楊 貴妃(よう きひ)
719年(開元7年)
- 756年7月15日(至徳元載(元年)6月16日)
- 756年7月15日(至徳元載(元年)6月16日)
中国唐代の皇妃 姓は楊、名は玉環
なお、貴妃は皇妃としての順位を表す称号である。
唐の第9代皇帝の玄宗帝の寵姫であった。
玄宗皇帝が寵愛し、政務を疎かにしたために
安史の乱
を引き起こしたといわれて、傾国の美女と呼ばれる。
安史の乱
を引き起こしたといわれて、傾国の美女と呼ばれる。
古代中国四大美人(楊貴妃・西施・王昭君・貂蝉)の一人とされ、音楽や舞踊に多大な才能を有していたことでも知られる。
蜀出身で本籍は蒲州の永楽にあったという。
蜀州司戸の楊玄淡の四女として生まれ、兄に楊銛、姉に後の韓国夫人、虢国夫人、秦国夫人がいる。
幼いころに両親を失い、叔父の楊玄璬の家で育てられた。
幼いころに両親を失い、叔父の楊玄璬の家で育てられた。
四川省には、「落妃池」という楊貴妃が幼い頃に落ち込んだと伝えられる池がある。
楊貴妃は735年(開元23年)、玄宗と武恵妃の間の息子
寿王李瑁(第十八子)
の妃となる。
寿王李瑁(第十八子)
の妃となる。
李瑁は武恵妃と宰相の李林甫の後押しにより皇太子に推された。
737年(開元25年)、武恵妃が死去し、翌年、宦官の
高力士
の薦めで李璵が勅命により皇太子として正式に定められた。
740年(開元28年)、玄宗に見初められ、長安の東にある温泉宮にて、一時的に女冠となった。
その後、宮中の太真宮に移り住み、玄宗の後宮に入って皇后と同じ扱いをうけた。
楊玉環は玄宗の意にかない、容貌が美しく、唐代で理想とされた豊満な姿態を持ち、音楽・楽曲、歌舞に優れて利発であった。
後宮の人間からは「娘子」と呼ばれた。
745年(天宝4載)、貴妃に冊立される。
父の楊玄淡は、兵部尚書、母の李氏は、涼国夫人に追贈された。
また、叔父の楊玄珪は、光祿卿、兄の楊銛は殿中少監、従兄の楊リは駙馬都尉に封じられている。
さらに、楊リは玄宗の愛娘である太華公主と婚姻を結んだ。
楊銛、楊リと3人の姉の五家は権勢を振るい、楊一族の依頼への官庁の応対は、詔に対するもののようであり、四方から来る珍物を贈る使者は、門を並ぶほどであった。
746年(天宝5載)には、嫉妬により玄宗の意に逆らい、楊銛の屋敷に楊貴妃が戻された。
しかし、玄宗はその日のうちに機嫌が悪くなり、側近をむちで叩き始めたため、高力士はとりなして、楊家に贈り物を届けてきたため、楊貴妃は、太華公主の家を通じて、夜間に後宮に戻ってきた。
玄宗は楊貴妃が戻り、その罪をわびる姿に喜び、多くの芸人をよんだと伝えられる。
それから、さらに玄宗の寵愛を独占するようになった。
天宝7載(748年)には、三人の姉も国夫人を授けられた。
また、毎月10万銭を化粧代として与えられた。
また、毎月10万銭を化粧代として与えられた。
楊銛は上柱国に、またいとこの楊国忠も御史中丞に昇進し、外戚としての地位を固めてきている。
玄宗が遊幸する時は、楊貴妃が付いていかない日はなく、彼女が馬に乗ろうとする時には、高力士が手綱をとり、鞭を渡した。彼女の院には絹織りの工人が700名もおり、他に装飾品を作成する工人が別に数百人いた。
権勢にあやかろうと
様々な献上物を
争って贈られ、特に珍しいものを贈った地方官はそのために昇進した。
750年(天宝9載)に楊貴妃が
寧王の笛
を使って吹いたことで、また玄宗の機嫌を損ね、宮中を出され屋敷まで送り返される。(『楊太真外伝』)
なお、吉温が楊国忠と相談の上で取りなしの上奏を行い、楊貴妃も髪の毛を切って玄宗に贈った。
玄宗はこれを見て驚き、高力士に楊貴妃を呼び返させた。
『楊太真外伝』によると、その以降、さらに愛情は深まったとされる。
751年(天宝10載)、
安禄山
が入朝した時、安禄山を大きなおしめで包んだ上で女官に輿に担がせて、
「安禄山と湯船で洗う」
と述べて玄宗を喜ばせた。
しかしその後も、安禄山と食事をともにして夜通し宮中に入れたため、醜聞が流れた。
752年(天宝11載)、李林甫の死後、楊国忠が唐の大権を握った。
この頃、楊銛と秦国夫人は死去した。
ただ、韓国夫人・虢国夫人を含めた楊一族の横暴は激しくなっていった。
また、楊国忠は専横を行った上で外征に失敗して大勢の死者を出した。
安禄山との対立を深めたため、楊一族は多くの恨みを買うこととなった。
754年(天宝13載)、楊貴妃の父の
楊玄淡
に、太尉、斉国公、母の李氏に梁国夫人が追贈された。
楊玄珪は、工部尚書に任命されるなど楊一族は、唐の皇室と数々の縁戚関係を結んだ。
これにより、安禄山との亀裂は決定的になってきた。
755年(天宝14載)、6月の彼女の誕生日に玄宗は華清宮に赴き、長生殿において新曲を演奏した。
755年(天宝14載)、6月の彼女の誕生日に玄宗は華清宮に赴き、長生殿において新曲を演奏した。
ちょうど南海からライチが届いたため「茘枝香」と名付けた。
この時、随従の臣下からの歓喜の声が山々に響いたと伝えられる。
『開元天宝遺事』によると、二日酔いに苦しんだ後、庭の花の露を飲んで肺を潤した説話がある。
また、玄宗とともに牡丹の花の香りを嗅いで酔いを覚ました説話や豊満な肉体であったため、夏の暑い時に口に玉でできた魚を入れて暑さを癒した説話、夏の暑い日に流した汗が紅色をしてよい香りがしたという説話などを伝えている。
また、玄宗との酒のたけなわに、玄宗が宦官を百余人、楊貴妃が宮女を百余人率いて、後宮において両陣に分かれて戦争ごっこを行った。これを「風流陣」と呼んで、敗者は大きな牛角の杯で酒を飲み、談笑したという説話も残っており、これは後に画題にもなっている。
『梅妃伝』によると、楊貴妃は嫉妬深く、知恵が回ったため、梅妃は寵愛争いに敗れたとし、玄宗と梅妃の逢い引きの現場に踏み込んで玄宗をなじる説話や、梅妃に「肥婢」と言われた説話、寵愛を取り戻そうと、玄宗に賦を贈る梅妃に対し「恨みを述べた」という理由で玄宗に梅妃の死刑を迫ったという説話を伝えている。
755年(天宝14載)、楊国忠と激しく対立した安禄山が反乱を起こして洛陽が陥落した(安史の乱)。
この時、玄宗は親征を決意し、太子の
李亨
に国を任せることを画策した。
ただ、楊国忠・韓国夫人・虢国夫人の説得を受けた楊貴妃は、土を口に含んで、自らの死を請い、玄宗を思いとどまらせたと伝えられる。
その後、唐側の副元帥である
高仙芝
が処刑され、哥舒翰が代わりに副元帥となり、潼関を守った。
756年(至徳元載)には哥舒翰は安禄山側に大敗し捕らえられ、潼関も陥落した。
玄宗は首都・長安を抜け出し、蜀地方へ出奔することに決めた。
この脱出において楊貴妃、楊国忠、高力士、李亨らが同行することになった。
ただ、馬嵬(陝西省興平市)に至ると、乱の原因となった楊国忠を強く憎んでいた
陳玄礼と兵士達
は、楊国忠と韓国夫人たちを殺害した。
さらに、陳玄礼らは玄宗に対して、「賊の本」として楊貴妃を殺害することを要求した。
玄宗は「楊貴妃は深宮にいて、楊国忠の謀反とは関係がない」と主張してかばったが、高力士の進言によりやむなく、楊貴妃に自殺を命ずることを決意した。
楊貴妃は「国の恩に確かにそむいたので、死んでも恨まない。最後に仏を拝ませて欲しい」と言い残した。
高力士によって縊死(首吊り)させられた。
この時、南方から献上のライチが届いたので、玄宗はこれを見て改めて嘆いたと伝えられる。
陳玄礼らによって、その死は確認され、死体は郊外に埋められた。
さらに、安禄山は楊貴妃の死を聞き、数日も泣いたと伝えられる。
その後、馬嵬に住む女性が楊貴妃の靴の片方を手に入れ、旅人に見物料を取って見せて大金持ちになったとの伝承もある。
玄宗は後に彼女の霊を祀り、長安に帰った後、改葬を命じた。
ただ、礼部侍郎・李揆からの反対意見により中止となった。
しかし、玄宗は密かに宦官に命じて改葬させた。
この時、残っていた錦の香袋を宦官は献上したという。
また、玄宗は画工に彼女の絵を描かせ、それを朝夕眺めていたという。