
党の対応の遅さと葬儀の比較的控えめな準備に、多くの人々が不満を抱いた。
北京の街頭やその他の場所で追悼が始まった。
北京では、天安門広場の人民英雄記念碑を中心に追悼が行われた。
この追悼式典は、中国政府における
縁故主義
と胡錦濤国家主席の
不当な解任と早すぎる死
そして公式には引退した指導者でありながらも
準法的権力
を維持していたケ小平のような「老人たち」の暗躍に対する怒りを公に表明する場となった。
抗議活動は最終的に
1989年の天安門事件
へとエスカレートし、より自由主義的な
趙紫陽の解任
と江沢民の台頭を招き、江沢民が新たな最高指導者となった。
胡錦濤国家主席が推進した
言論の自由
報道の自由
の理念は、抗議活動に参加した学生たちに大きな影響を与えた。
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